風土を見つめる旅人・向井潤吉


風土を見つめる旅人・向井潤吉

日本の原風景を描きとどめた一人の画家の思いが存在します。なぜ彼はその被写体に傾斜していったのか、彼の作品や創作活動を振返りながら、思いの丈を感じてみたいと思います。「風土を見つめる旅・向井潤吉」です。

生い立ちと就学」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Junkichi_Mukai.jpg/250px-Junkichi_Mukai.jpg

1901年(明治34年)1130日京都市生まれ。

1995年(平成7年)1114日没。享年93歳。

京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に父・才吉と母・津禰の長男として誕生。父はもともと宮大工の家柄で東本願寺の建築にも関わりました。潤吉が物心ついた頃には、家で10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍屛風衝立を製造していました。1914大正3年)4月、父と日本画を学ぶことを約束して京都市立美術工芸学校予科に入学しますが、2年後どうしても油絵が描きたくて父の反対を押し切って中退、家業を手伝いながらという条件で関西美術院に入り、4年間学びます。その間、沢部清五郎、都鳥英喜に師事するとともに、大正8年関西美術院での友人たちと麗日会を開催。同じく1919(大正8年)、二科会6回展に「室隅にて」を出品し初入選。翌年大正9年、家に無断で上京、半年ほど新聞配達店で働きながら川端画学校に通いますが、同年第7回二科展に「八月の鉢」が入選。同年京都に帰り、翌年春大阪高島屋呉服店図案部に勤務し始めます。同年12月京都の歩兵第38連隊に入営しますが2ヶ月で除隊し、再び高島屋に勤務します。翌大正15年第13回二科展に6年ぶりに「葱の花」を出品して入選し、本格的に画家を志します。

 

 

創作活動のはじまり/フランス留学

「アカデミー・ド・ラ・ショーミエール」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/28/Acad%C3%A9mie_de_la_Grande_Chaumi%C3%A8re%2C_Paris_6.jpg/220px-Acad%C3%A9mie_de_la_Grande_Chaumi%C3%A8re%2C_Paris_6.jpg

1927昭和2年)、当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランス留学へ向かいます。滞仏中は午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールでの素描を日課としました。潤吉は後年「私の如き貧乏の画学生には、費用のかからないそして自由に名画に接し得られる美術館での勉強はまことに有り難かった」と述懐しています。模写した作品はヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品が目に付く他、コローの作品が占めます。その一方で、スーティンココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる留学でした。3年後の1930(昭和5年)に帰国し、模写の展覧会を開同年結婚、また、二科会に渡欧中に制作した「力士達」などフォーヴィスム調の作品11点を特別出品樗牛賞を受け、同8年同会会友、同11年会員に推挙され画家としての評価と地位を手にしました

 

 

戦争画家としての向井

「進撃する野砲隊」出典元:http://tamayochankankousya.up.n.seesaa.net/tamayochankankousya/image/img123b.jpg?d=a1

戦後民家ばかりを描き続けた向井は、いったいなぜ民家にのめり込むことになったのでしょうか、その答えはおそらく向井の戦争体験と深く関わっていると思われます。1937年(昭和12年)秋、中国に個人の資格で従軍し翌年5中村研一らと上海に赴き上海軍報道部の委嘱により記録画を作成します。同13年大日本陸軍従軍画家協会設立とともに同会会員となり、同14年陸軍美術協会の結成に伴い同会会員となります。同15年紀元2600年奉祝展に「黄昏」を出品し、同年昭和洋画奨励賞を受賞し戦争画家として認知されていきます。同16年二科会評議員となり、同年国民徴用令により報道班員としてフィリピンに赴くとともに、1944(昭和19年)にはインパール作戦に同作品を記録するため作家・火野葦平と共に従軍、2人は協力して危険をくぐり抜けビルマまで戻り、198月に帰国します。しかしこの間、向井が目にした戦争の現実世界は悲惨なものでした。さらに、戦地から戻った向井を待っていたのはアメリカ軍による空襲の爪痕でした。火災から類焼を免れるため家屋を強制的に取り壊す「建物疎開」が行われていました。しかし、空襲の前にはそんな作業も空しく、多くの家屋が壊滅的な被害を受けました。後年、向井はこう語っています。「民家に異常な興味と熱意を持ったのは、戦争のさなか爆撃のために伝来の民家がもろくも消滅したり疎開の犠牲で惜しまれながらも姿を消してゆくのを知ったからである」と。

 

 

終戦後の活動

「現北魚沼郡川口町」出典元:http://sun.ap.teacup.com/sab612/timg/middle_1176215292.jpg

昭和20年秋、向井は始めて新潟県川口村をモティーフとした「雨」という民家の絵を制作し「長い間のいらいらした気分から解かれた目に映る農村は実に美しい。私自身が今までにまったく気がつかなかった伝統の重厚さを背負った家のかまえ、風物のうるわしさが突然に心眼に反射した」と語っています。そんな向井の思いとは裏腹に伝統的な民家は姿を消し始めます。高度成長期、ダムの建設や高速道路の工事が進み、向井は消え去る民家の記録に心血を注ぎ続けることになりま種々の資料や潤吉自身の言葉から推定すると、描き残した民家は1000軒を超え、油彩による民家作品は2000点にも及ぶとされています。1959(昭和34年)から1988(昭和63年)までに描いた1074点の製作記録が残っており、これによると、制作場所は埼玉県が約32%長野県が約19%京都府13%と大きな偏りがあり、近畿以西は旅で訪れてはいても作品は極めて稀です。一年の内の製作時期は、2月から4月が一つのピークで、ついで10月から12月が多く、逆に8月は非常に少なくなっています。理由として潤吉は「民家を描くためには、繁茂した木や草が邪魔になるからであるとともに、緑という色彩が自ら不得手だと知っているからでもある」と述べています。

「向井潤吉アトリエ館」出典元:http://www.mukaijunkichi-annex.jp/outside1.jpg

平成4年自宅兼アトリエとともに300余点の作品を世田谷区に寄贈したのを受け、世田谷美術館内に向井潤吉アトリエ館が設置されました。その土地の気候、風土、人々の暮らしが作り上げてきた民家のかたちを写実的にとらえ、失われていく景観を描きとどめた画家向井潤吉。スケッチによってアトリエで完成させる方法をとらず、現地での制作を重視した向井潤吉。19951114日午前530分、東京都世田谷区弦巻の自宅で急性肺炎のため死亡。享年93

代表作

「雨・1945年」個人所蔵

「まひる・1946年」出典元:http://fukuoka-kenbi.jp/uploads/2014/08/mukai.jpg

「富士山と畑・制作年代不詳」

「マタギの家・1963年」

「麓の老樹・1969年」

「微雨・1974年」出典元:http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2008/0411/image/20080712_mukai_ame1974.jpg

「遅れる春の丘より・1974年」出典元:http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2008/0411/image/20080712_mukai_okureru1986.jpg

「岳麗好日・1969年」出典元:http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2008/0411/image/20080712_mukai_gakuroku1969.jpg

「六月の田園・1971年」出典元:http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2008/0411/image/20080712_mukai_rokugatu1971.jpg

「妙高高原・1964年」出典元:http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2008/0411/image/20080712_mukai_myoukou1964.jpg

「宿雪の峡・1983年」

略歴

1901年 宮大工の才吉、津彌の長男として京都市下京区に生まれる
1914
年 京都市立美術工芸学校予科に入学する
1916
年 関西美術院に学び、人物のデッサン・油彩画の基礎を学ぶ
1920
年 家に無断で上京し、新聞配達で生計をたてながら、川端画学校に通う。
    第7回二科会展に《八月の鉢》が入選。京都に帰る。
1927
年 シベリア鉄道で渡欧する。
    ルーブル美術館で摸写に没頭し、技法、表現の研究を重ねる
    パリのグラン・ショーミエールに学ぶ
1928
年 サロン・ドートンヌに出品
1930
年 帰国。浦宗静枝と結婚し上京する
    第17回二科会展に滞欧作を特別出品し、樗牛賞を受ける
1933
年 世田谷区弦巻にアトリエを構え、以降、制作の拠点とする
1937
年 陸軍報道班員として、戦争記録画の制作に従事する
1945
年 行動美術協会を創立。ライフワークとなる民家シリーズの制作が始まる
1959
年 渡欧。ヨーロッパ各地を旅行する
1961
年 アトリエを不審火で消失。貴重な作品、資料を失う
1962
年 住まいを兼ねたアトリエを再建(現在の世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館)
1966
年 訪中日本代表団の一員として、北京、上海、蘇州などをめぐる
1974
年 画業60年記念 向井潤吉環流展を開催
1982
年 世田谷区名誉区民となる
1933
年 向井潤吉アトリエ館開館
1995
年 急性肺炎で、自宅において逝去
    アトリエ館においてお別れの会を行う。

「向井潤吉関連著作物」

『北支風土記』(1939・大東出版社) 

『民家と風土』(1957・美術出版社) 

『油彩』(1958・東峰書院) 

『民家十二カ月集版画』(1964・芸艸堂) 

『日本の民家』(1979・保育社) 

『素描集向井潤吉』(1981・保育社) 

向井潤吉アトリエ館編・刊『郷愁と輝き・向井潤吉と民家――向井潤吉アトリエ館開館記念展』(1993) 

向井潤吉アトリエ館ほか編『向井潤吉アトリエ館名品図録』(1994・世田谷美術館) 

『郷愁日本の民家――向井潤吉小画集』(1996・講談社)』

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E4%BA%95%E6%BD%A4%E5%90%89
参考サイト:http://www.sanobi.or.jp/tenrankai/old/2011/mukai.html
参考サイト:http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2008/0712/index.htm
参考サイト:http://fukuoka-kenbi.jp/reading/selected/kenbi3091.html
参考サイト:http://tamayochankankousya.seesaa.net/article/425609423.html
参考サイト:https://www.nichido-garo.co.jp/artist/junkichi_mukai.html
参考サイト:http://www.mukaijunkichi-annex.jp/
参考サイト:http://sun.ap.teacup.com/tizu/
参考サイト:https://fr.wikipedia.org/wiki/Acad%C3%A9mie_de_la_Grande_Chaumi%C3%A8re
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