日本の女流画家たち2016.7.10修正更新版


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日本の女流画家たち

日本の画壇はどちらかと言うと男性上位の世界です。女性の社会進出が目覚しい昨今、女流画家の皆さんには是非もっと活躍してほしいものです。そこで、ご案内します「日本の女流画家たち」です。巻末に今年2015年、ノーベル賞を受賞された大村氏が館主をつとめられる美術館も紹介させていただきます。人選、作品の選定に際しては、かなり独断と偏見があるやも知れませんが基本的に「鮮烈な生き方と熱い志」のあることを重視しました。

小倉遊亀

出生地・年月日:明治28年3月1日滋賀県大津市生まれ。

経歴:

日本画家。旧姓溝上(みぞがみ)。滋賀県大津に生まれる。1917年(大正6)奈良女子高等師範学校国語漢文部を卒業後、しばらく教壇に立ったのち、安田靫彦に師事。1926年第13回院展に『胡瓜』が初入選、28年(昭和3)に日本美術院院友、32年同人に推された。38年小倉鉄樹と結婚したが44年に死別。古典を基礎に、大胆でおおらかな構成と、さわやかな情感がにじむ画風を築いて今日に至っています。初期では『浴女』、第二次世界大戦後では『O夫人坐像』『月』『良夜』『越(コー)ちゃんの休日』『舞妓』『姉妹』などがよく知られている。1976年(昭和51)女性では上村松園に次いで日本芸術院会員に推された。80年に文化勲章を受章。90~96年日本美術院理事長。晩年、一時体調を崩したものの、105歳で亡くなるまで制作を続けました。

代表作・所蔵:

「浴女」(1938年、東京国立近代美術館蔵)

「受洗を謳う」(1936年、滋賀県立近代美術館蔵)

「観世音菩薩」(1941年、滋賀県立近代美術館蔵)

「舞妓」(1969年、京都国立近代美術館蔵)


入江一子

出生地・年月日:大正5年5月15日朝鮮大邱生まれ。

経歴:

昭和-平成時代の洋画家。林武に師事。昭和13年独立美術協会展に初入選,28年「かぼちゃ」などで独立賞,32年会員となる。21年女流画家協会結成に参加,28,31年協会賞を受賞。シルクロードをえがきつづけ,平成12年入江一子シルクロード記念館を設立した。女子美術専門学校(現女子美大)卒。作品に「土の匂い」など。100歳を迎える2016年6月には「100歳記念展」を開催する予定だ。2000年11月には「シルクロード記念館」を開館した。記念館には、入江さんの40年にわたる作品が所蔵されており、100号、200号といった色彩豊かな大作も鑑賞できます。毎週金、土、日曜日に開館。開館時間は午前11時から午後5時まで。入場料500円。所在地は、杉並区阿佐谷北2-8-19。

代表作・所蔵:

「土の匂い」

「トルファン祭りの日」シルクロード記念館所蔵

「敦煌飛天」シルクロード記念館所蔵

2[1]

「トルファン祭りの日」出典元:http://iriekazuko.com/


長谷川春子

出生地・年月日:明治28年(1895年)2月28日東京日本橋生まれ。

経歴:

双葉高等女学校を卒業。25才の時、長姉である作家の長谷川時雨のすすめで画家を志し、鏑木清方に師事して日本画を学び、ついで梅原龍三郎に洋画を学ぶ。昭和4年フランスに渡り、同年末と翌年パリのザック画廊で個展を開く。昭和6年帰国し国画会展に出品、同7年会友となり、同12年会員制廃止同人制となる時、同人となる。以後、国画会展に出品を続けたが、満州事変、支那事変に際しては大阪毎日新聞社、改造社の特別通信員として前線に赴き、太平洋戦争時には、女流美術家奉公隊委員長となって活躍した。また、昭和10年、尾崎士郎の新聞小説「空想部落」の挿画を描き、随筆・漫筆もよくし、「戯画漫文」、「大ぶろしき」(講談社)、「恐妻塚縁起」(学風書院)、「ニッポンじじい愛すべし」などの著書がある。戦後は、あまり作品を発表せず、昭和32年からはライフワークとして「源氏物語絵巻」(54帖)の制作に没頭、同40年6月には「長谷川春子源氏物語絵巻展」を開催し、その後も描き加えて完成、福岡市の筥崎神宮に所蔵された。生涯を独身で過し、辛辣な毒舌家として知られていた。1967年5月7日午後、東京都大田区の自宅で死去していることが発見され、死亡時刻は7日午前2時頃と推定された。享年72才。

代表作・所蔵:

「春夜興」1936年栃木県立美術館所蔵

「小婦国防」1943年栃木県立美術館所蔵

「源氏物語絵巻」福岡市筥崎神宮所蔵


桂ゆき

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出典元:http://www.mot-art-museum.jp/

出生地・年月日:大正2年10月10日東京生まれ。

経歴:

洋画家。東京生まれ。本名雪子。父弁三は東京帝国大学教授をつとめる冶金学者。文京区誠之小学校を経て昭和元(1926)年東京府立第五高等女学校に入学し、この年から両親の勧めで池上秀畝に日本画を学ぶ。しかし、もとから油絵修学を希望していたため2年程で日本画修学をやめ、同6年第五高女卒業の年、洋画家中村研一に学び始める。併せてアヴァンギャルド洋画研究所に学び、35年二科展に入選、38年二科会の前衛グループ九室会の創立に参加する。第二次世界大戦後の46年(昭和21)女流画家協会を同志と結成。50年には二科会会員となる。56~61年ヨーロッパ、アフリカ、アメリカへ旅行し、著書『女ひとり原始部落に入る』で毎日出版文化賞を受ける。66年現代日本美術展で『ゴンベとカラス』により最優秀賞を受けた。平成2年5月からがんのため入院、療養中であったが、2月5日午後2時30分、心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77歳。

代表作・所蔵:

「異邦人」

「ゴンベとカラス」

「よくばりばあさん」

「宇宙」


上村松園

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「上村松園」出展元:https://upload.wikimedia.org/

出生地・年月日:明治8年4月23日京都市生まれ

経歴:日本画家。本名津禰(つね)。明治8年4月23日京都に生まれる。1887年(明治20)京都府画学校に入学、鈴木松年(しょうねん)に師事したが、翌年中退して松年塾に入り、さらに幸野楳嶺(こうのばいれい)、ついで竹内栖鳳(せいほう)に学んだ。90年第3回内国勧業博覧会で『四季美人図』が褒賞となり、その後日本美術協会、日本青年絵画共進会などに出品を続けて美人画に独自の境地を開いていった。1907年(明治40)の第1回文展で『長夜』が、翌年の第2回文展で『月かげ』が三等賞を受賞して画名が高まり、15年(大正4)第9回文展で『花がたみ』が二等賞になり、翌年永久無鑑査に推されました。さらに24年帝展委員、34年(昭和9)帝展参与、41年帝国芸術院会員。48年(昭和23)に女性としては初めての文化勲章を受けたが、翌昭和24年8月28日、疎開先の奈良県平城(へいじょう)村(現奈良市)の山荘で永眠。その画風は四条派の伝統を基礎にしてそれに近代感覚を盛ったもので、良家の、あるいは町方の女性を主題に清新な作品を描き続け、前期の情緒的な表現から後期の理知的表現への変化を認めることができる。前期を代表するのは前記の初期文展出品の2作のほか『焔(ほのお)』『娘深雪(むすめみゆき)』などで、後期には『母子』『序の舞』『雪月花』『夕暮』『晩秋』などがあります。日本画家の上村松篁(しょうこう)(本名信太郎)は実子。

代表作・所蔵:

「焔」大正7年(1918)・東京国立博物館

「序の舞」昭和11年(1936年)・東京藝術大学大学美術館

「母子」昭和9年(1934年)・東京国立近代美術館

「晩秋」昭和18年(1943年)・大阪市立美術館

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「序の舞」出展元:https://upload.wikimedia.org/


ラグーザ・玉

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出展元:https://upload.wikimedia.org/

出生地・年月日:昭和14年東京生まれ

経歴:文久元-昭和14(1861生-1939没)。洋画家。芝新堀で増上寺の差配(管理人)の次女として生まれ、小学校に入る前から日本画家について本格的に絵を習い始めました。明治9年(1876)工部美術学校が設立され、彫刻の教授としてイタリアから招かれたラグーザに洋画を学びますが、明治15年学校が閉鎖。玉はラグーザとともにイタリアに渡り、結婚しエレオノーラと改名します。ラグーザが故郷シチリア島パレルモに開いた美術学校の副校長となり、同時に画家としても活躍しました。昭和3年(1928)ラグーザと死別。その後日本の新聞社が玉のことを知り、小説にしたことが契機となって昭和8年帰国します。晩年は清原姓に戻り、芝新堀の生家で過ごしました。

代表作・所蔵:

「春」1912年・東京藝術大学大学美術館

「エロスとサイケ」明治年代作・東京国立博物館

「天楽礼讃」1901年・シチリアの天井絵

「昇天祭の夜」作年度不明・同上

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「春」出展元https://upload.wikimedia.org/

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「エロスとサイケ」出展元:http://www.tnm.jp/


三岸節子

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出展元:http://s-migishi.com/

出生地・年月日:明治38年1月3日愛知県生まれ

経歴:洋画家。愛知県起町(現一宮市)生まれ。旧姓吉田。1921年(大正10)上京して本郷洋画研究所で岡田三郎助の指導を受け、24年女子美術学校(現女子美術大学)を卒業、この年三岸好太郎と結婚する。翌年から春陽会展に出品、また、婦人洋画協会結成に参加する。32年(昭和7)から好太郎が創設に加わった独立美術協会展に出品を続けるが、好太郎の死去もあり39年新制作派協会に移って会員となる。第二次世界大戦後の46年(昭和21)同志とともに女流画家協会を結成。51年芸術選奨文部大臣賞受賞。翌年の第1回サン・パウロ・ビエンナーレ展ほか内外で活躍。54年初の渡仏。1年半後に帰国してからは、軽井沢に住み制作に没頭する。68年末、長男黄太郎一家とフランスに渡るが、後に病気のために帰国。83年節子の寄贈作品を中心として、北海道立三岸好太郎美術館が開館。86年勲三等宝冠章受章。88年郷里愛知県尾西市(一宮市)の名誉市民となる。91年には日本の女性画家としては初めて、アメリカ・ワシントンの女性芸術美術館で個展が開催された。94年(平成6)文化功労者として顕彰される。98年11月、一宮市内の生家跡に三岸節子記念美術館が完成した。花や静物、風景画に燃焼度の高い画境を示した。

代表作・所蔵:

「自画像」1925年三岸節子記念美術館

「ブルゴーニュの麦畑」1978年三岸節子記念美術館

「アンダルシアの町」1987年三岸節子記念美術館

p_7[1]

出典元:http://s-migishi.com/

p_10[1]

出典元:http://s-migishi.com/


片岡球子

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出展元:https://upload.wikimedia.org/

出生地・年月日:明治38年1月5日札幌生まれ。

経歴:日本画家。1905年(明治38年)北海道生まれ。現在の女子美術大学卒業後、小学校の教べんを取り、画家を志す。当時の帝展(今で言う日展)に落選という辛酸をなめた時期を経て、1939年帝展に念願の入展を果たす。しかし、当時、線描写が美しかった時代で球子の絵は「ゲテモノ」と言われた。つまり線が荒かったということでした。その「ゲテモノ」の絵を強く励ましたのが小林古径であった。球子は、その「ゲテモノ」のようなダイナミックで線の荒い画風を貫き、それが力強い作風を生み出しました。後年の代表作の「富士山」や「面構」がその力強さを表しています。それが高く評価され、1989年に文化勲章を受章。100歳になっても現役の画家であったが、2008年に103歳で死去。その功績はのちにテレビでも紹介されました。

代表作・所蔵:

「面構 葛飾北斎」1971(昭和46)年 神奈川県立近代美術館

「枇杷」1930(昭和5)年 北海道立近代美術館

「山(富士山)」1964(昭和39)年 北海道立近代美術館

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「面構」出展元:http://archive.momat.go.jp/

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「富士山」出展元:http://archive.momat.go.jp/

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「枇杷」出展元:http://archive.momat.go.jp/

 

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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