孤高の芸術家・魯山人伝

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孤高の芸術家・魯山人伝

マルチジャンルで活躍した北大路魯山人が如何なる人生を歩んだのか、そこはかとなく興味が湧きたちます。そこでご紹介します「孤高の芸術家・魯山人伝」です。なお当記事は「マイルストーンジャパン」の許諾を得て一部手直しをして転載掲載しています。

 

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/Rosanjin_Kita%C5%8Dji_1954.jpg/220px-Rosanjin_Kita%C5%8Dji_1954.jpg

人物区分に関する肩書:陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家

生年月日:1883年(明治16年)323日生まれ

出生地:京都府

没年月日:1959年(昭和34年)1221日没

関連サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%A4%A7%E8%B7%AF%E9%AD%AF%E5%B1%B1%E4%BA%BA

「出生に関する情報」

名は房次郎魯山人」は号1883(明治16年)両親は京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社社家・北大路清操(きよあや/せいそう)、登女(とめ、社家・西池家の出身)の次男として生まれる。氏族の家柄だったものの生活は貧しかった上、版籍奉還2年後の明治4年の世の中は、今まで保証されてきた俸禄制と世襲制が廃止されため混乱期にありました。父・清操は東京に職を求めたり京都に戻ったりという生活をしていましたが、房次郎(魯山人)が生まれる4ヶ月前に自殺。母・登女は坂本(現・大津市坂本)の農家に房次郎を預け失踪します。しかし家で房次郎は放置状態にあり、預けた1週間後、この農家を紹介した巡査の妻が再び連れて帰ります。出生から5ヶ月後の明治1696日、巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となります。しかしこの2ヶ月前の72日に服部巡査が行方不明に。同年秋に巡査妻が病死し、この2人の養子夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになります。ただ、そもそも魯山人は母の不貞によりできた子であり、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げたと言われています。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで、結局、養家を転々とする運命にもてあそばれます。この出生にまつわる鬱屈は終生払われることなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼします。

 

「学歴に関する情報」

1887年、房次郎45歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せますが、この家で房次郎は義姉の母から激しい虐待を受けることになります。ヶ月後、これを見かねた近所の人が竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人のところへ養子話を持ちかけます。こうして房次郎は1889(明治22)622日、福田房次郎となり以後33歳まで約27年間、福田姓を名乗ることとなります。福田家で房次郎は6歳の頃から炊事をかって出ます。そして炊事の中で房次郎は味覚と料理の基本を学んでいくこととなります。10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局 わやくや千坂漢方薬局 )に丁稚奉公へ住み込みで出されます。学校で学ぶという形の房次郎の学歴は、この数年間の期間だけでした。

「わやくや千坂漢方薬局」公式サイト:http://kanpochisaka.com/

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「わやくや千坂漢方薬局」出典元:http://kanpochisaka.com/wp-content/uploads/2016/03/%E3%82%8F%E3%82%84%E3%81%8F%E3%82%84%E3%80%80%E5%BA%97%E5%A4%96%E2%91%A120160325IMG_0514-1024×768.jpg

「仕事に関する履歴情報」

奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に房次郎は心を奪われます。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳でした。彼に会ったことで絵に対する好奇心と情熱は一気に高められていきます。房次郎は18961月奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込みますが家計的な問題もあり断念。養父の木版の手伝い始め扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身に着けていきます。他方、一字書の書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中から数点受賞します。以後彼は応募を続け次々と受賞していきます145歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始めます。この頃、西洋看板描きとしても地元で活躍します。

20歳の時、縫箔屋の主人が房次郎の従兄と名乗って現れ、彼により房次郎は母の所在を知ることとなります。実の母の居所が分かり、意を決して東京に会いに行ったものの受け入れられず、房次郎はそのまま東京に残り書家になることを志します。1904(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し頭角を現します。若干21歳の受賞は前代未聞の快挙でした。この展覧会では房次郎は「福田海砂」と号します(この号は翌年までの2年間のみ使用)。その後、住み込みで版下書きの仕事を始め、この頃になると、実母登女との関係も良くなっていきます。1905(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家・岡本一平の父、洋画家・岡本太郎の祖父)の内弟子となり、その後3年間岡本家に住み込みます。

参考サイト:http://www.jlds.co.jp/ebilab/2010/08/2.html

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「岡本可亭書」出典元:http://www.jlds.co.jp/ebilab/%E8%8C%B6%E7%AE%B15%E3%81%A4JPG.gif

そこで「福田可逸(かいつ)」の号を授かり次第に可亭よりも仕事の発注が増えていきます。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになり、1907年、「福田鴨亭(おうてい)」を名乗って可亭の門から独立します。翌1908217日結婚。その年の夏に長男が誕生。仕事は繁盛し稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込むようになります。また合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭します。

191012月、実母と共に朝鮮に旅立ちます。母を京城(現・ソウル)の兄のところへ送り届け、朝鮮国内を旅した3ヶ月後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め、年ほど滞在生活します。19113月には日本に残した妻に第二子が誕生。京城滞在1年弱で上海に向かい書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に出会います。1912年夏に帰国し書道教室を開きます。半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供されます。ここで房次郎は「福田大観(たいかん)」の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残しています。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出ます。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、房次郎の名を高めていくことになります。

19142度目の離婚。1916年、3年前に長男である房次郎の兄が他界したことにより、母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗ります。そして北大路魯山人の号を使いはじめます(魯卿と数年併用している)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていきます。また内貴清兵衛と彼の別荘である松ヶ崎山荘で交流も深めていき料理に目覚めていきました。1917(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになります。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921(大正10年)、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作します1925(大正14年)320には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり会員制高級料亭を始めます

参考サイト:http://dessart.club/2015/03/14/l-art-de-rosanjin/

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「久兵衛の鮨を食する魯山人」出典元:http://dessart.club/wp-content/uploads/2015/03/l-art-de-rosanjin-2.png

1927(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始します。1928(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を開催。しかし魯山人の横暴さや出費の多さから、1936(昭和11年)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放されます。同茶寮は1945(昭和20年)の空襲により焼失。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごしますが、1946(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博します。その傍ら1951(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させたりもします

参考サイト:http://www.geocities.jp/hayatedani/rosanjintei.html

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「星岡窯」出典元:http://www.geocities.jp/hayatedani/monokuroseikouyou.jpg

1954(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソマルク・シャガールを訪問。1955(昭和30年)には織部焼重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退します1959(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。享年76歳。また1998(平成10年)、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋焼失しますつねに傲岸・不遜・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表す追うる芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒しました。この傲慢な態度と物言いが祟り1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまうのですが、逆にその天衣無縫ぶりは久邇宮邦彦王・吉田茂など、昭和を代表する方々から愛された一面を有する稀有な人間と言えそうです。

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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