乳白の魔術師「レオナール フジタ」

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乳白の魔術師「レオナール フジタ」

日本を代表する洋画家「藤田嗣治」は晩年、「レオナールフジタ」と改称する数奇な人生を歩みます。世界的な洋画家に至るその足跡をご案内します。「乳白の魔術師/レオナールフジタ」です。なお当記事は「マイルストーンジャパン」の許諾を得て転載記載いたしております。

人物区分に関する肩書:「画家」

生年月日:明治19(1886)1127

出身地:東京市牛込区(現・新宿区)新小川町

没年月日:昭和43(1968)129

関連サイト:http://kininaruart.com/artist/jyouga/fujita.html
参考サイト:http://foujita-fuchu2016.jp/about/
参考サイト:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/26-0457special-.html
参考サイト:http://toshifujiwara.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html
参考サイト:http://www.pompi.jp/special/foujita.html
参考サイト:http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2014/01/post-b328.html
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB
参考サイト:http://www.wul.waseda.ac.jp/news/news_detail.html?news_no=280
参考サイト:http://www.geocities.jp/torikai007/war/bunkajin-picture.html
参考FACEBOOKhttps://fr-fr.facebook.com/Maison-atelier-Foujita-195601823814795/
参考サイト:https://galeriey.wordpress.com/2011/05/08/musee-foujita%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%95%99%E5%AD%A6%E7%94%9F/
参考サイト:http://www.dogustat.com/?p=6191

「出生に関する情報」

1886年(明治19年)、東京市牛込区(現・新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として誕生。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となばんった中村緑野中原中也の名づけ親)が、従兄には小山内薫がいる。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。なお晩年、フランス帰化後の洗礼名が「レオナール・フジタLéonard Foujita

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「父・藤田嗣章」出典元:http://www1.kjclub.com/UploadFile/exc_board_59/2009/09/12/60090910163854-001.jpg

「学歴に関する情報」

フジタは子供の頃から絵を描き始めています。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごし(小学校は熊本大学教育学部附属小学校)、1900高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになります。森鴎外の薦めもあって1905東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学します。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望したフジタは、それ以外の部分で精力的に活動しました。観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていました。1910に卒業、精力的に展覧会などに出品しましたが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選しています

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「自画像・1910年」東京芸術大学所蔵・出典元:http://foujita-fuchu2016.jp/img/about_img_24.png

「仕事に関する履歴情報」

1911(明治44年)長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺の天井画を描きました(現存)。この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会っており2年後の1912に結婚。新宿百人町にアトリエを構えますが、フランス行きを決意したフジタが妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻。

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「登美子との新婚時代」出典元:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/images/2013/08/04/021912.jpg

1913大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えます。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、フジタは隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニシャイム・スーティンらと知り合います。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリジュール・パスキンパブロ・ピカソオシップ・ザッキンアンリ・ルソーモイズ・キスリングらと親交を持ち当時から「ツグジ」と呼ばれていました。また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村薩摩治郎八金子光晴ら日本人とも出会っており、このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流はフジタの経済的支えともなっていました。パリでは既にキュビズムシュールレアリズム素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきたフジタは大きな衝撃を受けます。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意します当時を振り返り「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」とフジタは自身の著書で語っています

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「留学時代1913年頃」出典元:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/images/2013/08/04/031913.jpg

1914、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮していきます。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったと言います。そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした19173月にカフェで出会ったフランス人モデルフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をします。このころに初めてフジタの絵が売れます。最初の収入は、わずか7フランでありましたが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになります。シェロン画廊で開催された最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、評判を呼び、すぐに絵も高値で売れるようになります。翌1918に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況がフジタに追い風となっていきます

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「2人の少女と人形1918年」個人所蔵・出典元:http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/images/2014/01/26/img.jpg

面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるようなフジタの画風はこの頃確立します。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができますサロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速にフジタの名声は高まっていきました。当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家となり、画家仲間では当時珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けたそうです。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれていました。彼女はフジタのためにヌードとなりますが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられました。このころ、フジタはフランス語の綴りFoujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていきます1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章ベルギーからレオポルド勲章を贈られます2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、フジタ自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。

リュシーは教養のある美しい女性でしたが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚。1931に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かいます。個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだと言われています2年後に日本に帰国1935年に25才年下の君代(19112009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚をし、君代とは終生連れ添います1938からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939に日本に帰国。その後パリへ戻りますが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツ占領される直前パリを離れ再度日本に帰国します。日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』や『アッツ島玉砕』などの作品を描きますが、敗戦後の1949に戦争協力に対する批判に嫌気が差して日本を去ります。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もありました。傷心のフジタがフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様でした。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続きます。1955にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959にはカトリック洗礼を受けてレオナール・フジタとなります。

1968129日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死亡、享年81歳。遺体はパリ郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られました。死後、日本政府から勲一等瑞宝章を追贈されました。最後を見取った君代夫人は、その後、自らが没するまでフジタ旧蔵作品を守り続けました。パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館に向け尽力、晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行っています2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーにフジタの旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開されました。フジタの死から40年余りを経て200942日に、東京にて98歳で没しました。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬されました。なお、君代夫人が所有したフジタ作品の大半はポーラ美術館ランス美術館に収蔵されています2011、君代夫人が所蔵していたフジタの日記(1930から19401948から1968までで、戦時中のものは未発見)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、現在も画家フジタ研究が行われています。

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「ランス礼拝堂」出典元:https://galeriey.files.wordpress.com/2011/05/069.jpg?w=417&h=312

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「フジタの墓碑」出典元:https://galeriey.files.wordpress.com/2011/05/342.jpg?w=357&h=268

「関連する事物や活動」

≪薩摩治郎八≫

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出典元:http://www.wul.waseda.ac.jp/opactest/file/image/news/280.bmp

〝バロン・サツマ〟とは、日本人ながら戦前のフランス社交界で華麗に活躍し、様々な国際文化事業に莫大な資金と熱意を注いだ人物・薩摩治郎八(1901−1976)の異名。治郎八は木綿商として一代で財を成した薩摩治兵衛の孫として生まれました。初代薩摩治兵衛は江州生まれの典型的近江商人で、江戸末期に日本橋の呉服屋に奉公したあと木綿商として独立、幕末彰義隊が上野に立てこもり江戸が騒然とした時期にも薩摩商店は同業者の中でただ一軒開店し、さらに西南戦争の折には木綿が品不足となることを見越して買占めをおこない、巨万の富を得たと伝えられています。その後、渋沢栄一の提案で設立された国営綿紡績工場の発起人にも抜擢されています。この日本一の木綿問屋の三代目として生を受けた治郎八は、幼少のころより学校になじめず、第一次大戦終了後の1920年の秋19歳のとき、イギリスに留学。その後22年の春にはフランスに渡ります

その後何度か日本に戻ることもありましたが、戦時中もパリに留まり、1951年に帰国。この約30年にわたるフランス滞在中、ラヴェルや藤田嗣治などパリで創作活動をする多くの文化人と交流時には経済的な支援をし、今日も残るパリ国際大学都市日本館を創設する等、多くの偉業を成し遂げています。また作家として詩歌や小説など、その豊かな経験を題材とした随筆等を著しています。〝バロン・サツマ〟〝東洋のロックフェラー〟といった異名は、破天荒、また伝説といわれた彼の生き様に対する称号とも言えます

≪戦争画≫

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1941年作・「ハルハ河畔之戦闘」出典元:http://www.geocities.jp/torikai019/fujita/nomonhan-fujita.jpg

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1943年作「アッツ島玉砕」出典元:http://www.geocities.jp/torikai019/fujita/attu-fujita.jpg

戦時中日本に戻っていたフジタには、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請がありました。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものでした。同時にフジタ自身の画家としての意識は、クリスチャン思想を戦争画に取り入れて表現していると自負していたものと思われます。占領下に、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ばスケープゴートに近いかたちで戦争協力の罪を非難されフジタは、渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残しパリへ移住、生涯日本には戻りませんでした。渡仏後、フジタは「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と語っています。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」、と手記の中でも述懐しています。とりわけ自身は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったがゆえに、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があったと思われます結局、パリでの成功後も戦後も、存命中には日本社会から認められることはついにありませんでした。また君代夫人もフジタ没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断っています。死後、随分と時間が経過したのちに日本でもようやくフジタの評価がされるようになり、展覧会なども開かれるようになりました。

≪フジタ独特の白・乳白色の経緯≫

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「五人の裸婦」1923年東京国立近代美術館所蔵・出典元:http://www.nikkeibp.co.jp/style/life/joy/exhibition/060407_fujita_1.jpg

フジタは自身の絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語りませんでした。しかし近年、フジタの作品が修復された際にその実態が明らかにされました。フジタは、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウム鉛白1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていました。炭酸カルシウムはと混ざるとほんのわずかに黄色を帯びます。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂シッカロールだったことが2011に発表されました。タルクの働きによって半光沢の滑らかなマティエールが得られ、面相筆で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上するのです。この事実は、フジタが唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942の写真から判明しました。以上の2つがフジタの白色(肌色)の秘密であったと考えられています。

このような技法上の側面に対して、フジタが日本人であったが故の独自の表現土壌にも要因がありそうです。フランスにきて、フジタが実感したことの一つに「油絵ではどうしてもこちらの画家にはかなわない」と感じた節があります。そこでフジタはいかに独創性を発揮すべきかを熟慮し、浮世絵の女性の肌の美しさを油絵で表現する技法を思い付くのです。すぐに実行しようとしましたが浮世絵の細い細い線描が油絵具やあのキャンバスでは不可能です。着想はよかったが、実行できず、再度努力を重ね、ついに線描法採用可能な「筆」ではなくいわゆる“魔法のキャンバス”制作に見事成功するのです。1921年のサロン・ドートンヌ(秋の美術展)で、フジタは裸婦像を発表。その作品を見た人々は口々に「素晴らしい深い白地だ」と言って絶賛します。一躍、時代の寵児とになり、翌年のサロン・ドートンヌでは審査員にまで上り詰めます。フジタの巧妙な戦略と不屈の努力が功を奏した結果と言えます。しかしこのようなフジタの先見性のある表現上の戦略に批判的な評価が存在したことも事実です。今でこそ表現上のアイデアも才能の要素と言われますが、当時の画壇では洋の東西を問わず否定的だったのです。

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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