連鎖する表現の妙「伊八からゴッホまで」


連鎖する表現の妙「伊八からゴッホまで」

宮大工の技を持つ伊八の彫刻から始まり、絵師・葛飾北斎、画家・ゴッホ、音楽家・ドビュッシーをもインスパイアーしていく表現の連鎖が存在します。その軌跡を辿ってみます。

1「宮大工の技の歴史」

「飛鳥寺」出典元:http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukadera.jpg

金剛組公式サイト:http://www.kongogumi.co.jp/

飛鳥寺公式サイト:http://www.asuka-tobira.com/asukakyo/asukadera.htm

参考サイト:https://matome.naver.jp/odai/2142745515710794601

インフォメーション:宮大工とは寺や神社、おみこしなど、日本古来の木造建築を手がける大工の事で日本の宮大工の歴史は飛鳥時代に朝鮮から来た慧滋〔えじ〕と慧聡〔えそう〕という僧侶が飛鳥寺を建てた事に始まります。日本の宮大工の歴史を紐解くとき忘れてならないのが、西暦578年創業の世界最古の建設会社株式会社金剛組す。この会社は聖徳太子が大阪四天王寺を建立するため、百済から招かれた宮大工の人の内の一人、金剛重光が西暦578年、飛鳥時代に創業し、以来1400年以上に渡り、日本の寺社仏閣建築の設計・施工、城郭や文化財建造物の復元や修理等を主に手がけて来ました。1400年に渡り伝承されてきた宮大工の「匠の技」は、200300年後まで持ち続ける日本の木造建築の技術でもあります。宮大工たちは、千年後を想定して、今自分が持っている技術、技法を惜しげもなく使い、後世の匠に技を伝え、また、自身も先人や古匠の技を習い見て、技術の向上に向けて切磋琢磨を一日たりとも怠らず、丁重な仕事を積み重ねてきました。そして宮大工の高い技術力が無ければ、日本の伝統工法を後世に残すことはできず、現在、世界に誇る神社仏閣や歴史的木造建造物を拝観できるのは、古い時代の宮大工が「匠の技」を伝承してきたからといえます。

因みに、そんな世界最古とされる「宮大工の会社」に経営危機が訪れたのが2005年。カネ儲けとは縁遠い職人気質の職人集団で、ソロバン勘定が苦手だったところに、バブル期にマンションなどの一般建築に手を広げたことが致命傷となり負債が増大。また神社仏閣にもコンクリート建築が増加したことにより、大手ゼネコンとの価格競争に巻き込まれた結果、売上の減少や資金繰りの悪化により、経営危機に見舞われ、ついには自己破産申請をせざる得ない状況に陥ってしまいました


2「欄間彫刻」

出典元:http://www.kanagawa-kankou.or.jp/miyabori/img/kyuryu/aySuwa1.jpg

参考サイト:http://www.kanagawa-kankou.or.jp/miyabori/about.php

インフォメーション:日本全国に建立されている寺社の建築物に精巧に施された彫刻宮彫り(MIYABORI)と呼ばれ、日本独自の芸術、文化財としての認知が拡大しています。宮彫りは桃山時代から江戸・幕末にかけて建築物に多用され、伊達政宗は都の文化として彫刻大工や宮大工を藩内に呼び寄せ、宮城県瑞厳本堂(国宝)を建築しているほか、豊臣秀吉や徳川家康も彫刻を建築物に用いたことで知られています。特に民衆の宗教的演出効果を狙った経典の場面や極楽浄土の景色などを欄間などに彫刻し、金箔や彩色を施し、堂内を荘厳にし、それを結実させたのが、栃木県・日光東照宮の名工・左甚五郎の眠り猫を代表作とした宮彫りです。文化庁が実施した「近世社寺緊急調査」(昭和40年代)の結果、全国の社寺の彫刻には、海外から“日本のミケランジェロ”と称賛される彫物大工「石川雲蝶」や葛飾北斎の木版画『神奈川沖浪裏』(かながわおきなみうら)に影響を与えたという彫物大工「武石伊八郎(波の伊八)」、全国に作品を遺している安房の国(現在の千葉県)の名工「後藤利兵衛義光」とその一派など、各地に多くの彫刻大工が存在していたことが分かりました。宮彫り(MIYABORI)の芸術性は日本国内より海外から大変、注目を浴びています。


3「波の伊八」

出典元:http://www.chibpo.com/spot/kyounin05.jpg

参考サイト:http://www.kamonavi.jp/ja/ihachi/about.html

参考サイト:http://www.chibpo.com/spot148.html

プロフィール:稀代の彫工・武志伊八(武志伊八郎信由)は宝暦21752)に、安房国長狭郡下打墨村(現在の鴨川市西条地区打墨)で生まれました。彼は寺社の建築を飾るために、実に様々なものを彫っていますが、現代人の目から見ると、特に波の表現が優れているとの高い評価を受けていることから、現在では「波の伊八」と呼ばれています
伊八の名前は初代から五代まで約200年に渡って、昭和29年まで受け継がれました。初代伊八が生まれ育った時期は、この地域でも寺社の建築を彫刻で飾ろうとという気運が高まった時代に当たり、そうした時代背景の中、伊八は長狭郡では最初の彫物大工(建築彫刻専門の職工)としての人生を歩み始めます。伊八は上総植野村の嶋村貞亮(市東半平)の弟子として腕を磨、房総南部をホームグラウンドにして、この地域の人々の求めに応じながら、自分自身の裁量で自由に鑿を振るったおおらかな技を磨きます。また年代とともに変化してゆく様式からは、しなやかな柔軟性感じられます。その風通しのよさと自由さは、当時の文化の中心である江戸から一定の距離を置いた、微妙な隔たりを持つ安房の国に身を置いていたからこそ、身についたものです

現在確認されている限り、伊八が師匠筋に当たる「嶋村」姓を名乗ったのは、23歳の時の一回きりでその外は自らの姓に基づく「武士」「武志」を名乗っています。伊八は、鴨川に生まれ、生涯この地に住みながら、彫物大工を一生の生業として、数々の名作を遺しました。これらの仕事は、彼が自作に記す「房州/安房國長狭郡=江戸期の鴨川」が生み出した、文化の中心である江戸に匹敵する、あるいは江戸をも凌駕する地方文化の一つの頂点と言っても過言ではありません

 

≪代表作品:以下参照≫

①「波に宝珠」

出典元:http://www.gyoganji.or.jp/ihachi.jpg

行元寺公式サイト:http://www.gyoganji.or.jp/

インフォメーション:行元寺の欄間彫刻から「波を彫らせては天下一」と言われ『波の伊八』の異名で知られるようになりました。そこには写実的・陰影法・遠近法といった近代手法が駆使されていて、波がまさに崩れんとするその一瞬を見事に表現しています。

作品所在地:「行元寺」298-0131千葉県いすみ市荻原2136

②「波に龍」

出典元:http://www.ryuss2.pvsa.mmrs.jp/ryu-iware/ihachi/chofukuji-32w-DSC_3580.JPG

長福寺公式サイト:http://www.suzurisan.jp/index.php

参考サイト:http://www.ryuss2.pvsa.mmrs.jp/ryu-iware/ihachi/chofukuji.htm

インフォメーション:「関東に行ったら波を彫るな」とまで言わせた「初代武志伊八郎信由」(17511824)の原点の彫り物が長福寺本堂欄間を飾っています。1789年の制作で、中央に「波に龍」、左右に「雲に麒麟」を配した三面です。海面に姿を現し、前足で宝珠を掴み昇天の機を窺う龍の尾は板面を大きく飛び出し、師匠から独立した伊八の心意気そのもののように見えます。また須祢壇の彫り物「波に蓑亀」。この作品になると、伊八独特の「波頭」が現れて来ます。制作年代は明らかではありませんが、平行波と同じ板面にあるのは面白いものです。

作品所在地:「硯山長福寺」298-0017千葉県いすみ市下布施757

 

 

③「竜虎の図」

出典元:http://www.kamonavi.jp/ja/app/upload/09_member_db/SPKM0033-upfile_2.jpg

参考サイト:http://www.kamonavi.jp/ja/shisetsu/SPKM0033.html

インフォメーション:にらみ合い、まさに今飛び掛かろうとしている竜と虎。初代伊八29歳の頃の作品で、現在確認されている伊八作品唯一の竜虎の図です。

作品所在地:「薬王院」千葉県 鴨川市粟斗179-1


4「葛飾北斎の晩年」

インフォメーション:以下参照

①北斎の晩年の活動

「北斎天井絵・男浪」出典元:https://www.nichibun-g.co.jp/wp-content/uploads2/kbi_art_no020_01.jpg

参考サイト:https://www.nichibun-g.co.jp/column/education/k-bi-museum/k-bi-museum020/

インフォメーション:世界一有名な日本の江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎の生涯は数奇なものです。北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかも全てが北斎の情念のこもった一流の作品となっています。長寿であった為、引越し記録93回などビックリするようなエピソードも多数。引越し魔の北斎は一日に三回も転居したことがあったと言います。また名前の変更も30回に及びます。北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』です。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったものです。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているようです。そしてその中でも世界的に有名な作品が「神奈川沖浪裏」です。この表現の主たる要素が「富士」と「波」と評されています。実は文献によると北斎は文化3年(1806年)に木更津を訪れ、外房の飯縄寺に来た折、当時評判だった行元寺の波の欄間を見たことが推察されます。波を横からとらえる伊八のダイナミックな構図は北斎の表現世界に深くかかわったとしか思えません。尚、北斎の晩年の作品には「神奈川沖浪裏」以外にも荒れ狂うような「浪」表現は数多く存在します。冒頭の作品は小布施の祭屋台にある天井絵です。

 

 

②晩年の代表的な作品「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg/320px-The_Great_Wave_off_Kanagawa.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E6%B2%96%E6%B5%AA%E8%A3%8F

インフォメーション:『富嶽三十六景』は葛飾北斎の作成した代表的な風景画浮世絵「富嶽」は富士山を指し、各地から望む富士山の景観を描いた連作であり19世紀西欧の芸術家に影響を与えたことでも世界的に知られます。その中でも巨大な波と舟の中に富士を描いた「神奈川沖浪裏」、赤富士を描いた「凱風快晴」などが代表的な作品として知られています。そしてこの「神奈川沖浪裏」、実は宮堀師「波の伊八」の欄間(1809年作)の一部をコピーしたものだったと言う説が存在します。文化六年、上総一ノ宮の行元寺では庫裏の建築が始まっており、そこの欄間の彫りを依頼されて呼ばれたのが伊八で、彼が欄間に残した作品が「波に宝珠」(上記①参照)という欄間です。この欄間を制作するにあたり伊八は毎日馬に跨り、海に入ってサイドから見た波をスケッチしていたと言われています。そして、当寺の記録によると伊八がこの欄間を彫ったあとに北斎がこの地を訪れたという文献が残っているそうです。そして1867年パリで開催された第二回万国博覧会に日本が初参加した際に出品された中、葛飾北斎のこの絵は、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンらフランス印象派の画家たちに鮮烈なインパクトを与えて行くことになります。


5「ジャポニスム」

「クロード・モネ/ラ・ジャポネーズ」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/Claude_Monet-Madame_Monet_en_costume_japonais.jpg/200px-Claude_Monet-Madame_Monet_en_costume_japonais.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A0

インフォメーション:「ジャポニスム」と言うムーブメントは、1850年代にパリのブラックモン(F. Braquemond)が陶磁器の詰め物に使われていた北斎漫画を目にしたことが始まりと言われていますが、日本と西洋文明が出会った19世紀後半の万博もその舞台となったと言えます。そもそも日本国内で木版の精巧な多色刷りの浮世絵の錦絵が開発されたのが1765年と言われており、海外への輸出はずっと後で、最初に浮世絵を輸出したのは、長崎のオランダ商館長イサーク・ティツィングです。その後はオランダ商館医師として来日したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが北斎をヨーロッパに持ち帰ったとされています明治政府がはじめて正式に参加した万博は、1873年のウィーン万博でした。日本を全世界にアピールしなければならないという使命はこれまでの万博よりも強く、出品選定は、当時オーストリアの公使館員であるシーボルト(H. Siebold)により推薦された、ドイツ人のワグネル(G. Wagener)の指導によるものでした。ワグネルは日本では近代工業が未発達であるため、西洋の模倣でしかない機械製品よりも、日本的で精巧な美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断し、日本全国から優れた工芸品を買い上げ、シーボルトは東洋のエキゾチシズムをアピールするには、人目を引く大きなものが良いと勧めたのでした。彼等の目論見どおり、神社と日本庭園は大評判となり、展示物も飛ぶように売れ、ウィーンでのジャポニスムはその後、1890年代の分離派、クリムト(G. Klimt)の日本文様を意識した絵画などに受け継がれて行きます。1878年の第3回パリ万博では、日本の田舎屋再現が好評を得ますが、この万博で起立工商会社の通訳を務めた林忠正は、後に美術商としてパリのジャポニスムの立役者となっていきます。

「マネ/エミール・ゾラの肖像」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Edouard_Manet_049.jpg/200px-Edouard_Manet_049.jpg

このような経緯を経て葛飾北斎や喜多川歌麿を含む日本の画家の作品が絶大な影響をヨーロッパに与えて行く一方、日本では文明開化が起こり、浮世絵などの出版物は急速に衰えていきますが、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受けました。日本美術から影響を受けたアーティストにはピエール・ボナール、マネ、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック、メアリー・カサット、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、クロード・モネ、ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、グスタフ・クリムトなどが挙げられます。


6「ゴッホ作タンギー爺さん」

「タンギー爺さん」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Van_Gogh_-_Portrait_of_Pere_Tanguy_1887-8.JPG/200px-Van_Gogh_-_Portrait_of_Pere_Tanguy_1887-8.JPG

「花魁」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/af/Van_Gogh_-_la_courtisane.jpg/150px-Van_Gogh_-_la_courtisane.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A0

インフォメーション:ゴッホのいくつかの作品は浮世絵のスタイルを模倣したり、それ自体をモチーフにしたりしています。たとえば『タンギー爺さん』(あるアートショップのオーナー)の肖像画には、背景に6つの浮世絵が描かれていますが、その中の一つに明らかに北斎の「神奈川沖浪裏」をモチーフにした描写が描かれています。また彼は1886渓斎英泉の浮世絵をパリの雑誌『パリ・イリュストレ』(Paris Illustré)で見つけた後、1887に『花魁』を描いていおり、ゴッホはこの時すでにアントウェルペンで浮世絵版画を収集していたとも言われていますゴッホの浮世絵は線で構成されており、何も無い空間と図柄のある部分に輪郭線がくっきりと分かれ、立体感はほとんど無く、これらの特徴はその後のアール・ヌーボーに影響を与え直線と曲線による表現方法は、現在の世界中の分野の絵画、グラフィックで当たり前のように見ることができます。これらの浮世絵から取り入れられた形状と色彩構成は、現代アートにおける抽象表現の成立要素のひとつと考えられジャポニスムという活動によって、その後の家具衣料から宝石に到るまであらゆる工芸品のグラフィックデザインに、日本的な要素が取り入れられるようになっていきます

 

 

≪告知案内≫

以上のような、表現連鎖の妙を見届ける楽しみな展覧会が、現在開催されています。

HOKUSAIが西洋に与えた衝撃/北斎とジャポニスム」展。

20171021日~2018128日開催。

東京・上野公園/国立西洋美術館

詳細は以下の公式サイトをご参照ください。

公式ホームページ:http://hokusai-japonisme.jp/index.html

ads by google

あなたへおすすめの記事
⇒ 黒しょうが入り[おいしく飲める黒しょうが茶]30包
⇒ 山梨紀行・お洒落なホテル&旅館
⇒ 軽井沢リゾートの極致
⇒  野菜を楽しむ健康サイト6選
⇒ 【PR】カンタン、ふるさと納税
ads by google


スポンサードリンク

ads by A8