日本の豪商列伝


日本の豪商列伝

古来、日本には商業で成功し、財を成した豪商と言われる人々がいます。そこでご紹介します「日本の豪商列伝」です。「山形・本間四郎三郎」「深川・奈良茂」「加賀・銭屋五兵衛」「京都・角倉了以」「松坂・三井高利」「大阪・鴻池善右衛門」「堺・小西隆佐」「大阪・紀伊国屋文左衛門」「博多・島井宗室」「長崎・末次平蔵」。

「山形酒田・本間四郎三郎」

出典元:http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/image/4FFBEA9D-ECC9-4F47-80F8-09FEE6BA1207.jpg

「本間家旧本邸」出典元:http://hommake.sakura.ne.jp/img_hontei/hontei.jpg

「廻船」出典元:http://www.mokkedano.net/file/show/5940.jpg?width=340&resize=fit&1376458929

生年月日:173329日生まれ

没年月日:1801711日没

本間家旧本邸公式サイト:http://hommake.sakura.ne.jp/

参考サイト:http://www.tobunken-archives.jp/DigitalArchives/record/4FFBEA9D-ECC9-4F47-80F8-09FEE6BA1207.html?lang=

参考サイト:http://www.sakata-kankou.com/course/37

屋号:「新潟屋」の屋号で創業

創業業態:廻船問屋

現存する関連企業:現存しません

インフォメーション:本間四郎三郎は江戸時代、巨大な経済力で山形地方に君臨していた豪商、豪農、本間家の中興の祖と評されます。天下第一の豪農として庄内藩14万石の領内において、藩主をはるかに凌ぐ24万石の大地主でした。本間家の祖は寛永年間(16241644年)すでに商業を営み、酒田36人衆の一人として町政に参与し、元禄年間、海の商人として庄内地方や最上平野に産する米、藍、漆、晒臘(さらしろう)、紅花などを買い占め大坂に回漕し、帰り船に上方の精製品や古着などを積み込み、これを庄内地方で売りさばいたのが当たって巨利を得ました。さらにその利益で酒田周辺の土地を買い上げ「千町歩地主」と呼ばれる大地主にのしあがっていきました。本間家三代目・四郎三郎が、父・庄五郎光寿の後、本間家を継いだのは1754年(宝暦4年)のことです四郎三郎は庄内藩および山形地方に様々な事業を通じて地域貢献し1768年(明和5年)、鶴岡、酒田両城の普請を成し遂げ、備荒備蓄米として藩庁に24000俵を献上、この米が1783(天明3)~1788年(天明8年)の大飢饉から藩士や領民を救いました。また焼失した庄内藩江戸藩邸の再建をはじめ、庄内藩の窮乏を救うため財政すべてを委ねられることになります。そのうえ幕府から安倍川、富士川、大井川の改修工事を命ぜられ、その資金借り入れに大坂、兵庫の豪商たちを訪ね、協力を取り付けることに成功するなど、まさに八面六臂の活躍ぶりをみせました。四郎三郎の経済手腕の鮮やかさをみて、藩主を通じて財政再建を委嘱する諸藩があとを絶たなかったと言います。窮迫貧困ぶりを天下に知られた米沢藩もその一つで、上杉治憲(のちの鷹山)の要請に応えて、彼は米沢藩のため数回にわたって金穀を献貸しています。この時代、本間家は庄内藩の“金倉(かねぐら)”みたいなものでした。時は流れ1990年、この本間家が筆頭株主だった商事会社本間物産が倒産し本間家の流れをくむ企業は無くなりました。

本間家旧本邸所在地:9980045山形県酒田市二番町1213

問合せ:0234223562

入館時間:310930163011月~29301600

関連料金:大人700円・中高生300円・小学生200


「深川・奈良茂(奈良屋茂左衛門)」

「雄松院」出典元:http://www.geocities.jp/tokyo_oh_net/sirakawa-3.jpg

生年月日:1695年生まれ

没年月日:1725108日没

参考サイト:http://www.geocities.jp/tokyo_oh_net/koutouku.html

屋号:「奈良茂」

創業業態:材木商

現存する関連企業:江戸時代に廃業

インフォメーション:奈良屋茂左衛門は、江戸時代中期の江戸材木商。初名は戌松、名は広璘、号は泰我・安知、通称奈良茂」と呼ばれていました。代々、深川黒江町において材木商を営みましたが、一躍名を挙げたのは2代目茂左衛門の子「奈良茂(四代目・勝豊)幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したと言います吉原遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたそうです。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得るようになります6代目勝屋は5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようですが、それでも1744年(延享元年)には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられています。子孫は大正年間1910年代1920年代)まで千住質屋を営んでいたと言われていますが、末裔の詳細は不明です墓所は清澄白河の雄松院です。

現存屋敷所在地:八丁堀旧宅は現存しません


「加賀・銭屋五兵衛」

出典元:http://www.zenigo.jp/images/jinnbutuzouS.jpg

出典元:http://www.zenigo.jp/images/tennji1AS.jpg

出典元:http://www.zenigo.jp/images/kan1.jpg

生年月日:177417日生まれ

没年月日:18521231日没

石川県銭屋五兵衛記念館公式サイト:http://www.zenigo.jp/jinnbutu.html

屋号:「銭屋」

創業業態:両替商/海運業

現存する関連企業:現存する関連企業はありません。

インフォメーション江戸時代後期の加賀の商人海運業を生業としていました金沢藩御用商人を務め姓名の略から「銭五」とも呼ばれました。幼名は茂助。「五兵衛」は銭屋代々の当主が襲名する習わしでした。加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれ。六代前の吉右衛門から両替商を営み、屋号を銭屋と称していました。祖父の代から五兵衛を名乗り、父弥吉郎(六代五兵衛)の時には金融業、醤油醸造業の傍ら一時海運業も営んでいました。17歳で家督を継いだ五兵衛は新たに呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋なども営みますが、北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは50歳代後半からで、その後約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となります。加賀藩からは銀仲棟取(ぎんずわいとうどり)問屋職、諸算用聞上役(しょさんようききあげやく)をおおせつかり藩の金融経済の大切な仕事に尽くし、たびたび御用金の調達もしています。晩年は河北潟干拓事業に着手しますが死魚中毒事故にかこつけた反対派の中傷により、無実の罪で嘉永5年(1852年)1121日獄中で80歳の生涯を終えました。

石川県銭屋五兵衛記念館所在地:920-0336石川県金沢市金石本町口55

問合せ:076-267-7744

入館時間:9001700

関連料金:大人500円・小中高生350


「京都・角倉了以」

出典元:http://www.kyoto-yuka.com/column/img/h26/img_takase1.jpg

①出典元:http://www.kyoto-yuka.com/column/img/h26/c_img2.jpg

②出典元:http://www.kyoto-yuka.com/column/img/h26/c_img3.jpg

生年月日:1554年生まれ

没年月日:1614817日没

参考サイト:http://www.kyoto-yuka.com/column/h26.html

屋号:「角屋」

創業業態:御朱印貿易業/河川土木

現存する関連企業:現存する関連企業はありません。

インフォメーション:近世初頭の京都の豪商で、河川開墾土木工事の大家朱印船貿易業者です吉田宗桂と中村氏の娘の長男として生まれ、本姓吉田名を与七と言い諱は光好。先祖は室町幕府に医者として仕えまた嵯峨の土倉として金融業を営み屋号を角倉と称しました。父宗桂も医者として名高く勘合貿易に従事薬種類の購入など行っていました。了以は豊臣秀吉政権下では家業に協力していましたが、のち医は次弟の宗恂にやらせ慶長5(1600)年ごろより時代をみて徳川家康に接近します。豪放闊達な人物で8年ごろより安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に従事し長男与一(素庵)らの協力を得て毎年のように貿易を行い、日本を代表する使節となっていきました。同14年の帰途海難に遭遇し、犠牲者を出してから貿易は与一に譲っています。了以は父の科学者的素質を受け数学や地理に明るく土木工事の技術にまれにみる力量を持っていました。同9年丹波から京都に米穀や材木などを人馬で運送している労力をみて大堰川の開疏を行い高瀬船による河川交通によ物資の流通を自由にすることを考え幕府の許可を得て同1011年に開削工事を自ら陣頭に立って完遂しそのことにより河川運航料や倉庫料の徴収が特別にされこれが角倉の収入となります。次いで幕府は同11了以に富士川の疏通命じ翌年工事が達成されます。同12年天竜川の開疏を命じられます,これは難工事で成功しませんでした。同16京都二条から伏見に至る運河の建設計画淀川に接続させる高瀬川の開鑿を自費で完成し京都の町に木材食糧薪炭などの物資が運送されるようになります。幕府は高瀬川の通航料を徴収し角倉は関西の大動脈であった淀川の河川交通や高瀬川を支配しました。しかし高瀬川の完成直後に病没数奇な生涯を閉じました。墓地は嵯峨二尊院にあります

現存屋敷所在地:以下参照

角倉了以別邸跡:京都市中京区木屋町通二条下ル

インフォメーション:納涼床を出す「がんこ高瀬川二条苑」は江戸時代に建てられた角倉了以の別邸跡にあたります。邸宅はその東側、一之船入りの近くにありました。別邸の庭園は鴨川の水を引き込んで造られました。近代、邸宅の主人は変遷し、1894年、明治の元勲・山形有朋がこの地に(第二)無鄰菴を建てました。岡崎の無鄰菴は第三にあたります。その後持ち主は実業家・川田小一郎、政治家・阿部信行などへと移りました。

角倉了以別邸跡:京都市中京区木屋町通二条下ル

インフォメーション:一之船入近くに角倉家の邸宅がありました。現在は日本銀行京都支店の敷地にあたります。角倉氏はいくつか邸宅を持っていましたが、ここが最大規模といわれ、邸内の庭園は鴨川から水を引き込み、噴水もあったと伝わります。この付近の町名は「一之船入町」。高瀬川を開削し川の管理者でもあった角倉氏はここに邸宅を構えて高瀬舟の航行を監視したといいます。嵐山にも保津川開削のときの邸宅があり、現在は料亭になっています。


「松坂・三井高利」

出典元:https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024001807.jpg

「三井呉服店・広重画」出典元:http://www.db.pref.mie.lg.jp/db/user_upload_file/k050120/37/arekore_15_1.gif

「三井高利旧宅跡」出典元:http://network2010.org/contents/files/kaido/isekaido/03isekaido_matsuzaka13.jpg

「真如堂」出典元:http://souda-kyoto.jp/travel/aomomiji/aomomiji_img/0000028_2.jpg

生年月日:1622年松坂生まれ

没年月日:1694817日京都にて没

参考サイト:http://network2010.org/article/1348

参考サイト:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=15

参考サイト:https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%88%A9-138823

参考サイト:http://souda-kyoto.jp/travel/aomomiji/detail.html?idao=0000028

屋号:「越後屋」(江戸の呉服店屋号/のちの三越)

創業業態:酒屋・質屋・呉服業

現存する関連企業:三越伊勢丹

インフォメーション:江戸前期の豪商で、三井家事業の創業者です。通称八郎兵衛法名宗寿。父三井則兵衛高俊(法名道鏡)母丹羽(三重県多気郡)の永井氏娘(法名殊法)8人の子供の末子として生まれました。祖父のより伊勢松坂の裕福な商家でその先祖は武士の出身という。両親は松坂で酒屋と質屋を兼営し,特に母珠法は商才に優れ,質素で勤勉な賢夫人で家業も順調に盛んであったと言います。高利はこの母の感化を強く受け寛永10(1633)12歳のとき父を失いますすでに長兄俊次が江戸本町4丁目に呉服店京に仕入店を持って手広く商っていたので12年母の命で小判10両分の松坂木綿を馬につけ初めて江戸に出て長兄の江戸店で商売を見習うことになります。高利は商機をみるに敏で商才に優れ長兄の信頼を得て江戸店をまかされます。ところが高利も将来「江戸店持ち京商人」の理想を持っていて江戸本町に店舗用の屋敷地を購入したことから長兄は将来商売上の脅威になることを恐れ高利を疎んずるようになり慶安2(1649)母を奉養する名目で松坂に帰されます。高利28歳のときでした。 松坂での高利は自ら金融業(大名貸,家中貸,郷貨)を行い彼自身の資金の貯えを目指します。この間結婚して中川氏娘かね(寿讃)との間に105女をもうけこの子供の成長を待って「江戸店持ち京商人」の理想を志します。やがて寛文7(1667)年長男高平が15歳になると長兄の江戸店に見習に出し次いで翌年次男高富15さらに同123男高治16歳になると同じく長兄の江戸店に見習に出す一方番頭クラスの養成も心掛けます。延宝1(1673)長兄俊次が死去するにおよび、高利の江戸出店の障壁が除かれることなり長男高平に命じて江戸本町に間口9尺の店舗を借り「越後屋八郎右衛門」の暖簾をかかげ自らも高平と共に京都室町薬師町に間口8尺の仕入店を借り、満を持して呉服業を開始します。高利52歳のときでした。初め松坂に本拠を置き子供達を動員して呉服事業を積極的に経営しやがて江戸に両替店を併設京都にも両替店を設けました。のち京都の新町六角下ルに松坂より本拠を移し次いで大坂にも呉服店両替店を設けます。かくして京都江戸大坂3都に呉服・両替業を展開し大いに世評を博します。高利は「薄利多売現銀()掛値なし」「正札販売」の商法によって大名武士のみならず多くの庶民の顧客を得て繁盛しさらに幕府より公儀呉服御用達や金銀御為替御用達(一般に公金為替の請負という)を命じられ一代にして総資産小判81250(4875貫余)を蓄財しました。高利で特筆すべきことは店の経営の非凡なことで生産者からの直買による商品の低価格化店員の褒賞制店員からの給金の運用預りバーゲンセールそれに呉服物の小切販売即座に仕立てるサービスなど新機軸を次々に実施していることが挙げられます。また元禄7(1694)年病が重くなるや「書置之次第」なる遺書を残し三井家の事業の永続を考えて強固な同族組織を形成し事業資産を分割しないで共有とし共同経営および利益を同族に一定の比率で配分する方式を考え出し三井家隆盛の礎を築きました。高利の経営精神は家業・店則として江戸時代を通じて三井の指導原理となり今日にも強い影響を残しています。一代で築いた遺産は7万両を超えると言われています。法名松樹院長誉宗寿居士。墓所は洛東真如堂(京都市左京区の真正極楽寺)にあります

三井高利屋敷所在地:三重県松阪市本町2214(*非公開)

 

≪次ページパート2.≫もご覧ください。

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