忘れかけた幸せのかたち「日系移民写真家 大原治雄」


忘れかけた幸せのかたち「日系移民写真家 大原治雄」

私たちの身の回りには耳を疑うような不幸せな事件・出来事が頻発して、真っ当な生き方の常識すら見えなくなりつつあります。そんな中、今、ひとりの写真家が注目されています。ご紹介します「忘れかけた幸せのかたち 日系移民写真家 大原治雄」です。

参考サイト:http://www.kmopa.com/?p=4773
参考サイト:http://www.ndl.go.jp/brasil/column/kasatomaru.html
参考サイト:http://artscape.jp/report/curator/10123433_1634.html
参考サイト:http://www.pen-online.jp/news/art/ohara-itami/
参考サイト:http://www.ims.com.br/ims

≪大原治雄の出生と略歴≫

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Haruo Ohara出典元:http://www.kmopa.com/—2014wordpress/wp-content/uploads/152-Haruo-Ohara-002.jpg

日本からブラジルへ最初の移民船「笠戸丸」が出航したのは、1908年(明治41年)でした。大原はその翌年、1909年、高知県吾川郡三瀬村石見(現・いの町)に長男として生まれ幼い頃から家の農業を手伝いました。しかし農地は狭く炭を焼いて現金収入を得ますが、生活は苦しいものでした。そこへ来たのが、当時,国が積極的に推進していた南米への移民の募集でした。元手がなくてもブラジルへ行けば大きな稼ぎが得られると宣伝されていました。 一家は移民を決断し192717歳で家族らと共にブラジルへ移民として渡り、初めサンパウロ州のコーヒー農園で働いた後、1933年、パラナ州ロンドリーナに最初の開拓者として入植します。一家は原生林を一から開拓しなければなりませんでした。重労働にも関わらず、衣服や食料にもこと欠く苦しい生活を余儀なくされ、周りには夜逃げや自殺を選ぶ移民も少なくありませんでした。そんな生活に光明が射すのは1934年。治雄は24歳で結婚をします。1938年小型カメラを手に入れ、コーヒーや果樹栽培の合間に趣味で撮影を始めます。その後も独自に研究を重ねながら技術を習得し、次第にカメラに没頭していきます。1951年、ロンドリーナ市の新空港建設のため市街地に生活を移し「フォトシネクラブ・バンデイランチ」(サンパウロ)に入会。農業経営の一方、60年代後半まで国内外のサロンに積極的に参加します。当時は無名のアマチュア写真家でしたが、1970年代はじめから徐々に知られるようになり、地元新聞などで紹介されます。1998年「ロンドリーナ国際フェスティバル」および「第2回クリチバ市国際写真ビエンナーレ」で、初の個展「Olhares(眼差し)」展が開催され、大きな反響を呼びます。年月を経、19995月、家族に見守られながらロンドリーナで永眠。享年89歳でした。2008年、日本人ブラジル移民100周年を機会に、遺族により写真と資料の一式がブラジル屈指の写真史料アーカイヴズであるモレイラ・サーレス財団に寄贈されました。2015年、NHKドキュメンタリー番組「新天地に挑んだ日本人~日本・ブラジル120年~」「国境を越えて―日本―ブラジル修好120年」で大原治雄が日本で初めて紹介され大きな反響を呼びました。

*≪参考:日本からブラジルへの移民について≫

1895年、日本とブラジルは修好通商条約に調印し、外交関係を樹立。1908年(明治41年)に神戸港から781人が出発したのを始まりに、約100年間にわたり25万人が移住しました。 移民は当初、好待遇を約束されていましたが、奴隷制度廃止に伴う労働力不足を解消するため、コーヒー農園の労働者として酷使されました。しかし、日本人らしい持ち前の粘り強さと団結力を発揮し、農業の技術革新に貢献するなど、いつしかブラジル社会を支える存在となりました。現在ブラジルには、160万人以上の日系人が暮らしています。

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「笠戸丸」出典元:http://www.ndl.go.jp/brasil/images/R/048/048-001r.jpg

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1904428日移民出航風景」出典元:http://www.ndl.go.jp/brasil/images/R/S006/S006-001r.jpg

1908年(明治41428日、神戸港は穏やかな夕暮れ。ブラジルへの第1回契約移民781名を乗せた笠戸丸(東洋汽船株式会社、6,167総トン)は、壮行の花火が打ち上げられるなか抜錨、一路サントスへ向け出港しました。船酔いと暑さを、食事と余興で紛らわしながらの50余日、およそ12千カイリの航跡を印し、618日朝、笠戸丸はサントス港第14埠頭に接岸しました。この日をブラジルでは「日本人移民の日」、日本では「海外移住の日」として記念しています

 

≪カメラの購入≫

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「治雄と幸」出典元:http://www.kmopa.com/—2014wordpress/wp-content/uploads/149-DSC_0093-298×300.jpg

入植後の苦しい生活に光明が射すのは1934年。24歳で結婚をします。相手は日本からの移民の娘・眞田幸(さなだこう)。この時、大切な人生の1ページを記録してくれた写真に大原治雄は感動しました。このような経緯で写真に魅せられた大原治雄は4年の間、稼ぎを貯え、1938年小型カメラを手に入れ、コーヒーや果樹栽培の合間に趣味で撮影を始めます。そしてブラジルの大地に生きる人々にレンズを向け始め、カメラを通してつかの間の喜びを発見していきます。初めて撮影したのは《オレンジの木の隣にいる幸(こう)》でした。以来、農作業の合間に写真を撮るようになります。また大原は独自の研究を重ねて技術を習得し、やがて1951年(41歳)にはサンパウロの有名カメラクラブの会員となり、国内外の写真展に出品するほどとなります。1970年代初頭からは名前も知られ始め、地元の新聞への掲載、個展開催、フォトフェスティバルへの出品など、徐々に高い評価を受けるようになりま

 

 

≪創作活動≫

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「朝の雲」出典元:http://www.kmopa.com/—2014wordpress/wp-content/uploads/001-Haruo-Ohara-003-%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC2-300×188.jpg

ブラジルの現実は決して甘くはありませんでした。32歳の時、軌道に乗り始めていたコーヒー農園が、かつてない大寒波に襲われ壊滅的な被害を受けます。「未曽有の寒波が襲来した。見渡す限りコーヒーは皆黒く枯れた。コーヒー栽培へ最後のとどめを刺された」(大原治雄の日記より)

このコーヒーの大打撃から10年後「朝の雲」を写します。ブラジルの大地と空、そしてそこに生きる自らの伸びやかな姿を写しました。やがて大原治雄のレンズはすくすくと育つ9人の子どもたちに向けられま。そして1955年、46歳の時に代表作「治雄の娘・マリアと甥・富田カズオ」が生まれま。大原治雄は娘マリアに8回もジャンプさせたと言います。

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「治雄の娘マリアと甥富田カズオ」出典元:http://www.kmopa.com/—2014wordpress/wp-content/uploads/070-Haruo-Ohara-133-%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC1-188×300.jpg

大原はブラジルへ渡ってから70年間、一日も欠かさずに日記を書き続けました。下記はその一部です。

  『猫の目の如き天気がざあざあっ 時々灰色の雲が通ると大粒の水滴が落

   ちる 太陽にてらされて まっ白い糸が天と地をつなぐやうに思える

   (大原治雄日記より)

特筆すべきは、その優れた表現力ですが、大自然を相手に一喜一憂する日常を書き綴ることによって、不安に波立つ心を鎮めていたのかもしれません。霜害で農園のコーヒーの木が枯れてしまい、一家が長い間、厳しい生活を送ったその間にも、大原は、頭を抱えた自分自身のポートレイトを撮影し、ユーモアを感じさせる余裕さえ見せています。画面を広く覆う朝の大空は、原生林を切り開いたからこそ現れた「空」と「水平線」であり、大原はこれを繰り返し撮影しています。開拓の象徴である広い空を背景に、くわえ煙草で、指先で鍬を操り、軽々とバランスを取る大原が、「天と地をつなぐやう」な姿として、撮影されています。苦難の日々を乗り越えた喜びに溢れる姿ですが、大原自身は画面右端に立っていることから、大原は、この写真の主役をブラジルの大地と空と捉えていることがわかります。

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「家族の集合写真」出典元:http://artscape.jp/report/curator/__icsFiles/artimage/2016/05/16/c002curator/1605_kc_04.jpg

大原の写真は、おおらかな大地と農作業の喜び、家族へ注がれる慈愛の眼差しに満ちています。また、スナップのような軽やかな印象の作品も、実は、自然光の取り入れ方、人物の動きや構図などが、綿密に計算されていることが見て取れ、大原の優れた観察力と表現力が感じられます。また、近代写真の実験的精神をふんだんに取り入れながら、日常生活の中に「美」を見出し、独自の世界を作り上げようとする真摯な取り組みには、新しいものへの挑戦を恐れない精神の強さを感じることができます。人生の大切な時間や身の回りのものごとを、丁寧な手法で、写真芸術として開花させ、再び家族と共有する楽しみこそが、大原の生きる希望だったのではないでしょうか。

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出典元:http://www.ims.com.br/images/67/65/acv_imglista_1412356765.jpg

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「見物人」出典元:http://statics.pen-online.jp/image/upload/news/ohara-itami/ohara-itami_EzdCYhM.jpg

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出典元:http://www.ims.com.br/images/69/53/acv_imglista_1412356953.jpg

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出典元:http://www.kmopa.com/—2014wordpress/wp-content/uploads/074-Haruo-Ohara-080-190×300.jpg

大原は、開拓したロンドリーナの町の発展は記録しましたが、過酷な労働や戦時中の混乱は、いっさい撮影しませんでした。あくまでも生活に根ざし、アマチュアの“農民写真家”を貫いたのです。農業を楽しみ、命を育む大地の恵みに感謝し、そして、新しい物事を学び、想像力を失わないこと ー それが、写真を通して、大原が子どもたちに伝え、残したかったことかもしれません。大原の生涯を支えた写真が湛える豊かな表現力と深い精神性は、時代を超えて、人々の心に響くことでしょう。幸夫人が1973年に亡くなると、大原は9人の子どもたち一人ひとりのために、 過去の膨大なネガを見直して編集し、家族の歴史を一冊にまとめた「アルバム帖」を作成します。1年間暗室にこもって一冊あたり約300枚もの写真を焼き、貼り付け、9冊を仕上げました。

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「アルバム帖」出典元:http://artscape.jp/report/curator/__icsFiles/artimage/2016/05/16/c002curator/1605_kc_09.jpg

大原治雄は日本には一度も帰ることなく1999年、89歳でこの世を去りました。生前、大原治雄は妻との帰郷を強く願っていたそうです。妻もまた大原治雄と同じく日本を離れてブラジルに暮らしてきた移民だからです。いつか一緒に日本を旅しようと約束していたそうです。ところが突然妻・幸が病に倒れ62歳で亡くなり、先立たれた大原治雄は一度も日本へ帰ろうとしませんでした。 1999年、大原治雄は家族に見守られながら89歳で永眠します。治雄と幸夫人に始まった大原家は、現在70人を超す大家族となっています。2008年、日本人のブラジル移民100周年記念の年に遺族により、オリジナル・プリント、約2万枚のネガフィルム、写真用機材、蔵書、日記など一連の資料が「モレイラ・サーレス財団」に寄贈されました。

≪モレイラ・サーレス財団≫

大原作品の所蔵館で、ブラジルの銀行Unibanco(ウニバンコ)が設立し、モレイラ・サーレス家の出資により運営されている文化財団です。写真・音楽・文学・映像部門のコレクションを形成しており、研究展示の他、さまざまな出版も手がけています。なお大原治雄の作品資料などは、ブラジルの最も重要な写真家30人のコレクションとして、リオ・デ・ジャネイロ市にあるIMSの「フォトグラフィー・アーカイブ・アンド・リサーチ・センター」(写真保存専門部門)で維持管理していますまた2017年にはサンパウロにモレイラ・サーレス美術館がオープン予定でなお以下のサイトから財団に寄贈された所蔵先品を閲覧することができます。

寄贈作品一覧:http://www.ims.com.br/ims/explore/artista/haruo-ohara/obras

≪代表作品≫

1940年「コーヒーの収穫に向かう朝」パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ

1940年頃「霜害後のコーヒー園」パラナ州ロンドリーナ

1941年頃「三味線を持つ治雄の祖母梅治」パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ

1945年「一服/シャカラ・アララの雇い人たち」パラナ州ロンドリーナ

1948年「治雄の子シロとマリア」パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ

1949年頃「コーヒーの実の乾燥場/治雄の息子スナオ」ロンドリーナ、シャカラ・アララ

1950年「泥ブラジル通り」パラナ州ロンドリーナ

1950年頃「家族の集合写真」パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ

1950年頃「雨後のロンドリーナ駅の操車場」パラナ州ロンドリーナ

1950年頃「花壇での遊び」パラナ州ロンドリーナ、シャカラ・アララ

1950年頃「シャカラ・アララの中心地」パラナ州ロンドリーナ

1952年「朝の雲」パラナ州テラ・ボア

1953年「セルフポートレート」パラナ州ロンドリーナ富田農園竹林

1954年頃「治雄と幸」パラナ州

1955年「治雄の娘マリアと甥富田カズオ」パラナ州ロンドリーナ富田農園

1955年「治雄の甥 眞田エリオとイチギクの木」パラナ州ロンドリーナ

1955年「眞田準の農園」パラナ州ロンドリーナ

1957年「渦」パラナ州ロンドリーナ

1958年「移動写真屋/師のジョゼ・ジュリアーニ、大聖堂そばのマルシャル・フロリアノ・ベイショット広場にて」

1961年「見物人」パラナ州ロンドリーナ

1969年「ソテツ/サンジェロニモ通りの家にて」パラナ州ロンドリーナ

1969年「オリジナルなもの」パラナ州ロンドリーナ

1969年「抽象/ サンジェロニモ通りの家にて」パラナ州ロンドリーナ

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