「槇文彦」
出典元:http://www.maki-and-associates.co.jp/firm/images/fumihiko_maki.jpg
「浮かぶ劇場」出典元:http://www.maki-and-associates.co.jp/images/photo/p65_1.jpg
「清水文化会館」出典元:http://www.maki-and-associates.co.jp/images/photo/p7_3.jpg
「TV朝日」出典元:http://www.maki-and-associates.co.jp/images/photo/p80_1.jpg
「Jewish Community of Japan」出典元:http://www.maki-and-associates.co.jp/images/photo/p134_1.jpg
公式サイト:http://www.maki-and-associates.co.jp/firm/index_j.html
生年月日・出身地:1928年9月6日
出身校:ハーバード大学デザイン大学院(1954年卒)
プロフィール:(HPより)
1928年東京都に生まれる。1952年に東京大学工学部建築学科を卒業し、アメリカのクランブルック美術学院及びハーバード大学大学院の修士課程を修了。その後はスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、セルト・ジャクソン建築設計事務所、ワシントン大学のキャンパス・プランニング・オフィスに勤務する。ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授も務める。1965年に帰国、株式会社槇総合計画事務所を設立。帰国後も45人の建築士を持つオフイスを構えながら、東京大学教授を務め、1989年まで教壇の場を継続する。現在に至るまで日本を含めアメリカとヨーロッパで講演を続けている。2008年には数々の講演で都市デザインをテーマにした書籍が採集された本Nurturing Dreams(MIT Press)を出版。また槇文彦は国内外で数々の賞に輝くなど高い評価を得ている。主な受賞歴は、1988にイスラエルのウルフ基金賞受賞、1990にトーマス・ジェファーソン建築賞受賞、1993年に国際建築家連合(UIA)ゴールドメダルとハーバード大学から贈られるプリンス・オブ・ウェールズ都市デザイン賞受賞、1999年に アーノルド・ブルンナー記念建築賞と高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞。多数ある受賞の中でも、最も建築家にとって名誉あるプリツカー賞を1993年に受賞し、2011年にはAIAアメリカ建築家協会から贈られる ゴールドメダルも受賞。
槇総合計画事務所所在地:150-0035東京都渋谷区鉢山町13-4
問合せ:03-3780-3880
代表作・受賞歴等:
1988イスラエル・ウルフ基金賞受賞
1990トーマス・ジェファーソン建築賞受賞
1993プリツカー賞・国際建築家連合(UIA)ゴールドメダル
1999アーノルド・ブルンナー記念建築賞・高松宮殿下記念世界文化賞建築部門受賞
2011AIAアメリカ建築家協会ゴールドメダル
「伊東豊雄」
出典元:http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/Profile/portrait.jpg
「White 0」出典元:http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/Project_Descript/2005-/2005-p_17/3-800.jpg
「スイーツアベニューアパートホテル ファサードリノベーション」出典元:http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/Project_Descript/2005-/2005-p_16/main%20photo.jpg
「バロック・インターナショナルミュージアム プエブラ」出典元:http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/Project_Descript/2015-/2015-p_03/main%20photo.jpg
「台北世貿広場改修計画」出典元:http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/Project_Descript/2010-/2010-p_06/1.jpg
公式サイト:http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/index/index_j.html
生年月日・出身地:1941年6月1日韓国ソウル市生まれ
出身校:東京大学(1965年卒)
プロフィール:
建築家。韓国ソウル生まれ。長野県で少年時代を過ごす。1965年(昭和40)東京大学工学部建築学科卒業。1965年から1969年まで菊竹清訓建築設計事務所勤務。1971年建築設計事務所アーバン・ロボット設立。この名称は1960年代の楽観的なテクノロジーのイメージを反映したものである。1979年伊東豊雄建築設計事務所に改名。東京大学、早稲田大学、日本女子大学などで教鞭をとる。
1970年代の伊東は外界に対して閉じた作品を多く発表した。初期の代表的な作品である東京・中野本町の家/White U(1976)は、U字型の平面と白いトンネルのように湾曲する内部空間をもち、内向的な住宅の典型例といえる。また当時の伊東は東京工業大学篠原一男研究室のメンバーや評論家多木浩二(1928―2011)との交友関係から、奥行きやヒエラルヒーのない、ドライな建築に興味を抱く。黒の回帰(1975)や中央林間の家(1979)などの住宅作品には篠原一男の影響もうかがえる。笠間の家(1981)では、建築の輪郭や遠近法の距離感覚を消し、形態の断片が宙に浮遊する白い空間を試みている。
だが1980年代から伊東の作品は都市に向かって開いていく。電子テクノロジーやメディアの発達に伴う新しい身体感覚に対応する空間を追求し、皮膜のデザインを強調した。自邸のシルバーハット(1984。日本建築学会作品賞)は軽やかなボールト屋根(アーチ状の屋根)を連続させる。パンチングメタルにおおわれた横浜の風の塔(1986)は、周辺環境の見えない変化を光のパターンとして可視化するメディア的なオブジェである。レストラン・ノマド(1986東京都)は遊牧民のテントに着想を得て、風に舞う布のような浮遊感を表現した。こうしたデザインの傾向はバブル経済の時代の雰囲気にも対応している。しかし伊東は建築が消費社会の波にのみこまれることを認めながらも、それを否定することなく、いかに建築が可能であるかを追求した。
1990年代は八代市立博物館(1991、熊本県。毎日芸術賞、BCS賞)以降、公共施設を手がけるようになり下諏訪町立諏訪湖博物館(1993、長野県)や長岡リリックホール(1996、新潟県)など、日本各地でプロジェクトを展開した。デザイン的な特徴としては中目黒Tビル(1990、東京都)などの透明・半透明なガラス、大川端リバーシティ21・タウンゲート「風の卵」(1991、東京都)や養護老人ホーム八代市立保寿寮(1994、熊本県)などの楕円形が挙げられる。その後伊東は公共施設の仕事を通じて形態の表現よりもプログラムに関心を寄せるようになり、文化施設、大社文化プレイス(1999、島根県)などフラットな空間を提示する。
さらに新しい建築のモデルとして、コンビニエンス・ストアに注目、現代都市の状況から影響を受けつつ、流動的な空間のイメージを追求している。2001年(平成13)のせんだいメディアテーク(宮城県・グッドデザイン賞)は、情報化の時代における建築のプロトタイプを提示した。特徴の第一は、垂直な柱を規則正しく並べる代わりに、くねる網目状のチューブ(内部が空洞の柱)をランダムに配置。第二に、実体感のある壁の代わりに、薄いガラスをスキン(皮膜)のようにはめていること。そして第三に、厚みのあるスラブ(鉄筋コンクリートの床)の代わりに、極薄のプレート(コンクリートの床)を用いた点などである。
2000年からは海外での作品も増えている。ハノーバー万博のテーマパーク「ヘルス・フューチュアズ」(2000、ドイツ)は、幻想的な情報空間のインスタレーションである。またブリュージュ・パビリオン(2002、ベルギー)やサーペンタイン・ギャラリー・パビリオン(2002、ロンドン)では、独特なパターンにもとづく画期的な構造をとり入れ、柱・梁・スラブによらない建築を実現した。
伊東豊雄建築設計 事務所所在地:150-0002東京都渋谷区渋谷1-19-4 不二屋ビル
問合せ:03-3409-5822
代表作・受賞歴等:
1986 | 日本建築学会賞作品賞(シルバーハット) |
1992 | 毎日芸術賞(八代市立博物館 |
1998 | 芸術選奨文部大臣賞(大館樹海ドーム) |
1999 | 日本芸術院賞(大館樹海ドーム) |
2000 | 国際建築アカデミー(IAA)アカデミシアン賞 |
アメリカ芸術文化アカデミー アーノルド W.ブルーナー賞 | |
2001 | グッドデザイン大賞(せんだいメディアテーク |
2002 | ヴェネツィア・ビエンナーレ「金獅子賞」 |
2003 | 日本建築学会賞作品賞(せんだいメディアテーク) |
2004 | 金のコンパス賞(Compasso d’Oro ADI) (木製ベンチ”ripples”) |
2006 | 王立英国建築家協会(RIBA)ロイヤルゴールドメダル受賞 |
公共建築賞 国土交通大臣表彰 (せんだいメディアテーク) | |
2008 | 金のコンパス賞(Compasso d’Oro ADI)(HORM社のブースデザイン) |
オーストリア・フレデリック・キースラー建築芸術賞 | |
2009 | マドリード美術協会(CBA)金メダル |
2010 | 2009年度朝日賞 |
第22回高松宮殿下記念世界文化賞 | |
2012 |
ヴェネツィア・ビエンナーレ「金獅子賞」(コミッショナーを務めた日本館が受賞) |
2013 | プリツカー建築賞 |
「原広司」
出典元:http://www.clubhillside.jp/wp-content/uploads/2011/05/hara-200×264.jpg
「梅田スカイビル」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ae/Umeda_Sky_building.jpg/240px-Umeda_Sky_building.jpg
「京都駅ビル」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/27/Christmas_illumination_in_Kyoto_Sta.jpg/240px-Christmas_illumination_in_Kyoto_Sta.jpg
「札幌ドーム」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/91/SapporoDome2004-2.jpg/240px-SapporoDome2004-2.jpg
「東京大学生産技術研究所」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Komaba_research_campus01.jpg/240px-Komaba_research_campus01.jpg
参考サイト:http://www.clubhillside.jp/seminar/mekiki120627/
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%8F%B8
生年月日・出身地:1936年9月9日川崎市生まれ
出身校:東京大学数物系大学院建築学専攻博士課程修了
プロフィール:
建築家。神奈川県生まれ。1959年(昭和34)東京大学工学部建築学科卒業。64年東京大学数物系大学院建築学専攻博士課程修了。同年東洋大学工学部建築学科助教授。67年には当時の社会状況を踏まえつつ、緻密な理論体系によって建築の可能性を追究した著書『建築に何が可能か』を出版し、建築界にとどまらず広く注目を集める。ここでは「閉じた空間に孔(あな)をあける」という視点から建築を構想する「有孔体の理論」が詳細な形で展開された。この「有孔体の理論」を具体化した作品としては、原の実質的な処女作となる伊藤邸(1967)や慶松幼稚園(1968・東京都)などがあげられる。69年東京大学生産技術研究所助教授。70年以降、アトリエ・ファイ建築研究所との協同による設計活動を開始。活動初期の70年代には、都市的な複雑さを住居の内部に持ち込み、それらの要素が互いに呼応し合うような、「反射性住居」として知られる一連の住宅設計を行っている。「反射性住居」の代表作としては、粟津邸(1972)、自邸(1974)などがある。また70年代にはヨーロッパ、アフリカ、中南米をはじめとする世界四十数か国の集落調査を行い、その体験と研究を踏まえて都市・建築に関する独自の思考を展開した。原は伝統的集落の実測調査を通して個別的なリージョナリズム(地域主義)のなかから普遍的なインターナショナリズムを抽出する知のあり方を模索する一方で、数理解析を応用した新しい建築計画学の方法論を探究した。
82年東京大学生産技術研究所教授。この時期の作品には田崎美術館(1986・長野県。日本建築学会賞)、ヤマトインターナショナル(1986・東京都。村野藤吾賞)、那覇市城西小学校(1987)などがある。この頃には「有孔体の理論」をさらに発展させた「多層構造」という概念を創案し、異なる次元の重ね合わせによる多義的な状態の現出が模索された。こうした試行はグラーツ・ミネアポリスの展覧会(1985~86)における「多層構造モデル」としてまとめられている。またヤマトインターナショナルは、その多層構造モデルを具体的な建築へと結実させた成果の一つである。この「多層構造モデル」をもとに原はやがて「様相」という独自の概念を生み出すに至る。原によれば「様相」とは近代建築を牽引しつづけてきた「機能」に対置される新しい概念である。また、それは曖昧なもの、多義的なもの、不定形なものを包含する概念である。原はこのように言葉の彫琢による論理の追究と、建築を通した方法論の探究をつき合わせながら、その両者の緊密な連関によって思考を繰り広げてきた。その集大成となる著書が『空間〈機能から様相へ〉』(1987)であり、これによってサントリー学芸賞を受賞している。
80年代以降になると都市をテーマとした海外のコンペティションにも積極的に参加しはじめ、ドイツのケルンにおけるメディアパーク都市計画構想(1988。最優秀賞)や、カナダにおけるモントリオール国際都市設計競技(1990。最優秀賞)など、数多くの成果を挙げた。こうした具体的な都市計画の提案と同時に、一方では「500M×500M×500M」(1992)というプロジェクトを通してコンパクトな都市モデルの追究も行っている。これらの活動と思考は90年代に入って都市的なスケールをもった建築にも延長され、やがて新梅田シティ(1993、大阪府)、JR京都駅(1997)、札幌ドーム(2002)といった大規模な作品として具体化した。さらにそうした思考は宇宙にまで延長され、地球外における建築の可能性を検討した地球外建築(1992)というプロジェクトとしてまとめられている。原はまた、優れた教育者でもあり、原スクールと呼ばれる研究室からは、山本理顕、竹山聖、隈研吾、小嶋一浩をはじめとして数多くの建築家や研究者が育っている。97年(平成9)、東京大学を退官。同年東京大学名誉教授。
事務所所在地:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問合せ:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
代表作・受賞歴等:
- 1986年 LUMEN賞
- 1986年 日本建築学会賞作品賞(田崎美術館)
- 1988年 村野藤吾賞(ヤマトインターナショナル)
- 1988年 サントリー学芸賞(空間<機能から様相へ>)
- 1993年 日経BP技術賞 大賞(梅田スカイビル)
- 2001年 ブルネル賞建築部門 激励賞(京都駅ビル)
- 2003年 日本建築学会作品選奨(札幌ドーム)
- 2003年 BCS賞(札幌ドーム)
- 2013年 日本建築学会大賞
「磯崎新」
出典元:http://www.togapk.net/upload/person/200x200_20110726113427ckjwHE9t9OICYog5.jpg
「エギプト日本科学技術大学」出典元:http://i-a-a.co.jp/images/project/thumbs/1013_1_s.jpg
「アーク・ノヴァ」出典元:http://i-a-a.co.jp/images/project/thumbs/1001_2_s.jpg
「新ベートーベンホール」出典元:http://i-a-a.co.jp/images/project/thumbs/498_2_s.jpg
「カタール国立銀行」出典元:http://i-a-a.co.jp/images/project/thumbs/389_2_s.jpg
公式サイト:http://i-a-a.co.jp/contact.php?lang=jp
参考サイト:http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/788/
参考サイト:http://www.togapk.net/people/detail.php?person_id=2
生年月日・出身地:1931年7月23日大分市生まれ
出身校:東京大学工学部建築学科博士課程修了
プロフィール:
建築家。大分県に生まれる。1954年(昭和29)東京大学工学部建築学科を卒業、同大学院に進み、丹下健三に師事、1961年博士課程修了。カリフォルニア大学、ハーバード大学、エール大学、コロンビア大学などの客員教授を務める。1963年磯崎新アトリエを創設。40年以上の活動において、建築の形式や引用に注目し、多様な表現を展開しつつ多数の著作を発表した。くまもとアートポリス、ベネチア・ビエンナーレ、ビジョンズ・オブ・ジャパン展のコミッショナーなどを務め、ほかの建築家や芸術家を巻き込むプロジェクトも積極的に行う。ラ・ビレット公園(パリ)、香港ピーク、せんだいメディアテークなど話題のコンペでは、審査員として若い才能の発掘や問題作の実現にもかかわっている。また若いころから芸術家や文化人との交流が多く、建築家の枠を超え、評論雑誌の『へるめす』や『批評空間』、浅田彰(1957― )と共同した「ANY」シリーズのシンポジウムなど、横断的な議論の場を生み出してる。
1960年代は大分県医師会館(1960)や大分県立大分図書館(1966)など、力強いコンクリートの塊を強調したデザインを行う。また技術的な提案に関心を抱き1960年代初頭の「空中都市」のシリーズでは、巨大なコアが空中で自在に連結するシステムを提案した。丹下健三の「東京計画1960」(1961)では、オフィス街を担当している。一方、孵化過程のドローイングでは、過去の廃墟と未来の建築を重ね合わせる。以後、廃墟へのこだわりは繰り返し現れた。1960年代の後半からは、物理的な形よりもインタラクティブ(双方向的)な情報環境に注目し、「見えない都市」や「ソフト・アーキテクチャー」の概念を唱える。1968年のミラノ・トリエンナーレに出品された「エレクトリック・ラビリンス」では、未来都市は廃墟であるという逆説を示しつつ、人の動きに反応して湾曲したパネルが回転するインスタレーションやフォトコラージュを制作した。1970年大阪で開催された日本万国博覧会の「お祭り広場」では、デメやデクなどのロボットやエンターテインメントの装置を担当した。そして「コンピュータ・エイデッド・シティ」(1972)の計画では、高度な情報システムにより、各公共施設を再編成してひとつながりの空間になった都市を構想した。
1970年代彼は手法論を唱え、純粋な幾何学的形態の操作を追求した。たとえば立方体のフレームにより構成された群馬県立近代美術館(1974)や、半円筒のボールト屋根を展開させた北九州市立中央図書館(1974)などは、建築に固有な形式の可能性を追求している。1980年代は、ポスト・モダニズムの流れとも共振しつつ、歴史的な建築の引用を試みる。つくばセンタービル(1983)では、ミケランジェロやルドゥーの作品など西洋建築の断片を折衷的にちりばめて話題になった。なお、つくばセンタービルの廃墟のドローイングも描かれている。また西洋的な黄金分割と東洋的な陰陽説に基づく分割システムをとり入れたロサンゼルス現代美術館(1986)を契機に、海外での設計活動も本格的に開始した。東京都庁舎のコンペ案(1986)では、球やピラミッドなどのプラトン立体を導入しながら、分散的なネットワークのオフィスと「民主主義のための囲われた広場」を提案する。しかし超高層化を拒否してコンペの要項に違反し確信犯的に落選した。
1990年(平成2)に完成した水戸芸術館はこれらの手法を統合した。各施設は歴史的な要素を引用しつつ幾何学により構成され、塔はテクノロジーを表現している。その後も特定の作品と展示空間が密接にかかわる奈義町現代美術館(1994、岡山県)や、滑らかな楕円に包まれた、なら100年会館(1998、奈良県)など、スタイルを固定せずに変化を続けている。また1990年代以降は鮮やかな色彩のチーム・ディズニー・ワールド(1991、フロリダ)やカタールのプロジェクトなど、海外の仕事が増加している。展覧会の活動も精力的で、還暦の1991年には大規模な回顧展「磯崎新 1960/1990」を開いた。「海市」展(1997)では、アジアの人工島を舞台とするバーチャル・シティの実験的なプロジェクトを立ちあげ、さらに1978年パリにおいて日本の時空間をテーマとして行われた「間」展の凱旋(がいせん)帰国展(2000)を開催した。また個展「UNBUILT/反建築史」(2001)では自らの実現しなかったプロジェクトを紹介した。ミラノ・トリエンナーレ出品のエレクトリック・ラビリンスの再制作(2002)も行われ、過去のプロジェクトの再評価も進んでいる。アイロニカルな作家であり、その作品においては、建築と廃墟、現実と虚構、あるいは全体を制御するために形を与える建築への意志と、それを解体していく増殖するネットワークへの欲望が激しく衝突している。
日本建築学会作品賞(1967、75)、芸術選奨新人賞(1969)、日本建築学会特別賞(1970)、建築業協会賞(1975、84、89、91)、毎日芸術賞(1983)、イギリス王立建築家協会ゴールドメダル(1986)、ベネチア・ビエンナーレ金獅子(きんじし)賞(1996)などを受賞。前記以外のおもな建築作品に、中山邸(1964)、福岡相互銀行(現西日本シティ銀行)本店(1972)、西脇市岡之山美術館(1984、兵庫県)、サンジョルディ・パレス(1990、バルセロナ)など多数。
イソザキ・アオキ アンド アソシエイツ所在地:107-0052東京都港区赤坂6-13-13
問合せ:03-3505-4405
代表作・受賞歴等:
日本建築学会作品賞(1967、75)
芸術選奨新人賞(1969)
日本建築学会特別賞(1970)
建築業協会賞(1975、84、89、91)
毎日芸術賞(1983)
イギリス王立建築家協会ゴールドメダル(1986)
ベネチア・ビエンナーレ金獅子(きんじし)賞(1996)などを受賞多数。
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