最新世界遺産登録・詳説/潜伏キリシタン

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23「天草の崎津集落」

「信心具」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset04_img05.jpg

「現在の崎津教会」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset04_img07.jpg

「崎津教会内」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset04_img08.jpg

インフォメーション:以下参照

天草の﨑津集落」は天草下島の西部に位置する漁業を生業とする集落で、キリスト教禁教期に潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える「水方屋敷跡」、ひそかにオラショを唱えた「﨑津諏訪神社境内」、絵踏が行われた「吉田庄屋役宅跡」、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた「初代﨑津教会堂跡」からなります。﨑津集落は戦国時代にはすでに集落として成立しており、1569年にイエズス会のアルメイダ修道士によって宣教が開始されると、﨑津集落にもキリスト教が広まり多くの信心具が伝来しました。禁教期になると﨑津集落では毎年、吉田庄屋役宅において潜伏キリシタンを探すための「絵踏」が行われるようになり、村人はキリストや聖母マリアの像を踏むことを強制され「宗門改帳」により宗旨、および所属する寺院が管理されていきました。そこで﨑津集落の潜伏キリシタンは、在来の信仰を装うために表向きは﨑津諏訪神社の氏子や寺の檀家となっていきました。集落内には禁教期に洗礼をつかさどるなど信仰を指導した「水方」の屋敷跡があります。﨑津集落では禁教期においても16世紀から続く小規模な共同体である「小組」がひそかに維持され、「水方」と呼ばれる指導者が洗礼を授け、葬送儀礼をはじめ日繰りをもとに儀礼、行事などを行ってきました19世紀後半における宣教師の天草への来訪後、﨑津集落の潜伏キリシタンたちは改めて洗礼を受け、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰しました。そして1888年、かつて水方を務めた潜伏キリシタンの土地であり、禁教期に彼らがひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社の隣地に最初の﨑津教会堂が建てられます。そのことは﨑津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。この木造教会堂は、その後の老朽化により移転、新築され跡地には修道院が建てられ今日に至っています。現在の﨑津教会堂は1934年、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられています。これは絵踏が行われた場所にカトリック復帰の象徴となる教会堂を建てたいというハルブ神父の強い願いによるものであったと言います。教会堂の内部は当初から畳が敷かれ、祭壇はかつて絵踏が行われた場所を選んで設置されたといわれています

関連住所:熊本県天草市河浦町﨑津539(﨑津教会)

*教会の見学について

事前の連絡予約が必ず必要です。以下のサイトからアクセス、確認ができます。

問合せ&確認:https://kyoukaigun.jp/reserve/agreement.php?cid=18

*関連情報「崎津教会」

参考サイト:https://www.t-island.jp/p/spot/detail/86

出典元:https://www.t-island.jp/p/uploads/spot/300/e94e1876df5e62b72c49e072ff12d2ec.gif

インフォメーション:以下参照

キリスト教解禁直後に﨑津の大工によって最初の木造教会堂が建設されたのち、ハルブ神父の指導のもと、現教会堂が鉄川与助の設計・施工により1934年に建てられました。現在の教会堂が建つ場所は、禁教時代に潜伏キリシタンの取り締まりのため「絵踏」が行われた﨑津村庄屋宅跡が選ばれた経緯がありますまた﨑津集落には「絵踏」が行われた場所に祭壇が設置されたという言い伝えがあり、地域の人々にとって教会堂は現在も信仰の復活をあらわすシンボルともなっていますも信仰の場であり、教会堂へ至る道が聖体行列や﨑津諏訪神社の祭りの空間として共有されるなど、﨑津教会とその周辺景観は重層する歴史を体現する象徴的な場です。教会は「海の天主堂」とも呼ばれ、教会が建つ漁港一帯は1996年(平成8年)日本の渚百選「キリシタンの里﨑津」に選ばれ、2001年(平成13年)には日本のかおり風景100選「河浦﨑津天主堂と海」、2011年(平成23年)には天草市﨑津の漁村景観が「国の重要文化的景観」にも選ばれました

*関連人物「鉄川与助」

参考サイト:http://kamigoto.org/kaisetu/tetukawa.html

出典元:http://kamigoto.org/kaisetu/photo/tetukawa.jpg

インフォメーション:以下参照

18971976年(明治12~昭和51)年。鉄川与四郎の長男として南松浦郡新魚目町丸尾で誕生1906年(明治39)父祖代々の建築業を相続し設計・建築の世界へ。カトリック教会(天主堂)の建築に精魂を傾けて新機軸を打ち出し1906年、桐の浦天主堂を出発点として、煉瓦造り天主堂に木造天主堂を交えて、野首天主堂、福岡今村天主堂、南田平天主堂など次々に建築。次いで1919年(大正8)全国にも数少ない石造りの頭ヶ島天主堂を設計建築。以後、構造を鉄筋コンクリート造りに変え紐差天主堂、熊本天主堂などの建築に着手。いずれも設計・施工を行っています。初めは外人宣教師に指導を受けヨ-ロッパの教会に範をとりますが、自らも研餐を積み、わが国の風土にあわせた独自の技術を開発しました。日本近代建築史においても評価されている逸材の建築家です


 24「外海の出津集落」

「出津集落」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset05_img01.jpg

「出津教会堂」出典元:http://oratio.jp/cms/wp-content/uploads/2014/03/02_shitsu-660×370.jpg

「出津教会堂遠景」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset05_img09.jpg

インフォメーション:以下参照

外海出津集落」は西彼杵半島の西岸にあたる外海地域に位置し、東シナ海に注ぐ出津川の流域にあり、潜伏キリシタンが禁教期にひそかに祈りをささげるために聖画像を隠していた「屋敷の跡」、「潜伏キリシタンの墓地」、禁教期に集落を管轄した「代官所の跡」および「庄屋屋敷跡」、信徒発見後に「宣教師が上陸した浜辺」、解禁後に祈りをささげた「仮の聖堂跡」と「教会堂」からなります。外海地域では1571年にイエズス会宣教師カブラルらが宣教活動を行い、キリスト教が伝わりました。それにともなって多くの者が洗礼を受け、1592年には外海北部の神浦地区に宣教師の住居としてレジデンシアが置かれるなど宣教が進みました。1614年、全国に禁教令が出されましたが、出津集落は比較的取り締まりが緩やかな佐賀藩に属していたため、庄屋をはじめとする村役も潜伏キリシタンのままでした。それでも集落内では16世紀にヨーロッパから伝わったとされる聖母マリアをかたどった青銅製の大型メダル「無原罪のプラケット」をはじめ、中国由来と推測される銅製の仙人像をイエズス会創始者のイグナティウス・ロヨラに見立てた「イナッショさま」、日本人が描いた「聖ミカエル」や「十五玄義」などの複数の聖画像を隠し、ひそかに拝むことによって信仰を実践していました。他にも、出津集落を含む外海地域に伝わったと考えられる絵画「雪のサンタ・マリア」や、もともと出津集落に所在し、ド・ロ神父を経てフランスへと渡ったが、近年再び長崎に戻った絵画「無原罪の聖母像」があります。さらに1603年に編さんされた「こんちりさんのりゃく」(罪を報いて赦しを求める祈り)の写しなどの日本語の教理書も伝承されていました。敬虔な出津集落の潜伏キリシタンは、祈りの言葉であるオラショを口承でも伝えており、日常的に各自が無音か小声で祈りを唱えたと言います。出津集落の潜伏キリシタンは、最終的に16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰する者と禁教期の信仰形態を継続する者(かくれキリシタン)に分かれ、伝承してきた聖画像の所有を巡る対立にまで発展していき、この争いは「野中騒動」と呼ばれています。カトリックに復帰した潜伏キリシタンは、キリスト教が解禁された1873年に禁教期に拝んでいた聖画像を所有していたキリシタンの屋敷の隣に「仮の聖堂」を建て、その後1882年にはパリ外国宣教会の宣教師であったド・ロ神父が集落を見下ろす高台に出津教会堂を建てました。それは出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。出津教会堂は海からの強風を避けるために低い屋根や天井が採用され、1891年と1909年の増築にともなって前後にふたつの塔が建つなど外観に特徴があります。ド・ロ神父は村民の貧しい生活を改善するために、教会堂に隣接する場所に授産施設である出津救助院も建てました。そこは禁教期に潜伏キリシタンの取調べを行った代官所が存在していた場所でもありました。キリスト教の解禁直後、出津集落でカトリックに復帰したのは約3,000人だったのに対し、引き続き禁教期の信仰を実践し続けたかくれキリシタンは約5, 000人でした。しかしその後カトリックに帰依する人々は徐々に増加し、20世紀中頃にはカトリック信徒とかくれキリシタンとの人数の割合はほぼ等しくなり、現在では、かくれキリシタンの多くは仏教徒またはカトリック信徒へと移行しています。

関連住所:長崎県長崎市西出津町2633

問合せ:長崎市外海歴史民俗資料館0959251188

*関連建物「出津教会堂」

出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset06_03.jpg

「ド・ロ神父」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset06_02.jpg

インフォメーション:以下参照

1873年にキリスト教が解禁されると、ペリュー神父が出津に仮聖堂を建てて宣教を行いました。1879年にド・ロ神父が外海に着任し、1882年に自ら設計し新たに建設したのが出津教会堂で1891年および1909年の身廊方向への増改築によって、教会は水平性が強調された印象を与える独特の外観となりました。主構造は煉瓦れんが造りで、煉瓦の表面を漆喰で塗っています。天井は、中央部をわずかにむくらせた平天井。低い屋根は海からの強風を意識したものと考えられ、屋根の上の白い格子状のパターンは瓦(かわら)の目地漆喰によるもので


25「外海の大野集落」

「大野集落」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset06_img01.jpg

「キリシタンの墓地」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset06_img06.jpg

インフォメーション:以下参照

外海大野集落」は、西彼杵半島の西岸にあたる外海地域に位置し、東シナ海に面する急傾斜地にあり、潜伏キリシタンが氏子として「神道の信徒であることを装った神社」、自分たちの「信仰対象をひそかにまつった神社」、「潜伏キリシタンの墓地」、「解禁後に建てられた教会堂」からなります。 大野集落一帯では、1571年にイエズス会宣教師カブラルらが宣教活動を行い、キリスト教が伝わりました。大野集落は大村藩に属する神浦地区の一部であり、多くの者が洗礼を受け、出津集落と同様に宣教が進んだと言われています。1614年、全国に禁教令が出されたため、大村藩でも藩主が棄教し、領内ではキリシタンに対する弾圧が行われましたが、大野集落の潜伏キリシタンはひそかに信仰を続けました。禁教が進み、宣教師が不在となる一方、大野集落の潜伏キリシタンは表向きは仏教寺院に所属し、さらに集落内にある大野神社、門神社辻神社3つの神社の氏子としても振る舞いながら、組織的に信仰を続けました。 大野集落の潜伏キリシタンは、祭神を禁教初期に外海一帯で活動したとされるポルトガル人宣教師と同名の「サンジュワン」と呼び、ひそかに崇拝の対象としました。一方、大野集落の東端に位置する辻神社は古来の自然信仰に基づく山の神をまつった神社でしたが、潜伏キリシタンはその祭神に門神社と同じく「サンジュワン」を重ね、ひそかに信仰の対象としました。 1865年大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始しました。外海地域の潜伏キリシタンも大浦天主堂の宣教師と接触を図り、大野集落の南に位置する出津集落に宣教師がひそかに来訪しました。これにより大野集落の潜伏キリシタンも宣教師と接触し、多くの村人たちが洗礼を受け、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰しました。辻神社から北東の山域へと連続する傾斜面には潜伏キリシタンの多くの墓地があります。これは、解禁直前に自分たちの信仰を表明した潜伏キリシタンが、集落の共同墓地に埋葬することを拒絶されたために新たに設けた墓地で、現在も13基の積石墓が残されています。当初、大野集落のカトリック信徒は、約3km離れた出津集落に建てられた出津教会堂に通っていましたが、1893年には洗礼を受けた村人が200名を超えました。また、離れた場所にあることから出津教会堂に通えない26戸の信徒のために、1893年、集落の中心に出津教会堂の巡回教会として大野教会堂が建てられました。それは、大野集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。大野集落では、1912年までにさらに200名を超える多くの村人が洗礼を受けましたが、その後の変遷により現在ではカトリック信徒の世帯数が数戸にまで減少し、集落民の大半は仏教徒となっています

関連住所:長崎県長崎市下大野町2619

問合せ:長崎市外海歴史民俗資料館0959251188

*関連建物「大野教会堂」

出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset06_img07.jpg

出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset06_img08.jpg

インフォメーション:以下参照

西彼杵半島西岸の外海地方にある教会堂。大野周辺の26戸の信徒世帯のために出津教会堂の巡回教会として、1893年にド・ロ神父によって建てられたものです。この教会堂は平屋建てで、風が強い立地に対応して地域で産出する石を、赤土に石灰を混ぜた漆喰しっくいで固めた「ド・ロ壁」を北側玄関前に直立させて風よけとした独特の建築様式となっています。石積みは江戸時代より外海地方の家屋で伝統的に用いられており、ド・ロ神父はこの地元の技術を応用し、自らの設計に好んで用いたと考えられています1926年に南側の司祭室が増築された以外、現在の形状は設計当初のままで。この地方で伝統的に用いられてきた民家建築の技術を基本としながら、西洋技術をとりいれた特色ある建築であり、地域の信仰組織を象徴する素朴かつ独特な教会建築で


3「維持拡大期」

31「黒島の集落」

「黒島全景」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset07_img01.jpg

「黒島天主堂」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset07_img11.jpg

インフォメーション:以下参照

黒島は、九州北西部の佐世保市の西方海上に浮かぶ周囲約12kmの小島である。外海地域から移住した潜伏キリシタンが再開拓して畑地とした牧場跡、表向きは所属しながらひそかにマリア観音を安置し礼拝した仏教寺院、潜伏キリシタンの指導者の屋敷跡、潜伏キリシタンの墓地、絵踏が行われた役所跡、解禁後に建てられた教会堂跡からなります。 黒島では、16世紀後半に来日した宣教師の活動の記録が存在しないことから直接的なキリスト教の伝来はなかったものとみられています。17世紀になると黒島には平戸藩の牧場が設置されましたが、19世紀初頭には廃止されました。その後、牧場跡の再開発を考えた平戸藩が開拓民の誘致政策を進めたため、それに応じて外海地域などから黒島へと移住した開拓民が19世紀中頃にかけて新たに7つの集落を島内に形成しました。開拓民の中には外海地域などを出身地とする多くの潜伏キリシタンが含まれており、新しく形成された7つの集落のうち日数、根谷、名切、田代、蕨、東堂平の6集落は潜伏キリシタンの集落でした。黒島に移住した潜伏キリシタンは、移住により島内人口が増加したのにともない、19世紀初頭に造営された本村集落の興禅寺に所属し、表向きは仏教徒として振る舞いました。黒島では毎年、本村集落の本村役所(黒島を管轄する平戸藩の出先の役所とされていた庄屋屋敷)において潜伏キリシタンを取り締まるための「絵踏」が行われ、潜伏キリシタンはキリストまたは聖母マリアの像を踏むことを余儀なくされました。 1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始しました。黒島の潜伏キリシタンの指導者もひそかに接触し、自分たちの信仰を告白しました。しかし、禁教下の黒島くろしまで行われてきた洗礼の方法が無効であると宣教師から告げられたことから、改めて教理の指導を受けることとなり、解禁直前の1872年に黒島の潜伏キリシタンはすべて16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰しました。復帰当初は、かつての指導者の家など島内の2ヶ所を「仮の聖堂」とし、そのうちの1ヶ所が日数集落において代々「水方」を務めた出口家の屋敷でした。やがて新たな教会堂建設の機運が高まり、1879年に各集落から利便の良い島の中央部に初代の黒島天主堂が建てられました。それは、「黒島集落」における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。1902年に新築された現在の黒島天主堂では、今なお往時の絵踏を贖罪する祈りが毎週ささげられており、禁教期の記憶が今日に伝えられています。

関連住所:(黒島天主堂)長崎県佐世保市黒島町3333

*関連建物「黒島天主堂」

出典元:http://oratio.jp/cms/wp-content/uploads/2014/02/01_k-gaikan-660×370.jpg

インフォメーション:以下参照

平戸島の南東、佐世保港沖に位置する黒島にある教会堂です。黒島へは18世紀に島外から入植が行われ、入植者の中には外海地方などからの潜伏キリシタンが含まれていました。1865年の大浦天主堂における「信徒発見」の後、黒島の潜伏キリシタンも大浦天主堂を密かに訪れて宣教師と接触しました。彼らは宣教師から教理や洗礼について指導を受け、1873年にキリスト教が解禁されると全員がカトリックへ復帰します。復帰当初は信仰組織の指導者の家を仮聖堂としましたが、1880年には信徒たちが竹や松材など、地元で産出する資材を寄付して最初の小さな教会堂が建てられました。1897年に来島したフランス人のマルマン神父の設計で1900年に現在の教会堂の建設が始められ、1902年に完成し祝別されました。国内でも珍しい大型の煉瓦れんが造りの教会堂です


32「野崎島の集落」

「野崎集落跡」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset08_img03.jpg

「旧野首教会跡(1935年)」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset08_img08.jpg

「旧野首教会」出典元:http://oratio.jp/cms/wp-content/uploads/2014/04/02-3_nokubienkei_yoko-660×370.jpg

インフォメーション:以下参照

野崎島は、五島列島の北部に位置する南北約6km、東西約1.5kmの細長い島で、島の中央部のなだらかな傾斜面を除き、周囲を急しゅんな断崖絶壁が取り囲む険しい地形からなり、潜伏キリシタンが信仰を装うために氏子となり参拝した沖ノ神嶋神社や、それを管理した神官が暮らした屋敷、潜伏キリシタンの移住にともない島内に形成された宅地や畑地跡、潜伏キリシタンの指導者屋敷跡、潜伏キリシタンの墓地、解禁後に建てられた教会堂跡があります。 野崎島は海岸線に沿って急しゅんな断崖が連続する小さな島で、19世紀までの間に人間が住んでいたのは島の中央部東岸沿いの野崎地区のみでした。野崎地区には、神官の屋敷を含め約20戸からなる野崎集落が存在し、平戸藩の役人も兼ねていた神官が実質的に島全体を統括していました。沖ノ神嶋神社の文献史料によると、野崎島では19世紀中頃に戸数が倍増しており、この頃に潜伏キリシタンの大量入植が行われたと思われます。19世紀以降に野崎島へと移住した潜伏キリシタンは、沖ノ神嶋神社の氏子となって各種の神事に参加しました。また、彼らは小値賀島の仏教寺院にも所属し、定期的に行われた「絵踏」を行うことで潜伏キリシタンとしての自らの信仰を隠し通しました。潜伏キリシタンの移住先は、島の中で無人であった中央部の野首地区と南端の舟森地区で、そこでは島内の樹木を薪として伐採する権利も与えられず、急傾斜面の荒地に石垣を築いてわずかな平坦地を造成し、居住地やイモ、ムギの栽培農地を切り開きました。それぞれの潜伏キリシタン集落には指導者である「帳方」「水方」を置き、在来の宗教行事と折り合いをつけながら、ひそかに自分たちのかたちで信仰を続けました。1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始し、これにともない野崎島の潜伏キリシタンもひそかに宣教師との接触を図り、同年に野首集落の指導者ら5名が大浦天主堂で宣教師から洗礼を授かったと記録されています。1868年に始まった五島での弾圧の際には、野崎島の潜伏キリシタンも一時、平戸島へと連行されますが、1873年に解禁されると、野崎島の潜伏キリシタンはすべて16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰します。復帰当初は、禁教期の指導者の屋敷を「仮の聖堂」として信仰活動を続けますが、舟森集落には1881年に、野首集落には1882年にそれぞれ最初の木造教会堂(瀬戸脇教会と野首教会)が建てられます。それは、野崎島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。野首集落では、1908年にかつての帳方屋敷のそばに現存する旧野首教会が建てられました。なお、舟森集落に建てられた瀬戸脇教会は、1966年に舟森集落の住民が集団離村した際に廃絶したため、現在ではその跡地を残すのみで、教会堂に付随する司祭館の建物は小値賀島へと移築され現存しています。

関連住所:長崎県北松浦郡小値賀町野崎郷

問合せ:長崎県世界遺産登録推進課 0958943171

*「旧野首教会」

出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset11_02.jpg

出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset11_03.jpg

インフォメーション:以下参照

鉄川与助の設計・施工により、1908年に建設された煉瓦れんが造り(英国積み)の教会堂です。和瓦で葺ふかれた大屋根が身廊、側廊を覆う構成で、屋根の構造には和小屋が用いられています。三廊式平面で、内部立体はアーケードのみの単層構造。旧野首のくび教会のリブ・ヴォールト天井は、リブが複数の起点から始まる他の教会堂とは異なり、すべてのリブがアーケードの柱頭の高さを基準点としてつくられています。ヨーロッパ人宣教師に直接指導を受けた、日本の伝統的な木造工法を熟知した日本人大工によって設計・施工されており、東西の技術的融合を示しています


33「頭ヶ島の集落」

「白浜集落」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset09_img08.jpg

「頭ヶ島集落の信徒墓地」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset09_img12.jpg

インフォメーション:以下参照

頭ヶ島は、五島列島北部上五島にある周囲約8kmの小さな島です。外海地域の潜伏キリシタンがあえて移住先として選んだ病人の療養地であったことを示す墓地遺跡、移住に当たって開拓を指導した仏教徒の墓、潜伏キリシタンの指導者屋敷跡であり「信徒発見」後には祈りの場となった「仮の聖堂」跡や解禁後に建てられた教会堂跡があります。 1858年、頭ヶ島の開拓を目的に中通島有川集落から仏教徒の前田儀太夫が移住し、島の中では比較的風当たりが弱く、水量は少ないながらも川が流れ、舟が着けやすいなど、島の中では比較的生活条件の良い北辺海岸の福浦集落に住居を構え、その背後に守り神として神社を祀り、後年には隣接して一族の墓地もつくりました。1859年には開拓のために儀太夫が募った数家族が中通島鯛ノ浦集落から頭ヶ島へと移住しました。これらの移住者は、大村藩と五島藩との協定により外海地域から中通島へと移住した潜伏キリシタンでした。彼らは、表向きは仏教徒を装いながら先住の仏教徒との軋轢を避けてきましたが、さらに安住の地である無人島の頭ヶ島を再移住先に選び、儀太夫と行動をともにしました。頭ヶ島北部の白浜海岸へと開拓範囲を拡大した潜伏キリシタンは、海岸の背後から山の中腹斜面にかけて石積み技術を駆使して耕作地を開拓し、イモ作を主体とする農業を営み、さらに時間の経過とともに南海岸の田尻地区や西海岸の浜泊地区など、島内の他地域にも居住範囲を広げ、新たに集落や農地を展開していきます。表向きは中通島に所在する仏教寺院に属して仏教徒を装う一方、潜伏キリシタンの指導者を中心としてひそかに自分たちの信仰を続けました。1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始しましたが、上五島の潜伏キリシタンの指導者たちもひそかに接触し、長く隠し続けてきた自分たちの信仰を告白するとともに、宣教師の上五島への派遣を要請しました。そして宣教師の到来により、頭ヶ島の潜伏キリシタンも16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰します。1867年には外海地域で「水方」を務めた人物を実父とし、上五島地域の潜伏キリシタンの頭目であったドミンゴ松次郎頭ヶ島へと移住します。彼は島内の白浜に居を構えて「仮の聖堂」とした後、大浦天主堂から宣教師を迎えました。そして信徒は1887年、「仮の聖堂」の近くに木造教会堂を建て、1914年まで使用しました。それは「頭ヶ島集落」における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。1919年には松次郎の「仮の聖堂」が存在した近傍に10年の歳月をかけて現在の頭ヶ島天主堂が建てられました。

関連住所:長崎県南松浦郡新上五島町友住郷638-1

問合せ:潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター 0958237650

*「頭ヶ島天主堂」

出典元:http://oratio.jp/cms/wp-content/uploads/2014/04/kashira_-660×370.jpg

インフォメーション:以下参照

五島列島北部の頭ヶ島の白浜集落にある教会堂です。18世紀末に大村藩から外海地方出身の潜伏キリシタンが入植し、潜伏キリシタンの集落が形成されました。1865年の大浦天主堂における「信徒発見」の後、頭ヶ島の潜伏キリシタンも大浦天主堂を密かに訪れて宣教師と接触しました。キリスト教が解禁されると、信徒たちは信仰組織の指導者の家屋跡に最初の教会を建て、その後、隣接する場所に10年にわたる建設工事を経て、1919年に現在の教会堂が完成しました。中央に円形窓と八角形の銅板張りのドーム屋根を冠した塔屋を持つのが特徴で、主構造は頭ヶ島の海岸部で産出される砂岩を粗石積みとした組石造りで

≪次ページパート3≫もご覧ください

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