生きる歓びの表現者・熊谷守一伝


生きる歓びの表現者・熊谷守一伝

身近なモノや人を単純な線と色で表現した作品で知られる作家、それが熊谷守一です。生き方そのものも飄々とした生涯は、最近、ひそかな人気を高めています。ご紹介します「生きる歓びの表現者・熊谷守一伝」です。

「守一の生い立ちと就学」

出典元:http://kumagai2017.exhn.jp/img/top/img_top01.png

出生情報:188042日岐阜県生まれ

没年情報:197781日没・享年97

サマリーレポート:熊谷守一は明るい色彩と単純化された形を持つ独特の作風で知られており、日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられています晩年は花や虫や鳥など身近な対象の作品を生み出しました。また飄々とした味わいを持つエッセイでも知られ、『へたも絵のうち』(原著は1971年、現・平凡社ライブラリー刊)は、現在もロングセラーの文庫となって若い層にも読み継がれています。

 

 

「生涯の創作活動」

「つけち記念館」出典元:http://tono-kanko.jp/wp-content/uploads/2016/02/76ee3810684e653b110e7bca012a9e78-320×320.jpg

1880(明治13年)42、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれ子供時代から絵に親しみました。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県議会議員となり、1885年(明治18)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため、有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じて市制を実現して1889年に初代岐阜市長に就任。1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物です。製紙工場のほか春牛社牧牛場などを経営する国三郎は政治や商売に忙しく、守一が3歳のときに祖母や母から引き離して他の兄弟とともに熊谷製糸工場に隣接する岐阜市内の邸宅に住まわせ、妾の一人を「おかあさん」と呼ばせて養育させました。同家には国三郎の二人の妾と大勢の異母兄弟が暮らしていました。岐阜県尋常小学校に入学した11歳のとき、濃尾地震で友人を多数亡くす出来事に見舞われています。12歳ころより本格的に水彩画を描きはじめ、14歳で岐阜市尋常中学校に進学します。17歳で上京し私立校正則尋常中学に転校しますが、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」と言われたため、1897(明治30年)に慶應義塾普通科に編入し、1学期間だけ通って中退。翌年1898年共立美術学館に入学します。

1905年の樺太」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/Battle_of_Sakhalin.JPG/300px-Battle_of_Sakhalin.JPG

1900東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科選科に入学し、青木繁・和田三造・山下新太郎ら同級生とともに黒田清輝らの指導を受け、人体のデッサンや闇の中でのものの見え方などを探究しつつ、膨大なスケッチを重ねながら様々な表現方法を模索します。しかし在学中「父の死」「家業の破産」に見舞われ、若くして借財を抱える身となります。1904年、美術学校を首席で卒業しますが直後に日露戦争が勃発し、画業に専念することは叶わず、19051906年にかけ樺太調査隊に参加し、多くのスケッチ画を作成する業務に携わります。この樺太調査の折、小舟で海岸線を巡り、現地で漁業に携わるアイヌの人々の作業風景を目の当たりにして、守一は「生活するヒト」の姿に感銘を受けます。

「蝋燭」出典元:http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kuma16.gif

1909年、自画像『蝋燭』闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞し、画壇から注目を浴びる契機となります。しかし翌年一時帰郷し、1915(大正4)年に再上京するまで約6年間、郷里で兄を頼って材木運搬をはじめさまざまな仕事に就きます。とは言いながら、実際は真面目に仕事に励む状況ではなく、倦怠な暮し振りで兄弟間で多くの軋轢を生んでいきます。居ずらくなった守一は再上京し、1915年第2回二科展に「女」を出展しています。しかし上京後も友人の資産家・斎藤豊作の支援を受ける暮らしぶりで、192242歳で結婚するまでの6年間も倦怠期間となります。結局、1909年の文展入賞以来、十数年間、創作活動は殆ど行っておらず、守一の空白区間となります。

「陽の死んだ日」出典元:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/img/C/img_c3/works_c3b_06.gif

192242歳で紀州の資産家の娘・大江秀子と結婚し、5人の子供に恵まれますが、売るための絵を描くことができづ、貧乏が継続します。熊谷は自著に妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられたと後に述べています。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹った時も医者に見せることができず死なせてしまい、この時の心象風景を守一は絵に描いていています(『陽の死んだ日』1928)。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたと記述しています。1929(昭和4年)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たりますが、これ以後も妻の実家に経済的な支援を受け続けます。1932年には妻の実家から3000円の支援を受け池袋に自宅を建築しています。

守一のターニングポイントは意外にも日本画との出会いでした。1938同じ二科会会員の濱田葆光強い薦めで墨絵(日本画毛筆画)を描き、この年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで守一初めての個展が開かれ好評を博します。58歳から本格的にはじめた日本画を転機として、彼の画面には極端なまでの簡略化が行われ、次第に「守一様式」と呼ばれる平面で明快な表現を確立していきます。画家の生涯活動を俯瞰すると多くの場合、壮年期間の30年間位ですが守一の場合は、彼がまともに画家として働いた57歳から97歳までの約40年間ということになります。

「へたも絵のうち」出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41791EHZZYL.jpg

「小さいころから、誰にも気兼ねせづに、したいことをしてきた」と自ら語る熊谷守一だから、名声を得てからも、従来のペースを変えることはありませんでした。また、距離を置いて現世を見ていた熊谷守一は、美しい景色や名勝絶景の類に関心を向けませんでした。時代は大作主義に向かい、展覧会には畳何枚分もの画布に描かれた絵が並ぶようになっていましたが、守一は名を成してからも小さな板に平塗りの絵を描き続けました。こうした一連の常識破りの行動を見て行くと、熊谷守一は抵抗精神に富んだ反俗的な人間だったように見えます。しかし彼は「へたも絵のうち」の最後に自身の生涯を総括して次のように記しています

私はほんとうに不心得者です。気に入らぬことがいっぱいあっても、それにさからったり戦ったりはせずに、退き退きして生きてきたのです。ほんとうに消極的で、亡国民だと思ってもらえればまず間違いありません。私はだから、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます。監獄にはいって、いちばん楽々と生きていける人間は、広い世の中で、この私かもしれません。

 

 

「関連美術館」

①「豊島区立熊谷守一美術館」

出典元:http://www.city.toshima.lg.jp/127/bunka/bunka/jigyo/006112/images/gaikan.jpg

美術館インフォメーション:画家熊谷守一(1880年~1977)の旧宅跡地に建つ美術館。1985年に熊谷守一の次女である熊谷榧氏が私設で美術館を開館し、2007年より区立美術館として現在に至ります。展示されている熊谷守一の作品は、油絵、墨絵、書など多岐にわたり、常時約60点の作品が楽しめます

出典元:http://www.city.toshima.lg.jp/127/bunka/bunka/jigyo/006112/images/galali-3f.jpg

「白猫」出典元:http://www.city.toshima.lg.jp/127/bunka/bunka/jigyo/006112/images/s106.jpg

所蔵作品:「白猫」「(絶筆)アゲ羽蝶」など

公式サイト:http://kumagai-morikazu.jp/

参考サイト:http://www.city.toshima.lg.jp/127/bunka/bunka/jigyo/006112/index.html

所在地:東京都豊島区千早2276

問合せ:0339573779

開館時間:10301730

休館日:月曜日・年末年始(1225日~17日)

入館料:一般500円・高校大学生300円・小中学生100

②「愛知県美術館/木村定三コレクション」

出典元:http://www-art.aac.pref.aichi.jp/info/img/profile_p01.jpg

美術館インフォメーション:名古屋の著名な美術品収集家木村定三氏(1913-2003)とそのご遺族から寄贈された、3,000点を超えるコレクションです。浦上玉堂や与謝蕪村などの文人画をはじめとする江戸時代の絵画、近代の日本画で特別な位置を占める小川芋銭、木村氏と交流のあった熊谷守一や須田剋太といった画家たちの作品を核としながら、陶磁器等の工芸品や中国・日本の仏教彫刻、考古遺物など広範囲にわたっています。木村定三コレクションの熊谷守一作品は214点を数え、一人の画家の作品数としては最大です。二人の出会いは1938(昭和13)年の「熊谷守一新毛筆画展」で、当時木村氏は25歳、熊谷は58歳という親子のような年齢差でしたが、木村氏はそれ以降数多くの熊谷作品を収集し続けることで経済的な支援を行いました。また木村氏は自らのコレクションのうち特に気に入ったものの箱書を熊谷に依頼しています。これは木村氏が熊谷の味わい深い書を深く愛した証でもあります。

所蔵作品≫

1957年・石亀」出典元:http://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/img/index_p07.jpg

所蔵作品:「1957年・石亀」

1962年・白猫」出典元:http://www.city.kasugai.lg.jp/dbps_data/_material_/localhost/61000/t6105200/29morikazutenneko.jpg

所蔵作品:「1962年・白猫」

公式サイト:http://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/index.html

所在地:461-8525 名古屋市東区東桜1-13-2 〔愛知芸術文化センター10階〕

問合せ:0529715511

開館時間:10001800(金曜は~2000まで)

休館日:月曜日・年末年始(1228日~13日)

入館料:一般500円・高校大学生300円・中学生以下無料

「至近な開催予定展覧会」

出典元:https://pbs.twimg.com/media/DLH9mI2UEAApy-i.jpg

展覧会タイトル:没後40年 熊谷守一/生きるよろこび

展覧会公式サイト:http://kumagai2017.exhn.jp/

参考サイト:https://twitter.com/kumagaiweb

開催期間:2017121日~2018321

開催箇所:東京国立近代美術館・一階企画展ギャラリー

提示予定作品:「雨滴」「猫」など200点余の予定

概要:(展覧会公式サイトより)

没後40年を記念して、画家、熊谷守一(1880‐1977)の回顧展を開催します。作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、若い時期から晩年までの制作を詳しくたどると、暗闇や逆光など特殊な条件下でのものの見え方を探ったり、スケッチをもとに同じ図柄を複数の作品に用いる方法をつくり上げたりと、さまざまな探究の跡が見えてきます。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。この展覧会は、最新の研究成果を踏まえて行われる、東京で久々の大回顧展です。《雨滴》(1961年、愛知県美術館 木村定三コレクション)、《猫》(1965年、同)といった代表作をはじめ、200点以上が一堂に会します。97年の長い人生には、作風の変化はもちろん、家族の死、自身の病などさまざまなことがありました。しかし熊谷はひたすらに生き、そして描きました。その作品世界を存分に感じ取っていただけたらさいわいです。

所在地:東京都千代田区北の丸公園31

問合せ:ハローダイヤル・0357778600

時間:10001700

休館日:月曜日ただし 18日、212日は開館)・年末年始・19日・213

入館料:一般1400円・大学専門学生900円・高校生400

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