数奇なる美術資産「松方コレクション」/2016.4.26修正更新


数奇なる美術資産「松方コレクション」

日本各地に美術館がございます。中には地方自治体が莫大な予算を投入した美術館も存在しますが、つまる所、コレクションコンセプトや美術館の設立経緯がその美術館の価値に直結する観があります。ところで数ある美術館の中には激動する時代の副産物として生まれたものもあります。それは個人コレクション『松方コレクション』に源を発する美術館エピソードです。その数奇な歴史の一頁をご紹介してみたいと思います。

日本船舶海洋工学会URL:http://www.jasnaoe.or.jp/k-senior/2009/090813-kaiyuu-okamoto.html
鈴木商店記念館URL:http://www.suzukishoten-museum.com/

 

 

『松方幸次郎なる人物』

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「松方幸次郎」出典元:http://www.jasnaoe.or.jp/k-senior/2009/090813-kaiyuu-okamoto/okamoto-05.jpg

生年月日・出生地:慶応1.12.1(1866.1.17)鹿児島生。

明治大正期の実業家。松方正義,満佐子の3男で鹿児島生まれ。東大予備門中退後,明治17(1884)年アメリカに留学。エール大学で法学博士号を取得し,23年帰国。日本火災副社長などを務めたのち,川崎正蔵 の創立した川崎造船所社長に29年に就任し,積極的な拡張戦略を遂行して,同社を一時は日本最大の造船企業に成長させました。

ストックボード[1]

「川崎造船のストックボート造船風景」出典元:http://www.suzukishoten-museum.com/

本領が最も発揮されたのは第1次世界大戦期で,自らヨーロッパに出向き,同地から著名なストック・ボート政策や多角化を指揮。その結果,同社は海運,製鉄部門を擁する巨大企業になったが,戦後の不況期には積極策が失敗して経営が危機を迎えたため,昭和3(1928)年に社長を退任。この間,神戸商工会議所会頭のほか,神戸瓦斯など多数の企業に関係しました。その後,7年にソ連の石油の輸入に従事,11年から敗戦まで衆院議員を務めます。松方コレクションと呼ばれる美術品を収集したことでも有名です。

 

 

『コレクション収集の歴史』

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「画商フランク・ブラングィン」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7a/Frank_Brangwyn.jpg/220px-Frank_Brangwyn.jpg

松方コレクションは川崎造船所(川崎重工業の前身)社長を務めた実業家松方幸次郎 (1865 – 1950) がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクションで、近代のものを中心とする西洋の絵画・彫刻、日本の浮世絵が主体です。松方が美術品収集を開始するのは、1916年(大正5年)3月から1918年にかけての欧州滞在時のことです。コレクション開始の経緯については諸説あり定かでありませんが、ロンドンの画廊で、興味本位で絵画を購入したことが収集のきっかけであったと言われています。1916年、松方はベルギー出身のイギリスの画家フランク・ブラングィン(Frank William Brangwyn、1867年 – 1956年)と知り合います。同世代の2人は親しい友人となり、ブラングィンは松方の美術コレクションのアドバイザーを務めます。松方は1918年までのロンドン滞在中に、イギリス絵画を中心とする、1000点以上の作品を収集するとともにこの他、1918年にはフランスの宝石商アンリ・ヴェヴェールが持っていた浮世絵約8000点を一括購入。同じ年、リュクサンブール美術館館長(後にロダン美術館館長となる)のレオンス・ベネディットの仲介で、ロダンの代表作を一括購入しています。1918年にかけての欧州滞在を第1回目の収集旅行とすると、2回目の収集旅行は1921年(大正10年)4月から1922年2月にかけてで、この時はロンドンのほか、パリ、ベルリンに渡っています。このときの渡航は、日本海軍の依頼で潜水艦(Uボート)の設計図を入手するのが密かな目的だったとも言われています。松方は当時健在であった印象派の巨匠モネとも直接に交渉し作品を購入しています。

関連URL:https://jp.ambafrance.org/-Japonais-

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「モネと交流する姪の竹子」出典元:http://www.ambafrance-jp.org/local/cache-vignettes/L400xH300/711eb39926021dc0b475246132487987-782e6.jpg

画商などから購入するときも剛胆で、ステッキで「ここからここまで」と指して購入したとの逸話も伝えられます。当時、松方は「私が自由に使える金が三千万円できた」と語っており、これは現在の通貨価値に換算すれば300億円程度と推定されます。松方は1926年(大正15年)4月から1927年(昭和2年)4月にかけても、ヨーロッパに滞在しコレクションを増やしており対象は絵画、彫刻、工芸品、日本国外に在った浮世絵などでその点数は絵画2000点、浮世絵8000点におよぶといわれたが、現在はその正確な点数は分かっていません。

 

 

『散逸の不幸』

関連URL:http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201003240288.html

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「ブラングィン設計の共楽美術館構想図」素描・出典元:http://www.asahicom.jp/culture/news_culture/images/TKY201003240289.jpg

収集の一方、松方は共楽美術館という美術館を設立する構想を持っており、ブラングィンが設計図を作成していました。しかし、1927年に世界恐慌の影響で川崎造船所の経営が破綻し、負債整理のため松方も私財を提供せざるを得なくなります。そのため、日本にあったコレクションは十五銀行、藤木ビル等の担保となり、売立てにより散逸してしまいます。それらの一部が現在ブリヂストン美術館、大原美術館に収蔵されているものです。浮世絵のコレクション約8000点は、昭和13年(1938年)に皇室へ献上され、昭和18年(1943年)帝室博物館(東京国立博物館)に移管されています。

一方、日本国外で保管していたコレクションは散逸を免れたが、1924年に実施された10割関税(関東大震災の復興資金のため、買値の10割の関税、つまり買値と同額の税金がかかった)が障害になり、昭和初期の軍国化の傾向の中で西洋美術のコレクションは軍部に悪印象を与えるのを恐れたこと等もあって、そのまま日本国外に保管されていました。

ロンドンに保管していたコレクション(約300点と推測されている)は1939年に火災で焼失。パリに保管していたコレクション(428点との説がある)は、ロダン美術館に預けられていたが、第二次世界大戦のドイツの侵攻により、元大日本帝国海軍大尉日置釭三郎によりパリの近郊、アボンダンに疎開していました。ナチスの押収は免れたものの、戦後にフランス政府に押収されてしまいます。

 

『新たなる歴史のはじまり』

関連URL:http://museeduluxembourg.fr/histoire

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「リュクサンブール美術館」出典元http://museeduluxembourg.fr/sites/museeduluxembourg.fr/files/1fb08cf2f1073360b634174199a3e56f.png

パリに残された約400点の作品は、リュクサンブール美術館(当時のフランス現代美術館)の館長レオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていました。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、1951(昭和26)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となります。しかしその後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定します。実際の交渉の舞台裏は、1950年から松方コレクションの返還交渉が始まりとても難航します。

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「講和会議に臨む機中の吉田茂と白洲次郎」出典元:
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/Yoshida_en_route_to_San_Francisco_1951.jpg/250px-Yoshida_en_route_to_San_Francisco_1951.jpg

1951年のサンフランシスコ講和会議の際、側近の強い申し入れもあり首相吉田茂がフランスの外務大臣に強硬に要求したことにより、返還されることが決まります(平和条約によれば、連合国に管理されている日本の財産はそれぞれの国が没収するが、個人の財産は所有者に返還されるはずであった)。しかし、その後の交渉の中で、コレクション中、重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品についてはフランス側が譲らず、結局、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、書籍5点の合計370点の作品が返還されました(フランス側は「寄贈だ」と主張したため、「寄贈返還」という言葉が使われた)。実際の交渉内容はフランス側の条件付きで返還であり、その条件とは「日本政府がコレクションを展示するための専用の美術館を設置すること」「美術品の輸送費は日本側が負担すること」「ロダンの作品『カレーの市民』の鋳造費は日本側が負担すること」の3つでした。結局、日本側は受入れのための美術館建設を余儀なくされ、ル・コルビュジエにより基本設計が行われ、1959年に国立西洋美術館が開館することになります。http://museeduluxembourg.fr/histoire

 

『国立西洋美術館』

国立西洋美術館URL:http://collection.nmwa.go.jp/P.1959-0062.html

関連URL:http://www.city.taito.lg.jp/sekaiisan/seibi_2lecorbusier.html

関連URL:http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2014/283.html

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「国立西洋美術館」出典元:http://www.city.taito.lg.jp/sekaiisan/images/3photo/d3_1.jpg

建設に臨み1953年(昭和28年)末、当時の文部省は「仮称フランス美術館設置準備協議会」を設置します。しかし、当時の日本は財政難で、新しい国立美術館を造る余裕はありませんでした。文部省は1954年度予算に美術館建設費として1億5千万円を要求したが、認められたのはわずか500万円。そこで、文部省としては、東京・上野の東京国立博物館内の一展示館である「表慶館」を松方コレクションの展示場に充てようとしますが、フランス側はこれに不快感を示します。1954年初めに来日した、ルーヴル美術館館長(フランス国立美術館総長)のジョルジュ・サールは、松方コレクション専用の新たな美術館を早急に建設するよう、日本政府に要求します。

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「藤山愛一郎」出典元:http://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2014/osa3qr0000007zef-img/osa3qr0000007zps.jpg

こうした中、1954年には実業家・政治家の藤山愛一郎が中心となって「松方氏旧蔵コレクション国立美術館建設連盟」が結成され、1億円を目標に寄付金集めが始まりました。連盟では当時活躍していた著名美術家たちにも協力を求めます。すなわち、大口の寄付者には見返りとしてこれら著名美術家の作品をプレゼントしようというものでした。この提案に対し、美術家たちははじめ難色を示していたが、ある会議の席上、洋画家安井曾太郎が「このコレクションが戻ってきて、一番恩恵を受けるのは誰か。われわれ美術家ではないか」と発言したことがきっかけで、美術家たちは進んで協力するようになったと言われています。直後の1954年11月には補正予算で建設費5千万円が認められます。

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「ル・コルビジェ」出典元:http://www.city.taito.lg.jp/sekaiisan/images/lecorbusier/c2_1_3.jpg

建設地はいくつかの候補地の中から、上野公園内、寛永寺の子院の凌雲院跡地と決まり、建物の設計は20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに依頼することも1954年に決まります。1955年(昭和30年)3月には建設予定地にて鍬入式を挙行。同年11月にはル・コルビュジエ本人が来日して、建設予定地を視察。ル・コルビュジエは京都、奈良を訪問した後、帰国するが、彼にとってはこの8日間の日本旅行が最初で最後の来日となります。ル・コルビュジエからは1956年7月に基本設計案、1957年3月に実施設計案が届きます。これをもとに、彼の弟子にあたる前川國男、坂倉準三、吉阪隆正が実施設計を行い、建てられたのが、今日の国立西洋美術館本館です。ル・コルビュジエの設計案は、美術館本館のほか、講堂と図書館の入る付属棟、劇場ホール棟を含む大規模なものでしたが、財政難のため付属棟と劇場ホールの建設は見送られます。ただし、ホールについては、後に美術館の向かいに東京文化会館(前川國男設計)が建てられ、形を変えて実現しています。

1959年(昭和34年)1月23日、フランス外務省にてコレクションの日本への引渡式が行われ、4月には作品が船で日本へ到着。同じ4月、国の機関としての国立西洋美術館が設置され、富永惣一が初代館長に就任します。同年6月10日、高松宮宣仁親王夫妻や岸信介首相らの臨席のもと、開館式が挙行され、6月13日から一般公開が開始されました。開館から1か月で9万人が入場する盛況で、初年度の入場者数は58万人に達しました。

所在地:〒110-0007東京都台東区上野公園7番7号

設立年:1959年(昭和34年)

設計デザイン:ル・コルビジェ

代表的所蔵:

クロードモネ「睡蓮」1916年

クールベ「波」1870年

ロダン「考える人」1981~1982年

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「クロード・モネ睡蓮」出典元:http://collection.nmwa.go.jp/artize/l/0001510006L.jpg

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クールベ「波」出典元:http://collection.nmwa.go.jp/artize/l/0000620003L.jpg
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