劉生の背中を追い続けたのか?愛情の画家・椿貞雄


劉生の背中を追い続けたのか?愛情の画家・椿貞雄

岸田劉生と出会い、岸田を追い続け、岸田を模倣したと言われた一人の画家、椿貞雄。家族への愛情をモチーフとし続けた一人の画家の生涯をご紹介します「劉生の背中を追い続けたのか?愛情の画家・椿貞雄」です。

アイキャッチ画像出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2017/0607/0607_05.jpg
参考サイト:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2017/0607/0607.html

 

「生い立ちと就学」

出典元:http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/image/051tsubaki/tsubaki_syashin.jpg

出生情報:1896(明治29年)年210日山形県米沢市生まれ

没年情報:1957(昭和32)年1229日千葉市にて没。享年61歳。

米沢市上花沢仲町(現在の東3丁目)に生まれた椿は、早逝した長兄により絵画に対する慧眼を開花させられますが、美術学校などでの就学機会は一切ないまま、独学で絵と親しむ幼少期を過ごします。

「絵画との出会い」

「岸田劉生」出典元:https://showa-g.org/img/00142_m.jpg

椿は中学生の頃、長兄の影響で、当時の美術界を牽引していた岸田劉生を知り淡い憧れを抱きます。意を決して画家を志し、1914年大正2年上京、正則中学校に転入します。直後に劉生の作品を直接見る機会を得て圧倒された椿は劉生に面会を求め、二人の交流が始まります当時、白樺派のヒューマニズムに影響を受けていた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いており、椿はその理想に共鳴し、1915年草土社の創立に参加します。そこでも椿は有力なメンバーとして活動し、モチーフだけでなく、描き方やサインまで劉生そっくりになっていきます。そこには、独学ゆえ身近な師から真面目に吸収しようとする真摯な心根がうかがえます。このような経緯の下で、椿は本気で画家として生きることを決意します。実生活面においても、お互い近所に住まうなど深い交流関係が生まれ、劉生を通じて、当時、人道主義の表現者を標榜した武者小路実篤らとも親交を深めていきました。このようにして画家活動の起点から、岸田との交流が存在したことが、後に椿が劉生の「模倣者」として揶揄される大きな要因になっていきます。

「生涯の創作活動」

「岸田劉生・麗子像1921年」出典元:http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/M_248.jpg

「椿貞雄・童女像1921年」出典元:http://img07.shop-pro.jp/PA01260/981/product/66552208.jpg?20131111144255

椿の師である劉生は、白馬会葵橋洋画研究所で指導を受けた以外は独学で絵画を習得した画家で、独自の思索によって明治期以来の油彩画のなかで際立って濃密な絵画世界を作り上げようとしていました。そのような中、草土社を舞台に彼らは、写実を通して精神的な「内なる美」の表現を目指す、独自の美術運動を展開しました。椿は文字通りそのかたわらで絵画の制作を学んでいきます。 さらに椿の創作は1920年頃より始まった劉生の東洋的写実に対する関心に従って変化し、やがて日本画(墨彩画)の制作も行うようになります。

一方、椿の現実の生活は、1927年千葉県の町立小学校の図画教師に着任し、その後、なくなるまでの約30年間、家族とともに当地で暮し、一男三女のこどもをもうけ、孫三人にも恵まれています。家族や孫たちを描いた作品も多数に上り、「愛情の画家」と評される椿の本質的な部分が感じられます。

「朝子像」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2017/0607/0607_07.jpg

しかし1929年、椿は劉生の死によって制作に行き詰まるほどの状態になりますが、椿はその理念の正当な継承者となります。自らの言葉「画道精進」に象徴されるように、61歳の生涯を閉じるまで、日本人の油絵を描き、写実の道を追及し続けました。その意味では、劉生が構想した日本における油彩画表現を受け継ぎ、独自の画境に到達したと言えます。その椿独特の世界には、東洋絵画の伝統を踏まえながら、近代日本の市民生活に根差したおだやかな表現が見て取れます。とは言いながら、自身も劉生の眼に見えない影響を払拭することに腐心したようで、後年、劉生の死後1950年頃から「やっと劉生を意識することなく自由に絵がかけるようになった」と語り、劉生の死後に、独自の明るい画風に転換したことがうかがえます。

「主な代表作」

「赤土の山」出典元:http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/image/051tsubaki/akastuchi.jpg

 

「自画像・千葉県立美術館所蔵」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2017/0607/0607_01.jpg

 

「自画像・米沢市上杉博物館所蔵」出典元:http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/image/051tsubaki/jigazo_tsubaki.jpg

 

「髪すき図」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2017/0607/0607_02.jpg

1915228日「自画像」米沢市上杉博物館所蔵

1915年「赤土の山」個人所蔵

191519日「自画像」千葉県立美術館所蔵

1918年「雪国の少女」米沢市上杉博物館所蔵

1918年「八重子」個人所蔵

1921年「童女像(毛糸の肩掛けをした菊子)」米沢市上杉博物館所蔵

1926年「蕪にくわい」個人所蔵

1927年「朝子像」平塚市美術館所蔵

1931年「髪すき図」東京国立近代美術館所蔵

1946‐47年「冬瓜南瓜図」島根県立石見美術館所蔵

1950年頃「彩子デッサン」個人所蔵

1956年「孫二人」米沢市上杉博物館所蔵

「略歴」

明治29年 210日山形県米沢市に生れた。
大正2年 上京。
大正3年 岸田劉生に師事する。武者小路実篤、長与善郎、木村荘八、河野通勢等と相識る。
大正4年 岸田、木村とともに草土社を結成。
大正9年 第1回個展を京都で開催。
大正10年 9月、東京で最初の個展を開催。
大正11年 岸田、中川一政等と春陽会の創立に参加。
昭和2年 岸田、武者小路、長与などの提唱で第1回大調和展創立、為に春陽会を退会。
昭和3年 第2回大調和展をひらき同会解散する。
昭和4年 河野通勢とともに招かれて国画会々員となる。
昭和7年 渡欧、ルーベンス、レンブラントに感銘し、この年帰国。
昭和8年 4月銀座紀国屋ギャラリーで滞欧作品展開催、第8回国展「家族」。
昭和15年 朝鮮、満州に旅行、紀元二六〇〇年奉祝展委員となる。
昭和20年 群馬県碓氷郡に疎開、翌年迄滞在。
昭和25年 第24回国展「蛙図」。この年孫の像を多くかく。
昭和29年 この年から4年間、鹿児島、長崎を好み同地に写生旅行をくりかえす。
昭和31年 第30回国画会展「孫二人」「工場裏」「孫」。
昭和32年 第31回国展「桜島風景」「泰山木」。第5回目の長崎旅行より帰京、11月千葉大学附属病院に入院。1229日逝去。病名ホドキン氏病。

参考サイト:http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/051tsubaki.htm
参考サイト:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2017/0607/press_0607.pdf
参考サイト:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2017/0607/0607.html
参考サイト:http://www.uesugi-museum.jp/?pid=66552208
参考サイト:http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10568
参考サイト:https://showa-g.org/men/view/133
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