個人を顕彰した記念美術館/東京編


「新宿区・佐伯祐三アトリエ記念館」

1924年フランスにて」出典元:http://www.regasu-shinjuku.or.jp/regasu/wp-content/uploads/2014/12/saeki-fami-205×315.jpg

出典元:http://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/wp-content/uploads/2016/06/7c6d37da31a014ce6183f7a3d70fcf69-208×300.jpg

施設インフォメーション:佐伯祐三は東京美術学校在学中の大正9年に、銀座の象牙美術商の娘、池田米子と結婚すると、翌大正10年には、同時代の洋画家中村彝のアトリエにも程近い豊多摩郡落合村下落合661番地(現・中落合2丁目4 番)にアトリエ付き住宅を新築しました。この地で佐伯が生活し、創作活動をしたのは米子夫人と長女彌智子と共に、フランスに向かう大正12年までと、大正15年に帰国し、再びフランスに渡る昭和2年までの合わせて4年余りにすぎません。しかし、この地は佐伯がアトリエを構え、創作活動拠点とした日本で唯一の場所であり、現在も当時のままの敷地に、大正期のアトリエ建築を今に伝える建物が残されている貴重な場所です。このアトリエを新宿に残る大切な「土地の記憶」「まちの記憶」として保存・継承、広く発信していくために新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館として整備・公開しています。

公式サイト:https://ssl.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/saeki/1667/

所在地:161-0032 東京都新宿区中落合2丁目421

問合せ:03-5988-0091

開館時間:5月~910:0016:3010月~410:0016:00

休館日:月曜日年末年始(1229日~13日)

通常入館料:無料

出典元:https://ssl.regasu-shinjuku.or.jp/regasu/wp-content/uploads/2010/08/atelier1.jpg

「ガーベラ・佐伯米子作」出典元:http://www.regasu-shinjuku.or.jp/regasu/wp-content/uploads/2013/11/d02f1b709e1b6d5734b760160ea8b8ea-420×492.jpg

佐伯祐三プロフィール情報:佐伯祐三は1898年に大阪に生まれ、東京美術学校(現在の東京藝術大学)を卒業後の1923年末、妻子をともないパリに渡ります。フォーヴィスムの大家ヴラマンクに「アカデミック!」と作品を批判されたことをきっかけに、パリの堅牢な建物を重厚な筆致で描く独自の作風を確立しました。一時帰国をはさんで1927年に再び渡仏、鮮やかな色づかいと踊るような繊細な線描で、街角のポスターやカフェなどを描いた名作を次々と生み出します。その創作意欲と厳しい創作態度は衰えることなく、最後に《郵便配達夫》などの傑作を残し、30年の短い生涯を閉じました。一時帰国時代をあわせても4年あまりの短い制作期間でしたが、生命を刻み込むかのように描かれた作品はいずれも、佐伯の創作に対する純粋で激しい情熱を強く感じさせます。


「台東区・横山大観記念館」

出典元:http://taikan.tokyo/t_AIC201309040031.jpg

施設インフォメーション:上野池之端不忍池のほとりにある横山大観旧宅は、木造2階建ての数奇屋風日本家屋です。明治41年(1908)この地に住み始めた大観自身のデザインによる京風数奇屋作りの建築と庭園が、大正8年にこの場所に建てられ、自宅兼画室として使用されていました。東京大空襲で焼失後、昭和29年(1954)にほぼ同じ形で再建されました。大観は亡くなるまでここに住み、制作活動を行いました。細川護立公爵から送られた庭石のある庭園の樹木などは、多くの大観作品の画題となりました。 明治、大正、昭和 三代を通じて日本画壇の第一人者、横山大観画伯は生前から「私の死後この地を個人財産としてでなく、公的な財産として日本美術界のために役立ててほしい」との強い意志でした。そのご意志にもとづき、遺族をはじめ日本美術院同人関係者および有志の方々の協力により、昭和5111月に現存の大観邸を財団法人横山大観記念館として一般に公開される運びとなりました。

公式サイト:http://taikan.tokyo/

所在地:110-0008 東京都台東区池之端1丁目424

問合せ:03-3821-1017

開館時間:10001600

休館日:月・火・水曜日

通常入館料:大人800円・中高生650円・小学生300

出典元:http://taikan.tokyo/IMG0521.jpg

「霊峰飛鶴・昭和28年」出典元:http://taikan.tokyo/coll_042.jpg

横山大観プロフィール情報:岡倉天心を師と仰ぎ、明治・大正・昭和の90年を生きた大観は「一切の藝術は無窮を趁ふの姿に他ならず芸術は感情を主とす世界最高の情趣を顕現するにあり」を座右の銘としました。明治維新で水戸藩士の身分を失った父とともに上京、東京府中学校(現日比谷高校)を優秀な成績で卒業後、明治18年、東京大学予備門とその付属英語専修科の両方を受験しました。それを問題視する声があがり、掛け持ち受験した全員と共に不合格となってしまいます。そこで私立の東京英語学校に入学します。ここで学んだ語学力は後年の画家・大観を大いに助けることとなるのです。進む道を変更し、明治21年、東京美術学校(現東京芸術大学)を受験し、一期生となります。卒業後は東京美術学校助教授となるも、校長岡倉天心とともに辞職し、日本美術院創立に参画します。明治36年にインドに外遊、翌年渡米し、その語学力も生かし各地で作品を展覧しますが、これが大盛況となります。米国から欧州に渡り、各地を巡って帰国します。そして明治42年より上野池之端に居を構えることとなります。ここで精力的に作画に取り組みました。昭和5年、ローマでの日本美術展では使節として赴くなど、日本の美術界を牽引し活躍しました。昭和12年には第一回文化勲章を受章しました。


「台東区・黒田記念館」

出典元:http://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/images/ph_kuroda01.gif

施設インフォメーション:日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正131924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和31928)年に竣工したのが黒田記念館です。館内には遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和51930)年には同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置され、日本・東洋美術に関する調査研究業務が行われてきました。平成122000)年の新庁舎の竣工により東京文化財研究所の全ての業務が新庁舎に移ったのに伴い、黒田記念館が昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから創建当初の姿に復することとなりました。そこで、2階部分を中心に改修が行われ、平成132001)年9月に開館、平成142002)年には国の登録有形文化財となっています。

公式サイト:http://www.tobunken.go.jp/kuroda/index.html

所在地:110-8712 東京都台東区上野公園13-9

問合せ:03-5777-8600(ハローダイヤル)

開館時間:9301700

休館日:月曜日・年末年始

通常入館料:無料

出典元:http://www.tobunken.go.jp/kuroda/topimages/03.jpg

「湖畔」出典元:http://www.tobunken.go.jp/materials/wp-content/pics/k_work/oil/images/KU-a117.jpg

黒田清輝プロフィール情報:黒田清輝(18661924)は近代日本の美術に大きな足跡を残した画家であり、教育者であり、美術行政家であったといえます。ことに明治中期の洋画界を革新していった功績は大きく、その影響は、ひろく文芸界全般におよびました。現在の鹿児島県鹿児島市に生まれた黒田は、幼少時に上京、伯父黒田清綱(きよつな)の養嫡子となりました。17歳で、法律の勉学を目的にフランスに留学しましたが、二年後には絵画に転向し、フランス人画家ラファエル・コラン(Louis-Joseph-Raphael Collin)に師事しました。九年間にわたる留学中、アカデミックな教育を基礎に、明るい外光をとりいれた印象派的な視覚を学びました。明治261893)年に帰国し、日本にそれまで知られていなかった外光表現をもたらし、その背後のリベラルな精神と思想とともに大きな影響を与えました。明治291896)年には、美術団体白馬会(はくばかい)を結成、またこの年創設された東京美術学校(The Tokyo Art School)の西洋画科の指導者となりました。以後、黒田は、この白馬会と東京美術学校において、多くの新しい才能を育てるとともに、やがて美術界の中枢となりました。また画家としても外光表現だけではなく、「智・感・情」(Wisdom,Impression,Sentiment)、「昔語り」(Talk on Ancient Romance)など、アカデミズムとしての「構想画」(grand composition)の制作をこころみるなど、本格的な西洋絵画の移植につとめました。後年には、絵画制作のかたわら、貴族院議員や帝国美術院長を歴任し、美術行政家として活躍しました。


「品川区・久米美術館」

出典元:http://www.kume-museum.com/images/kei/ph_kei09.jpg

施設インフォメーション:久米美術館は歴史家・久米邦武とその長男で洋画家の久米桂一郎を記念して、二人のゆかりの地、目黒駅前に昭和5710月に開館しました。通常は久米父子の資料や作品を併せて展示していますが、久米桂一郎の師であったラファエル・コランや友人・黒田清輝などの作品を盛り込んだ展示や、久米・ 黒田の東京美術学校(現・東京芸術大学)の教え子たちの作品展なども順次行っています。また、様々なテーマからなる久米邦武の特別展も開催しています。久米美術館は山手線目黒駅の駅前の喧騒を忘れさせてくれる静かで落ち着いた雰囲気の中にあります。明治時代の先人の足跡を辿るにも、また静謐な作品の中で一息付くにも適した環境といえましょう。どうぞ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

公式サイト:http://www.kume-museum.com/

所在地:141-0021 東京都品川区上大崎2丁目255久米ビル8F

問合せ:03-3491-1510

開館時間:10001700

休館日:月曜日

通常入館料:一般500円・大高生300円・小中生200

出典元:http://www.kume-museum.com/images/info/gaikan.jpg

「林檎拾い1892年」出典元:http://www.kume-museum.com/images/kei/ph_kei01.jpg

久米桂一郎プロフィール情報:久米桂一郎(18661934)は、黒田清輝と共に明るい外光派の画風を広げ、明治洋画壇の指導的役割を果たしました。また中期以降は美術行政家、教育者としての功績を多くのこしました。慶応2年、久米邦武の長男として佐賀に生まれました。少年期に、内国勧業博覧会で西洋画を見学して美術に関心を持つようになり、明治16年より本格的な西洋画学習を開始します。明治19年、20歳でパリに留学、ラファエル・コランに師事して基礎的な人体デッサンや美術解剖学などを学ぶ一方、同じく留学生であった黒田清輝と出会い、終生続くことになる友情を結びました。帰国後は、日本に本格的な西洋美術を普及させるべく、黒田と共に洋画団体・白馬会を結成したり、東京美術学校(現・東京藝術大学)に新設された西洋画科で教壇に立つなどの活躍を見せましたが、後年は絵画制作から遠ざかり、美術行政・教育の場で遺憾なく力を発揮して日本洋画界の礎を築きました。


「江東区・田河水泡のらくろ館」

出典元:http://hon.bunshun.jp/mwimgs/1/3/-/img_138143c2acdc40f6a9c3fafaea8d87ee61988.jpg

施設インフォメーション:漫画「のらくろ」の作者・田河水泡(本名:高見澤仲太郎)は、幼年期から青年期までを江東区で過ごした本区ゆかりの漫画家です。平成10年(1988年)、遺族から作品や書斎机などの遺品が江東区に寄贈されました。これを機会に、日本の漫画界に大きな足跡を残した田河水泡の業績を紹介し、永く後世に伝えるため、「田河水泡・のらくろ館」を、氏が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼしたこの地に開設しました。

参考サイト:http://www.gotokyo.org/jp/kanko/koto/spot/40932.html

参考サイト:http://hon.bunshun.jp/articles/-/3614

所在地:135-0004 東京都江東区森下3丁目1217江東区森下文化センター内

問合せ:03-5600-8666

開館時間:9002100

休館日:月曜日

通常入館料:無料

出典元:http://www.gotokyo.org/jp/kanko/koto/spot/images/01_932.jpg

田河水泡プロフィール情報:明治三十二年(一八九九年)生まれ。一歳で母を肺炎で亡くし、伯父夫婦のもとで育った。中国画や盆栽を愛好していた伯父や、油絵を描いていた従兄弟の影響で画家を志望するようになるが、その伯父にも実父にも若くして死別し、以後多くの親戚に頼りつつ生活した。大正八年(一九一九年)、二十歳の徴兵で、朝鮮第十九師団羅南七十三連隊に入営。成績はよかったが画家志望で兵役免除を願っていたので、上等兵になる機会を他人にゆずり、軍用鳩通信班で、鳩の世話をしつつ隙を見て絵を描いていた、という。このマイペースな軍隊生活が「のらくろ」登場の背景となった。漫画の中では、殺伐とした戦場や殺し合い場面は殆ど登場しない。軍隊生活を描きながら、奇想天外なギャグや冒険にあふれ、少年の心をつかむ楽しい要素に満ちている。のらくろが戦後も、何の「お咎め」もなしに人気者であり続けてきたのもそのゆえであろう。だが子犬時代や入隊前のエピソードには、作者の半生を髣髴とさせる姿もある。何があっても明るく愉快に前進する、その根底には、この世で生きることをどこかで突き放した、カラリとした虚無が感じられる。平成元年(一九八九年)に九十歳で逝去。手塚治虫、長谷川町子をはじめ後進の漫画家に大きな影響を及ぼした


「荒川区・蔦谷喜一ぬりえ美術館」

出典元:http://www.nurie.jp/img/kichi_profimg.jpg

施設インフォメーション:東京メトロ千代田線町屋駅から徒歩15分、東京都荒川区の静かな住宅街の一角にかわいらしい建物がある。開け放たれた扉には、赤い靴を履いてブランコをこぐ女の子の絵が全面に。「ようこそ」という声が聞こえてきそうなほど強い印象を受ける。ここは塗り絵専門の「ぬりえ美術館」。塗り絵作家、蔦谷喜一(19142005)の作品を中心に、海外の塗り絵も集まっている。扉を入ってすぐの受付には昭和2030年代、小さい子どもたちの間で大流行した「きいちのぬりえ」グッズが並ぶ。当時はB6サイズほどの塗り絵が8枚入りで15円ほど。駄菓子屋や文房具屋で月100万部、多いときは160万部も売れたという。

公式サイト:http://www.nurie.jp/

参考サイト:http://style.nikkei.com/article/DGXKZO10764350W6A211C1L83000?channel=DF130120166109

所在地:116-0001東京都荒川区町屋4118

問合せ:03-3892-5391

開館時間:31012:0018:0011月~211:0017:00

休館日:月~金曜日(土日祝日のみ開館)

通常入館料:中学生以上500円・小学生100

出典元:http://www.nikkei.com/content/pic/20161217/96958A99889DE3E2E5E4E6E1E7E2E3E4E3E0E0E2E3E49EEAE1E2E2E2-DSXKZO1076437016122016L83000-PB1-4.jpg

蔦谷喜一プロフィール情報:大正3年(1914)、東京・京橋区(現中央区)で紙問屋を営む蔦谷家の9人兄弟の五男として生まれる。幼少時分より人物画を好んで描いていたきいちは、17歳の時、帝展で山川秀峰の「素踊」の絵を見て感銘を受け、画家の道に入ることを決意。昭和15年(1940)、きいちが26歳で「フジヲ」を名乗り描いたぬりえが、子ども達の間で人気を博す。昭和22年(1947)、本名の「きいち」の名でぬりえを発表し、昭和23年(1948)頃からは、きせかえを制作。昭和40年頃までぬりえ作家として活躍。「きいちのぬりえ」は平均すると月に100万セット、最高時には160万セットを販売するにまで至り、名実共に日本を代表するぬりえへと成長した。その後「きいちのぬりえ」は、昭和53年(1978)、資生堂ザ・ギンザの「アート・スペース」で開催された「キイチのぬりえ展」をきっかけに、再び脚光を浴びることとなり、以来、時代の変化に寄り添いながら、今日までその人気は続いている。晩年、きいちは童女を描く「童女画」や「美人画」に取り組み、「美しさ」への願望を飽くことなく絵の中に見出そうと生涯現役の画家として平成17年(2005)、91歳で亡くなるまで筆を取り続けた。

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