始まりは内房の海から・夭逝の画家中村彝(つね)


始まりは内房の海から・夭逝の画家中村彝(つね)

肺結核のために千葉で療養中に水彩の風景スケッチに親しんだことで画家への道を歩むことになった一人の画家。その一生は平坦なものではありませんでした。ご紹介します「始まりは内房の海から・夭逝の画家中村彝」です。

「生い立ちと就学」

出典元:https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/people/img/p_002_01.jpg

出生情報:1887年(明治20年)73日水戸市生まれ。

没年情報:1924年(大正13年)1224日没。享年38歳。

中村彝は明治2073日、5人兄弟の末っ子として茨城県水戸市に生まれました。1歳の誕生日を迎える前に父を亡くした彝は、明治31(1898)年上京し長兄宅で育ちます。陸軍軍人であった長男 直を父代わりとし、その影響を受けて軍人を目指します。34年早稲田中学を中退して名古屋陸軍地方幼年学校に入学し、スパルタ教育に耐え37年無事卒業、東京の陸軍中央幼年学校に進学します。しかしその直後に肺結核と診断され、退校を余儀なくされます。エリート軍人への道を走っていた彝にとって、そのショックは計り知れないものでした。そして翌年、千葉県北条湊で療養中水彩画に親しんだことが画家を志望する契機となります。

「画業との本格的な出会い」

「結成当時の白馬会」出典元:http://www.tobunken.go.jp/materials/wp-content/pics/hakuba/grpt.jpg

失意の彝に救いを差しのべたのが絵画でした。陸軍学校の前に通っていた愛日小学校高等科で知り合った野田半三の影響で、以前から絵を描くことに興味を持っていた彝は、療養しながら絵を描くようになります。画業に励む決意を固めた彝は、白馬会洋画研究所で絵を本格的に学び始めます。美術学校在学中には中原悌二郎鶴田吾郎らと知り合い切磋琢磨。そして明治42年の第三回文展で「巌」「曇れる日」が入選し、「巌」は褒状を受賞、44年の文展では「女」で三等賞を得ます。

白馬会洋画研究所:白馬会は明治291896)年に黒田清輝らを中心として結成された美術団体です。黒田らが留学先で学んだヨーロッパの芸術思潮と技術に基づきながら、会員相互が平等で自由な雰囲気の芸術活動を目指しました。明治44年の解散に至るまで13回の展覧会を開催し、黒田清輝の《湖畔》(明治30年作、第2回展出品)や藤島武二の《天平の面影》(明治35年作、第7回展出品)、青木繁の《海の幸》(明治37年作、第9回展出品)といった、明治の洋画を代表する作品が生まれています。明治40年に文部省美術展覧会(文展)が開設されると、白馬会の画家の多くはその西洋画部門でのひとつの勢力となり、日本近代美術におけるアカデミズムの形成に深く関わりました。

「生涯の創作活動」

「少女」出典元:https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/people/img/p_002_02.jpg

≪相馬俊子との出会い≫

明治40年に新宿駅前に開店したパン屋「中村屋」は文化人が集うサロンの役割を果たしていました。相馬愛蔵、黒光夫妻が経営する中村屋には、愛蔵と同郷の萩原守衛のほか、戸張狐雁、高村光太郎らが集い、美術や演劇の交流の場として、独特の賑わいを見せていました。明治44年、彝は新宿中村屋裏のアトリエに移ります。このアトリエは碌山洋館を改装したものでした。アトリエでの制作に熱中するあまり、食事もろくにとらなかった彝を心配して、相馬夫妻は彼を食卓に招き、相馬家の家族の一員のように扱います。結核が一進一退の彝の生活の面倒をみることになった相馬家の長女俊子は、やがて彝の作品のモデルをするようになります。印象派のルノワールにあこがれた彝は、健康美にあふれた俊子をモデルに多くの作品を描きます大正3年、俊子をモデルとした「少女裸像」と着衣の「小女」を描き、「小女」は文展の三等賞に入賞。彝は自分のために裸になってくれる俊子の優しさに次第に惹かれていきます。しかし二人の仲を相馬夫妻が注目するようになります。いくら芸術であっても我が娘の裸体の絵を文展に飾り、人々の目にさらすことへの抵抗、娘が敬愛しているとしても相手は喀血が続いている病人…。次第に夫妻は俊子が彝に接近するのを妨げるようになってしまいます。そして終に彝は中村屋を離れ日暮里に移転、大正3年の暮れには大島に逃避します。大正5年に俊子と再会するもその恋は実らず、彼の短い生涯の中で最大の悲劇となりました。

≪永久の地・下落合≫

「下落合アトリエ」出典元:http://www.modernart.museum.ibk.ed.jp/images/information/tsune/03.jpg

以後、いろいろな土地を転々とし、最終的に下落合のアトリエに落ち着きます。移転当初は友人も多く訪れましたが、傷心の彝は自炊生活や制作の疲れもでて喀血が続きます。それを心配した友人が家政婦を雇い彝の世話を頼み、彝は病魔と戦いながら制作活動に熱中しました。そしてある日、友人の鶴田からモデルにうってつけのロシア人がいるとの話を聞き、鶴田と一緒に彝の画室で制作するようになります。

「エロシェンコの像・1920年」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0133019.jpg

そのモデルは盲目の詩人ワシリー・エロシェンコでした。エロシェンコは彝が使っていた中村屋のアトリエに住んでおり、目白駅で見かけた鶴田が「私、画家ですが、モデルになってくれませんか?」と声をかけたのです。黒光と相談しこの話を受けたエロシェンコは、8日間、彝のアトリエに通います。二人の画家はとりつかれたように描き始め、緊張の連続の8日間が経過。体力の限界がおとずれた彝を鶴田が止めて制作が終了しました。作品は第二回帝展に出品され、彝の作品は明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作と評され、鶴田も初入選を果たしました。その後、精力的に自画像や家政婦の岡崎キイをモデルに絵を描きましたが、終に力尽き、大正1312月、結核のため永眠します。37歳という短い生涯でしたが、中村彝の作品が画壇に与えた影響は大きく、70年、80年の芸術過程をふんだ人のそれに勝るとも劣らないものでした。

「主な代表作」

「カルピスの包み紙のある静物・1923年」出典元:http://www.modernart.museum.ibk.ed.jp/images/information/tsune/work.jpg

「少女・1913年」出典元:http://www.yokosuka-moa.jp/collection/img/nats010001.jpg

「少女裸像・1913年」出典元:http://search-art.aac.pref.aichi.jp/dat/pic/1997/obj199703990l.jpg

「大島風景・191415年」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0140035.jpg

「田中館博士の肖像・1916年」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0043015.jpg
『 裸婦習作 』 1908 (M41) 茨城県近代美術館
『 中之作風景 』 1908 (M41) 茨城県近代美術館
『 自画像 』 1909 (M42) ブリヂストン美術館
『 木立風景 』 1909 (M42) 茨城県近代美術館
『 自画像 』 1909 (M42) 宮城県美術館
『 自画像 』 1909 (M42) 茨城県近代美術館
『 海浜の村(白壁の家)』 1910 (M43) 東京国立博物館
『 少女 』 1913 (T02) 横須賀美術館
『 婦人像 』 1913 (T02) メナード美術館
『 少女像 』 1913 (T02) メナード美術館
『 静物 』 1913-14 (T02-3) 茨城県近代美術館
『 小女 』 1914 (T03) 中村屋
『 少女裸像 』 1914 (T03) 愛知県美術館
『 少女習作 』 1914 (T03) メナード美術館
『 大島風景 』 1915 (T04) 茨城県近代美術館
『 静物 』 1916 (T05) 茨城県近代美術館
『 裸体 』 1916 (T05) 茨城県近代美術館
『 花 』 1916 (T05) 大川美術館
『 田中館博士の肖像 』 1916 (T05) 東京国立近代美術館
『 落合のアトリエ 』 1916 (T05) 横須賀美術館
『 雉子の静物 』 1919 (T08) 茨城県近代美術館
『 静物 』 1919 (T08) 茨城県近代美術館
『 自画像 』 1919 (T08) 講談社野間記念館
『 洲崎義郎氏の肖像 』 1919 (T08) 新潟県立近代美術館
『 男の顔 』 1920 (T09) 茨城県近代美術館
『 泉のほとり 』 1920 (T09) ポーラ美術館
エロシェンコ氏の像』 重文 1920 (T09) 東京国立近代美術館
『 花 』 1923 (T12) 茨城県近代美術館
『 カルピスの包み紙のある静物 』 1923 (T12) 茨城県近代美術館
『 髑髏のある静物 』 1923 (T12) 豊田市美術館
『 頭蓋骨を持てる自画像 』 1923 (T12) 大原美術館
『 老母像習作 』 1924 (T13) 茨城県近代美術館
『 老母像習作 』 1924 (T13) メナード美術館
『 自画像 』 不明 福岡市美術館
『 静物 』 不明 福岡市美術館

「略歴」

1887(明治20)年 茨城県に生まれる。
1906
(明治39)年 白馬会研究所に通い黒田清輝の指導を受ける。
1907
(明治40)年 太平洋画会研究所に移り、中村不折、満谷国四郎の指導を受ける。
1910
(明治43)年 第4回文展に<<海辺の村>>を出品、三等賞を受賞。
1911
(明治44)年 新宿中村屋裏の故荻原守衛のアトリエへ移る。
1913
(大正2)年 ルノワールの画風に傾倒した<<少女>>が第8回文展で三等賞を受賞。
1915
(大正5)年 太平洋画会に<<大島風景>>を出品。
1920
(大正9)年 第2回帝展に<<エロシェンコ像>>を出品し、賞賛を受ける。
1924
(大正13)年 喀血のため自宅で死去。

「関連著作物」

「夭折の画家中村彜」出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/A1wnM82Ex4L.jpg

『夭折の画家中村彜』1988年学陽書房刊

『中村彜作品集』中村彜作品集刊行会1926

『中村彜画集』アトリヱ社1927

『日本の名画 37 中村彝』鈴木秀枝編著 講談社1972

『現代日本美術全集 17 中村彝,須田国太郎』三木多聞,岡部三郎解説 集英社1973

『中村彝画集』日動出版部1984

『新潮日本美術文庫 中村彝』新潮社1997

参考サイト:https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/founder/people/p_002.html
参考サイト:http://www.modernart.museum.ibk.ed.jp/information/tsune/index.html
参考サイト:http://kininaruart.com/artist/jyouga/nakamura_tsune.html
参考サイト:http://www.tobunken.go.jp/materials/whpreface
参考サイト:http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=5367
参考サイト:http://www.yokosuka-moa.jp/collection/search/result_list_n01.html
参考サイト:http://kininaruart.com/artist/jyouga/nakamura_tsune.html
参考サイト:http://www.asahi-net.or.jp/~dz8m-kwd/yokuzyou.html
ads by google

あなたへおすすめの記事
⇒ 【PR】手ぶらで行けるサポート付き貸し農園!シェア畑
⇒ 山梨紀行・お洒落なホテル&旅館
⇒ 軽井沢リゾートの極致
⇒  野菜を楽しむ健康サイト6選
⇒ 【PR】カンタン、ふるさと納税
ads by google


スポンサードリンク

ads by A8