艶やかな金色の表現者「グスタフ クリムト」


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艶やかな金色の表現者「グスタフ クリムト」

名作「接吻」で有名なクリムトは「黄金の時代」と評される時空の中で創作に励み、数々の作品を生み出しました。後世に多大な影響を及ぼしたクリムトの生涯に迫ります。ご案内します「艶やかな金色の表現者/グスタフ クリムト」です。

≪出生没年情報≫

出生:1862714日ウィーン郊外バウムガルテン生まれ

没年:191826日ウィーンにて没・享年55

「グスタフクリムト」出典元:http://www.salvastyle.net/images/collect/klimt.jpg

プロフィール概要≫

714ウィーン近郊のバウムガルテンに生まれのオーストリアの画家。ウィーン工芸学校に学んだのち、1883年弟エルンストと工房を開き、歴史主義の影響のもとに装飾的な壁画や天井画を描いた。1892年弟の死後、一時制作を中断し工房も解散するが、1897年にゼツェッシオンを結成さらに《聖春Ver Sacrum》誌を創刊してウィーンのユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)の中心的存在となる19001903年ウィーン大学に寓意的な装飾画『哲学・医学・法律』を描き、その新様式が物議を醸した。設立に関与したウィーン分離派を1904年に脱会し、晩年は孤独であった。191826日ウィーンで死去した。クリムトの様式化された代表的な絵画作品は、金箔を使用した装飾性と平面構成によって貴婦人の肖像画にイコンのような典雅な趣を与え、また官能的なモチーフの《接吻》《ダナエ》などや素描画には、世紀末ウィーンの甘美で解体を孕(はら)む雰囲気が漂い、現代においても数多くのファンを有する、時間を超越した画家である。


生い立ち~絵画との出会い≫

「ウィーン大学講堂天井画」出典元:https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/_/rsrc/1468881625080/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna8/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E5%A0%82%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%88.jpg

今から150年前の1862714日、中流の貧しい家庭の7人兄弟の第二子としてウィーン郊外のバウムガルテンで生まれました。母のアンナ・クリムトはミュージカルパフォーマーとしての芸術的才能をもっており、父のエルンスト・クリムトはボヘミアで金彫刻師をしていました。クリムトの子供時代から青年時代は、ちょうど19世紀のドイツ・オーストリアにおける経済繁栄と大型建築物建造の全盛期であるグリュンダーツァイト(Gründerzeit)の時代と合致し、誕生時期はリンク通りプロジェクトの巨大建築物計画が最終段階に入ったばかりの頃です。クリムト家は経済的にはゆとりのある状況ではありませんでしたが、円満な家族の中での生活を謳歌し、兄弟たちとは生涯仲の良い緊密な関係を保っていきます。やがて家族との楽しい時間に別れを告げ、才能あるクリムトは応用美術大学の前身であるウィーンの美術工芸学校に入学させられ、間もなく新しいリンク大通りの建築物の外装デザインの仕事をする芸術家たちの仲間入りをすることになります。1880年代初頭には弟のエルンストとフランツ・マッチェの3人で芸術家商会「キュンストラーカンパニー」を設立し、以後10年間彼等はウィーンおよびオーストリア・ハンガリー帝国全土に渡る数多くの建物の壁画と天井画の制作を委託され制作活動を本格化していきます。


生涯の創作活動≫

「ベートーヴェンフリース」出典元:https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=652×10000:format=jpg/path/s093251349da78e77/image/ifd105066832bb132/version/1470391873/image.jpg

1892年、創業した「芸術家商会」は弟エルンスト・クリムトの死によって崩壊しますが、グスタフ・クリムトの表現は芸術的には古いインテリア装飾のスタイルから見事に脱却していました。一方、世紀末前後の当時のウィーンでは芸術もまた新たなる方向を模索していました。クリムト自身は感情の暗部と希望に満ちた幻想的なイメージが交錯する、魂の心象を表現するための新しい形式言語を探し求めていました。1897年クリムトは伝統的な美術から分離し、新しい造形表現を主張する芸術家集団ウィーン分離派の創始者の一人となり初代会長に就任し、突然世間の脚光を浴びることとなります。市街のカールスプラッツにあるセセッシオン(分離派会館)は、新しい芸術運動の展示会場となりました。この時期はクリムトが巻き起こした一連の物議の中でも、いわゆる「学部の絵」と呼ばれるウィーン大学の大講堂に描いた天井画三部作によって、オーストリア芸術界が最もスキャンダラスな時代でした。また1902年に第14回分離派展覧会(ベートーヴェン展)のためにクリムトが描いた大作「ベートーヴェン・フリース」は装飾性を優先することを特色とした新しい創造性の時代の幕開けと評されています。また技巧的には、金箔の使用量が増え始めた時期で、クリムトの代表作「接吻」(1907年~1908年)でその特徴は頂点を迎え、いわゆる「黄金の時代」の始まりを告げるものでした。

「Water Snakes I 」出典元:http://www.achome.co.uk/vienna/pictorial_histories/gk41.jpg

クリムトの「黄金時代」は1903年から始まります。公的な仕事には消極的だったものの、当時の経済状況の中で財を成したパトロンたちから好意的な批評と金銭的な援助を受け、クリムトは黄金時代を迎えます。一方、アールヌーボー、モダンスタイル、自由スタイル、モダニスモ、セセッシオンなど、ユーゲントシュティールと関連した各種トレンドは当時の国際的な現象でした。このような様式運動による影響を色濃く宿している都市こそがウィーンであり、生活のすべての側面を網羅するような芸術を目指し、建築とビジュアル・アートの芸術統合(Gesamtkunstwerk)を創造するために懸命に努力するユーゲントシュティールを代表する重要な中心地でした。

「Fulfilment from the Stolclet frieze 」出典元:http://www.achome.co.uk/vienna/pictorial_histories/gk48.jpg

分離派として知られていた芸術家組合の会長クリムトは、ユーゲントシュティール運動の中心を担っていきます。普段は寡黙でしたが、彼はこの組織の演説者であり、精力的な主催者であり、将来を嘱望された才能を持った若き芸術家たちの後援者でした。またクリムトは誰もが認めるこの運動全体の象徴であり、1907年から1908年にかけて制作した作品は「接吻」を含み、ユーゲントシュティール運動の重要な作品群となっていきます。質の高いウィーンのユーゲントシュティールは、芸術的な伝統に深く根差していると同時に、他のヨーロッパの関連した運動のように、自身の制作にヨーロッパ以外の芸術の要素を果敢に取り入れていきました。クリムトにおいては、アジアの芸術に多大な影響を受け、またラヴェンナのモザイクの発見によって得た新たな刺激を、自分たちの芸術運動に取り入れていきました。彼の絵画では色とフォルムと線の要素のそれぞれを、象徴と抽象に発展させて行くことに腐心しました。すなわちグスタフ・クリムトの制作作品は「モダニズム抽象画」の重要な先駆を代表していたと言っても過言ではありません。

「エミーリエ・フレーゲ」出典元:https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=321×10000:format=jpg/path/s093251349da78e77/image/i48771631e34834fc/version/1470050627/image.jpg

クリムトは一生独身を通し、何人かの女性との間に子供をもうけていますが、ウィーンでモデルの衣裳をデザインするモードサロンのオーナー、エミーリエ・フレ-ゲこそがクリムトの生涯の伴侶でした。またクリムトの最も有名ないくつかの風景画のモチーフともなり、ほとんど毎年夏に訪れていたアッターゼー湖のことを、彼に教えたのもフレーゲでした。30年に及ぶ集中的な創作活動と数多くの栄光、そして評論家たちとの激しい対立の後に、グスタフ・クリムトは脳梗塞に倒れ、肺炎のため191826日享年55歳でこの世を去りました。彼の亡骸はウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されています。

グスタフ・クリムトは自分の作品のこと以外、自身についてはあまり語りたがりませんでした。輝かしい仕事の成功にも関わらず、クリムトは社会生活の中では自信が持てませんでした。彼はいつも青いスモックを身にまとい、頭髪は乱れ、出身地訛りのある身分の低い人の言葉遣いで話しました。オーストリアの皇帝からは勲章を授与されていましたが、上流階級から無視されていました。その一方でクリムトには、新しいアートトレンドに対して開放的なユダヤ人のパトロンが何人もいました。クリムトはこの両面性と激動の時代を、芸術的な探査と解釈のための題材として捉えていたのかも知れません。彼の没年である1918年は重要な転換期を象徴する年です。この同じ年に数多くの気の合う仲間たち、例えばオットー・ワグナー、コロマン・モーザー、エゴン・シーレらが他界しただけではなくこの年はオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡した年でもありました。さらなる転換期がナチスによる恐怖の時代によって訪れ、クリムトのパトロンであった多くのユダヤ人の家族たちがこの恐怖の時代の犠牲となり国外亡命を余儀なくされていくのです


代表作ガイド≫

「ユディト」出典元:http://www.achome.co.uk/vienna/pictorial_histories/gk07.jpg

制作年:1901

作品インフォメーション:グスタフ・クリムトの傑作『ユディト I(ユーディットとホロフェルネス I)』。本作に描かれるのは旧約外典のユディト記に記された美しい女≪ユディト≫の姿である。本作では英雄的な姿でユディトを描くのではなく、匂い立つような妖艶と官能を全面に押し出し表現いるが大きな特徴である。薄く唇をあけ、白い歯を見せるユディトは恍惚とも怠惰とも解釈できる不可思議な表情を浮かべ、その視線はあたかも観る者を淫靡に挑発しているかのようである。また金色で装飾されたユディトの身に着ける薄透の衣服や、そこから微かに見える右乳房などは、観る者に対して直接的に肌を露出し表現するよりも、よりエロティックな妄想や官能性を掻き立てる効果を生み出している。本作に描かれるユディトのモデルについては、裕福な銀行家兼企業家フェルディナント・バウアーの妻アデーレ・ブロッホ=バウアーと言われており、一部の研究者たちからは一時的に画家と愛人関係にあったとする説も唱えられている(クリムトは後にアデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像画を二点手がけている)。なお画家は数年後(1909年)に、同主題の作品『ユディト II』を制作している。

所蔵先:ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館

「アデーレ・プロッホ/バウアーの肖像Ⅰ」出典元:http://www.achome.co.uk/vienna/pictorial_histories/gk46.jpg

制作年:19071908

作品インフォメーション:クリムトによるブロッホ=バウアーの全身像は二作存在するが、これは最初の作品で、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品である。20066月に156億円でエスティ・ローダー社の当時の社長ロナルド・ローダーに売却され、現在はニューヨークのノイエ・ギャラリーが所蔵している。モデルはアデーレ・ブロッホ=バウアー(18811925年)。ウィーン社交界のセレブであり、クリムトのパトロンであり、クリムトの親友である事情があり絵のタイトルは一度変更されています。オーストリアを併合したナチスドイツがブロッホ=バウアー家から絵画を押収した後、1940年代初頭に作品を展示する際、描かれている女性が著名ユダヤ系一家の女性であることが分からないよう『黄金で包まれた女性』というタイトルに変更されました。この作品は、アデーレの夫フェルナンド・ブロッホ=バウアーの注文で制作されたものですが、フェルナンドは砂糖産業で巨万の富を築いた実業家で、またクリムトの重要パトロンでした。なおクリムトはこの絵の完成に3年を要しており、準備を含めると19034月から制作を始めています。キャンバスサイズは138cm✕138cmで油彩と金箔が使われ、アールヌーヴォー様式で絵全体に豪華で緻密な装飾が施されている作品です

所蔵先:ノイエ・ガレリエ所蔵

「接吻」出典元:http://www.achome.co.uk/vienna/pictorial_histories/gk06.jpg

制作年:19071908

作品インフォメーション:180cm✕180cmの正方形キャンバス上に抱き合う男女が描かれている。二人の身体はアール・ヌーヴォーや初期アーツ・アンド・クラフツ運動で見られた有機的なフォルムと輪郭線が描かれ、装飾的で精巧なローブで包まれ絡み合っている。男性のローブは長方形の模様が、女性のローブには円形の模様が描かれている。クリムトの黄金時代を代表する作品であり、クリムトの最も有名な作品であり、ウィーン分離派、ウィーン・アール・ヌーヴォーの代表的な作品でもある。1908年の総合芸術展「クンストシャウ」(ウィーン)で大好評を博し、展覧会終了と同時にオーストリア政府買い上げました。

所蔵先:ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館

「ダナエ」出典元:http://www2.plala.or.jp/Donna/paint-folda/klimt/danae.jpg

制作年:19071908

作品インフォメーション:「ダナエ」は1907年から1908年にかけてグスタフ・クリムトによって制作した油彩作品でサイズは77cm✕83cm。現在ウィーンのギャラリー・ヴュルトレ所蔵。モデルはクリムト作品でエミーレ・フレーゲに続いてよくモデルにされている赤毛のヒルダ(Red Hilda)”という女性。ダナエはギリシア神話に登場するアルゴスの王女の名前で、1900年前後に多くの芸術家たちの主題として扱われている。ダナエは愛の神の代表的なシンボルとして描かれることが多い素材で、多くの画家が描いています

所蔵先:ギャラリー・ヴュルトレ所蔵


主な作品の制作情報一覧≫

『音楽』1895ノイエ・ピナコテーク蔵

『パラス・アテナ』1898年,ウィーン歴史博物館(ウィーン市立歴史美術館)蔵

ユディトI英語版)』1901ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館

『ベートーヴェン・フリーズ』19011902セセッション館在

『マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像』1905年、ノイエ・ピナコテーク蔵

『生命の樹』19051909ストックレー邸のフリーズ/オーストリア工業美術館蔵

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I1907、ノイエ ガレリエ蔵

  2006年、絵画として当時の最高値の156億円で売却。

  ノイエ・ギャラリーニューヨーク)に展示されている

接吻19071908ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館蔵

ダナエ19071908、ギャラリーヴェルトレ蔵


関連著作物≫

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61Mu6QWynOL.jpg

著作名:「クリムト作品集」

出版年・出版社:2013101日出版・東京美術

著作名:千足伸行

書価:3240円(アマゾン価格)

オンラインショッピング:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%88%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E5%8D%83%E8%B6%B3-%E4%BC%B8%E8%A1%8C/dp/4808709767/ref=pd_sbs_14_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=0QFQ6XV83QJ40TSRMEYD

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41QiJzssYML.jpg

著作名:「グスタフクリムト接吻ポスター」

販売者:アートポスター

ポスターサイズ:355✕280

印刷方法:オフセット印刷

価格:1650(アマゾン価格)

オンラインショッピング:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95-%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%88-%E6%8E%A5%E5%90%BB-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/B005LAAYGO

≪参考サイト一覧≫

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%88

参考サイト:https://www.ggccaatt.net/gustav-klimt/

参考サイト:http://www.achome.co.uk/vienna/index.php?page=pictorial_histories&subpage=klimt

参考サイト:http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/klimt.html

参考サイト:http://www.mmm-ginza.org/special/201505/special01-03.html

参考サイト:https://sites.google.com/site/cercreligiousculture/world-religions/christianity/catholic/vienna/vienna8

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