世界に冠たる日本画の画家系譜Vol.2/2016年3月30日修正更新版


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世界に冠たる日本画の画家系譜Vol.2

岡倉天心

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出典元:https://upload.wikimedia.org/

生年月日・出生地:文久(1863年)2年12月26日横浜生まれ。

プロフィール:

岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など目を見張るものがあります。また、天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。また、天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活することになります。

《日本美術院の創立》

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出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/

急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けました。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退いた天心は、その半年後、彼に付き従った橋本雅邦をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めました。横山大観、下村観山、菱田春草らの美術院の青年作家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのです。

《新たなる飛躍の地「五浦」》

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出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/

明治36年(1903)茨城県北茨城出身の日本画家飛田周山の案内により五浦を訪れた天心は、太平洋に臨む人里離れた景勝地を気に入り、土地と家屋を買い求めました。同38年六角堂と邸宅を新築、拡張するなど、以後五浦を本拠地とします。一方、日本美術院は、天心や横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、同39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図りました。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転します。天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せました。生活上の苦境に耐えながらも大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。

《.新しい日本画の創造》

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出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/

明治39年(1906)衰退した日本美術院のたて直しを図るため、第一部(絵画)を五浦に移転した天心と五浦の作家達は、「朦朧体」画法に、天心の示唆する日本の伝統絵画、宗達・光琳の画法を参考にし改良を加え、画面 に明瞭さを取り戻す中で朦朧体の悪評を払拭しました。五浦で制作された大観「流燈(りゅうとう)」、観山「木の間の秋」、春草「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」、武山「阿房劫火(あぼうごうか)」などの近代日本画史に残る名作は好評を持って迎えられ、天心の指導のもと個性的な日本画が創造されていきました。

代表作:

『THE BOOK OF TEA』1906年 フォックス・ダフィールド社

『The Awakening of the East』1902年稿『東洋の目覚め』当時未公開

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「赤倉・墓所・六角堂」出典元:http://www.niigata-kankou.or.jp/myoko/


横山大観

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出典元:http://taikan.crap.jp/

生年月日・出生地:明治元(1868)年9月18日水戸生まれ。

プロフィール:

本名秀麿。水戸藩士酒井捨彦の長男として9月18日水戸に生まれ、のち母方の横山家を継いだ。1878年(明治11)一家と上京。東京府立中学校、私立東京英語学校を経て、1889年開校した東京美術学校に入学、橋本雅邦の指導を受け、また岡倉天心に薫陶された。1893年に同校を卒業。『村童観猿翁(そんどうえんおうをみる)』はその卒業制作。しばらく京都美術工芸学校で教鞭をとったのち、1896年母校の助教授になった。1898年に美術学校に校長天心を排斥する騒動が起こると、天心、雅邦らと連袂(れんべい)辞職、日本美術院創立に加わった。第1回展に出品の『屈原』は初期を代表する作。美術院では菱田春草らと日本画の近代化を企図し、大胆な没線描法を試みたが、朦朧派と悪評されて苦闘を強いられた。

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「雨霽る」出典元:https://www.adachi-museum.or.jp/

1903年(明治36)春草とともにインドに赴き、また翌年天心に従って春草らと渡米、1905年ヨーロッパを回って帰国。1906年美術院日本画部の茨城県五浦(いづら)への移転に伴い同地に移った。1907年の第1回文展に審査員として『二百十日』ほかを出品。なお『流燈』『山路』『瀟湘八景』などが初期の文展に出品されている。1908年五浦の家が火災にあって上野池之端に移転。1914年(大正3)同志と日本美術院を再興した。

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「双龍争玉」出典元:http://members2.jcom.home.ne.jp/taikan/

以後美術院の中心として活躍し、再興第1回展に『游刃有余地(ゆうじんよちあり)』、第3回展に『作右衛門の家』、第6回展に『山窓無月』、第8回展に『老子』、第10回展に『生々流転』などを出品、東洋の伝統に基づく近代日本画の創成を目ざして画壇に重きをなした。1930年(昭和5)ローマ日本美術展に際し美術使節として渡伊。1931年帝室技芸員、1935年帝国美術院会員にあげられ、1937年第1回の文化勲章を受章した。ほかに『無我(むが)』『五柳先生』『柳蔭』『野の花』『或(あ)る日の太平洋』などが著名。昭和33年2月26日東京で没。

代表作:

『無我』1897年東京国立博物館蔵

『屈原』1898年厳島神社蔵

『流燈』1909年茨城県近代美術館蔵

『蕭湘八景』1912年東京国立博物館蔵 ※重要文化財

『生々流転』1923年東京国立近代美術館蔵 ※重要文化財

『夜桜』1929年大倉集古館蔵

『大楠公』1938年湊川神社蔵

『或る日の太平洋』1952年東京国立近代美術館蔵

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「無我」出典元:https://www.adachi-museum.or.jp/


下村観山

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出典元:http://www.ndl.go.jp/

生年月日・出生地:明治6(1873)年4.10和歌山市生まれ。

プロフィール:

家は代々紀州徳川家に幸流の小鼓で仕えていたが、明治維新後、父豊次郎は篆刻(てんこく)を業とし和歌山に引き込みます。観山はその三男として明治6年4月10日に誕生。本名は晴三郎。1881年(明治14)一家とともに東京に移り、祖父の友人藤島常興に絵の手ほどきを受け、ついで常興の紹介で狩野芳崖に師事、1886年には芳崖の配慮で橋本雅邦の門に入ります。少年の並々でない才能を見抜いた芳崖が、その前途を年下の僚友雅邦に託したものと思われます。1889年、この年開校した東京美術学校に入学、岡倉天心の薫陶を受け、1894年に卒業すると同校の助教授に抜擢。とくに仏画、大和絵などの手法を研究して進境をみせ、卒業制作に『熊野観花(ゆやかんか)』を制作。1898年、いわゆる美術学校騒動によって天心が校長の職を退くと行をともにし、天心を中心に同志によって創設された日本美術院に正員として加わります。『闍維(じゃい)』『日蓮上人』『大原の露』などがこの時期の代表作。

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「木の間の秋」出典元:http://yokohama.art.museum/

1901年(明治34)要請されて東京美術学校教授となり、1903年に水彩画研究のためイギリスに派遣され、1905年ヨーロッパを回って帰国。1907年、文部省美術展覧会(文展)が創設されると審査委員に推され、その第1回展に『木の間の秋』を出品して賞賛されました。1914年(大正3)、横山大観、安田靫彦(ゆきひこ)らと日本美術院を再興。そこに『白狐』『弱法師(よろぼし)』『春雨』などの力作を次々に発表しました。1917年帝室技芸員を命ぜられ、翌1918年には帝国美術院会員に推されたがこれを辞退。卓抜な技法と清新な古典解釈がその画業を一貫していいます。昭和5年5月10日没。

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「白狐」出典元:http://www.tnm.jp/

代表作:

「光明皇后」(1897)宮内庁三の丸尚蔵館

「修羅道」(1900)東京国立博物館

「鵜鴎図」(1901)滋賀県立近代美術館

「ダイオゼニス」(1903)東京国立近代美術館

「木の間の秋」(1907)東京国立近代美術館

「大原御幸」(1908)東京国立近代美術館

「鵜図屏風」(1912)東京国立博物館

「白狐」(びゃっこ)(1914)東京国立博物館

「弱法師」(よろぼうし)(1915)東京国立博物館 重要文化財

「春雨」(1916)東京国立博物館

「楠公」(1921)東京国立博物館

「景雲餘彩」(1922)宮内庁三の丸尚蔵館

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「大原之露」出典元:http://www.modernart.museum.ibk.ed.jp/


菱田春草

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出典元:http://www.iida-museum.org/

生年月日・出生地:明治7(1874)年9月21日長野生まれ。

プロフィール:

明治期の日本画家。筑摩県飯田町(長野県飯田市)生まれ。本名三男治。明治22(1889)年上京し,結城正明に学んだのち,23年東京美術学校(東京芸大)に入学。28年同校を卒業しましたが,卒業制作「寡婦と孤児」は,日清戦争の時局とも重なり,その評価をめぐって教授会が紛糾。これが,革新性ゆえにたびたび論議をひき起こした春草の問題作第1号となります。同年帝国博物館嘱託として京都と高野山で古画の模写に従事。29年には母校絵画科の嘱託教員となります。31年岡倉天心を誹謗する怪文書に端を発した東京美術学校騒動に際して同校を辞職。同年の日本美術院創立に正員として参加し,横山大観,下村観山と並んで,同院の主力作家となる。

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「帰樵」出典元:http://www.iida-museum.org/

以後,同院と共催の日本絵画協会の共進会に革新的な作品を次々に発表。筆線を否定し大気表現を試みた作品群は,朦朧体の呼称で激しい非難を浴びました。次第に日本美術院の経営も悪化していくなかで,大観と共に36年インド,37~38年欧米を巡遊。帰国後38年,その芸術的指針を「絵画について」と題して発表し,琳派を中心とする色彩研究に進みます。39年日本美術院の五浦移転に伴い,同地に転居したが,40年ごろより眼病のため帰京。悪化していく病状と小康状態のなかで,42年第3回文展「落葉」,翌43年同第4回「黒き猫」(いずれも永青文庫蔵)などの名作が描かれました。これらは春草のみならず,近代日本画の代表的作品のひとつに数えられます。しかし44年ついに失明。同年38歳で夭逝。

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「菊」出典元:http://www.iida-museum.org/

代表作:

『寡婦と孤児』1895/東京藝術大学大学美術館

『水鏡』1897/東京藝術大学大学美術館

『秋景(渓山紅葉)』 1899/島根県立美術館

『菊慈童』1900/飯田市美術博物館

『雪後の月』1902/滋賀県立近代美術館

『王昭君』1902/山形・善寶寺(重要文化財)

『賢首菩薩』1907/東京国立近代美術館(重要文化財)

『紅葉山水』1908頃/愛知県美術館

『落葉』1909/永青文庫所有・熊本県立美術館寄託(重要文化財)

『黒き猫』1910/永青文庫所有・熊本県立美術館寄託(重要文化財)


狩野芳崖

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出典元http://www.ndl.go.jp/

生年月日・出生地:文政(1828)11年1月13日山口生まれ。

プロフィール:

明治期の日本画家。長門国長府藩印内(山口県下関市)に,同藩御用絵師狩野晴皐の長男として生まれる。本名幸太郎,のち延信,雅道。別号松隣,皐隣,勝海など。初め父に画技を学び,同家の菩提寺覚苑寺の霖竜和尚に参禅,大きな精神的感化を受けます。のちに「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も,霖竜から与えられたものと言います。弘化3(1846)年江戸に出て,木挽町狩野家の狩野晴川院養信に入門。養信がすぐに没したため,狩野勝川院雅信に学ぶ。生涯の友橋本雅邦とは,同日の入門でした。嘉永2(1849)年ごろ,師の号より1字を受けて勝海と号し,翌年ごろ塾頭に。同5年ごろには師の名から一字を得て雅道と号し独立。長府藩の御用絵師となります。万延1(1860)年,江戸城本丸再建に際し大広間天井画を揮毫。しかし幕末は国事に奔走し,馬関海峡の測量図などを描く。明治維新後失禄,明治10(1877)年上京後も精工社で輸出用陶器の下図を描いたりしましたが,12年ごろ「犬追物図」制作のため島津家雇となります。15年にはアーネスト・フェノロサの知遇を得,17年フェノロサが組織した鑑画会に参加。翌18年第1回鑑画会大会で「伏竜羅漢図」が3等賞,19年同第2回「二王ノ図(仁王捉鬼図)」(個人蔵)が1等賞を受賞し,同会の中心作家としてフェノロサと二人三脚で日本画の近代化を進めました。

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「伏竜羅漢図」出典元: http://info.pref.fukui.jp/

代表作は,この晩年の数年間に集中しており,ここにいたって,狩野派,室町水墨画,維新後の明清画研究に,遠近法や西洋的色彩などの西洋絵画研究が加えられ,それらが集大成されました。「不動明王図」「岩石図」「暁霧山水図」(いずれも東京芸大蔵)のほか,絶作「悲母観音図」(東京芸大蔵)は,日本画近代化の第一段階における記念碑的作品ともなっています。フェノロサ,ビゲローらとの関係から,アメリカのボストン美術館,フィラデルフィア美術館,フリア美術館にも作品が収蔵されています。また明治17年図画調査会雇,19年図画取調掛雇,21年東京美術学校(東京芸大)雇となり,美術学校の設立に尽力しましたが,同校開校の3カ月前に急逝しました。

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「寿老人図」出典元:http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/

代表作:

「伏竜羅漢」(福井県立美術館)一幅 紙本著色 1885年

「谿間雄飛図」(ボストン美術館) 紙本墨画淡彩 1885年

「江流百里図」 (ボストン美術館) 紙本墨画 1885年

「仁王捉鬼」(東京国立近代美術館)一幅 紙本著色 1886年

「不動明王」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)1887年 原図はフリーア美術館が所蔵

「悲母観音」(東京藝術大学大学美術館、重要文化財)一面 絹本著色 1888年

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「懸崖飛沫図」出典元:http://www.pref.yamaguchi.jp/

 

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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