地方の恩人・ローカル偉人列伝


地方の恩人・ローカル偉人列伝

日本各地にはその地方で尊敬される著名な偉人がいます。ほとんどの方が、その地方の活性化に寄与された皆さんです。そこでご紹介します「地方の恩人・ローカル偉人列伝」です。大分「油屋熊八」・静岡「鈴木梅太郎」・島根「会津屋八右衛門」・沖縄「飛び安里」・岡山「山田方谷」・和歌山「由良守応」・埼玉「本多静六」・秋田「酒井玄蕃」。

大分「油屋熊八」

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出典元:http://www.christiantoday.co.jp/data/images/full/14921/image.jpg

生年月日:1863829文久3716生まれ

出身地:伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)

経歴インフォメーション:

1863年(文久3年)に伊予国宇和島城下の裕福な米問屋の長男として生まれる。1870年(明治3年)には一般人にも苗字が許され、熊八の家は屋号の「油屋」を名乗ります。熊八は小学校しか出ていませんでしたが、小さい頃から働き者で有名でした。その甲斐あってか、熊八は1890年(明治23年)27歳の時に宇和島の町会議員となります。そして30歳になると心機一転大阪に渡り、米相場で巨万の富を築くので。そのときつけられたあだ名が「油屋将軍」でしたしかし直後に勃発した日清戦争後に相場に失敗して全財産を失います

35歳の時にアメリカに渡り放浪の上、現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後、約3年滞在。帰国後、再度相場師となりますがうまくいかず、熊八のアメリカ渡航時に別府に身を寄せていた妻を頼り、別府温泉で再起を図ろうと移り住みます。別府では、1911(明治44年)「旅人を懇ろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という新約聖書の言葉を合言葉に、サービス精神の実践として亀の井旅館(現在の亀の井ホテル別府店)を創業。1924には洋式ホテルに改装して亀の井ホテルを開業します。続いてバス事業に進出し、1928(昭和3年)110に亀の井自動車(現在の亀の井バス)を設立して、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスの運行を開始しました。この間、梅田凡平らとともに別府宣伝協会を立ち上げ、別府お伽倶楽部のお伽船活動に参加する中で、自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、大正の広重といわれる盟友吉田初三郎とともに別府の名前を全国へと広めました。

今でこそ観光地の売出しや開発には公費の支出が当たり前な現代とは違い、別府温泉の宣伝はすべて熊八個人の私財と借財でまかなわれました。そのため熊八没後、亀の井自動車や旅館は借金の返済のため売り払われたが、その行動力と独創力に敬意をこめ別府観光の父」「別府の恩人として慕われ、別府市民らで「油屋熊八翁を偲ぶ会」が作られています2007111日にはその偉業を称えて大分みらい信用金庫(本社・別府市)の依頼により、別府駅前にブロンズ像が建てられました。

職業:観光事業者

亀の井ホテル公式サイト:http://www.kamenoi.com/

別府観光協会サイト:http://www.beppu-navi.jp/

別府観光協会FACEBOOKhttps://www.facebook.com/bepputac

関連サイト:http://www.christiantoday.co.jp/

別府亀の井ホテル住所:874-0936 大分県別府市中央町5-17

同上問合せ:TEL:0977-22-3301

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「日本初のバスガイドと熊八」出典元:http://www.christiantoday.co.jp/data/images/full/14922/image.jpg

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「当時の亀の井ホテル食堂」出典元:http://www.christiantoday.co.jp/data/images/full/14924/image.jpg

静岡「鈴木梅太郎」

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出典元:http://www.city.makinohara.shizuoka.jp/ftp/08gt04/image/suzukiumetaro.jpg

生年月日:187447日生まれ

出身地:現在の静岡県牧之原市堀野新田

経歴インフォメーション:

静岡県榛原郡堀野新田村(現・牧之原市堀野新田)に、農家の次男として生誕。1888年(明治21)上京し、翌1889年東京農林学校(1890年帝国大学農科大学と改称)に入学、1896年農科大学農芸化学科を卒業後、大学院に進み、クワの萎縮病の原因を研究。在学中に古在由直(こざいよしなお)、レーブらに学びます。1900年(明治33)農科大学助教授となり、1901年欧州に留学、ドイツのE・フィッシャーのもとでタンパク質化学を研究し、1906年帰国、同年盛岡高等農林学校教授、翌1907年東京帝国大学農科大学教授となります。この間、理化学研究所創設に参加し、1917年(大正6)主任研究員となり、また満州国大陸科学院長を務めます(19371941)。
留学中、日本人の体格が貧弱なのは米食が原因ではないかと考え、帰国後、米のタンパク質の研究を始め、また脚気の原因の白米説に興味をもち、その実験的研究を開始し、脚気に効く成分を米糠から得てアベリ酸(のちオリザニン)と命名、これは新栄養素であろうと19101213日の東京化学会例会で発表し、ビタミン発見の先駆を成し遂げます(鈴木の論文発表は19112月。ドイツのC・フランクは独立に同じ物質を得、ビタミンと命名して1912年に論文発表しています)。

第一次世界大戦で輸入の途絶したサルバル酸、サリチル酸など医薬品の工業的製造、米を使わない合成清酒「理研酒」の発明と量産、ビタミン剤の製造にも成功。1924年「副栄養素の研究」により学士院賞受賞、1943年(昭和18)文化勲章を受章。妻は建築学者辰野金吾の娘、須麿子です。著書に『植物生理化学』(1940)、『鈴木梅太郎博士論文集』(第1巻『植物生理の研究』〈1944〉など全5巻)、『研究の回顧』(1943)があります。職業:農芸化学者栄養化学者

関連サイト:http://www.city.makinohara.shizuoka.jp/bg/profile/ent/1099.htm

「一般社団法人・鈴木梅太郎博士顕彰会」サイト:http://www1a.biglobe.ne.jp/umetarou/

関連住所:420-8601 静岡市葵区追手町96号静岡県庁健康福祉部薬事課内

問合せ0548-53-2646 牧之原市役所社会教育課

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出典元:http://www1a.biglobe.ne.jp/umetarou/umetarou.jpeg

島根「会津屋八右衛門」

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出典元:http://www.iwaminokuni.com/uploads/guide/thumbs/IMG_100727_152125.jpg

生年月日:天保712231837129生まれ

出身地:岩見国(島根県浜田市松原町)

経歴インフォメーション:

家は浜田藩の廻船御用を務めていました。父清助が紀州灘で遭難(のち生還),藩に対する損害の弁済目的で,八右衛門は渡辺崋山の影響を受け竹島(鬱陵島)との密貿易を企て,天保初年(1830年頃)より,藩黙認のもと,密貿易を実行し,さらに南蛮貿易にまで手を伸ばし大いに藩財政に貢献しました。しかし間宮林蔵の探索で,7年に大坂町奉行に逮捕され,この大規模な密貿易が発覚します(竹島事件)。家老ら2人の切腹をはじめ数十人が処罰され,八右衛門は勘定方橋本三右衛門と共に死罪となりました。しかし八右衛門らは、年貢増徴や藩士の俸禄切り下げによらずして財政危機を救おうとした人物として、地元を中心にいまだに根強い人気があります。また、この竹島事件を機に,幕府は「異国渡海禁制」の触れ書きを全国に発したのです。

職業:江戸時代回船問屋浜田藩御用商人)かつ密貿易事業家

関連サイト:http://www.iwaminokuni.com/

関連サイト:http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1393390817806/index.html

「会津屋八右衛門の頌徳碑」所在住所:浜田市松原町

問合せ:0855-25-9530浜田市産業経済部観光交流課

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出典元:http://www.city.hamada.shimane.jp/www/contents/1393390817806/simple/140226193418_0.jpeg

沖縄「飛び安里」

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出典元:http://www.town.haebaru.lg.jp/_files/00000406/image04.jpg

生年月日:1768生まれ

出身地:首里鳥小堀村(現・鳥堀町)

経歴インフォメーション:

安里周當(あさと しゅうとう)は、琉球王家に代々つかえた花火職人の三代目です。首里鳥堀に生まれ、安里家の養子となって花火師の仕事を受け継ぎました。危険な火薬を扱う花火師は最先端の科学者として尊重された時代で、裕福な家系であったようです。1800年に中国からの使者(冊封使)を迎えたときには「松竹梅」の文字が現れる仕掛け花火を識名園で披露して、尚温王から褒章を受けました。また周當は空を飛びたいという夢をいだき、飛行実験を繰り返した人物でした。大空への挑戦を続けた彼は、やがて「飛び安里」と呼ばれるようになります。

飛び安里はさまざまなタイプの飛行機を試作しましたが、はじめは失敗続きでした。改良に改良を重ねたのち、やがて鳥のように翼を羽ばたたかせる機体をつくりだしたと言われます。現代ではオーニソプターとよばれるタイプの飛行機です。数本の弓を支柱に取り付け、その上に翼を配置しました。強力な弓の弾力を補助として、脚力で翼を上下させたと伝えられています。(『資料集 飛び安里』より) ただし実際には羽ばたき機能はほとんど利用されず、大きな翼で風を受けることでグライダーのように滑空したのではないかと想像されています。翼幅9mにもなる大型の機体で、骨組みは軽くて丈夫な真竹が主材料でした。南風原町の高台である高津嘉山などの場所から飛行したとの言い伝えが残っています。

飛び安里の機体は、1915年ごろまで子孫の家で保管されていました。しかし経年劣化や火事による消失で、機体も設計図も現在は残ってはいません。やがて大正時代に飛び安里の存在が新聞で紹介されて以降、研究書や新聞記事などを通じて沖縄県民や航空関係者の間で「飛び安里」の名が少しずつ知られるようになりました。さらに飛び安里が大きく注目を集めるようになったのは、1987年に沖縄三越で開催された「世界の鳥人 飛び安里200年展」がきっかけです。沖縄の偉人として再評価が始まりました。1999年には南風原町の町おこしグループ「すきです南風原・夢・未来委員会」が、飛び安里の機体の想像図面をもとにして実物サイズのレプリカを製作し、実際に有人飛行に成功しました。同グループが2002年に製作した2分の1サイズのレプリカは、南風原町役場の1Fロビーに現在展示されています。

職業:花火師

関連サイト:http://www.town.haebaru.lg.jp/kankou/tobiasato.html

関連サイト:http://www.haebaru-kankou.jp/tobiasato.html

南風原町役場 住所:901-1111 沖縄県南風原町字兼城686

問合せ:098(889)4415

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出典元:http://www.town.haebaru.lg.jp/_files/00000437/image07.jpg

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出典元:http://www.town.haebaru.lg.jp/_files/00000437/image07.jpg

岡山「山田方谷」

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出典元:http://yamadahoukoku.com/map221-thumb.jpg

生年月日:文化2(1805)221

出身地:備中松山領阿賀郡西方村(現・高梁市中井町西方)

経歴インフォメーション:

山田方谷(1805年~1877)は江戸時代末期から明治時代初期の漢学者であり、備中松山藩士でした。学者として藩に仕えていた方谷でしたが、藩主板倉勝静(1823年~1889)のもとで藩政改革を断行し、大きな成功をおさめました。勝静が幕府の老中となると、その政治顧問として幕政にも関与しました。 また、藩校有終館や方谷自身の私塾、明治以降には備前の閑谷精舎(閑谷学校)などで多くの子弟を教え、備中松山藩を支えた人々を育てています。越後長岡藩の河井継之助(1827年~1868)のように他藩から来遊する者も数多くありました。方谷自身は明治維新を境に教育に専念し、世に出ることを拒みましたが、その思想、手法、人材は次世代の大きな財産として残されました。小南の金剛寺境内にある方谷庵は、木造平屋建て、切り妻、桟瓦葺きの簡素な茶室風の建物。方谷はここに私塾を開き子弟教育を行いながら晩年を過ごしています。終焉の地となったここに親交のあった勝海舟の題字による遺跡碑が建てられています

職業:漢学者

関連サイト:http://www.city.takahashi.okayama.jp/site/koryukan/yamadahokoku.html

関連サイト:http://www.okayama-kanko.jp/okayama/oka-rekishi100/048/048.html

関連サイト:http://ftown.boo.jp/takahashi/info/post_52.html

文化交流館住所:716-0043 岡山県高梁市原田北町1203番地1

問合せ:電話:0866-21-0180 /文化交流館

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「私塾・方谷庵」出典元:http://www.okayama-kanko.jp/okayama/oka-rekishi100/048/48-3.jpg

和歌山「由良守応」

生年月日:1827(文政10) 生まれ

出身地:和歌山県由良町

経歴インフォメーション:

文政10年(1827)、門前村(現:由良町)に生誕。子供の頃から馬好きで、馬小屋で寝たりすることもあった。守応は、菊池海荘にかわいがられ、武術や漢学を学び、また、後藤象二郎、伊藤博文、陸奥宗光らと交流、これが縁となり、明治元年(1926)、大阪府勧農課に入り、次いで内務省勧農局に転任します。明治4年(1871)、岩倉具視の欧米使節団に参加、英国で二輪馬車や四輪馬車、オムンボスという二階建ての乗合馬車を見て、馬車に魅せられた日々を送り、日本でも走らせたいと夢を持ちます。特に荘厳と走る女王の馬車を見て、同じものを天皇の御召馬車として購入するように使節団会計係の田中光顕に熱弁を振るって嘆願し、実現させます明治6年(1873)、帰国後、御召馬車の手綱をとる皇宮御馬車係となり、英国以来の夢が叶います。ところが、皇后・皇太后を乗せた馬車が転覆しその責任をとって辞任します

明治7年(1874)、乗合馬車会社「千里軒」を開業、東京浅草から新橋間に日本で初めて二階建ての馬車を走らせます。このオムンボスの勇姿に東京の人々は歓声をあげて喜びました。しかし、同業者の増加や鉄道等の発達により、明治13年(1880)、営業に終止符を打ちます。その後、時代の先端を行く発動機の製造会社を設立しますが、うまく事は運ばず帰郷、明治27年(1894)失意の中67歳で亡くなります。出身地の由良町興国寺内には、守応の功績を称え、顕彰碑が建立されています

職業:事業家

関連サイト:http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yura.html

関連サイト:http://www.tcs-net.ne.jp/~hamataku/syoga.html#yuramorimasa

問合せ:TEL073-441-2050 和歌山県企画部企画政策局文化国際課 

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「由良守応の書」出典元:http://www.tcs-net.ne.jp/~hamataku/syoga_yuramorimasa.JPG

埼玉「本多静六」

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出典元:http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/flower/rokkou/senryaku/img/rekishi6_01.jpg

生年月日:慶応2721866811 生まれ

出身地:武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)

経歴インフォメーション:

武蔵国埼玉郡河原井村 に折原家の第6子として誕生。東京山林学校に入学するまでの間河原井村で少年時代を過ごしました。当時の河原井村は戸数25軒ほどの小さな村でしたが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家でした。ところが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになります。

しかしそれでも向学心は衰えることなく、14歳の年志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み農閑期の半年は上京し勉学に努め、農繁期の半年は帰省して農作業や米つきに励むという変則的な生活を三年間繰り返しました。明治17年(18843月、東京山林学校(後に東京農林学校から帝国大学農科大学)に入学。卒業時には首席となり銀時計授けられました。卒業1年前の明治22年(18895月、元彰義隊隊長、本多敏三郎の娘・詮子と結婚し婿養子となります

東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツへ留学ドイツでは、2つの学校に学び、最初はドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、更に1年半学問を極めますドクトル学位を取得、欧米を視察した後帰国し、母校の助教授教授に。

日比谷公園を皮切りに、北海道大沼公園福島県鶴ヶ城公園埼玉県羊山公園東京都明治神宮長野県臥竜公園石川県卯辰山公園福岡県大濠公園ほか、設計・改良に携わった公園多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツを始め、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わります東京駅丸の内口駅前広場の設計も行ほか、行幸通りも本多が担当し、その後歴代の弟子達が改良設計に携わりました。また、関東大震災からの復興の原案を後藤新平内務大臣より依頼されて、二昼夜不眠不休で作成。また、昭和3年(1928)当時の比企郡菅谷村(現埼玉県比企郡嵐山町)にある渓谷周辺を訪れた際、風景が京都の嵐山によく似ていることから、武蔵嵐山と命名し、のちに駅名や自治体名が町制施行時に嵐山町と改称しました

職業:林学博士造園家株式投資家

公式サイト:http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/honda_00/honda_05.html

関連サイト:http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/flower/rokkou/senryaku/rekishi6.html

「本多静六記念館」住所:〒346-0192久喜市菖蒲町新堀38

「本多静六博士の森 」住所:菖蒲南部産業団地 三崎の森公園内

問合せ:0480-85-1111(菖蒲総合支所代表)

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「本多静六記念館」出典元:http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/honda_00/honda_05.images/honda_kinenkan.jpg

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「本多静六博士生誕地記念園」出典元:http://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/honda_00/honda_05.images/honda_28.jpg

秋田「酒井玄蕃」

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「致道博物館」出典元:https://pbs.twimg.com/media/CALlSnxUgAE2Z63.jpg

生年月日:天保1312131843113

出身地:山形県

経歴インフォメーション:

酒井 了恒(さかい のりつね)は、出羽庄内藩家老・酒井了明の長男。幼名虎之進。元服して吉弥。慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である玄蕃、吉之丞を襲名しました。戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られています。戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦いましたが、庄内藩は会津藩仙台藩米沢藩とともにその中心となる藩の一つでた。

庄内軍は当初、白河方面を救援する予定で準備を進めていましたが、久保田藩新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返ったため、白河救援のために移動していた約900人の部隊が急きょ舟形で合流し、新庄城を攻めることとなります。この時、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍旗を掲げた庄内藩二番大隊を指揮していたのが、26歳の酒井了恒でた。数に勝る新政府軍・新庄藩の連合軍に対して、数に劣る庄内藩は最新兵器と巧みな戦術で反撃。新庄藩兵は強力な庄内藩兵を前に戦意を喪失し、新庄城から脱走したと言われています。新庄攻略後、久保田藩領内に北進し幾多の戦闘を繰り返し、横手城を陥落させ、角間川の戦いで大勝を挙げると、わずか2か月足らずで久保田城の目前にまで進軍しました。(鶴岡市致道博物館に酒井家の資料展示が常設でなされています)

職業幕末明治時代の武士,官吏

関連サイト:http://hizou.30maps.com/map/42149

致道博物館TWITTER:https://twitter.com/chido1950

墓所所在地東京都 台東区 谷中七丁目2

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出典元:http://hizou.30maps.com/files/node201307/1375024806_55.jpg
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