静かなるブーム「アメリカ絵画の150年のあゆみ」


静かなるブーム「アメリカ絵画150年のあゆみ」

2015年の「メアリー・カサット展」、2016年の「デトロイト美術館展」とアメリカの美術資産への関心が高まっています。約30年前、「アメリカの遺産―絵画150年/A Nation`s Legacy 150Years of American Art from Ohio Collection」 という展覧会が日本各地を巡回し、素晴らしい作品が紹介されました。当時の分厚い図録をもとに再現してみたいと思います。ご紹介します「日本人の関心事・アメリカ絵画150年のあゆみ」です。≪*当記事はマイルストーンジャパンの許諾を得て、内容を一部手直しの上、転載しています≫

1.19世紀中期』ハドソン・リヴァー派/アメリカの風景の発見

18世紀コロニアル時代のアメリカ絵画の主流は富裕な商人の邸宅に飾られる肖像画でした。19世紀に入ると雄大な風景へと描写対象が広がっていきますが、当時の風景画は芝居がかるほど劇的な描写がなされます。その傍らで「荒野の美」「開拓地の光景」と言ったアメリカらしい環境美の表現に目が向いていきます。またそこでは「光」という存在を意識した秀作が多数生まれました。それとともに農作業に代表される田園生活シーンを描き、逞しく生きる息吹を感じさせるテーマも台頭してきます。創成期のアメリカ絵画はこのような厳しい生活に根差した光景や労働を描写する鮮烈な作品に彩られています。

  

1-①参考:≪ハドソン・リバー派について≫

ニューヨークからカナダへ向けて北上するハドソン川を舞台に風景画を描いた19世紀アメリカ画家の一群を指します。一般にT.コールがその開拓者とされています。彼は1825年ころから友人のHenryInmanなどとキャッツキル山脈,ホワイト山脈などの雄大な景観を細密な手法で描きました。自然の風光こそ聖なる神の姿そのものだという立場から,自然を精細に描くことによって,神に近づこうとしたのがコールの方法でした。48年のコールの没後,Asher Brown DurandFrederic Edwin Church(1826‐1900)John Frederick Kensettなどの後継者が活動しましたが,彼らはコールの芸術観を乗りこえて,リアリズムによる風景画を展開しました。

  

  

1-②参考:≪フレデリック・エドウィン・チャーチ1826~1900について≫

出典元:http://interviews.cengage.jp/resources/uploads/2015/11/noda-007.jpg

「山の嵐」出典元:http://free-artworks-ls01.gatag.net/images/sgp01a201306141600.jpg

「荒野の十字架」出典元:http://free-artworks-ls01.gatag.net/images/sgp01a201306150300.jpg

参考サイト:http://interviews.cengage.jp/%E9%87%8E %E7%94%B0%E7%A0%94%E4%B8%80%E5%85%88%E7%94%9F/

参考サイト:http://free-artworks.gatag.net/tag/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81

プロフィール:フレデリック・チャーチは1850年代から60年代にかけてのアメリカやヨーロッパにおいて最も著名な風景画家でした。早くから才能を認められていたチャーチは1844年に風景画の大御所トーマス・コールの弟子となります。20代半ばで世に出た彼はコールやハドソン・リバー派の風景画とは異なる展開を目指します。コールの理想主義的な傾向に対し、デュランドの影響を受けた写実精神を確立していきます。さらに自然科学を研究することにより大自然の本質をとらえることができると考え、科学的な厳密性にこだわった創作活動に邁進していきます。

  

1-③参考:≪マーチン・ジョンソン・ヒード18191904について≫

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/46/Martin-johnson-heade.jpg/220px-Martin-johnson-heade.jpg

 「海辺の牧草地」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/HeadeMartinJohnsonSunlightAndShadow.jpg/220px-HeadeMartinJohnsonSunlightAndShadow.jpg 

 「蘭の花」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/Martin_Johnson_Heade-Cattleya_Orchid_and_Three_Brazilian_Hummingbirds.jpg/220px-Martin_Johnson_Heade-Cattleya_Orchid_and_Three_Brazilian_Hummingbirds.jpg

参考サイト:https://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Johnson_Heade

プロフィール:マーチン・ジョンソン・ヒードは当初、肖像画家として出発しました。184042年までヨーロッパ旅行にでかけ風景や風俗描写に傾斜していきます。ヒードの華麗で豊かな色彩に彩られた風景はハドソン・リバー派というよりリュミニスト(外光派)の様式と言われます。雰囲気を伝えようとするヒードは、不気味で強制的な絵になってしまう写実表現を放棄しています。長い間、ハチドリに関心を持ち南アメリカに出かけてその生態を観察したり、蘭の花にとまる華麗な姿を描いたりしています。可愛らしい小鳥と大きな花を組み合わせて描いた絵はそれまでにない構図でした。またヒードを有名にしたシリーズは沼地の景観で彼は19世紀アメリカの画家の中で様々な変化を見せた画家の一人と言われています。


2.『19世紀後期』写実絵画の確立とヨーロッパ美術へのまなざし

南北戦争(18611865)後に現れたアメリカン・リアリズムとよばれる自然主義絵画は、W・ホーマーとT・エイキンズによって代表され、彼らの人物画と風景画は戦争前のそれを乗り越える新しい視座をもっていました。ホーマーはアメリカ最大の自然詩人といわれているように、深い自然観照と明快な客観描写を貫きエイキンズは徹底したリアリズムで世紀末の知的中流階級の状況をとらえました。この二人と並行した幻想画家A・ライダーはアメリカン・ロマンチシズムの典型として高く評価されています。またこの時代は急速に増大する富の蓄積とヨーロッパ美術への関心から、ヨーロッパに赴いて活動する画家も増え、JM・ホイッスラーM・カサット、JS・サージェントなどがフランス印象派(印象主義)とかかわりながら優れた業績をあげる一方、フランス印象派を学んでアメリカに伝えたT・ロビンソン(1834―1888)、JH・トワックマン(1853―1902)などがいました。富豪による美術コレクションが始まり美術館が各地に誕生したのもこの時代でメトロポリタン美術館、ボストン美術館、シカゴ美術館などが1870年代に開設されています

 

 

2-①参考:≪ウィンズロー・ホーマー18361910について≫

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8a/Winslow_Homer_by_Sarony.jpeg

「イギリス・カラーコーツ時代の水彩画」出典元:http://watercolor.hix05.com/artist/homer/39434365knaMbm_ph.JPG

「むちうち」出典元:http://free-artworks-ls01.gatag.net/images/lgp01a201308250700.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC

参考サイト:http://watercolor.hix05.com/artist/homer/homer.html

参考サイト:http://free-artworks.gatag.net/2013/08/25/070000.html

プロフィール:ウィンズロー・ホーマーはアメリカ絵画史上最も著名な画家として、またアメリカ水彩画の伝統を確立した人物として高く評価されています。とりわけホーマーの水彩画は自然と人間を生き生きと描き、今日に至るまでアメリカ水彩画を特徴付けるヒューマンなリアリズムを高度に展開しています。少年時代のホーマーは、画家であった母親に絵の手ほどきを受け20歳代にはニューヨークのナショナルアカデミーで学びました。南北戦争が始まると、北軍の従軍記者として戦地の様子をイラストレーションに描き、北部の新聞社に提供するようになりました。今でいえば、従軍カメラマンといった仕事です。30歳の頃パリに渡り、バルビゾン派の画風を吸収しながら田園の風景を屋外で写生するスタイルを身に着けていきます。ホーマーが水彩画を描くようになるのは37(1873)からです。すでに油彩画家としての名声を確立していた彼ですが、その頃アメリカ水彩画家協会が設立され水彩画が人びとに広く受け入れられていくのを見てその可能性にかけたのだといわれています。初期の作品は主にニューイングランドの自然を描いた風景画でした。

 

 

2-②参考:≪トマス・エイキンズ18441916について≫

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7c/Eakins_selfportrait.jpg/220px-Eakins_selfportrait.jpg

「遊んでる赤子」出典元:http://free-artworks-ls01.gatag.net/images/sgp01a201308250000.jpg

「スカルの中のマックス・シュミット」出典元:http://free-artworks-ls01.gatag.net/images/sgp01a201308241100.jpg

「アメリア・ビューレン夫人」出典元:http://free-artworks-ls01.gatag.net/images/sgp01a201308240600.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BA

参考サイト:http://free-artworks.gatag.net/tag/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BA/page/2

プロフィール:トマス・エイキンズアメリカ合衆国の画家・写真家・彫刻家。実写主義の画家であり、アメリカ近代美術の父と言われることもあります。フィラデルフィア出身。父親はカリグラフィーの教師で父親の仕事ぶりを見て育ちます。ペンシルベニア美術アカデミーで学び、1864年から65年までジェファーソン・メディカル・カレッジで解剖学を学びます。当初は父と同じ職に就くことを考えていましたが、科学分野に対する興味から次第に医者になることを考えるようになります1866年から70年まではパリに渡ってジャン=レオン・ジェロームに師事。フィラデルフィアに戻り1878年から母校のペンシルベニア美術アカデミーの教師となりますが、彼の考え方は急進的だとされてしばしば攻撃の的となります。美術の授業にヌードモデルを使うべきだと主張、ついに1886年には女生徒に男性ヌードを描かせたとして解雇されてしまいます。リアリズムへの飽くなき追求から彼は解剖学も学んでおり1875年には代表作といわれる『グロス・クリニック』を描きますが、解剖のシーンを扱っていたため議論の的となりました

代表作品:以下参照

Starting Out After Railフィラデルフィア美術館

グロス・クリニック(1875)フィラデルフィア美術館、ペンシルベニア美術アカデミー

スカルの中のマックス・シュミット(1871)メトロポリタン美術館

The Biglen Brothers Racing (1873)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)

深みの水泳(1884 – 1885) エーモン・カーター美術館

Miss Van Buren (1886) フィリップ・コレクション

Mary Adeline Williams (1899)シカゴ美術館


3.『初期モダニスト時代』新しいリアリズムとモダニズムの衝撃

20世紀の開幕を告げるのはニューヨークに現れた二つの革新運動で。一つは写真家A・スティーグリッツが1905年に開いた291ギャラリーにおける前衛美術の展開であり、もう一つはR・ヘンライを中心として1908年から展開されたジ・エイトの写実主義運動でた。前者はパリにおけるモダニズムの潮流をアメリカに連動させる機能を果たし、フォービスム、キュビスムなどを紹介するかたわらアメリカの若い画家J・マリン、C・デミュス、G・オキーフM・ウェーバーなどを育てました。後者はアカデミズムへの意図的な反対提案として都市の日常生活を暗いリアリズムでとらえ、主題と観点の革新になりまた。これにはJ・スローン、W・グラッケンズ、G・ラクスなどが参加しています。しかし1913年に開催されたアーモリー・ショーは大きな衝撃を与えると同時に、アメリカ美術を当時の国際美術の潮流に巻き込むことになりました。とくにキュビスムはその後のアメリカ美術に一つの方向を与えたとみられ、M・ハートレー、マン・レイの総合的キュビスムから、C・シーラー、M・シャンバーグなどの折衷様式が生まれる契機となりました。1920年代から1930年代にかけて写実様式が隆盛をみせ、いわゆるアメリカン・シーン派と社会派が登場します。アメリカン・シーンのなかの一派リージョナリズム(地方主義)は、中西部こそアメリカの原点だとするG・ウッド TH・ベントン、JS・カリーによって代表されるが、これは愛国主義と反モダニズムの結合によって生まれたもので、S・アンダーソン、S・ルイスなどの文学と対応しています。未曽有の不況とファシズムの勃興による国際情勢の緊張とアメリカ国内の矛盾は社会派の進出を促し、B・シャーン、P・エバグッド、J・レビンなどは鋭い社会批判を絵画化しました。これらの動向は、ルーズベルト政権が実施したWPA(事業促進局)の連邦美術計画に吸収され、全国的に展開された壁画運動に反映しました。連邦美術計画は美術家の救済を意図したものでしたが、近代美術が宿命的にもっている反社会性を取り払い、美術家に社会的使命感をもたせると同時に美術を社会に普及させる効果をもつことになりました。

 

 

3-①参考:≪ロバート・ヘンライ18651929について≫

出典元:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/common/content/000144835.jpg

「スマイリング・トム」出典元:http://www.tagboat.com/contents/column/images/tom.jpg

「アニー・ラベル」出典元:http://www.achill247.com/images/Annie_Lavelle_293x498.jpg

参考サイト:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/54212037288.htm

参考サイト:http://www.tagboat.com/contents/column/hiromoto_vol4.htm

参考サイト:http://www.achill247.com/artists/Robert_Henri_Annie.html

プロフィール:ロバート・ヘンライはアメリカ絵画界の偉大な美術教師の一人。19世紀末から20世紀初頭にかけ展開する新リアリズムの台頭に、彼はフィアデルフィアの新聞の挿絵画家たちのグループを導き、引き続きニューヨークの新聞の挿絵画家グループを導きました。ヘンライは彼等に対し、アカデミックな因習から脱し都会的な環境下で見出すテーマにリアルに表現反応していくことを提唱します。ヘンライ自身の作風の特徴は生き生きした奔放なタッチでありながら、過去の巨匠たちの作品研究に基ずく暗い色調と言われています。

3-②参考:≪ジョージア・オキーフ18871986について≫

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/Georgia_O%27Keeffe.jpg/210px-Georgia_O%27Keeffe.jpg

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/f/f8/O%27Keeffe_Georgia_Ram%27s_Head.jpg/220px-O%27Keeffe_Georgia_Ram%27s_Head.jpg

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Blue-green.jpg/170px-Blue-green.jpg

参考サイト:https://en.wikipedia.org/wiki/Georgia_O%27Keeffe

プロフィール:オキーフは70年にも及ぶ長い画歴のなかで、ほとんど風景、花、そして動物の骨だけをテーマとして描きつづけました。なかでもオキーフの名を一躍有名にした画面いっぱいに拡大して花の絵を描いた作品群や、牛の頭蓋骨をイコンのように威厳を込めて描いた作品群がよく知られます。またアメリカで抽象画を描きはじめた最初期の画家の一人でもあり、基本的には具象的モチーフにこだわりつつも、時おり抽象画も手がけ、生涯にわたって抽象への関心を抱き続けました。オキーフはウィスコンシン州の農家に生まれ。父はアイルランド系、母はハンガリーからの移民です7人兄弟の2番目の子供であり長女でした。マディソンで高校時代をすごした後にシカゴ美術館附属美術大学で絵画を学び、更にニューヨークアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学、ウィリアム・メリット・チェイスに師事しました。ニューヨーク滞在中に将来の夫となる写真家のスティーグリッツに出会っています1908年シカゴに戻りイラストレーターとして働きましたが1910年病気が元家族がいたバージニア州に移ります。1915年から始めた抽象的な素描がアルフレッド・スティーグリッツの目にとまり、彼の291画廊で最初の個展を17年に開催。18年テキサス州立学校の美術教師を辞めてニョーヨークに移り、24年スティーグリッツと結婚。29年にニューメキシコ州を訪れて以来とりことなり、ニョーヨークとニューメキシコを行き来する生活のなかで制作活動を継続ました。砂漠で見つけた白い骨をモチーフに描いた作品やフラワーシリーズなどで知られます70年代に入って作家としての評価と人気が高まりましたが、71年視野狭窄になり72年制作活動に終止符を。46年にスティーグリッツが亡くなった後はニューメキシコのサンタフェに移り住み彼女もその地で亡くなりました。

代表作品:以下参照

街の夜(1926年)(ミネアポリス美術研究所)

抽象 第6番(1928年)(愛知県美術館

赤・白・青(1931年)(メトロポリタン美術館)

雄羊の頭、白いタチアオイ、丘(1935年)(ブルックリン美術館

骨盤とペダーナル山(1943年)(マンソン・ウィリアムズ・プロクター美術研究所)

 

 

3-③参考:≪ベン・シャーン18981969について≫

出典元:http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1207-05-g09.jpg

「なぜ?」出典元:http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2011/2011lucky_why.JPG

参考サイト:http://1000ya.isis.ne.jp/1207.html

参考サイト:http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2011/2011lucky.html

プロフィール:ベン・シャーンは社会批評に向けられた絵画的な表現を目指した社会派リアリズムの代表的な作家の一人です。帝政ロシア領のコヴノ(現リトアニアのカウナス)でユダヤ系家庭に生まれたベン・シャーンは、幼くして海を渡り移民としてアメリカの地を踏みました。石版画工房で修練を積みながら勉学に励み、二度にわたるヨーロッパ旅行を経てシャーンは画家として本格的に活動を開始します。1930年代には冤罪事件に取材した社会批判的性格の強い作品で注目を浴び、その後、写真、壁画、グラフィック・アート等あらゆる分野を横断しながら旺盛な芸術活動を展開しました。やがてシャーンは人間が社会の一員である以上に、誇り高く自由な「個人」であるという実感を強め、制作においても「主観」や「私」をいっそう重視するようになります。諸芸術への深い造詣と、慈愛に満ちた正義の上に熟成した独自の芸術は、今を生きる私たちの魂をも強く揺さぶる、普遍的な魅力をたたえています。

≪次ページパート2≫もご覧ください

ads by google

あなたへおすすめの記事
⇒ 黒しょうが入り[おいしく飲める黒しょうが茶]30包
⇒ 山梨紀行・お洒落なホテル&旅館
⇒ 軽井沢リゾートの極致
⇒  野菜を楽しむ健康サイト6選
⇒ 【PR】カンタン、ふるさと納税
ads by google


スポンサードリンク

ads by A8