日本の豪農列伝


日本の豪農列伝

古来、日本には農業を礎とする豪農と称された人々がいます。日本各地に散在しますが、ご紹介します「日本の豪農列伝」です。「宮城・斎藤家」「秋田・池田家」「新潟・伊藤家」「新潟・渡邊家」「新潟・田巻家」「富山・内山家」「兵庫・園田家」「島根・田部家」「島根・江角家」。

「宮城・斎藤家」

「斎藤家住宅」出典元:http://www.miyatabi.net/miya/isinomaki/takaragamine/01-00.jpg

「斎藤氏庭園」出典元:https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/image/12497.jpg

「斎藤家住宅」出典元:http://www14.atpages.jp/siyouki0506/P7180447.JPG

参考サイト:https://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/saitousiteien.html

参考サイト:http://www.miyatabi.net/miya/isinomaki/takagamine.html

参考サイト:http://www14.atpages.jp/siyouki0506/0078rekisi014.htm

一族の貢献者;第九代当主・斎藤善右衛門有成

インフォメーション:宮城の豪農大地主と言えば、桃生郡前谷地村(現在は石巻市)の斎藤善右衛門家です。酒田の本間家と並び立つ日本の大地主現在では、斎藤報恩会(自然史博物館)としても知られています齋藤家は秋田県大仙市の池田家、山形県酒田市の本間家と並び東北三大地主と称されています。齋藤家は中世、当地を支配した葛西家の家臣で(葛西家は当時、石巻城を居城としていた)、武家の家柄でしたが、天正18年(1590)の小田原の陣で葛西氏が参陣出来なかった事から、その後の奥州仕置きにより改易となり、齋藤家は帰農する道を選びました。本家齋藤家7代目の弟である善九郎が分家して当家の初代当主になると次第に発展し、2代善兵衛は享保年間(17161735年)から酒造業を創業、4代善次右衛門は深谷の大肝入、6代善右衛門は永代大肝入格、7代善次右衛門で現在地に屋敷を構え発展の基礎を固めています。明治時代に入ると代議士など政治家を輩出し、地域発展や文化興隆にも大きく尽力し広大な土地(大正時代には田畑1500ha)の獲得にも成功しています。往時は主屋の他、様々な建物が敷地内に建てられていましたが、太平洋戦争後の農地解放や、地主制度廃止令などで広大の土地が取り上げられ、主屋や清楽亭、無一庵などが解体されました。現在の建物(木造平屋、寄棟、萱葺)は天保年間(18301844年)に建てられたもで内部が宝ヶ峯縄文記念館として改修されています。特に庭園(齋藤家九代善右衛門が明治後期に造成した庭園)は素晴らしく平成7年(20055月に国名勝に指定されています。

*「斎藤氏庭園」:近代における東北三大地主として知られる齋藤氏の第9代当主善右衛門有成により明治後期につくられた庭園です。本邸部分に所在する庭園は丘陵の斜面を背にして広間建物を景観の中心に置き、その周囲に平庭、園池を配しています。斜面麓には宝泉窟と呼ばれる深い岩窟があり、ここから生じる湧泉は園池の水源ともなっています。邸宅だけでなく、背後の丘陵地を一体の空間として構成しており、近代の庭園のうちでも特色あるものとして学術上の価値が高いと評されます。斎藤氏住宅・斎藤氏庭園所在地:石巻市前谷地字黒沢73-1

問合せ:0225-93-1910 石巻市教育委員会生涯学習課 

見学時間:以下参照

41日から1130日まで930分から1630分まで
12
1日から翌年の331日まで930分から16時まで

見学関連料金:一般500円・高校生300円・小中学生150


「秋田・池田家」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/%E6%97%A7%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B0%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92%E6%AD%A3%E9%96%80.JPG/1024px-%E6%97%A7%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B0%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92%E6%AD%A3%E9%96%80.JPG?1503098655780
参考サイト:http://www.wikiwand.com/ja/%E6%97%A7%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%B0%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92

一族の貢献者;13代当主池田文太郎

インフォメーション:池田家は系譜によれば、その始祖を江戸時代初期の高梨村肝煎を務めた孫左衛門にさかのぼると伝えられています。近代においては東北三大地主1つに数えられた豪農で、明治時代から第二次世界大戦後の農地解放まで秋田県の政治経済文化に大きな功績をのこした資産家で18世紀中ごろ、高梨村肝煎孫左衛門(池田家)の記述によると、文化期頃に名字許可されたと言います。幕末頃から明治初期にかけて在村地主に成長し、明治91876耕地約300町歩(水田9割畑1割)と山林原野を所有していました。12代当主の池田甚之助は秋田県選出の最初の貴族院議員で、秋田銀行の初代頭取や高梨村(現在の大仙市高梨)の初代村長などを歴任しています13代当主の池田文太郎は耕地1046町歩(1054ha=東京ドーム225個分)を所有し、池田家の最盛期を築いた人物と称されています

出典元:http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/blog/semboku/images/20130528_1.jpg

出典元:http://daisen.in.arena.ne.jp/daisen/blog/semboku/images/20130527_7.jpg

*「旧池田氏庭園洋館」:以下参照

14代当主の池田文一郎(明治26〜昭和18年=18931943年)が私設公開図書館として建てたものです。文一郎は秋田県立秋田図書館大曲分館長を務めたひとで、この地域の青少年教育と文化的向上に尽力しました。昭和51930)年には、平安時代の城柵遺跡である「払田柵跡」の発掘調査を経済的に援助。この遺跡は秋田県内では初となる国の史跡に指定されています。池泉廻遊式の日本庭園は、明治時代後期から大正時代にかけて作庭されたもの。約42千平方メートル(約12700坪)の広大な敷地は池田家の家紋(亀甲桔梗)と同じ「亀甲」形で、その周囲は石垣と土塁で区画されています。東京府の公園係長などを務めた公園行政官のパイオニア的な存在で、のちに「近代造園の祖」と呼ばれた造園家の長岡安平が作庭を手がけました。様々な樹木からなる屋敷林のなかには、高さが4メートルで笠の直径も4メートルという巨大な石造の雪見灯籠や、高さ4.8メートルの石造五重層塔などが配置され、傑出した景観をつくりだしています。平成162004)年には「旧池田氏庭園」として国の名勝に指定され、平成19年に池田家から大仙市へ寄贈されました。国の名勝に指定されたことで、この洋館も平成18年から5年をかけて修復されました。

庭園洋館所在地:014-0805 秋田県大仙市高梨大嶋1

問合せ:0187-63-8972 大仙市教育委員会文化財保護課

屋敷見学時間:9001530

見学関連料金:一般200円(中学生以下は無料)


「新潟・伊藤家」

「門土蔵」出典元:http://hoppou-bunka.com/wp/wp-content/themes/pixgraphy/img/building/building_img11.jpg

「伊藤邸主屋棟」出典元:http://hoppou-bunka.com/wp/wp-content/themes/pixgraphy/img/building/building_img3.jpg

「伊藤邸大広間棟」出典元:http://hoppou-bunka.com/wp/wp-content/themes/pixgraphy/img/building/building_img6.jpg

北方文化博物館公式サイト:http://hoppou-bunka.com/history/

一族の貢献者:五代目文吉要之助・六代目文吉謙二郎

インフォメーション:以下参照

初代文吉が1756(宝暦6)年に20歳で分家。約13,000㎡(東京ドームのグラウンドと同じ広さ)の畑が与えられ、六畳二間と台所の家に移り住みました。間もなく紺屋の娘 きよを嫁とし、百姓のかたわら藍の商売も営みます。1801(享和元)年、文吉の子 安次郎が35歳で二代目文吉の名を継承。この二代文吉は1837(天保8)年に名字帯刀を許されると「伊藤文吉」を名乗るようになりました。その頃、藍の商売だけでなく雑穀・質屋・倉庫業を屋号「いはの家」として営み、百姓をやめ、知行所一財力のある豪商となります。その後、二度目の妻の先夫の子 為次郎を養子にとり、為次郎は三代文吉として伊藤家の土台を築きあげました。しかし四代文吉を継ぐはずの佐六は44歳で他界。そのため三代文吉の孫 要之助が16歳という若さで五代文吉を襲名しました。 1882(明治15)年、五代文吉は用意した土地約18,000㎡において新しい伊藤邸建築工事を始めます。会津・山形・秋田から買い付けられた資材が運び込まれ、約8年の歳月をかけ1889(明治22)年に現在の伊藤邸が完成しました。六代文吉 謙次郎は、豪商として手腕を発揮。1892(明治25)年、名門村山家から嫁を迎えいれ、その披露宴は三日三晩盛大に続けられたといいます。しかし着々と所有地の拡大を続ける中、六代文吉は1903(明治36)年に33歳の若さで急逝します

「六代文吉一周忌・伊藤家一族/前列中央が七代目文吉」出典元:http://hoppou-bunka.com/wp/wp-content/themes/pixgraphy/img/history/history_img2.jpg

七代文吉は、わずか8歳の次男 淳夫が当主となりましたが、一族が支えることで大地主として揺るぎなく成長を続けます。1908(明治41年)年には所有地が1,385ヘクタール(東京ドーム約300個分もの広さ)となり、伊藤家に暮らす使用人も約60人へと膨らんでいました。七代文吉は慶応大学を卒業後、アメリカのペンシルバニア大学に留学。帰国後の1927年(昭和2年)には八代文吉となる吉彦が誕生しました。1952(昭和27)年、八代文吉は日本の学芸員第1期生となり、会社勤めを経て31歳の時に襲名。100か国以上の国々を回り、世界の文化行政や博物館の運営などを視察し、新潟の文化振興と国際交流のためにひたすら力を尽くしました。皇室の方々の来訪をはじめ、2008(平成20)年には主要8カ国(G8)労働相会合のレセプションなど、数多くの要人をもてなす場としても提供。さらに「心と癒しの場としての博物館」を目指し、野外音楽堂やレストラン、宿泊施設などを開き、今の時代に求められる存在へと進化させていきました。八代文吉は多くの皆様に愛され、惜しまれつつ2016(平成28)年10月に他界しました。

北方文化博物館所在地:950-0205新潟県新潟市江南区沢海2丁目15-25

問合せ:0253852001

見学時間:年中無休900170012月~3月は~1630迄)

見学関連料金:大人800円・小人400円(日曜祝日は小中学生は無料)


「新潟・渡邊家」

出典元:http://watanabetei.sakura.ne.jp/pohto/syoumenn.jpg

「大座敷」出典元:http://watanabetei.sakura.ne.jp/pohto/zasiki-2.jpg

「庭園」出典元:http://watanabetei.sakura.ne.jp/photo9/teien2015.jpg

公式サイト:http://watanabetei.sakura.ne.jp/index.html

一族の貢献者:初代儀右エ門善高・七代善映

インフォメーション:以下参照

渡邉家の初代儀右エ門善高は、村上藩の郡奉行をしていましたが、藩主国替えの際、家督を譲り桂村に隠居、その後寛文7(1667)年に現在の場所に転居して以来の豪農・豪商旧家です。現存する三千坪の広大な敷地には堀と塀をめぐらし、五百坪の母屋には厳選された無節の柱や丸桁などが惜しみなく随所に使われています。往時には十二あったとされる蔵のうち、残っている六つの蔵もまた豪農を思わせる作りとなっています。渡邉家三代善久の時代には、享保十一年(1726)財政難に苦しんでいた米沢藩に融資、その後幕末までに総額十万両以上を用立てたと言います。その功により五代英良以降、同藩の勘定奉行格の待遇を受けます。その後、七代善映のときには、寛政十年(1798)に四百五十石の知行が与えられました。また、七代善映は上杉鷹山公から弓矢の玩具を拝領しており、この弓矢は、幼き頃鷹山公が手遊びをしていたもので、天明61786)年、幼少の善映登城の折に拝領したもので、現在は平成の大改修に伴い歴史とみちの館に展示されています。

*「渡辺邸」:以下参照

渡辺邸の母屋と6棟の土蔵(米蔵・味噌蔵・金蔵・宝蔵・新土蔵・裏土蔵)は重要文化財に指定されています。母屋は二階建で、文化14年(1817年)に再建されたものであり、木羽葺石置屋根(こばぶきいしおきやね)には15千個の石が乗せられています。また庭園は回遊式となっており、元禄末期から享保初期にかけて京都から遠州流の庭師を招いて構築されたもので国の名勝に指定されています。渡辺邸の裏手や並びには「歴史とみちの館」や佐藤邸(重文、明和2年・1765年の建築)、津野邸(寛政元年・1789年の建築)、東桂苑、関川村役場なども隣接しています。

渡邊邸所在地:959-3265新潟県岩船郡関川村下関904

問合せ:0254-64-1002 公益財団法人重要文化財 渡辺家保存会

見学時間:9001600

見学関連料金:大人600円・小中学生250


「新潟・田巻家」

出典元:https://www.niigata-kankou.or.jp/tagami/kanko/plan/images/dsc_0016.jpg

出典元:https://www.niigata-kankou.or.jp/tagami/kanko/plan/images/1w_l1959.jpg

出典元:http://www.niigata-kankou.or.jp/tagami/kanko/institution/images/chinjyuso07.jpg

参考サイト:https://www.niigata-kankou.or.jp/sys/data?page-id=11949

一族の貢献者:原田巻家七代目・堅太郎

インフォメーション:以下参照

大正時代、日本の五百町歩(500ヘクタール)以上の大地主の半数は新潟にありました。なかでも「千町歩」の巨大地主は新潟に5家を数え、田上の田巻家(原田巻家)もその一つです。田上町で明治から大正時代にかけて栄えた田巻姓を名乗る二軒の豪農が存在しました。彼らはそれぞれ代々七郎兵衛三郎兵衛を名乗り地元では七郎兵衛家を「原田巻家」三郎兵衛家を「本田巻家」と呼びならわしていました。両田巻家は南蒲下田の豪族五十嵐氏の末流といわれ、原田巻家は本田巻家から養子に入り、安永3年(1774)に没した七郎兵ヱを中興初代とします。幕末期には原田巻家がおよそ千二百六十町歩本田巻家がおよそ七百町歩もの広大な土地を所有していました。原田巻家七代・堅太郎が建てた離れ座敷が「椿寿荘」です。三年半の歳月と七万二千円余りの巨費を投じて大正七年(1918)に完成した贅を尽くした屋敷で

「椿寿荘」:以下参照

田巻家七代賢太郎が日本三大名人の一人と言われた富山・井波の宮大工松井角平を棟梁に招いて、大正3年(1914)から3年半の歳月と72千円余りの巨費を投じて、大正7年に完成しました。地主の権力・財力を誇示せんと贅を尽くした屋敷です。屋敷は建坪約140坪、ヒノキを使った重厚な寺院様式で、クギを一切使わず仕上げてられています。目を引くのは、随所に使われた銘木。樹齢800年の会津欅をふんだんに使った玄関と露縁。菊を透かし彫りした欄間のクスノキの1枚板。圧巻は露縁のひさしのけたに使われた約20メートルの節ひとつない吉野杉。大阪から海路、新潟から信濃川をさかのぼって運ばれたと言われていますまた京都の庭師広瀬万次郎の手になる庭園は、自然の樹想を生かして深山幽谷を表現し四季それぞれに美しさを変える京風の枯山水です。椿寿荘は戦後の農地改革で一旦国のものになり、旧国鉄の研修施設として使われていましたが、その後、昭和62年に田上町がこの屋敷を購入し、平成214月からは指定管理制度により椿寿荘売店組合が管理しています。

屋敷「椿寿荘」所在地:新潟県南蒲原郡田上町田上町大字田上丁2402-8

問合せ:0256572040

屋敷見学時間:9001600(年末年始休館)

休館日:平成297月~9月、12月~平成303月は毎週水曜日休館

見学関連料金:高校生以上 400円、小中学生 300

 

≪次ページパート2.≫もご覧ください

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