明治の天才洋画家・五姓田義松伝


明治の天才洋画家・五姓田義松伝

幕末に生まれ、激動の時代を生きた天才洋画家が五姓田義松(ゴセダヨシマツ)です。日本の洋画壇の創世記を担った一人の天才画家の一生「明治の天才洋画家・五姓田義松伝」です。

生年月日安政24281855612)江戸生まれ

没年月日:大正4年(191594)横浜にて

プロフィール要約≫

出典元:http://ch.kanagawa-museum.jp/tenji/toku/yoshimatsu/fig/column_20150818a.jpg

その才能のわりに、歴史的評価も低く、美術史からも遠ざけられた一人の洋画家。五姓田義松(ごせだ・よしまつ)は後年「五姓田派」と評される画工一族の御曹司であり、幕末〜明治の日本美術黎明期にあって「早熟の天才」の名をほしいままにした画家です。10歳のとき英国人画家・ワーグマンに入門。1年遅れで入門してきた30歳年上の高橋由一の兄弟子であった義松は恐るべきスピードで上達、日本を代表する画家へと成長しました。更に当時世界美術の中心地であった パリで邦人初となるサロン入選を果たし、フランスアカデミズム絵画を日本人で初めて体得した画家でした。晩年、明治皇室から仕事を依頼されるほどの地位にありながら、何故、その天才性が急速に失われてしまったのか、そして誰が彼を美術史上から抹殺したのか。興味は尽きない画家です。

「出生~就学」

安政2年(1855)、父弥平治、母勢子の次男として、江戸に生まれた義松は、小さい時から絵の好きな少年だったといいます。武家の子として武道や読み書きを学ぶものの一向に上達する様子 がなく、絵画ばかりに熱中していた少年時代だったと本人は回想しています。時は幕末、急速に変化する社会と息子の行く末を案じた父と祖父は協議し、義松に武士の道を歩むことを諦め、絵師となるよう勧めたのです。そして驚くべきは、当時開港して間もない横浜で新しい技術だった西洋絵画を、直接西洋人から学ばせようとしたのです。時まさに1965年、義松は満10歳でチャールズ・ワーグマンに師事しました。義松少年は嬉々としてこの絵の修業に励みます。最初は江戸から通っていましたが、明治に入ると横浜に移住します。目に入る人々や風景を熱心に写し取った最初期の鉛筆画は、本当に描くのが楽しくて仕方がないというような息遣いにあふれています。

「画家活動経歴」

1872年・台所」出典元:http://ch.kanagawa-museum.jp/tenji/toku/yoshimatsu/fig/column_20150828.jpg

1872年・五姓田一家之図」出典元:http://ch.kanagawa-museum.jp/tenji/toku/yoshimatsu/fig/highlight_img03.jpg

1875年・老婆図」出典元:https://pbs.twimg.com/media/CeOEx6WUAAAAgFQ.jpg

明治4年(1871)になると、主に横浜在留の外国人たちを相手に絵画の制作販売を開始します。十代半ばにして画家として独立を果たしたわけです。その後はとんとん拍子に腕をあげ、名声を高めていきます。1874年、川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師としても勤務。1876年工部美術学校に入学しアントニオ・フォンタネージに師事しますが翌1877年に退学します。同年に開催された本邦初の西洋絵画コンクールでもあった第1回内国勧業博覧会洋画部門に「阿部川富士図」を出品し、そこで最高賞鳳紋賞を受賞し、名実ともに当時の洋画界のトップランナーとなります。因みに2位は高橋由一と山本芳翠でした。この事から五姓田義松は皇室や政府から製作依頼を多く受けるようになります1878年(明治11から宮内省に依頼されて後醍醐、孝明両天皇の肖像画などを描き、明治天皇の北陸、東海道御巡行には奏任官待遇で御付画家を命じられます。他に貴顕紳士の肖像画制作などにも多数携わり、明治の洋画家の最高峰は五姓田義松という評価を得ますそして1880年(明治13年)、義松25歳のとき転機が訪れます。日本ではもうやり尽くした感があったのでしょう、本場パリでどれほど自身の力が通用するのか試そうとしたのです。しかしパリではサロンに入選する等の成果を上げる一方、やはり異邦人が画壇を席巻するにはやや時代が早すぎる、という過酷な試練が待ち受けていました。

 

 

「晩年の活動」

1881年・西洋婦人像」出典元:https://sites.google.com/a/mytougane.com/tontororinohitorigotoa/_/rsrc/1479443664013/ato-mei-shu/2-sino-qininaruatisuto-da/2-o-wu-xing-tian-yi-song/76f852ef8a84f13e4c6e845d8fd29248.jpg?height=400&width=330

1882年・井田盤楠像」 出典元:https://pbs.twimg.com/media/CdvcqMsUYAAP3Ol.jpg

義松のフランス滞在は9年におよびますが、西洋でも写真が普及し始め、写実性以外のものに価値を求める印象派などが主流となり、日本でも西洋の新しい波に影響を強く受けた黒田清輝らが「新派」として活躍していました。古典的な絵画にこだわる義松は結局、大きな評価は得られなかったのです。失意のうちに、明治22 年(1889)に帰国。以後、横浜に居を構え、制作にうちこみました。帰国後の仕事は肖像画が多くなります。生活のために依頼を受けた仕事でした。画壇では五姓田義松より11歳若い黒田清輝が影響力を強めており、五姓田義松は日本でも時代遅れの画家になっていったのです。

 

 

 

「五姓田評価の背景」

「1883年・人形の着物」出典元:https://sites.google.com/a/mytougane.com/tontororinohitorigotoa/_/rsrc/1479443664013/ato-mei-shu/2-sino-qininaruatisuto-da/2-o-wu-xing-tian-yi-song/09-01-24.jpg

「1883年・操芝居」出典元:http://www.geidai.net/postcard/158.jpg

義松の渡欧は他の画家たちが行った「留学」などではなく字義通り「挑戦」でした。自らが磨き上げた技術が本場で通用するのかを試しに行ったのであり、本場で一人前の画家として成功することが最終的な目標だったに違いありません。しかし現実は数度のサロン入選だけでパリ画壇の寵児になれるわけもなく、元来金銭にルーズな面があったが故に生活が立ちゆかなくなった事も挑戦が結実しなかった結果と大いに関係しています。明治1426以後もサロンに入選、模写作品の高値の売却などの成果はあるものの、在仏時の代表作というものがないのが実情です。

「L’art et la mode掲載画(1884渡仏時)」出典元http://img1.garitto.com/data/shop/3675/product/_/436806e13c27ff25f563e2cf92888df8.C480.jpg

「水彩画仮題・農夫と馬(1884年渡仏時)」出典元:http://img1.garitto.com/data/shop/3675/product/_/b1a2275b6e055d80de2bde999de49e7c.C480.jpg

義松が渡仏したのは西暦1880年。その6年前、1874年はいわゆる印象派第1回展が開催されていました。印象派あるいは外光派が流行となり、以後、西洋画壇も変化を究めていく時代でしたたとえば黒田清輝が外光派を、梅原龍三郎がフォビスムを学習したように、次々と新しい作風を学び、日本にもたらすことが、日本洋画の展開を支える新しいモーメントとなっていました。明治初頭の技術偏重という傾向に強く反発するかのように、「絵画」の新しい波が押し寄せていたのです。その西洋画壇の流行を学習することは時代の趨勢でしたが、時代を逆行してまでも西洋絵画の本質を学習し、西洋で活躍しようとした義松は日本の画壇では「時代遅れ」として当時の画壇の評価対象外となっていったのです。188934歳に帰国。当時の日本美術界内部にうずまいていた洋画排斥運動への対抗として洋画家たちが大同団結して起こした明治美術に義松も参加するものの、深入りはせず翌年父とともに渡米し一旗揚げようと期したにもかからわず失敗します。その後、美術会社で版下画の業務を短期こなしたのち退職し、以後公的な制作はほとんどなくなります。そして晩年、彼が主に描いたのが土産として求められたいわゆる横浜絵でした。このような画家としての終わり方に衝撃を受けるのではありますが、終生、「絵画」という世界と関われた義松はある意味で幸せであった、とも思われます。特に「横浜絵」という世界は物販商品制作であり、そこで求められるタッチは義松が追究してきた黎明期の西洋絵画のそれに近いことを思うと、最後に「いい仕事」と出会えたのかも知れないと感じます。

「関連人物/チャールズ・ワーグマン」

生年月日:1832831ロンドン生まれ

没年月日:189128横浜市にて没

出典元:https://pbs.twimg.com/media/CcDGatJVIAEUxzu.jpg

「富士遠望図・1876年」出典元:http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/collection/symphony/fukei/imgs/pt1_24_01.jpg

「妻肖像・年度不詳」出典元:http://www.hohjinkai.or.jp/cosmopolitan/img/1609/03.jpg

1832ロンドンのスウェーデン系の家で生まれ、1852ごろパリにて絵を学んだといわれ、またそのころ陸軍に入隊して大尉を務めたとされるなど経歴に不明な点が多い。1857に「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者兼挿絵画家として広東アロー戦争の取材のため来訪。1861425日に長崎を訪れ、その後イギリス公使オールコックの一行に伴って、陸路を通り江戸まで旅行するが、75日(文久元年528日)にイギリス公使館となっていた東禅寺にて水戸藩浪士の襲撃を受ける。この時ワーグマンは、縁の下に避難しながら事件の一部始終を記録し、これを記事とスケッチにして横浜から発信している。1862には居留外国人向けの雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊。これはイギリスの風刺漫画雑誌パンチを模したものである。横浜居留地の人々の暮らしや日本政府への批判、同業の英字新聞への攻撃などを風刺漫画と文章で描いた。ただし多忙のためか、第2号は1865に発刊されており、そののち22年間にわたって月刊誌として刊行されていった。1863、日本人女性の小沢カネと結婚。この年薩英戦争が勃発、ワーグマンも取材のために写真家フェリーチェ・ベアトとイギリス艦隊に同行し記事などを書いている(彼とは後に「ベアト・アンド・ワーグマン商会」を設立している)。また同年から翌1864にかけて、下関戦争についても記事や挿絵をロンドンに送っている。同年、長男の一郎が誕生。1865五姓田義松がワーグマンの許に入門、翌1866には高橋由一が入門する。また1874には小林清親が入門しようと尋ねた。 18873月にジョルジュ・ビゴーへの挨拶を含めた『ジャパン・パンチ』の最終号を発刊。イギリスに帰国する。翌1887に弟ブレイクとロンドンで展覧会を開いた後、再び来日するが病に倒れる。 1891横浜にて58歳で死去、横浜外人墓地に葬られる。

参考サイト:http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/collection/symphony/fukei/pt1_24.php

「関連人物/高橋由一」

生年月日:1828320日江戸生まれ

没年月日:189476日根岸にて没

「鮭」出典元:http://i0.wp.com/artmatome.com/wp-content/uploads/2016/01/e8dce7a2.jpg?w=300

「花魁」出典元:http://i0.wp.com/artmatome.com/wp-content/uploads/2016/01/f4249998.jpg?resize=700%2C1024

「豆腐」出典元:http://i0.wp.com/livedoor.blogimg.jp/art_matomen/imgs/7/7/77b9e75d.jpg?resize=480%2C344

明治初期洋画の代表作家。文政1125日、下野国(栃木県)佐野藩士の子として江戸に生まれる。幼名猪之助、維新後は由一。号は藍川(らんせん)。幼少から狩野派ほかを学ぶが、嘉永年間(184854)に西洋石版画の迫真性に打たれ、1862年(文久2)幕府の洋書調所(ようしょしらべしょ)画学局に入り、川上冬崖のもとで西洋画法を学んだ。また横浜のワーグマンやショイヤー夫人にも指導を受け、67年(慶応3)上海に渡航のほか、パリ万国博覧会に出品。73年(明治6)ウィーン万国博覧会に『富嶽大図』を出品、同年日本橋浜町に画塾天絵楼(てんかいろう)(のち天絵社、天絵学舎)を開き、84年まで後進を指導したが、そのなかには川端玉章、安藤仲太郎、原田直次郎らがいた。77年の第1回内国勧業博覧会で三等花紋賞、81年の第2回同会では妙技二等賞牌を受ける。この間、金刀比羅宮に油絵35点を奉納のほか、元老院の委嘱により明治天皇の肖像画を描いた。のち東北地方ほか各地に旅行して写生する。明治2776日没。

彼は風景画、人物画、身辺に取材した静物画に迫力ある油彩リアリズムを確立した最初の画家であった。代表作に『岩倉具視像』『花魁』『鮭)』『豆腐及油揚図』『酢川にかかる常盤橋』ほかがある。由一には留学経験はありませんが、本場の西洋画を知らずに写実に挑んだ男が生み出した油絵だからこそ、黒田清輝以降の日本洋画の流れとは一線を画す「和製油画」として日本的な写実を感じさせます。

参考サイト:http://artmatome.com/

 

「関連キーワード/宮廷画家」

「原敬肖像」出典元:https://pbs.twimg.com/media/CSY6pgyUEAAwPYF.jpg

「園田御令嬢肖像」出典元:http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress013/wp-content/uploads/2016/05/49.jpg

第一回内国勧業博覧会で最高賞を受けたことを機に、明治十一年明治天皇の北陸東海御巡幸に御付の画家として同行、さらに昭憲皇太后を描きます。そうした明治の皇室や元勲たちの仕事が多かった関係で明治の宮廷画家(正式にその名称はなかったが)と呼ばれました25歳のときフランスに留学、レオン・ボナのアトリエに入学し、サロンに水彩画を出品、日本人としてはじめて入選しその後《両家デ ビビエの肖像》《人形の着物》どでサロン入賞を重ね本場でも義松の絵画技術が立派に通用することを示しました。八年後アメ リカ経由で日本に帰国し、明治美術会の創立に加わります。父とともに渡米しナイアガラの滝を描いたりしています。帰国後も大隈重信、井上馨などの肖像を描いています。

 

 

「関連キーワード/横浜絵」

「陽明門・義松作」出典元:http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress013/wp-content/uploads/2016/05/34.jpg

「ナポレオン図・二世芳柳作」出典元:http://www.healing39.com/data/maayaa39/_/70726f647563742f32303135303632325f3261326439382e6a7067003330300000660066.jpg

横浜絵とは江戸時代から明治時代に描かれた浮世絵の様式のひとつで「横浜浮世絵」「ハマ絵」「横浜錦絵」とも呼ばれます。幕末から明治初年にかけて、横浜を画題として描かれたおよそ八百数十点の錦絵の総称であり、極めて短い期間に爆発的に大量生産されました。主に横浜港、商館風建物、異国人の風俗などが描かれており、同じく異国趣味を題材にしていた長崎絵に準じてこう呼ばれるようになりました。

作品は、師岡屋以外では伊勢茂など大半が横浜ではなく、江戸の版元から出版されており、万延元年(1860)及び文久元年(1861)の二年間が横浜絵の最大の流行期でた。安政6年(1859)に貿易港として開けた横浜は江戸から目と鼻の先にあり、異国風物の存在する街であることが多くの人々に強い関心と好奇心を呼び、江戸の版元が競って居留地や異人風俗に興味を持ち、浮世絵師たちに描かせました。

横浜絵は長崎絵とともに、江戸時代末期における浮世絵の歪んだ空気を吹き払う清々しい空気と活気に満ちている点が最大の特色で晩年の二代歌川広重二代歌川広近歌川貞秀、他に歌川国芳門下から歌川芳員歌川芳虎落合芳幾歌川芳盛月岡芳年歌川芳艶歌川芳富歌川芳豊歌川芳春など多数の浮世絵師がこの横浜絵を残しています豊原国周も一時版元の注文で横浜絵を描いています。また五姓田芳柳中山年次などは、写真を基に絹地に筆で陰影を付けながら肖像や日本風俗を写実的に描くという手法を編み出しており、これらも横浜絵といわれています

 

 

≪代表作品(所蔵)≫

1868年(明治元年)「自画像」東京芸大美術館蔵

1871年(明治4年)「婦人像」

1872年(明治5年)「五姓田一家之図」n

1873年(明治6年)「六面相」

1875年(明治8年)「老婆図」神奈川県立近代美術館蔵

1877年(明治10年)「自画像」

1878年(明治11年)「孝明天皇御肖像」御物

1878年(明治11年)「北陸東海御巡幸図」御物

1880年(明治13年)「五姓田芳柳像」東京芸大美術館蔵

1881年(明治14年)「清水の富士」東京都現代美術館蔵

1882年(明治15年)「井田盤楠像」神奈川県立歴史博物館蔵

1883年(明治16年)「操芝居」東京芸大美術館蔵

1883年(明治16年)「人形の着物」笠間日動美術館蔵

1887年(明治20年)「細川護成像」横浜美術館蔵

1891年(明治24年)「港(横浜風景)」神奈川県立近代美術館蔵

1892年(明治25年)「加奈陀ヴィクトリア港景図」御物

1896年(明治29年)「土佐丸」日本郵船所蔵

1902年(明治35年)「原夫人あさ子肖像」

1902年(明治35年)「原敬肖像(平服)」

1902年(明治35年)「原敬肖像(大礼服)」

1902年(明治35年)「園田御令嬢肖像」個人蔵

1905年(明治38年)「富士」静岡県立美術館蔵

1909年(明治42年)「陽明門」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A7%93%E7%94%B0%E7%BE%A9%E6%9D%BE

参考サイト:http://ch.kanagawa-museum.jp/tenji/toku/yoshimatsu/index.html

参考サイト:https://matome.naver.jp/odai/2145814328248095201

参考サイト:http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress013/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E4%BA%94%E5%A7%93%E7%94%B0%E5%90%89%E6%9D%BE/

参考サイト:http://ch.kanagawa-museum.jp/riyo/dl/newsletter_vol21_no1.pdf

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E7%B5%B5

参考サイト:http://www.healing39.com/product/2351

参考サイト:http://ch.kanagawa-museum.jp/tenji/toku/yoshimatsu/column.html

参考サイト:https://sites.google.com/a/mytougane.com/tontororinohitorigotoa/ato-mei-shu/2-sino-qininaruatisuto-da/2-o-wu-xing-tian-yi-song

参考サイト:https://twitter.com/Goseda_Yosimatu/status/708208701815951360/photo/1

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