本所深川界隈巡り


本所深川界隈巡り

門前仲町あたりを起点に、本所・深川界隈をご案内します。「本所深川界隈巡り」です。周辺の「神社仏閣」「史跡」「グルメ」情報です。「深川不動堂」「富岡八幡宮」「伊能忠敬宅跡」「四世鶴屋南北宅跡」「渋沢栄一宅跡」「佐久間象山砲術塾跡」「採茶庵跡」「小津安二郎生誕の地」「明治丸」「旧弾正橋」「深川宿本店」「屋形船釣新」「甘納豆平野屋」「レストラン吾妻」「カフェ東亜サプライ」。

「成田山深川不動堂」

出典元:http://www.gotokyo.org/jp/kanko/koto/spot/images/01_754.jpg

出典元:http://www.gotokyo.org/jp/kanko/koto/spot/images/03_754.jpg

公式サイト:http://www.fukagawafudou.gr.jp/

参考サイト:http://www.gotokyo.org/jp/kanko/koto/spot/1908.html

インフォメーション:以下参照

1703年開創の成田山新勝寺の別院。2011年に新本堂が完成、梵字に囲まれ、祈りの空間を具現化しています。また内仏殿には、四国霊場巡拝所・宝蔵大日堂があり、無料で自由に参拝可能です。毎日9時、11時、13時、15時、17時には、真言密教の秘法である護摩修行が厳修され、参拝者の祈願の成就を祈祷しています。

所在地:135-0047 東京都江東区富岡11713

問合せ:0336418288

参拝時間:8001800

関連料金:自由参拝


「富岡八幡宮」

出典元:http://www.tomiokahachimangu.or.jp/gyoji/pics/top20170829.jpg

出典元:http://www.fukagawa-kanko.com/images/midokoro/hachiman/hachiman2.jpg

公式サイト:http://www.tomiokahachimangu.or.jp/

参考サイト:http://www.fukagawa-kanko.com/midokoro/hachiman.htm

インフォメーション:以下参照

富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。また、庶民の信仰は江戸の昔から大きな歴史の変転を経て現代に至まで変わることなく篤く受け継がれ、今も善男善女の参拝は絶えず、特に毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として大変な賑わいを見せています。境内には「深川力持碑」「木場の角乗り碑」をはじめ「横綱力士碑」「力持碑」など、深川にまつわる多くの石碑等があり、昔をしのばせます。

所在地:135-0047 東京都江東区富岡1丁目203

問合せ:0336421315

参拝時間:自由参拝

関連料金:自由参拝


「伊能忠敬宅跡」

出典元:http://koto-kanko.jp/img_data/S00041_photo.jpg

公式サイト:http://koto-kanko.jp/theme/detail_spot.php?id=S00041

スポットガイド:以下参照

日本で初めて科学的測量による日本地図を作成した伊能忠敬は、寛政71795)から文化11年(1814)まで当地に居を構え、ここを測量の原点としました。測量の際には富岡八幡宮にお参りをして旅立ちました。このことにちなみ、平成13年(2001)に富岡八幡宮境内に伊能忠敬像が建立されました。

跡地所在地:東京都江東区門前仲町1183

「伊能忠敬銅像」出典元:http://www.tomiokahachimangu.or.jp/pictureNew/inoTadataka.jpg

伊能忠敬インフォメーション:以下参照

近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと50歳の時に江戸にでて、富岡八幡宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。約200年前の寛政二年閏4月19日(陽暦では1800年6月1日)の早朝に富岡八幡宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿などの測量開始地点に向かって歩き出しました。富岡八幡宮は伊納測量にとって大変縁の深い場所であります。伊能忠敬像は伊納測量開始200年にあたり「伊納ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。

参考サイト:http://www.fukagawa-kanko.com/midokoro/inou.htm

参考サイト:http://www.tomiokahachimangu.or.jp/htmls/inoTadatak.html

銅像所在地:東京都江東区富岡1203

問合せ:0334621315


「四世鶴屋南北宅跡」

出典元:http://koto-kanko.jp/img_data/S00107_photo.jpg

公式サイト:http://koto-kanko.jp/theme/detail_spot.php?id=S00107

スポットガイド:以下参照

江戸時代の代表的な歌舞伎作者である四世鶴屋南北は、宝暦5年(1755)に日本橋で生まれ、一時亀戸に住んだこともありますが、晩年は黒船稲荷神社境内に住み、『東海道四谷怪談』をはじめとする名作を生み出しました。文政12年(182911月に当地で75歳の一生を終え、春慶寺(墨田区業平2)に葬られました。

所在地:東京都江東区牡丹1-12-9(黒船稲荷神社)

関連料金:自由散策

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Nanboku_Tsutaya_IV.jpg/185px-Nanboku_Tsutaya_IV.jpg

四世鶴屋南北インフォメーション:
江戸時代の歌舞伎作者で、4世は大南北とも称します。父は紺屋職人。道化方の俳優3世南北の娘をめとり,天明2 (1782) 年、勝俵蔵を名のりました。桜田治助の門に学び,長い下積み生活を経て,享和1 (1801) 年立作者となります。この間,金井三笑に師事したともいわれ1世尾上松助のために書いた『天竺徳兵衛韓噺』 (04) が出世作となり,文化8 (11) 4世南北を襲名。以後 25年間に5世松本幸四郎,5世岩井半四郎,3世尾上菊五郎のため 120編の作品を書きました。化政期の頽廃的世相をとらえ,怪談狂言を中心として残忍,卑猥,滑稽を織り交ぜた迫力と現実感のある作風を信条としました。。代表作『東海道四谷怪談』『於染久松色読販 (おそめひさまつうきなのよみうり) 』など。

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B1%8B%E5%8D%97%E5%8C%97_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)


「渋沢栄一宅跡」

出典元:https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-related-place/images/406538.jpg

出典元:https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-related-place/images/406540.jpg

参考サイト:https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-related-place/fukagawa-residence.html

スポットガイド:以下参照

渋沢栄一が、明治9年(187636歳のときから12年間住んだ屋敷があった場所です。同21年に兜町に本邸を移した後も、別邸として利用していましたが、同30年には、ここに澁澤倉庫部(現在の澁澤倉庫株式会社)を創業しました。現在は、同社の本店とオフィスビルである澁澤シティプレイス永代が建っています。

所在地:135-0034 東京都江東区永代2丁目37

関連料金:自由散策

「渋沢栄一」出典元:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/image/eiichi_img.gif

渋沢栄一インフォメーション:以下参照

渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。渋沢栄一は明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。

参考サイト:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html


「佐久間象山砲術塾跡」

出典元:http://koto-kanko.jp/img_data/S00100_photo.jpg

公式サイト:http://koto-kanko.jp/theme/detail_spot.php?id=S00100

スポットガイド:以下参照

この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信州松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。嘉永3年(18507月から12月までこの地で砲術を教え、のちに江戸木挽町に兵法や砲術を教える私塾を開いています。象山は、吉田松陰や坂本龍馬、勝海舟など、多くの有能な門下生を教授しました。

所在地:135-0034 東京都江東区永代1丁目152

関連料金:自由散策

出典元:http://www.ndl.go.jp/portrait/260_260/427-53/002/0043_r.jpg

佐久間象山インフォメーション:以下参照

象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(18401842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。嘉永3年(18507月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(185012月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、711日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。

参考サイト:http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/91.html


「採茶庵跡」

出典元:http://koto-kanko.jp/image/spot/0093_01.jpg

参考サイト:http://koto-kanko.jp/theme/detail/114

スポットガイド:以下参照

採茶庵は芭蕉の弟子、杉山杉風(さんぷう)の別宅でした。芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた芭蕉庵(隅田川と小名木川の合流地点の岸辺にあった)を手放し、門人の別宅に厄介になったのです。芭蕉は元禄2年 (1689年)、この採茶庵から「おくの細道」の旅に出発します。仙台堀(現在の仙台堀川)から船に乗り、隅田川をさかのぼって千住へ出たのです。

所在地:東京都江東区深川1112

関連料金:自由散策

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ca/Basho_by_Morikawa_Kyoriku_%281656-1715%29.jpg/230px-Basho_by_Morikawa_Kyoriku_%281656-1715%29.jpg

松尾芭蕉インフォメーション:以下参照

松尾芭蕉は、俳句の元である「俳諧」を、芸術として完成させた江戸時代前期の人物です。名前の「芭蕉」というのは、彼が1680年頃に名乗った俳句を作る人が名乗る「俳号」であり、本名は松尾宗房(むねふさ)と言いました。芭蕉は、伊賀国(現在の三重県)の農民として生まれ、10代後半の頃から、当時でも有名だった俳人である北村季吟の下で俳諧の勉強を始めました。その後、江戸で武士や商人に俳句を教えるかたわら、数々の作品を発表していきます。中でも「古池や蛙飛びこむ水の音」という蛙に関する俳句は、芭蕉の俳句の中で最も有名な作品として知られています。また松尾芭蕉と言えば「奥の細道」という紀行文も有名です。「奥の細道」には、弟子の河合曾良とともに日本各地を訪れた中で生まれた、多くの作品がおさめられています。

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89


「小津安二郎生誕の地」

出典元:http://www.city.koto.lg.jp/103010/bunkasports/kanko/spot/images/24597_pt-ozu.jpg

公式サイト:http://www.city.koto.lg.jp/103010/bunkasports/kanko/spot/5445.html

スポットガイド:以下参照

看板が立っているのは、門前仲町の交差点を北上し、清澄通りをしばらくいったあたり。生家は肥料問屋で、伊勢商人として手広く商売をしていた名家・「小津三家」の一族だと言います。近くの「古石場文化センター」内部に「小津安二郎コーナー」があり、彼の足跡や様々なエピソードが紹介されています。特に目を引くのは、とかくに噂があり、ともに生涯独身をつらぬいた女優・原節子に関する展示です。後年、北鎌倉に住んでいたので、お墓は円覚寺にありますが、質素な墓で、墓石にはただ一字「無」と刻んであります。

所在地:東京都江東区深川188

関連料金:自由散策

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/85/Yasujiro_Ozu_01.jpg/250px-Yasujiro_Ozu_01.jpg

小津安二郎インフォメーション:以下参照

江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治36年(19031212日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が10歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を1年間勤めた後、大正12年(1923)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。昭和2年(1927)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。昭和37年(1962)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和38年(196360歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E

≪次ページパート2.≫もご覧ください

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