プリンシプルな人生・白洲次郎伝

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プリンシプルな人生・白洲次郎伝

第二次大戦をはさみ、日本の政治の世界に特異な存在感で関わった一人の人間が存在します。ご紹介します「プリンシプルな人生・白洲次郎伝」です。なお当記事はマイルストーンジャパンの許諾を得て転載掲載いたしております。

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「武相荘刻印焼き鏝」出典元:http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1517_img22.jpg

人物区分に関する肩書:「官僚」「実業家」

生年月日:1902217

出身地:兵庫県芦屋市

没年月日:19851128

参考文献:

講談社文庫「占領を背負った男」北康利(著)

河出書房新社「白洲次郎」『いまなぜ”白洲次郎”なの』白洲正子

コロナブックス『白洲次郎』平凡社

「武相荘」公式サイト:http://buaiso.com/about_buaiso/jiro.html
「武相荘」FACEBOOK::https://www.facebook.com/%E6%97%A7%E7%99%BD%E6%B4%B2%E9%82%B8-%E6%AD%A6%E7%9B%B8%E8%8D%98-462052000600624/
参考著作「松岡正剛の千夜千冊」:http://1000ya.isis.ne.jp/1517.html

「出生に関する情報」

白洲次郎は1902明治35年)217日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として誕生。後に兵庫県川辺郡伊丹町(現:伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居しています。

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「白洲屋敷跡碑」出典元http://kobekko.up.n.seesaa.net/kobekko/image/E799BDE6B4B2E6ACA1E9838EE5B18BE695B7E8B7A1-thumbnail2.JPG?d=a1

関連サイト:http://kobekko.seesaa.net/category/14538643-1.html


「学歴に関する情報」

1914大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時白洲家にはすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたという。アメリカ車ペイジ・オートモビルPaige Automobile)のグレンブルック(Glenbrook)を父親から買い与えられて乗り回しており、級友等を同乗させている写真が残っている。神戸一中での成績は中以下で、成績表の素行欄には『やや傲慢』や『驕慢』『怠惰』といった文字が並んでいます。神戸一中時代には宝塚歌劇団の生徒と恋仲になったエピソードも。同級生の友人には後に作家で文化庁長官となった今日出海、他に古典中国文学者の大家として文化功労者になった吉川幸次郎が。1919大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学、西洋中世史、人類学などの授業を聴講しました。この頃自動車に耽溺し、ブガッティ・タイプ35ベントレー・3リットルを乗り回していました。7代目ストラフォード伯爵ロバート・セシル・“ロビン”・ビングと終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行しています。旅行に携行したカメラは「ライカ」でした。

実に贅沢三昧の学生時代ですが、その背景にあるのは父親の存在であり、そこらの事情を記述した松岡正剛氏の文献によると、『オヤジは綿花で大儲けした金持ちだった。たんなる成金オヤジとは思えない。白洲文平(ふみひら)という男で、明治初期にさっさとアメリカに渡ってハーバード大学に留学し、その後にドイツを遊学したうえで、帰ってくると三井銀行と鐘紡にちょっとだけ勤めたあとは、綿花貿易で大儲けした。そうとうのキャッシュが唸っていたようだ。白洲商店の大きな番傘に墨痕黒々と「二十世紀の商人 白洲文平」と書かせたような、そんなオヤジなのである。こういうオヤジの次男に生まれたのが白洲次郎なのだから、この父にして、この子あり、だ。ただ息子には甘かった。ケンブリッジの息子に、今の換算でいえばざっと年間4000万円を仕送りしていたらしい。法外だ。息子は息子でこの大金を惜し気もなくベントレーやブガッティに投じて、自身もル・マンなどのカーレースに駆って出た。こういうとき、いつも白洲のそばにいて、静かに英国式ダンディズムを提供し続けたのが、のちのストラッフォード伯爵の学友ロビン・ビングだった。二人は車でジブラルタルまで行っている。そのオイリーボーイぶりは死ぬまで“車ディレッタント”として続いた。なにしろ70歳を超えて、なおポルシェをびゅんびゅん乗り回していた男なのであるその後1928(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父が経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を止め日本への帰国を余儀なくされました。

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出典元:http://buaiso.com/css/images/about_buaiso/jiro/j-t01-003.jpg

「仕事に関する履歴情報」

1929(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となります。丁度そのころ、伯爵樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げます(婚姻届は兵庫県川辺郡伊丹町役場提出)。結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に。その後セール・フレイザー商会に勤務し、1937(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役となります。この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになります。またこの頃、牛場友彦尾崎秀実とともに近衛文麿ブレーンとして行動。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあったと言われています

第二次世界大戦勃発の翌年の1940(昭和15年)、東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ケ谷)の古い農家を購入し、鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったことから武相荘と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送ります。第二次世界大戦戦末期に成人男子総赤紙の「国民兵役召集」を受けたものの、知己であり当時東部軍参謀長であった辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将・陸士27期)に頼み込み召集を免れます。一方で吉田を中心とする宮中反戦グループに加わり活動。同年に長女・桂子が生まれます

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「GHQ会合での白洲」出典元:http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1517_img08.jpg

1945(昭和20年)、東久邇宮内閣外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任。GHQの要求に対して白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言われました。昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたとも言われています1945(昭和20年)1215設立された貿易庁の長官に1949(昭和24年)121日に就任。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われます。同年、連合国軍が戦時に攻撃を避け占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日鐵住金広畑製鐵所)が、日本側に返還されることになります。白洲は外貨獲得のためにイギリス企業に売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫。永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされます。その後白洲と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が白洲の顔を机に押さえつけ、白洲が泣いて土下座して謝った逸話も残っています。戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところであります

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「ダグラスDC-3」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/SR_DC3.jpg/200px-SR_DC3.jpg

また民間航空の再開に際しては、日本企業や政府資本のフラッグキャリアである日本航空の設立の動きに対抗して、アメリカの航空会社の資本による設立を画策して藤山愛一郎や松尾静磨と対立しました。白洲は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用し、主としてイギリス企業の日本進出を手助けし、成功報酬として成約金額の5%をロンドンの口座に振り込ませていました。広畑製鉄所の売却商談も成功していれば莫大な富を白洲次郎にもたらしたはずでした。白洲は生涯浮世離れした豪奢な生活を送れましたが、その根底にはこうした手数料収入があったことが挙げられていますまた白洲は吉田側近であった頃からすでに公社民営化を推進しており、1949(昭和24年)には日本専売公社発足させています。そして1951年(昭和26年)5月には、日本発送電9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの1つ、東北電力会長に就任します。また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク産業計画会議の委員にも就任。就任の同年福島県只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進しました。

また当時東北地方で開発可能な水力の4分の3を有していた只見川の水利権を巡って、古くからの権利を主張して徹底抗戦してきた東京電力に対し、当時の野田卯一建設大臣を説得して、水利権を東北電力に切り替えるという超法規的措置を引き出します。これによって、東北電力繁栄の基礎が築かれましたが、これにより白洲が受けた利権は大きいと言われています。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任しました。軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで1968ポルシェ911Sを乗り回し、三宅一生のショーにモデルとして出演もしました。また、同時期には没後の19861月に発売が開始されることとなった2代目トヨタ・ソアラのアドバイスなども行なっています。このように過ごした晩年は気ままで個性的な暮らしぶりを満喫した感があります。仕事面で白洲の履歴を把握すると、辣腕を振るった財界人としての評価が厳然と存在する一方、白洲が駆使した欧米流のマーケティングモラルに違和感を感じる評価も存在し「政商」もどきの声があるのも事実です。でもちょっぴり「色男やハイブラッドに対するやっかみ」にも聞こえます。

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「軽井沢ゴルフ倶楽部にて」出典元:http://buaiso.com/css/images/about_buaiso/jiro/j-t01-013.jpg

「結婚生活に関する情報」

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出典元:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/j/jjtaro_maru/20110413/20110413204140.jpg

白洲次郎は戦後、終戦連絡中央事務局次長としてGHQと渡り合いGHQ憲法の押し付けに最後まで抵抗した人、通産省立ち上げなどに尽力した人として知られています。妻の正子はエッセイストとして有名で、日本の伝統美を追求し続けた”美の狩人”とも称されています。 次郎も正子も金持ちのお坊ちゃん、お嬢でしたが、昭和2年(1927年)の金融恐慌の煽りを受けて、白洲商店は倒産。正子の樺山家も甚大な被害を受けました。次郎はイギリスに留学していましたが、このため帰国。正子はアメリカに留学していましたが、帰国し、その後二人は正子の兄の紹介によって知り合い、両者一目ぼれで周囲には有無を言わせず結婚しました。正子(18)は次郎(26)を一目見てなんて背が高いの、なんて凛々しいの、なんて甘いマスクなの、なんて気品ある物腰なの)と思ったと言います。次郎は正子にラブレターを書くときは英語で書き、正子も英語で書いて返しました。 第三者が読むと読むほうが恥ずかしくなるようなラブレターで

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「ハネムーン/次郎27歳・雅子19歳」出典元:http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1517_img05.jpg

次郎の父、白洲文平と正子の父、樺山愛輔はドイツのボンで留学生活を送っていたので、お互い知り合いでしたが、仲が悪く、互いに悪口を言っていました。次郎は樺山愛輔に会うなり「お嬢さんを頂きます」と言ったそうです。頂きたい”ではなく、”頂きます”と言ったのです。正子も「白洲さんと一緒になれなかったら家出します」と半ば脅迫。白洲文平のほうは正子を気に入り、「良縁や、めでたい、めでたい」と喜びました。樺山愛輔も実は次郎が気に入り、晩年まで「白洲はいい男だ」としみじみ言っていたといいます。

二人の夫婦喧嘩は1度きり。夕食の席でのこと。正子の祖父、樺山資紀(すけのり)は薩摩の示現流の使い手で、海軍大将を勤めた人です。鳥羽・伏見の戦い、戊辰の役、日清戦争という従軍暦があります。次郎は「薩長の奴等は東京で散々乱暴働いた。お前さんのお祖父さんだって同じだろう」と言い放ちました。正子の祖父はそういう乱暴ものを取り締まるのに非常に苦労した人だったそうで、正子はカッとなり、言葉より先に次郎の横っ面を思いっきりひっぱたいてしまいました。次郎は鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしていてショックを受けたようです。さすが示現流の孫であります

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「晩年の旅行スナップ」出典元:http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1517_img13.jpg

仲のよい夫婦かと思えば、結婚してから次郎から正子へプレゼントは一度もありませんでした。外国に行ったときぐらいお土産を持って帰りそうなものですが、それすらもなかったといいます。晩年、正子が文芸仲間と遅くまで飲み歩いて、朝帰りしても次郎は「あら、おはよう」と言って、文句など言ったことは一度もないといいますから、不思議な夫婦です。晩年、次郎は夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて「一緒にいないことだよ」と述べたといいます。私事ですが、晩年、次郎と正子が手をつなぎ町田の街を散策しているさまを見て、とてもオシャレなご夫妻だったと言う話を家内から聞かされたことを思い出します。白洲次郎は昭和60年(1985年)に死去。正子は平成10年(1998年)に死去。二人の墓は兵庫県三田市心月院に仲良く並んで建てられています。

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「遺言書状」出典元:http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1517_img14.jpg

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「心月院」出典元:http://komyo-forever.com/_src/1216/dsc_0061.jpg

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「夫婦の墓所」出典元:http://komyo-forever.com/_src/1215/dsc_0068.jpg

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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