エンタテイメントな日本画家・川端龍子


エンタテイメントな日本画家・川端龍子

文化勲章を受けた日本画の巨匠でありながら、いつも大衆をあっと驚かせ、大衆を唸らせる絵を目指した画家、それが川端龍子です。日本画を床の間芸術から会場アートに昇華させた才人の生涯を辿ります。

「その生い立ちと就学」

出典元:http://www.ota-bunka.or.jp/Portals/0/images/facilities/ryushi/img_ryushi_photo01.jpg

出生情報:1885年(明治18年)66日和歌山市生まれ

没年情報:1966410日東京にて没。享年81歳。

和歌山県和歌山市生まれ。本名・昇太郎。幼少の頃、近くのぶらくり町の提灯屋の主人がが描く、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をします。自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点でした。このような思いを秘める龍子は1895(明治28年)10歳の頃に家族とともに東京へ転居します。

「絵画との出会い」

「府立第三中学校」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/f/fd/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E7%AC%AC%E4%B8%89%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%88%9D%E4%BB%A3%E6%A0%A1%E8%88%8E.jpg

東京に転居後、城東高等小学校から東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)に入学しますが、一中分校から東京府立第三中学校(現・都立両国高校)が設立されたことで三中に転校します。府立三中在学中の1903(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募し、このうち『西南戦争熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(120円)の賞金を得、これが本格的に画家を志すきっかけとなります。この賞金額は学校でも評判になり、図画担当教師からも画家の道へ進むことを強く説かれ、このことを父親へも伝えますが、龍子を医師にさせたいと考える父は断固、画家志望の話を拒否したのでした。この頃、一度、龍子は渡米して医者の勉強をしたいという申し出を行い、父親の了解も取り付ける事に成功するのですが、当時の渡航法の改正に遭遇し、渡航申請を却下されてしまいます。渡航に向けて学校も中退していましたので、龍子は親黙認で白馬会絵画研究所に通い本格的な画の活動が始まります。

「生涯の創作活動」

「当時発行の文芸誌ハガキ文学」出典元:https://library.pref.yamaguchi.lg.jp/sites/default/files/pictures/siryoutenji/hagakibungaku.jpg

1906年(明治39年)龍子は林夏子と結婚し生計を営む生活を強いられますが、画家としての龍子は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描きながら『ハガキ文学』『東京パック』といった雑誌の挿絵描き、明治年間を通じて挿絵画家として活躍していきます。後に龍子芸術の特徴の一つでもある「世相を俯瞰的に見るジャーナリズム性」を習得したのはこの仕事に就いたことと大いに関係があると思われます。龍子は1913(大正2年)に入ると、渡米し本格的に西洋画を学び、それで身を立てようと思い立ちます。しかし憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実でした。日本人が描いた西洋画などに誰一人見向きもせづ、西洋画への道に行き詰まりを感じます。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、龍子は日本画に転向します。

「火生」出典元:https://www.art-information.ne.jp/artwiki/img/images/8db0fcd0e62ab9d9c4ab3a2e2857f1f19abbeb2d.jpg

1915(大正4年)に入ると、龍子は平福百穂(ひゃくすい)らと「珊瑚会」を結成します。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となります。1921(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描きます。赤い体を包むのは黄金の炎。命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた渾身の作品です。しかし、この絵が物議をかもします。当時の日本画壇では、個人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流で、繊細で優美な作品が持てはやされていました。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないと評されます。その為か1928(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩み始めます発表した作品は、185㎝・幅838㎝の大画面に展開する、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト。激しくぶつかり合う水と水、波しぶき。壮大な水の世界を描いた『鳴門』は、当時の常識をくつがえす型破りな作品でた。その後も大作主義を標榜実践し、大画面の豪放な屏風画を得意としますこうして大正昭和戦前日本画壇において龍子は異色の存在となっていきます。型破り評されたこの頃の龍子の絵の特徴は三点です絵が巨大(横幅7メートル以上の作品が多数)』時代を映す(話題の出来事を連想せる絵)』『奇抜な発想(具象画なのに実際には有り得ない光景が展開

「鳴門」出典元:http://www.yamatane-museum.jp/image/20170624-07.jpg

1931(昭和6年)朝日文化賞受賞しますが、一方、1935(昭和10年)帝国美術院会員、1937(昭和12年)帝国芸術院会員、1941(昭和16年)会員を辞任します。制作活動では1937(昭和12年)に『潮騒』を発表しています。幅 14 メートルの超大作です。岸壁の海岸、深い海の青が浅くなるにつれ、透明度の高い緑に変化していく様子を描く鮮やかな作品です。この作品で龍子の筆致は大きく変わります。岩に激しくぶつかる水、そこには輪郭線がありません。想像だけで描いた『鳴門』と比較すると繊細な波の動きがよりリアルに表現されています。新たな水の表現を獲得した龍子でしたが1941(昭和16年)太平洋戦争勃発します。自由に絵を描くことが許されない中で、龍子は作品を発表し続けます1944(昭和19年)には『水雷神』。水にすむ神々が持ち上げているのは魚雷で。暗く深い海の底、その水は重く濁っています。龍子はこの神々に命を投げ出し、突き進む特攻隊員の姿を重ねました。この絵を描いた頃、龍子は息子を戦地で、妻を病で亡くしておりその重々しい色使いは龍子の心情風景と評されています。

「著作・四国遍路」出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51V3YYMS1ML.jpg

第二次大戦後の1950(昭和25年)65歳の龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始めます。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描」と呼ぶ)を残します。これらは札所で詠んだ俳句とともに後に画文集『四国遍路』として出版します。1959(昭和34年)文化勲章受章。没年の1966(昭和41年)には、居宅に近い東京都大田区池上本門寺大堂天井画として奉納すべく『龍』を描きますが未完のまま死去します。後日、遺族の相談を受け龍子の遺作を実見した日本画家の奥村土牛は作品を激賞奥村が画龍点睛して開眼の上、作品は大堂に奉納されました。大正から昭和の日本画壇において既存の概念を打ち破ろうと強靭な意志を抱き、在野の雄として生涯描き続けた川端龍子の生涯は、現代においてもその輝きを失ってはいません。

 

 

「主な代表作」

「慈悲光礼讃≪朝・夕≫」1918年制作・東京国立近代美術館所蔵

「鳴門」1929年制作・山種美術館所蔵

「草炎」1930年制作・東京国立近代美術館所蔵

「草の実」1931年制作・大田区立龍子記念館所蔵

「龍巻」1933年制作・大田区立龍子記念館所蔵

「愛染」出典元:https://www.adachi-museum.or.jp/admin/wp-content/uploads/2014/08/192.jpg

「愛染」1934年制作・足立美術館所蔵

「香炉峰」1939年制作・大田区立龍子記念館所蔵

「曲水図」1941年制作・東京国立近代美術館所蔵

「洛陽攻略」1944年制作・東京国立近代美術館所蔵

「八ッ橋」1945年制作・山種美術館所蔵

「爆弾散華」出典元:http://www.yamatane-museum.jp/image/20170624-01.jpg

「爆弾散華」1945年制作・大田区立龍子記念館所蔵

「百子図」1949年制作・大田区立龍子記念館所蔵

「金閣炎上」1950年制作・東京国立近代美術館所蔵

「略歴」

1885(明治 18

和歌山市に生まれる。

1895(明治 28

家族とともに上京。初め浅草 日本橋で育つ。

1904(明治 37

白馬会、太平洋画会で洋画を学ぶ。

1913(大正 2

渡米。帰国後、日本画に転向。

1915(大正 4

2回日本美術院展初入選。

1916(大正 5

3回院展、樗牛賞受賞。

1917(大正 6

4回院展入選。日本美術院同人に推挙される。

1920(大正 9

新井宿に住居と画室を新築。

1928(昭和 3

日本美術院同人を辞退。

1929(昭和 4

青龍社樹立宣言。第1回展開催。

1959(昭和 34

文化勲章を受章。

1963(昭和 38

龍子記念館開館。

1966(昭和 41

410日に80歳で死去。

「関連著作物」

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51V3YYMS1ML._SX330_BO1,204,203,200_.jpg

「川端龍子・詠んで描いて四国遍路」川端龍子著・2002年小学館文庫刊行

書価:240円(中古アマゾン価格)

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出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91KSHn%2B-VKL.jpg

「カンヴァス日本の名画・16川端龍子」水原秋櫻子/佐々木直比古著・ 1979年中央公論新社刊

書価:2190円(中古・アマゾン価格)

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参考サイト:http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/tabid/218/Default.aspx
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%BE%8D%E5%AD%90
参考サイト:http://www.yamatane-museum.jp/exh/2017/kawabata.html
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%AB%8B%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%99%84%E5%B1%9E%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1
参考サイト:https://library.pref.yamaguchi.lg.jp/shiryotenji/201204
参考サイト:https://www.art-information.ne.jp/artwiki/artists/view/kawabata_ryushi
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