東京の古刹


東京の古刹

寺社仏閣を探訪する、と言ったら「京都」をイメージしますが、東京には素晴らしい古刹があります。そこでご紹介します「東京の古刹」情報です。「調布・深大寺」「芝・増上寺」「高輪・泉岳寺」「日野・金剛寺」「下目黒・龍泉寺」「大塚・護国寺」「上野・寛永寺」「碑文谷・円融寺」「池上・本門寺」「元麻布・善福寺」「本駒込・吉祥寺」「築地・本願寺」。

「調布・深大寺」

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出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/Jindai-ji_in_Chofu%2C_Tokyo_002.jpg/260px-Jindai-ji_in_Chofu%2C_Tokyo_002.jpg

宗派:天台宗別格本山の仏教寺院。山号は浮岳山。

正式名:浮岳山 昌楽院 深大寺

所在地:182-0017 東京都調布市深大寺元町5丁目151

問合せ:042-486-5511

建立:天平五年(733)

本尊:阿弥陀三尊像

開基:伝・満功上人

インフォメーション:『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりまが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(733)、これが深大寺開創の伝説であります。慶応元年(1865)、またもや深大寺諸堂は炎上します。霊仏寺宝の数々は幸いにその難を逃れますが、建造物は山門と常香楼を残すのみとなり、その再興途上に明治維新を迎えます。驚くべきはそのような激動の時代にあって、慶応三年には早くも元三大師堂が再建されるのです。近郷信徒の大師信仰の篤さを物語る証しが、この再建の早さに如実に示されています。本堂は炎上から五十年後の大正時代に再建の運びとなり、大正十一年(1922)秋、復興なった深大寺は摂政宮(昭和天皇)さまの行啓を仰ぎました。
また深大寺釈迦堂に奉安の白鳳釈迦如来倚像は、大正二年(1913)に旧国宝に指定され、摂政宮台覧以来、東国随一の古仏として全国的に有名になりました。さて、深大寺では昔から蕎麦をつくり、徳川時代には深大寺蕎麦として、将軍家や上野東叡山にも献上され、また蜀山人などが大いに喧伝、来詣者に賞味されてきました。近年境内には多くの俳人・歌人の碑が建立されましたが、蕎麦をめでながらその足跡を訪ねる参詣者も多く、実に年間130万人もの人々が深大寺を訪れます。

公式サイト:http://www.jindaiji.or.jp/

関連サイト:「深大寺そば」案内地図(以下のサイトから確認できます)http://chofu.com/web/jindaiji_soba/wp/wp-content/uploads/2014/10/map-shoplist.pdf

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「護摩祈願」出典元:http://www.jindaiji.or.jp/images/gomakigan/aboutGomakigan.jpg

「芝・増上寺」

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出典元:http://www.zojoji.or.jp/images/info/info_photo1.jpg

宗派:浄土宗鎮西派

正式名:三縁山 広度院 増上寺

所在地:105-0011 東京都港区芝公園4735

問合せ:03-3432-1431

建立:明徳4年(1393

本尊:阿弥陀如来

開基:聖聡

インフォメーション:増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、1470(文明2)年には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。 17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、とても大きな寺でした。当時は、3000人以上の学僧のお念仏が、全山に鳴り響いていたと言われています。苦難の明治期と戦災を乗り越えた増上寺は、昭和491974)年に悲願の大殿再建を果たします。それ以後も、次々と諸堂宇を完成させています。宗祖法然上人八百年御忌をお迎えするにあたって、平成212009)年には圓光大師堂と学寮を、平成222010)年には、安国殿を建立しました。長い年月をかけて、境内諸堂宇が整い、復興が成った今こそ、増上寺は、法然上人の教えを弘め、念仏の根本道場として僧侶の育成に努めたいと考えています。お念仏を唱え、浄土往生を願い、平和を求める。その心を世界に発信していくことが、これからの増上寺の役割です。

公式サイト:http://www.zojoji.or.jp/

FACEBOOKhttps://www.facebook.com/zojoji/

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「本尊」出典元:http://www.zojoji.or.jp/assets_c/2015/10/b3-02-thumb-800xauto-98.jpg

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国指定文化財「紙本着色法然上人伝」出典元:http://www.zojoji.or.jp/assets_c/2015/10/b2-03-thumb-800xauto-103.jpg

「高輪・泉岳寺」

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出典元:http://www.sengakuji.or.jp/about_sengakuji/images/photo01.jpg

宗派:曹洞宗

正式名:萬松山 泉岳寺

所在地:108-0074 東京都港区 高輪2丁目11−1

問合せ:03-3441-5560

建立:慶長17年(1612

本尊:釈迦如来(南無釈迦牟尼佛

開基:門庵宗関、徳川家康(願主)

インフォメーション:泉岳寺は曹洞宗の寺院です。曹洞宗のご本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の真髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。その後、現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が現在もいます。

公式サイト:http://www.sengakuji.or.jp/

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「大石内蔵助吉雄銅像」出典元:http://www.sengakuji.or.jp/about_sengakuji/images/photo04.jpg

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「赤穂義士墓地」出典元:http://www.sengakuji.or.jp/about_sengakuji/images/photo09.jpg

「日野・金剛寺」

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「仁王門」出典元:http://www.takahatafudoson.or.jp/wp-content/themes/takahata/images/sisetu_img_01.jpg

宗派:真言宗智山派

正式名:高幡山明王院金剛寺

所在地:191-0031 東京都日野市 高幡733

問合せ:042-591-0032

建立:(伝)平安時代初期

本尊:大日如来

開基:(伝)円仁清和天皇(勅願)

インフォメーション草創は古文書によれば大宝年間(701-704)以前とも、奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、寺伝によれば平安時代初期に円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により東関鎮護の霊場を高幡山山上に開いたのが始まりとされます江戸時代、真言宗関東十一檀林の談義所として、多くの学僧を輩出しています。以来「高幡のお不動さん」と呼ばれ人々の信仰を集めており、毎月28日の縁日には多くの参詣者で賑わいます成田山新勝寺などとともに関東三大不動の一とされます。なお関東三大不動の他は不動ヶ岡不動(總願寺)、大山不動(大山寺)あるいは高山不動(常楽院)とされています新選組副長として活躍した土方歳三の菩提寺である縁から境内には土方歳三の銅像や殉節両雄の碑がありますが、歳三の墓のある愛宕山石田寺は末寺のひとつで

公式サイト:http://www.takahatafudoson.or.jp/

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「丈六不動明王坐像(重要文化財)」出典元:http://www.takahatafudoson.or.jp/wp-content/themes/takahata/images/img_01.jpg

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「土方歳三像」出典元:http://www.takahatafudoson.or.jp/wp-content/themes/takahata/images/img_15.jpg

「下目黒・瀧泉寺」

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出典元:http://www.tendaitokyo.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/01/ryusenji02.jpg

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出典元:http://www.tendaitokyo.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/01/ryusenji01.jpg

宗派:天台宗

正式名:泰叡山瀧泉寺

所在地:東京都目黒区下目黒3-20-26

問合せ:03-3712-7549

建立:伝・808年(大同3年)

本尊:不動明王

開基:伝・円仁

インフォメーション:関東三十六不動霊場札所・江戸三十三観音霊場結願札所・山手七福神札所

大同三年、十五歳の慈覚大師は、伝教大師最澄のもとへ赴く途上、当地に立寄られ、霊夢を見ました。面色青黒く右手に降魔の剣を提げ左手に縛の縄を持つ誠に恐ろしい形相の神人が枕上に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられました。
夢覚めた後その尊容を自ら彫刻されたのが、御本尊目黒不動明王です。堂宇建立を決意された大師が、法具の獨鈷を投じると、そこに泉が湧出。「獨鈷の瀧」と名づけられたこの霊泉に因んで、当山を「瀧泉寺」と号されました。貞観二年には清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り、爾来「泰叡山」と称します。

寛永年間には、徳川家光公の帰依を受け、堂塔伽藍が復興されました。目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方しれずになり、三代将軍は自ら目黒不動尊御宝前に額づき、祈願。すると忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰りました。この霊験を目の当りにした家光公は瀧泉寺を篤く尊信することとなり、大願成就の報恩に、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍を造立します。歴代の将軍が折々に参詣する宏壮な堂塔は『目黒御殿』と称され、庶民も列を成して詣でる江戸随一の名所となりました。

開創以来千二百餘年を閲する今日も変ることなく、鎮護国家並びに萬民豊楽を祈念して、護摩供が毎日厳修され、毎月28日の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れます。

公式サイト:http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/6ryusenji/

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出典元:http://www.tendaitokyo.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/01/ryusenji03.jpg

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出典元:http://www.tendaitokyo.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/01/ryusenji04.jpg

「大塚・護国寺」

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出典元:http://www.city.bunkyo.lg.jp/var/rev0/0091/6706/goko.jpg

宗派:真言宗豊山派

正式名:真言宗豊山派大本山護国寺

所在地:112-0012 東京都文京区大塚5401

問合せ:03-3941-0764

建立:天和元年(1681

本尊:如意輪観世音菩薩

開基:桂昌院亮賢(開山)

インフォメーション:天和元年(1681)五代将軍徳川綱吉が、生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺で如意輪観音を本尊としています。後には将軍家の武運長久を祈る祈願寺となりました。元禄時代の本堂、昭和3年に移築された月光殿は、ともに国の重要文化財に指定されており、その他指定文化財も数多く存在します。明治期以降徳川家との関係が絶たれ、一般人の墓所を造成し三条実美、山県有朋、田中光顕、大隈重信などが眠ります

公式サイト:http://www.gokokuji.or.jp/

関連サイト:http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/jisha/gokokuji.html

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出典元:http://www.city.bunkyo.lg.jp/var/rev0/0091/6707/gokokuji.jpg

「上野・寛永寺」

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「寛永寺根本中堂」出典元:http://kaneiji.jp/syodou/images/image_01.jpg

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「清水観音堂」出典元:http://kaneiji.jp/syodou/images/image_03.jpg

宗派:天台宗

正式名:東叡山 寛永寺 円頓院

所在地:110-0002 東京都台東区上野桜木1丁目1411

問合せ:03-3821-4440

建立:寛永2年(1625年)

本尊:薬師如来秘仏、重要文化財)

開基:徳川家光天海(発願)

インフォメーション:上野寛永寺(天台宗東叡山寛永寺)は、天海僧正(慈眼大師)の進言により、江戸城の艮(うしとら、北東)の鬼門の守として、寛永2(1625)に本坊が落成しました。東叡山は東の比叡山を意味し、寛永年間に創建時の年号によって寛永寺の勅号を与えられています。上野寛永寺は将軍家の墓を芝増上寺と二分して菩提寺として成り、上野の山一帯に本坊円頓院を初めとして諸堂、子院がありましたが、慶応4(1868)の東征軍と彰義隊による、いわゆる上野戦争時に、その多くが焼失しました。現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院本地堂を移築したものです。

公式サイト:http://kaneiji.jp/

関連サイト:http://www.taito-culture.jp/history/kaneiji/japanese/kaneiji_introduction_01.html

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「不忍池辯天堂」出典元:http://kaneiji.jp/syodou/images/image_04.jpg

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「寛永寺旧本坊表門」出典元:http://kaneiji.jp/syodou/images/image_06.jpg

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