数奇な美術資産「石橋財団コレクション」

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数奇な美術資産「石橋財団コレクション」

日本を代表する美術コレクションの軌跡をご紹介します。数奇な美術資産「石橋財団コレクション」です。

参考サイト:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/about/founder/

参考サイト:http://www.ishibashi-foundation.or.jp/founder/collection.html

参考サイト:http://www.asahi.com/edu/university/otakara/TKY200801170186.html

「石橋正二郎

生年:1889明治22年)21

没年:1976昭和51年)911

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出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/about/founder/img/img_founder.jpg

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出典元:http://www.ishibashi-foundation.or.jp/founder/img/bsn-img02.jpg

企業家。現在の福岡県久留米市に父・石橋徳次郎、母・マツ夫妻の二男として誕生。家業は着物襦袢を縫う仕立屋でした。久留米商業学校卒業後、兄徳次郎とともに仕立物の家業を継ぎ、足袋専業化を行い「アサヒ足袋」の均一価格販売などにより家業を伸ばし、1918年「日本足袋株式会社」を設立した。23年、新案の貼付式ゴム底足袋を「アサヒ地下足袋」の名称で製造販売し爆発的人気を博しました。地下足袋、布製ゴム靴の大量製造販売で稼いだ巨資を投じて自動車用タイヤの国産化に着手し、1931年ブリヂストンタイヤを創業。第二次世界大戦後、日本ゴム(旧日本足袋)を兄に譲り、ブリヂストンタイヤの経営に専念。アメリカ・グッドイヤー社との技術提携、またモータリゼーションを見越した積極的な設備投資策により、同社をタイヤ業界の首位につかせました。美術品収集でも名高く、東京本社ビルにブリヂストン美術館を設立。56年には美術館を含む石橋文化センター(久留米市)を、69年には国立近代美術館(東京)などの寄付をしました。1976(昭和51年)911、満87歳にて没しました。

 

 

「美術品収集の経緯/その一」

石橋正二郎が本格的に絵画収集を始めるきっかけとなったのは、正二郎の高等小学校時代の図画教師だった洋画家・坂本繁二郎との再会でした。若くして夭折した同郷の画家・青木繁の作品の散逸を惜しんだ坂本は、正二郎に青木の作品を集めて美術館をつくってほしいと語ったといいます。その言葉に感じ入った正二郎は、青木を中心として日本近代洋画の収集を始め、およそ10年間で《海の幸》など青木の代表作を購入、コレクションを形成していきました。

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「青木繁《海の幸》石橋財団石橋美術館所蔵」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/about/founder/img/img_aoki.jpg

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「石橋美術館において青木繁《自画像》の前に立つ坂本繁二郎(中央)」出典元: http://www.ishibashi-foundation.or.jp/founder/img/cll-img01.jpg

 

 

「青木繁について」

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「自画像・東京芸大所蔵」出典元:http://www.asahi.com/edu/university/otakara/images/TKY200801170184.jpg

明治後期の浪漫主義思潮を代表する夭折の天才的油彩画家。明治15713日福岡県久留米生まれ。父は旧有馬藩士で明治維新の際は勤皇党。高等小学校の同級が坂本繁二郎で久留米中学明善校時代は、級友と文芸雑誌を出すほか、坂本とともに森三美(みよし)について洋画を始めました。やがて画家を志して中学を退校し、上京して小山正太郎の不同舎に入門しますが、翌1900年(明治33)東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に外光派の画法を学ぶほか、広く哲学、宗教、神話、文学に熱中します。その成果は『黄泉比良坂(よもつひらさか)』『闍威弥尼(じゃいみに)』などの水彩画となり、1903年白馬会第8回展に出品して第1回白馬会賞を受賞。1904年美術学校を卒業、同級生に熊谷守一、山下新太郎らがいました。

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「海景(布良の海)石橋財団所蔵」出典元:http://www.cinra.net/column/aokishigeru/images/art3.jpg

この年の夏、房州で印象派的な『海景』連作ならびに代表作『海の幸』(重要文化財)を制作し、後者は白馬会に出品されて一躍名声をあげ、詩人蒲原有明を感激させ、親交の機縁となります。翌年福田たねとの間に一子幸彦(福田蘭童)が生まれています。青木はラファエル前派、ギュスタブ・モロー、シャバンヌなども独自に吸収し、明治30年代後半、時代の上昇機運と芸術思潮を背景として、黒田系外光派を超えた香り高い浪漫的美術を開花させて注目されます。1907年東京府勧業博覧会で『わだつみのいろこの宮』(重要文化財)により三等賞を受けたのち、家の事情で帰郷して数年間九州各地を放浪、制作し、明治44325日、窮乏のうちに28歳の生涯を閉じています。

「美術品収集の経緯/その二」

青木、坂本に加え、正二郎のコレクションの中で重要な位置をしめる画家が藤島武二です。個展で作品を気に入り購入した正二郎は、藤島と親しく交友し画家が保管していたイタリア時代の作品15点を一括して譲り受けています。当初から美術館の創設を考えていた正二郎に、老画家から愛蔵品が託されたのでした。

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「《黒扇》を囲む石橋幹一郎、石橋正二郎、藤島武二、岩佐新(右から)」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/about/founder/img/img_portrait.jpg

石橋正二郎は「青木や藤島などの洋画家たちの作品と、彼らがお手本としたフランスの画家たちの作品を一緒に並べたら光彩を放つだろう」と感じ、第二次大戦後の社会の変動期に売りに出された、戦前来の西洋美術から精力的に購入を行います。「明るい絵が好き」で、とりわけ印象派を好み、自身の審美眼を活かして質の高い作品を収集していきました。同時に、復興期に優れた美術品の海外流出をくい止める役を果たすことにもなりました。セザンヌの《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》は、原三渓の子息・善一郎が、白樺派が建設を夢見た「白樺美術館」のために戦前のパリで購入した作品です。

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「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/about/founder/img/img_sezanne.jpg

このように正二郎は国内にある西洋絵画を収集し、印象派をはじめ19世紀から20世紀初頭のフランス絵画を中心に、各画家の代表作を含む良質のコレクションをつくりあげたのでした。1950(昭和25)初渡米した際、ニューヨーク都心のビルにあったニューヨーク近代美術館に強い感銘を受けた正二郎は東京・京橋に建設中の本社ビル2階を急きょ美術館として使用し自らのコレクションを一般公開することを決意します。こうして19521月(昭和27)ブリヂストン美術館は開館しました。

 

 

「ブリジストン美術館」

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「ブリヂストン美術館開館時のブリヂストンビル」 出典元:http://www.ishibashi-foundation.or.jp/founder/img/bma-img01.jpg

戦前から戦後にかけて西洋絵画と日本洋画の一大コレクションを形成した石橋正二郎は比較的早い時期から美術館創設の意思を抱いていました。その思いは石橋財団の美術館事業開始という形に結実し、1952年のブリヂストン美術館開館へと繋がります。創設者 石橋正二郎は「コレクションを自分一人だけで愛蔵するよりも、多くの人に見せるため美術館を作り、文化の進歩に尽したい」という考えから、1952年、東京・京橋のブリヂストンビル2階をブリヂストン美術館として一般に公開しました。また1956年の石橋財団の創設は、美術館を永久の事業として育成発展していくことが目的のひとつでした。さらに開館後、ブリヂストン美術館は石橋コレクションの常設展示や特別展示だけでなく、専門家・著名人による美術講座や、記録映画の制作、レコードコンサート、演奏会など、美術・芸術を基軸とする幅広い企画を展開しました。こうした活動は少しずつ内容を変えながらも、現在のブリヂストン美術館の活動に受け継がれています。 また正二郎は1956年、故郷久留米市に石橋文化センターを寄贈した際、その中核施設として石橋美術館を開館しています。その運営は、19774月から久留米市の要請を受けた石橋財団が38年間にわたり担ってきましたが、石橋文化センター開園60周年を機に、201610月より久留米市に引き継がれ、名称も久留米市美術館と改めて再スタートしました。

 

 

「所蔵コレクション」

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「差益祐三《テラスの広告》」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_03/img/img_taisho04.jpg

インフォメーション:佐伯のアトリエからほど近い、パリ14区にあったカフェを描いた作品です。画面右上の「UZO SAHEKI/ A PARIS/ NOV 27/ HOTEL DU MARCHE」という文字から、佐伯がこの作品を2度目のフランス滞在時期である1927年の11月に制作したことがわかります。この時期は踊るようなすばやい筆致で文字を描き込んだ作品が多く見られ、日本の書の影響を指摘する研究者もいます。これらの文字は作品全体のなかで装飾的に再構成されていて、画面に動きを与える要素として重要な役割を果たしているともいえるでしょう。また、ポスターやテーブルなどの鮮やかな色彩が輪郭線から勢いよくはみ出して、明るくリズミカルな印象を与えています。

 

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「藤田嗣治《猫のいる静物》」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_03/img/img_showa01.jpg

インフォメーション:藤田が1939年に3度目のパリ訪問をした時に制作されました。パリ陥落直前に再び日本へ帰国するまでの、短いパリ滞在期間に描かれたものです。テーブルの上にのった様々な食材は戦争のない豊かな時代を懐古しているようにも感じられますが、それらの宗教的な意味合いや、西洋の伝統的な静物画の影響が指摘されることもあります。しかし飛び立つ鳥や、獲物を狙う猫は日本画風の描き方がなされ、また黒い背景はバロック的な光と闇を表すというよりは、画面の平面性を強調する役割を果たしていると言えるでしょう。日本人による油彩画としての、藤田なりのひとつの結論を見てとることもできます。

 

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「藤島武二《黒扇》重要文化財」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_03/img/img_meiji01.jpg

インフォメーション:イタリア滞在中にモデルを用いて描いた女性像です。藤島がこの作品を最晩年まで手放さずにアトリエに置いていたことは、イタリアの思い出と結びついて、この作品に強い愛着があったことの表れでしょう。頭を覆う白いベールや黒い扇は、スペイン趣味の影響と考えられます。ベールと扇の筆捌きは、スピード感と力強さが溢れているのに、鼻梁や頰など、顔の表現は清澄な柔らかさをたたえています。影に透明感のある青を用い、左頰のハイライトも明るいピンク色です。引き締まった唇の赤、二つの瞳の青もとても印象的です。全体では色数を抑えているのに、ところどころわずかに配された明るい色彩が、この作品の魅力を高めています。

 

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黒田清輝《針仕事》」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_03/img/img_meiji02.jpg

インフォメーション:黒田清輝がフランス留学中の1890年に、グレーという小さな農村で描いたもので、モデルはこの村で食肉店を営んでいた農家の娘でマリア・ビヨーといいます。黒田はその後1893年に帰国するまでの間、グレーでマリアをモデルとした数々の作品を制作しました。この絵を描いたとき、黒田は23歳、マリアは19歳でした。明治期の留学生黒田が、背が自分よりも頭ひとつ高いこの異国の少女にどのような感情をいだいていたかは、生涯誰にも語ることはありませんでした。しかし、当時ド・ラマルティーヌの恋愛小説を愛読していたという黒田の青春の思い出が、グレーの地でこの少女との間にあったものと思われます。

 

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「パブロ・ピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_01/img/img_post05.jpg

インフォメーション:ピカソの「新古典主義の時代」を代表する作品のひとつです。サルタンバンクは最下層の芸人のこと。定住して演技場に出ることはなく、縁日などを渡り歩き、即興の芸を見せます。曲芸などを専門とする職業的芸人の失敗者という意味もあります。サルタンバンクを描いたこの作品は、社会の周辺にいる人たちへのピカソの共感から生み出されたというよりも、むしろ芸術家自身の肖像かもしれません。ギリシア彫刻のような顔立ちは、そのことを暗示しています。画面の左側に人の顔のような線が見えます。さらに、科学的な調査によると、サルタンバンクに寄り添うように女性の姿が描かれていたようです。この作品の旧蔵者のひとりはピアニストのホロヴィッツです。

 

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「オーギュスト・ロダン《考える人》」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_01/img/img_modern01.jpg

インフォメーション:ロダンの代表作であるばかりでなく、近代彫刻の中でもひときわ有名な《考える人》も、《地獄の門》の構想から生まれました。《地獄の門》のテュンパヌム(扉上部の半円形の空間)の中央に位置する人物像から独立して制作された作品です。この門の全体の構想はダンテの『神曲』の『地獄篇』から想を得ています。門全体を支配するこの人物は、地獄を見下ろして人間の運命を思案するダンテ自身の姿でした。しかし、制作が進むにつれてその意味は変貌し、人間の運命について永遠に思考する普遍的な存在になりました。《考える人》は、サイズが大型・中型・小型の3種類があります。ブリヂストン美術館の作品は1902年頃に鋳造された小型のサイズです。

 

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「クロード・モネ《黄昏ヴェネツィア》」出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_01/img/img_impression03.jpg

インフォメーション:190810月、モネは知人の誘いで妻アリスとともにヴェネツィアを訪れました。この旅行は、健康状態と視力の減退に悩まされていた当時のモネにとって、気分転換になりました。そして、ルネサンス以来、多くの画家たちを魅了してきたヴェネツィアは、モネをも虜にします。12月までの間に30点あまりの作品を制作し、それをジヴェルニーのアトリエに持ち帰って徐々に仕上げていきました。19125月、29点のヴェネツィア作品だけの展覧会を開き成功をおさめます。夕日に染まる海に浮かんでいるのは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島の教会です。青・緑色からオレンジ色を経て再び青・緑色まで、空と海はまさに色彩の交響曲のようです。

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