日本の美術を支えた人々「岡倉天心」/2016.4.26修正更新


日本の美術を支えた人々「岡倉天心」

日本の近代美術史をひもとくと必ずこの人の名前が出てきます。その人とは「岡倉天心」。肩書きはさまざまで、著作も多数に上りますが、その「人となり」は余り認知されていないようです。昨今、多くの分野で「国際性」「インターナショナル」な存在感のあり方が、日本人に問いかけられる事が多発していますが、この岡倉天心の辿った生き様は、美術の世界に限らず、現代日本人のハートに何か「革新していく志」を示唆している思いを感じてしまいます。ではご紹介します、岡倉天心ストーリーです。

関連URL:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/okakura/

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「岡倉天心」出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/okakura/img/tenshin.jpg

出生地/生年月日:1863年2月14日神奈川県 横浜市生まれ。(1913年9月2日, 妙高村にて没す)

プロフィール/経歴:

明治期の「美術行政家」「美術界の指導者」「美術史家,思想家」幼名は覚蔵(角蔵),のち覚三と記、天心は号。横浜本町に岡倉覚右衛門と野畑この、の次男として生を受けます。福井藩士だった父覚右衛門は,藩命によって「石川屋」を名乗り,福井の特産品や生糸の商いをしていました。明治3(1870)年、母このが急逝し,翌年父が大野しずと再婚した際,天心は兄弟と離れて長延寺にあずけられます。母への思いが,後年の天心の女性問題に影響したとする指摘もあります。これに先立つ明治2年,天心はジェームズ・バラの塾(横浜・野毛)で英語を,また長延寺玄導和尚から漢籍を学び,国際性豊かな天心の基礎が作られました。同6年一家は上京し,天心は東京外国語学校に入学。同8年には東京開成学校(のちの東京大学)に入学し,政治学,理財学を学びます。13年東京大学文学部を卒業。卒業論文は初め「国家論」を書いたが,前年に結婚した大岡もととの痴話げんかから焼かれてしまい,2週間で「美術論」を書き上げたといいます。国家論と美術論というふたつの視点に,のちの著作や活動を貫く天心の基本的立場がすでに表れています。同年文部省に入り,またこのころから大学の師アーネスト・フェノロサの日本美術研究の通訳や助手を務め始めました。 以後の天心の活動は,「美術教育制度」「古美術保護制度の確立」「創作美術の指導者」「美術史家」「思想家の活動に大別されます。美術教育制度の確立に関しては,明治17年図画教育調査会委員,18年図画取調掛委員となり,19年10月から1年間,フェノロサとともに美術取調委員として欧米の美術事情と諸制度を調査。20年新設された東京美術学校(東京芸大)の幹事,23年校長となり,日本における美術学校という制度を実現。古美術保護に関しては,明治10年代に大蔵,内務,文部3省の協力で行われた古社寺調査に,文部省からたびたび出張。20年代に入り内務,宮内両省の主導となってからは,21年臨時全国宝物取調局取調掛,29年古社寺保存会委員となり,また帝国博物館の設立にも九鬼隆一とともに尽力,22年帝国博物館理事・美術部長となります。また創作美術の指導者としては,20年代以降日本画革新運動を先導。西洋絵画の摂取による新たな伝統美術の創出をめざし,東京美術学校での活動のほか,29年日本絵画協会,31年日本美術院を結成。美術史家としては,22年美術誌『国華』を創刊し,23年から東京美術学校で日本美術史・泰西美術史を講義,これが日本における美術史研究の嚆矢となる。31年の東京美術学校騒動後,同校および帝国博物館を辞職し官職は離れたが,創作美術,古美術保護,美術史研究に関する活動は続けています。そしてこの後の天心の活動に顕著となるのが,思想家としての活動です。26年中国,34年インドに旅行し,37年からはボストン美術館に勤務して日米を往復。英文著作『東洋の理想』(1903,ロンドン),『日本の覚醒』(1904),『茶の本』(1906,ともにニューヨーク)を次々に刊行し,日本東洋の美学を多分に政治論的,文明論的に論じながら西欧世界に紹介しました。晩年、腎臓炎に心臓発作を併発し,越後赤倉山荘で52歳で死去。

「フェノロサとの出会い」:

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「フェノロサ」出典元https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Ernest_Fenollosa.jpg/200px-Ernest_Fenollosa.jpg

ハーバード大学で政治経済を学んだアーネスト・フェノロサが日本にやって来たのは、明治十一年(1878年)の25歳の時でした。来日後は、東京大学にて政治経済や哲学を講義する毎日で、彼は決して美術の専門家ではありませんでしたが、もともと油絵やデッサンの経験もあった事から、いつしか、日本美術の独特な雰囲気に魅了されていくようになります。当時は維新の最中で近代化や欧米化が推し勧められ、襖絵や錦絵などは美術的価値の無い物として二束三文で売り払われたのが現実でした。その弊害に気づいた明治新政府は、明治四年(1871年)に『古器旧仏保存方』を発令します。そんな時代の救世主とも言える人物となったのが、フェノロサと、当時は、彼の通訳兼助手をしていた文部省職員の岡倉天心(てんしん)だったのです。日本美術に深い関心を寄せたフェノロサは、助手の天心とともに、全国の古寺を訪ねて美術品や宝物の調査に当たりました。そこで改めて日本美術のすばらしさと、それを保護し、未来へと残して行かねばならない大切さを痛感したのでした。以来、二人が調査に当たった社寺は60ヶ所以上、美術品・宝物は440品目に及ぶと言います。まさに、日本美術を救った二人なのです。

 

「東京美術学校(現・東京芸術大学)の開校」:

関連URL:http://www.taito-culture.jp/culture/geidai/japanese/page_01.html

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「東京美術学校」出典元:http://www.taito-culture.jp/culture/geidai/images/image_07.jpg

東京芸術大学美術学部の前身は、日本美術復興運動に取り組んでいた岡倉天心、アーネスト・フェノロサらの尽力によって1887年(明治20年)に設立され、1889年に開校した東京美術学校です。開校当時の教官には橋本雅邦、川端玉章らがおり、初期の学生には横山大観、下村観山、菱田春草ら、日本の近代美術史上著名な人物が揃っていました(初代校長は、文部省専門学務局長の浜尾新が暫定的に務め、岡倉天心は2代校長)。明治20年、東京美術学校が設立されると岡倉は26歳で幹事に就任、29歳で校長となりました。

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「当時の教授陣」出展元:http://www.taito-culture.jp/culture/geidai/images/image_05.jpg

美術教育の領域でまず実現された岡倉の理想とは、西洋美術を排して日本の絵画、彫刻、工芸を研究することからはじめる徹底した伝統主義でした。明治20年代といえば、明治国家の建設時期にあたり、その根幹を成すのは国家主義に他なりませんでした。この時期、岡倉が進めた美術振興の基礎もまた、国家を中心にするものでした。東京美術学校では、伝統美術の復興をめざす岡倉天心の教育方針もあり、学生の参考資料として、開校以前から行っていた古美術品収集に尽力していきました。さらに美術学校としての特性から歴代教官の作品、学生の卒業制作、文部省買上げ美術品などを多数買い上げ、これを収蔵していきます。

 

「日本美術院の設立/五浦への移住」:

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「日本画科の授業風景」出展元:http://www.taito-culture.jp/culture/geidai/images/image_03.jpg

岡倉天心の校長としての在任期間は、29歳から37歳の壮年期にあり、橋本雅邦や他の教官よりも遙かに年下でした。校長の職務の他に美術史、美学、学外の内外博覧会の企画から帝国博物館の理事兼美術部長などの要職も務める情熱家でした。明治26年(1893)頃に、教員25名、生徒数214名程の小規模であった東京美術学校を拡張すべく、帝国議会に西洋画、西洋彫刻部門の増設を含んだ組織と予算の拡張に関する「美術教育施設ニ付意見」(美術学校拡張法案)を上程しました。同案は、明治28年(1895)に可決されましたが、天心の意図とは異なった日本美術と西洋美術を共に奨励する修正案でした。本法案は当時の文部大臣西園寺公望の意向と思われ、法案可決後ただちに西洋画科設置が決まり、西園寺と近しい黒田清輝、久米桂一郎等が指導者に選ばれ、翌29年(1896)には同科が発足しました。黒田等の洋画新派は、本修正案を盾に美校改革に関する意見書を突きつけて校長である天心と対立しました。翌30年(1897)には新聞にも天心批判の論説が掲載され、排斥気運は高まっていきました。また翌31年(1898)には、帝国博物館総長の九鬼隆一も天心排斥の姿勢を示したため、天心は理事兼美術部長の辞表を提出し、後には校長も辞しました。義憤を感じた橋本雅邦以下、33名の教官も共に辞表を提出しましたが、天心は慰留しました。辞表を提出した教官の大半は、天心と雅邦を中心として在野団体の日本美術院を設立することになっていきます。また、このことが五浦への移住へとつながります。

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「明治31年・日本芸術院設立」出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/images/01_tenshin_tenshin04.jpg

 

「五浦での活動」:

関連URL:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/

関連URL:http://www.kitaibarakishi-kankokyokai.gr.jp/page/page000023.html

関連URL:http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=2655

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「五浦での創作活動」出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/images/01_tenshin2_tenshin02.jpg

日本美術院を辞職した後に天心がまず最初にやったのは、一緒に辞めた若い弟子たちと新しい美術創造の母体組織を作ることで、それは下村観山や横山大観、菱田春草らを中心に「日本美術院」に絵画部を設立することにつながっていきます。その一方で発生した天心の新たな役割は、橋本雅邦らとスタートした「日本美術院」のための資金繰りです。結果的に天心はアメリカのビゲローに援助を頼み、一万ドル(当時の日本円にして二万円)という大金を得ることになります。この資金を使って急ピッチで研究所の工事をして、その間には東京専門学校(後の早稲田)へ特別課外講師として参加したりしていました。そこで大隈重信と知り合い、日本美術院の後援者となってもらいます。さらにその後も天心は日本美術院のために忙しく働き、各地で行われた展覧会などは大成功をおさめます。この後もシポンサーを見つけるための活動をしたり、 日本美術に新しい試みである『朦朧体』という技法を生み出したりします。

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「朦朧体作品・大観の東山」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/mid/momat/s0036016.jpg

『朦朧体』とは従来の画法にない「明暗表現」「光の表現」「大気の表現」を求めたもので、横山大観や菱田春草らに「空気を描く方法を考えろ」と言って作らせたものです。しかし線のはっきりしない『朦朧体』は当時の日本では認めてもらえず『日本芸術院」の活動そのものが行き詰まっていきます。また、このころの五浦における創作活動を顕彰するため、五浦の地に「岡倉天心記念・五浦美術館」が建設されています。

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「五浦美術館」出典元:http://www.kitaibarakishi-kankokyokai.gr.jp/data/img/1435047966_4.jpg

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「五浦の六角堂」出典元:http://www.kitaibarakishi-kankokyokai.gr.jp/data/img/1435048323_4.jpg

 

「ボストン美術館部長への就任」:

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「1900年代初頭のボストン美術館」出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/images/01_tenshin_tenshin05.jpg

明治34(1901)年の暮れに天心は9ケ月に亘るインド旅行を試みます。インドで天心はタゴール家に滞在しながら、アジャンタなどの佛教遺跡を巡り、「アジアは一つ」の言葉で有名な「東洋の理想ー日本美術を中心として」を脱稿し、英国で出版します。この「東洋の理想」出版により、天心は日本・東洋美術の権威と見なされ、明治37(1904)年、ボストン美術館に招聘され職を得ます。天心は、ボストン美術館の中国日本美術部を充実させ、その間に「日本の覚醒」「茶の本」と立て続けに英文著書を出版します。明治38(1905)年3月に帰国した天心は、六角堂と天心邸の建築を進めます。天心はボストン美術館で特別な待遇を受けており、1年目の給与が建築費に充てられ、2年目の給与で、五浦に加えて1万坪を超える山荘の土地購入に充てています。

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「茶の本・初版」出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/images/01_tenshin2_tenshin03.jpg

 

「天心ゆかりの足跡」:

関連URL:http://taitonavi.jp/enjoy_detail.html?no=323

『郷家は福井市』

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「福井の石碑」元:http://info.pref.fukui.lg.jp/tenshin/images/tunagari/katuteari/sekihi_2.jpg

岡倉家は代々、福井城下のはずれ、志比口筏町(しびぐちいかだまち・現在の福井市宝永1丁目付近)に住んでいました。両親の住んでいた居住地跡には、「岡倉天心生家の跡」と記した御影石の石碑(昭和27年建立)を見ることができます。碑には次のように記されている。「明治美術界の偉大な先覚者として、東洋美術の眞髄を世界に紹介することに努めた天心岡倉覚三の郷家、即ち父岡倉覚右ェ門の住家の跡である。天心は父の離藩後、文久二年横浜で生れたが、父祖の地福井を愛し、常に、自分は福井人である、自分の郷土は福井である、と称して在世中いくたびか福井に来遊したりした」とあります。生涯、福井で生活したことのなかった天心ですが、記述にあるとおり、幾度か福井県を訪問しています。明治39年4月下旬、ボストン美術館に所蔵する美術品を購入するため京都・奈良に向かう途中、福井県に立ち寄り、その際、機織業を営む異母姉の坪田百やその夫の均を訪問し、旧交を温めたとの記述が残っています。

 

『岡倉天心記念公園』

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「公園入り口」出展元:http://taitonavi.jp/pic/db_img/338_2.jpg

岡倉天心記念公園は、横山大観らと日本美術院を創設し、日本の伝統美術の復興に努力した岡倉天心の邸宅兼をかねた日本美術院跡に台東区が作った公園で、昭和42年(1967)に開園しました。約700平方mの小さな公園ですが園内には岡倉天心を記念した六角堂が建ち、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されています。

所在地:台東区谷中5-7-10

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「園内の六角堂」出典元:http://taitonavi.jp/pic/db_img/338.jpg

 

『赤倉温泉・六角堂』

関連URL:http://www.niigata-kankou.or.jp/sys/data?page-id=8550

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「赤倉の六角堂」出展元:http://www.niigata-kankou.or.jp/myoko/kanko/institution/images/o4603.jpg

岡倉天心が晩年過ごし没した山荘跡に有志によって建てられた六角堂は奈良法隆寺の夢殿(天心の調査でその美術的価値が確立された)を模したといわれ、平櫛田中作の天心の金色の胸像が安置されています。また六角堂周辺のレンゲツツジは観光地としても有名です。

所在地:新潟県妙高市赤倉

 

『駒込・染井霊園』

染井霊園は都心の閑静な墓地で、春は(染井吉野の)桜の名所としても名高い所です。岡倉天心の墓は道教風の造りで、その形は早崎梗吉の考案と言います。墓の右にあるのは、孫で国際政治学者の岡倉古四郎が 1994年に建てた 「永久の平和」碑です。岡倉覚三の墓の碑銘は「釈天心」。戒名というよりは浄土真宗の法名と思われます。

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