東京を彷徨った風船版画家・谷中安規


東京を彷徨った風船版画家・谷中安規

昭和初期の東京を放浪して多くの版画を制作した版画家。どこに飛んでいくかわからない風船に例えて、人は彼のことを風船画家と呼びました。ご紹介します「東京を彷徨った風船版画家・谷中安規」です。

「生い立ちと就学」

出典元:http://taninaka.hanga-museum.jp/img/imgTaninaka.png

出生情報:1897年(明治30年)118日奈良県初瀬生まれ。

没年月日:1946年(昭和21年)99日没。享年50歳。

谷中安規は明治30118日奈良県長谷寺の門前町に庄屋の息子として生まれました7歳で母を亡くし、翌年、新潟の親戚の寺に預けられ13歳から数年間は父が渡った朝鮮で過ごし、そこで絵を描くという孤独な喜びを見つけます。東京に戻って真言宗豊山派の豊山中学校に入学しますが、22歳で中退。同級生のいる寺や友人宅などを転々とした揚げ句、三畳間に暮らすようになります大正末、詩人日夏耿之介から永瀬義郎に紹介され、その指導下に木版画家を志します。昭和初め日本創作版画協会展に出品ののち、1931年(昭和6)日本版画協会第1回展に『サロメ』連作5点を出品して会員となります。

「創作活動の始まり」

「永瀬義郎」出典元:http://www.yamada-shoten.com/img_item/23596_mid.jpg

木版画は20代後半から創作版画の第一人者永瀬義郎の『版画を作る人へ』を読んで、傘の骨を彫刻刀に改造し、見よう見真似で板を彫り始め独学したと言います。そして1926年、谷中安規は描きためた素描を持って版画家永瀬義郎を訪ねま。永瀬は谷中の姿を見て腰を抜かします。谷中は永瀬が未だかつて見たことがないほど痩せこけていました。更にその作品に大いなるショックを受けたと語っています。永瀬は谷中の幻覚とも妄想とも思える世界に困惑しま。このとき谷中は人間の性をあからさまに描き出す、エロティックでグロテスクな自らの作品群を自虐的に「腐ったはらわた」と呼んだと言います。そして、この出会いが谷中の創作活動のターニングポイントとなります。30代に入ると小説の挿絵や本の装丁を手掛け、展覧会に入選し、版画雑誌『白と黒』の同人となって、版画家として高く評価されるようになっていきます。

「生涯の創作活動」

「版画雑誌・白と黒16号」出典元:http://www.yamada-shoten.com/img_item/36599_mid.jpg

昭和の初め、版画家になるということは貧乏を覚悟することでした。谷中は長い間、自分の部屋というものがなく、木賃宿や知人の家を転々としながら命を繋いでいきます。腹がすけば生米をほおばり、健康のためにとニンニクをかじっていました。風来坊のような暮らしの中で、コーヒーだけを唯一の楽しみに版画を制作していました。版画雑誌『白と黒』を主宰していた料治熊太に才能を見出された谷中は、ようやく発表の場を手にします。それは誰も見たことのない幻想と怪奇の世界でした。盟友棟方志功が『大和し美し』を発表し、画壇から注目を浴びていた頃、谷中もまた新しい世界に踏み出していく機会を得ます。小説家の内田百聞に、童話『王様の背中』の挿絵と装丁を依頼されたのです。

「王様の背中」出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51zc7xv9POL.jpg

ページを開くと安規のユーモアにあふれた天真爛漫な世界が広がります。百聞との共同作業は長らく続きます。版画にかける純粋な生き方が、稀代の偏屈と呼ばれた小説家の心を捉えたのです。百聞は谷中のことを「風船画伯」と呼んで敬愛します。ふらりと現れては食事をご馳走になり申し訳なさそうに小遣いをせびりシラミを23匹残してまたどこかへ風船のように消えていく。風船画伯は夢遊病者のように夜の街を漂っていました。谷中は貧乏を貧乏とも、飢えを飢えとも思いませんでした。しかし愛情にはいつも飢えていました。帰らぬ母を求めるように…。

「震災直後の神田界隈」出典元:http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/23.jpg

やがて東京は関東大震災に見舞われます。そして大震災から復興を遂げていく新しい都市東京は、谷中のイマジネーションを刺激する絶好の舞台となりました。建築物が作り出す直線的空間、映画やカフェといった文化、機械文明や政治・軍事的出来事、社会をにぎわす刑事事件への関心が、モダンな形態や情景のモンタージュによって隠喩的に作品に散りばめられます。しかし谷中作品の特徴は、都市のイメージが昔話や伝説、仏典、幼少期の記憶に由来するイメージと錯綜して共存し、幻想性な作品を生み出している点にあると思われます。モダンと土俗性が溶け合った版画は、それゆえにきわめて独創的な、新しいモダニズム作品として歴史に刻まれたといえます。谷中安規の生涯で1933年はこのような作品が多く制作された、実りの多い年となっています。

「街の本・動坂」出典元:出典元:http://www.sankei.com/images/news/141113/lif1411130011-p1.jpg

生涯独身だった谷中ですが、女性にはいつも一目惚れしていました。ただひたすら慕い、思い続けるのだが恋が実ることは一度もなかったと言います。谷中の最後の恋は、向かいの部屋に住んでいた八阪喜代という女性でした。 昭和204月、東京大空襲でアパートを焼け出された谷中は、粗末なバラックを建てました。飢えをしのぐため、空き地には大好きなカボチャを植えて育てていました。毎日の楽しみは喜代と会うこと。それは長い放浪の果てに掴んだ母のような愛情でした。やがて迎えた終戦。国は敗れても、谷中は創作意欲に燃えていました。しかし終戦の翌年の秋、谷中は栄養失調のためにその生涯を閉じす。愛情の渇きを訴え、愛を求めて迷子のように漂い続けた画家が描いた作品、谷中安規・作『街の本』。孤独な夜をさまよい歩いた版画家が描く遥かなる時代の東京です

「自転車A」出典元:http://www.sankei.com/images/news/141113/lif1411130011-p2.jpg

大都市の様相に幼少期の記憶や生活の理想などを重ね合わせて、夢と現実が織りなす木版画を制作し、ビル群や劇場、飛行船や潜水艦、外国映画のシーンやロボットなど、1930年代特有のモダンなイメージと、奈良の長谷寺で過ごした幼少期や真言宗豊山派の中学に通っていた時代に養われた仏教観、さらに少年時代に暮らした朝鮮の記憶といった土着的なイメージを混ぜ合わせた表現は、実に多元的で独創的な谷中安規独特の世界です。

「主な代表作」

「妄想F」出典元:http://hanga-museum.jp/static/images/246/imgA2067.jpg

「女の顔」出典元:http://hanga-museum.jp/static/images/246/imgA2069.jpg

「瞑想氏」出典元:http://hanga-museum.jp/static/images/246/imgA2073.jpg

1925年頃「妄想F」飯田市美術博物館所蔵

1931年頃「女の顔」兵庫県立美術館所蔵

1932年「自転車A」個人所蔵

1933年「街の本 動坂」個人所蔵

1933年「瞑想氏(白と黒41号)」個人所蔵

1933年「蝶を吐く人(白と黒41号)」

1933年「春夜(白と黒35号)」東京国立近代美術館所蔵

1934年「怪鳥(白と黒43号)」兵庫県立美術館所蔵

1937年「童子駒象」

19371939年「春の自転車」東京国立近代美術館所蔵

1939年「龍の夢」個人所蔵・東京国立近代美術館所蔵

「略歴」

1897奈良県の初瀬(現・桜井市、真言宗豊山派総本山長谷寺のある古都)生まれ

1909新潟の尋常小学校を終えたあと朝鮮へ渡る。その後、朝鮮の高等小学校を卒業。

1915単身上京し、豊山中学に通う。

1922永瀬義郎著『版画を作る人へ』を読み、版画制作を開始。

1924長谷川巳之吉主宰「第一書房」の居候社員となり、日夏耿之介や佐藤春夫らを知る。

1926日夏が主宰する雑誌『奢灞都』(サバト)にカットを寄せる。日夏の紹介状を持って永瀬義郎を訪ね、それまでに制作したグロテスクな内容の版画や素描を見せる。一旦京城に引き上げる。

1928日本創作版画協会展に出品、前川千帆、恩地孝四郎、平塚運一らと知り合う。

1932前川千帆の紹介状をもって料治熊太を訪ね、『白と黒』(22号より)、『版藝術』(創刊号より)に版画を掲載し始める。日本版画協会の会員となる。

1933佐藤春夫の紹介で内田百閒を知る。

1934内田百閒著『王様の背中』の挿絵、装幀。

1936佐藤春夫著『FOU』の挿絵、装幀。

1946栄養失調で死去。

「関連著作物」

「かぼちゃと風船画伯」出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51JXAX6E6RL.jpg

「かぼちゃと風船画伯-愛と幻想の版画家・谷中安規の生と死と」吉田和正著1998年・読売新聞社刊/「白と黒」社の版画雑誌を土俵とし、切磋琢磨した二人の天才、棟方志功を谷中安規。土着性をむきだしにした大作の志功に対し、安規は幻想的な小品が持ち味。万事に積極的で自己顕示欲が強く、大きな声でワイワイ合いの手を入れ、唾を飛ばしてしゃべる志功に、小声でボソボソ話す安規―陽と陰。戦後になって大輪の花を咲かせた志功と、四十九歳で孤独の死を迎えた安規の生涯。

「谷中安規―モダンとダカダン」出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/613ym43r-eL.jpg

「谷中安規―モダンとダカダン」瀬沼典昭・山田俊幸・辺見海編集2014年国書刊行会刊/大正・昭和のモダン都市東京を放浪し、特異な版画作品を数多く残した〈風船画伯〉谷中安規の全貌をかつてない規模で集成。新発見の作品も収録した決定版画集! 内田百閒、佐藤春夫らが愛した奇人版画家の知られざる全貌。

「谷中安規の事」出典元:http://www.umi-neko.com/neko/taninaka/img/taninaka.jpg

「谷中安規の事」八坂(佐瀬)喜代著・2009年たけしま出版刊/今ではすっかり人気の安規ですが、生前は家庭を持つこともなく天涯孤独でした。しかしながら、実は、お世話をした女性がいて、最期を看取った女性がいたのです。本書は、その女性・八坂喜代さんが綴った直筆の手記です。アパートを空襲で焼け出された二人でしたが、安規は掘っ立て小屋に住み、喜代さんは近くの学校に避難しました。喜代さんは、配られる食べ物を半分残しておいては安規のもとへ運びます。空き地でかぼちゃを育てていた安規。喜代さんが来るたびに「ほら、ここにあります。ほら、ここにもあります《と小さなかぼちゃを示しては楽しそうに笑ったそうです。そのような貴重な著述が終焉期の安規を彷彿とさせます。

 

参考サイト:http://toyokeizai.net/articles/-/52576?page=2
参考サイト:http://hanga-museum.jp/exhibition/past/2014-246
参考サイト:http://search.artmuseums.go.jp/sakuhin_list.php?sakka=1428&page_from=detail
参考サイト:http://taninaka.hanga-museum.jp/taninaka.html
参考サイト:http://www.yamada-shoten.com/onlinestore/search.php?word=%E6%B0%B8%E7%80%AC%E7%BE%A9%E9%83%8E
参考サイト:http://www.yamada-shoten.com/onlinestore/book.php?genre=65&search_key=genre
参考サイト:https://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/exb-panf.html
参考サイト:http://www.sankei.com/life/news/141113/lif1411130011-n1.html
参考サイト:http://www.umi-neko.com/neko/taninaka/taninaka.html
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