さまよえる魂の芸術家・草間彌生伝


さまよえる魂の芸術家・草間彌生伝

20172月の国立新美術館における大規模な展覧会開催が話題です。そこで国際的な人気を誇る草間彌生氏の人となりを含め、ここまでの一連の芸術活動をご案内したいと思います。「さまよえる魂の芸術家・草間彌生伝」です。

草間彌生公式サイト:http://www.yayoi-kusama.jp/j/information/index.html

草間彌生展「さまよえる魂」公式サイト:http://kusama2017.jp/

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%96%93%E5%BD%8C%E7%94%9F

松本市観光・参考サイト:http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/citizensweblog/?p=19968

参考サイト:https://www.ggccaatt.net/2015/06/16/%E8%8D%89%E9%96%93%E5%BD%8C%E7%94%9F/

参考サイト:http://akogaresan.net/kusama-yayoi/

参考サイト:https://www.facebook.com/georgiaokeeffemuseum/?ref=page_internal

参考サイト:https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%87%AA%E6%AE%BA%E6%9C%AA%E9%81%82%E5%B8%B8%E7%BF%92%E7%8A%AF-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%8D%89%E9%96%93-%E5%BC%A5%E7%94%9F/dp/4041564018

 

 

「草間彌生の思いを象徴するトークワード」

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出典元:http://kusama2017.jp/profile/img/pic01.png

『芸術をしながら大きな宇宙を経験してみると、自分は何も知らない存在だと思う。死ぬまで芸術を続け、死後数百年が過ぎても有効なメッセージを残したい。そのために全力を尽くしたい。未来の多くの人々、世界の人々が戦争やテロの恐怖なく自分の愛、生きた人生を続けることを望む。私の芸術が皆さんに伝える答えはこれです。』

「草間彌生・出生/就学について」

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出典元:https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=203×1024:format=jpg/path/s093251349da78e77/image/i6b60fcfee641e109/version/1436648201/image.jpg

出生:1929322日長野県松本市生まれ。

松本駅近くで種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼いころから草花やスケッチに親しみます。近所には広大な花畑が広がっており、草間はその花畑で幼少期を過ご花畑をスケッチするのが日課となっていました。やがて草間は視界が水玉や網目に覆われ、動植物が人間の声で話しかけてくる幻覚や幻聴に襲われる統合失調症(医学博士西丸四方が診断)を病みます繰り返し襲う幻覚幻聴から逃れるために、それら幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始めます。草間は現在に至るまで水玉をモチーフに制作しますが(ドット・ペインティング)、これは彼女が恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉(ドット)で埋め尽くす儀式でもあるとされています。その一方で草間は幼少の頃に母親から度々身体的虐待を受けて苦しんだと話していますまた父の放蕩のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、草間の精神はいつも追い詰められていたと言いますそのことも彼女の統合失調症の遠因になったとも考えられます。

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「松本高女」出典元:https://www.city.matsumoto.nagano.jp/miryoku/syasin/ehagaki/MeijiTaisho01.images/e001.jpg

小学校卒業後、草間は松本高等女学校に入学し、ここで美術教諭で日本画家の日比野霞径という良き理解者に出会います。日比野は草間の絵を認め、指導を行うとともに草間の両親に草間を絵の道に進めてくれるよう幾度も自宅を訪ね、その後の草間の芸術人生を後押しします。 1945(昭和20年)大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中、草間は16歳で入選を果たしますその後、松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学び、翌年卒業。後に役立つ絵画技法を身につけます日本画における厳しい上下関係から湧き上がってくる内面からのイメージを描きとめることによって恐怖から逃れようとしていた苦しい時期でもあったと言います。草間自身の言葉によると、京都の時期は「吐き気をもよおすもの」だという。京都から松本に戻ると草間は、京都での伝統的な日本画の苦しい経験から反発するように、技法や素材の壁を越えて、独自の表現方法へと移行して行き、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描くことに没頭します

1952年に松本市公民館で個展を二度にわたって開きます。その一度目の個展で、医学博士といわれる精神科医の西丸四方が彼女の作品に感銘を受け、絵を購入し、医学学会で紹介したり、ゴッホ研究で有名な精神科医の式場隆三郎ともつながりを得て、白木屋百貨店との伝手も得ます。西丸はその後の生涯における彼女の良き理解者となりました。ちなみに彼女の幼少期の病魔を、統合失調症だと診断したのも彼です。

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「西丸氏」出典元:https://pbs.twimg.com/profile_images/650493911589253120/GCJKdvTg.jpg

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「残夢1949年」出典元:http://kusama2017.jp/point/img/pic02.png

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「太陽1953年」出典元:http://kusama2017.jp/point/img/pic03.png

 

 

「草間彌生・制作活動19541956

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「発芽1952年」出典元:https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=207×1024:format=jpg/path/s093251349da78e77/image/iafe2961d60c03a99/version/1436650356/image.jpg

1954(昭和29年)から翌年にかけ草間は東京で4度の個展を開催し、このころから草間彌生の知名度がぐんと上がります。白木屋百貨店ほか、1955年には瀧口修造の関るタケミヤ画廊でも個展を開き、瀧口はニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し渡米の糸口を作ります。この時期、草間は素描のほかにコラージュなども量産しています。

 

 

 

「草間彌生・制作活動(滞米期間)19571973

195711月、27歳のときに日本での閉塞感から逃れて芸術探求に専念したい草間の強い希望により渡米し、以前から敬愛し文通していたジョージア・オキーフを伝手にシアトルに移り、ゾーイ・ドゥーザンヌ画廊で油彩の個展を行います。シアトルに一年ほど滞在したあとニューヨークへ移り、最初はコロンビア大学の近くにあるニューヨーク仏教会などに寄宿。19591月までにダウンタウンのアート・シーンに近い東十二丁目に移り、以後はビレッジやチャイナタウン、チェルシー地区あたりに居住します当時は、アートの中心がパリからニューヨークに移り、抽象表現主義の第二世代の全盛期でした。また草間はポロックのアクション・ペインティングに刺激され、まもなく代表作「無限の網」を発表し、注目を浴びるようになります

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「無限の網イエロー1960年」出典元:https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/s093251349da78e77/image/i7f7c81742f2f5b02/version/1436653435/image.jpg

「無限の網」はフランク・ステラが自前で購入し、自宅の居間にかけて長く手放さなかったこともあり、美術史的価値が非常に高いものとなりましたが、現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収蔵されています。またドナルド・ジャッドは草間の「白の大作」を購入しています。このような作品を介する形でこの頃、ドナルド・ジャッドジョゼフ・コーネルらと親しくなります。

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「ナルシスの庭」出典元:https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=670×10000:format=jpg/path/s093251349da78e77/image/iab12dee51f91ad97/version/1436676469/image.jpg

1966にはヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加。出品作品「ナルシスの庭」はプラスティック製のミラーボール1500個をイタリアのパビリオンの外にある芝生に敷き詰めたもので、それらは「キネティック・カーペット」と呼ばれました。「ナルシスの庭」の展示は、ほぼ草間が強引に設置したものでが、当局は最初、黙認していました。しかし彼女が黄金色の着物を着て、その芝生にたち11200リラでミラー・ボールを一個観客に売るという行為は直ちに阻止されまた。たぶん草間作品の中でも最も悪名高いといわれるこの作品は、美術市場の商品化や機械化への挑発的な批評であり、また同時に草間のヨーロッパにおけるメディアを通じたプロモーション活動戦略の一つだったと評されています

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「自己消滅1966年」出典元:http://kusama2017.jp/point/img/pic07.png

1960年代後半になると、絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品やインスタレーションを始め、ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行、彼女のボディ・ペインティングやファッションショー、反戦運動などは、その過激さから「ハプニング」と称されました。売れっ子だったにも関わらず、この時代の草間は作品の売上からほとんど利益を得ていなかったと言われています。また過労で度々入院することもあり経済的に困難な状況でした。オキーフは草間の経済的困難を食い止めるために、作品を購入したり、オキーフ自身がディーラーとなって草間を助けたと言われています。 また自作自演の映画「草間の自己消滅」は、第四回ベルギー国際短編映画祭入賞、第2アン・アーバー映画祭で銀賞受賞、第2回メリーランド映画祭でも受賞するなど、ヨーロッパ各地でも「ハプニング」を行いました。1973(昭和48年)、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去。草間は体調を崩し日本へ帰国、入院します

 

 

 

「草間彌生・制作活動1974~現在」

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「自殺した私1977年」出典元:http://kusama2017.jp/point/img/pic08.png

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「かぼちゃ1999年」出典元:http://kusama2017.jp/point/img/pic12.png

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「マンハッタン自殺未遂常習犯・角川文庫」出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61lS9KaPVZL._SX356_BO1,204,203,200_.jpg

体調を崩し、1973年に帰国した草間はここから、小説や詩集を多数発表し始めます。1978年には処女作品「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表した後、1983年には「クリストファー男娼窟」で、第十回野生時代新人賞を受賞しました。これらの小説には、彼女の幼年期の幻視体験をモチーフにしたものもあります。絵画や彫刻、インスタレーションにおいては、水玉、ネット、男根状の突起などの従来のモティーフを大胆に再解釈し具象的なイメージと組み合わせた色彩豊かな作品を生み出しました。コラージュ、版画、小説や詩といった新しい分野にも挑戦します。性と死、無限の宇宙などの普遍的なテーマにもとづくこれら作品は、率直な表現によって新しい観客を獲得しました。コラボレーションやタイアップも数多くおこなわれ、草間の作品世界はますます広がりました。世界的に再評価が高まって、2012年には世界的有名ブランドのルイ・ヴィトンとのコラボレーションを発表するなど、商業分野でも活動し始めました。幼年期からの病魔との闘い、パートナーの死去など、様々なことを乗り越えて、今の彼女があります。「水玉」模様にこだわる訳も、彼女の苦しみの果てだと思うと、見方が変わってきます。20173月で88歳を迎える草間彌生ですが、まだまだ彼女の活躍が期待されます。

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「しのびがたい愛の行方2014年」出典元:http://kusama2017.jp/point/img/pic13.png

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「原爆の足跡2016年」出典元:http://kusama2017.jp/point/img/pic15.png

≪次ページパート2.≫もご覧ください

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