現代に行く・広重の東海道五十三次行

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現代に行く・広重の東海道五十三次行

2018年現在、あの広重の五十三次に描写されている現地周辺がどうなっているのか、とても気になります。絵を元に現地を探索する旅も静かなブームになっていると聞きます。そこでご紹介します「現代の広重・東海道五十三次行」です。(*現地探索できそうな箇所に限っての情報です)

参考サイト:http://www.e-subaru.jp/kinue.html

参考サイト:http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/index.htm

参考サイト:http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/index.htm

参考サイト:http://www.mc.ccnw.ne.jp/acacia/AI3.htm

参考サイト:http://www.gakubee.sakura.ne.jp/t-aichi/t-aichi00.htm

参考サイト:http://massamens.com/bicycle_kyukaidou_tokaido-gojusantsugi.html

≪ノミネートリスト≫

1「藤沢宿」

2「袋井宿」

3「丸子宿」

4「見附宿」

5「白須賀宿」

6「大磯宿」

7「小田原宿」

8「吉田宿」

9「御油宿」

10「三島宿」

11「沼津宿」

12「吉原宿」

13「由比宿」

14「府中宿」

15「岡部宿」

16「日阪宿」

17「浜松宿」

18「藤川宿」

19「鳴海宿」

20「岡崎宿」

―冒頭に:以下参照―

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が大ヒットし、この話を元に葛飾北斎が東海道五十三次シリーズを刊行すると大ヒットとなりました。大先輩であった葛飾北斎が東海道シリーズを次々刊行し大ヒットを収めていく中で、江戸の版元保永堂の竹内孫八がこの勢いに乗り、大判錦絵の東海道五十三次の刊行を企画します。この企画の絵師に「東都名所」を描いていた歌川広重を起用することを決め、大手版元の仙鶴堂の鶴屋吉右衛門の協力のもと「東海道五十三次」を刊行するはこびになりましかし絵師である北斎、広重とも実際に東海道の道のりをすべて自分の目で見て描いたというわけではありません。北斎は、見たこともない景色に関しては、先に出されていた「東海道名所図会」を参考にし、想像で描いています。広重もまた「八朔御馬進献」のお供だけでは知りえない風景に関しては「東海道名所図会」と大先輩の北斎の東海道シリーズを参考にした経緯があります。


1「藤沢宿(遊行寺)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j7fujisawa1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/image/shirube05.jpg

「遊行寺橋」出典元:http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/02_ima/image/bfj3.gif

インフォメーション:以下参照

遊行寺門前の境川に架かる橋が遊行寺橋です。江戸時代に旧東海道が境川を渡るところに架けられました。旧東海道からこの橋を渡ると遊行寺の入口にあたります。江戸時代、藤沢は東海道の六番目の宿場町として栄え、江の島詣の客などで賑わいました。 

関連住居表示:(遊行寺)神奈川県藤沢市西富181

関連問合せ先:0466222063


2「袋井宿(出茶屋ノ図)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j28fukuroi1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido53n1.27fukuroi.jpg

出典元:http://www.mc.ccnw.ne.jp/acacia/images/img313.jpg

インフォメーション:以下参照

東海道五十三次のちょうど真ん中の宿場で江戸から584527番目の宿です。昔この地は四方が丘でその中に田圃があり、まるで袋のように見えたと言われます。さらに盆地の中央に大きな井戸があり田の水源でもありました。そのことから袋井の名が付いたといわれています。東西に掛川・見付という大きな宿場があるので、旅人はおもに休憩に利用していたと思われます現在地は袋井市役所の近くにあり付近は住宅地です。


3「丸子宿(名物茶店)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j21mariko1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido53n1.20mariko.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://www.mc.ccnw.ne.jp/acacia/images/img257.jpg

インフォメーション:以下参照

府中から来て、安倍川を渡った一帯は、中世の宿場町手越があったところで、太平記の手越河原の合戦で知られています。丸子は鞠子とも書かれ、かつては駿府町奉行の支配で安倍川の川越しを扱つかっていました。描かれているこの宿は「とろろ汁」で有名な宿で「梅若菜まりこの宿のとろろ汁」という芭蕉の句にも著されています絵には街道の両側全体の茶店が、軒並みとろろ汁の看板を揚げています。国道を少し離れた旧国道を行くと、芭蕉の俳句にもあるとろろ汁を食べさせる丁字屋が現在でもあります。昔の面影を残した、茅葺の家です。

丁子屋住居表示:421-0103 静岡県静岡市駿河区丸子7丁目1010

問合せ先:0542581066


4「見附宿(天竜川)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j29mituke1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido53n.28mitsuke.jpg

出典元:http://www.mc.ccnw.ne.jp/acacia/images/img321.jpg

インフォメーション:以下参照

見付とは京都方面から東へ向かう旅人が、初めて富士を見付けた場所とも言われます。古代、当地は国府や国分寺が置かれた場所で「みつけのこふ」「見つけの府」などと呼ばれ、中世以前は遠江の中心でした。東海道の宿駅となってからは、西に天竜川を控え、川越宿場として繁盛しました。天竜川は名にし負う暴れ川で。船渡しのため川留めは少な買ったようですが、豪雨のたびに洪水を起こして地元住民を悩ませていました。船賃は武士階級が無料、町人・農民は一人六文(132)となっていました。


5「白須賀宿(汐見坂)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j33sirasuka1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido.0527.jpg

インフォメーション:以下参照

茫々75里の遠州灘を一望し、下りの旅人が初めて富士山を遠望する所として名高い場所でこの絵は江戸へ向かう大名行列を描いています。表題にある白須賀とは白い砂浜という意味です。その名の通り遠州灘の浜辺にあった宿場でた。徳川家康による東海道の整備で白須賀宿が成立し当初は汐見坂の下である海岸沿いに宿場がありましたが、宝永4(1707)の地震と津波で宿場は壊滅します。その後は坂上の高台、天伯原に移転し旧宿場町は元白須賀と呼ばれていました。


6「大磯宿(虎ヶ雨)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j9ooiso1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/02_ima/image/bos3.gif

インフォメーション:以下参照

東の棒鼻から宿場を描いた図です。時は五月、曽我兄弟討ち入りの日で、曽我十郎の愛人虎御前の涙か゛雨となって降るという謂れです。大磯は平安時代末期には相模国の国府が置かれていました。鎌倉時代には鎌倉の近郷宿場として、遊女などを抱えて発展しました。江戸時代初期になって東海道の宿場制度が整備されると宿場町として本格的な賑わいをみせまし宿場財政が困窮してその後、打ち壊しなども発生しました。曽我十郎と虎御前の悲恋をモチーフに涙雨降る東海道を情感豊かに描いた広重のこの絵は、化粧坂(けわいざか)を下った大磯宿の入り口付近から描いたと思われ、現在でも見事な街道沿いの松並木が昔を偲ばせてくれています。


7「小田原宿(酒匂川)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j10odawara1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido53n.09odawara.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/02_ima/image/bod3.gif

インフォメーション:以下参照

小田原宿の東を流れる酒匂川の東岸から西の方角を望んでいます。高欄の付いた輦台に駕籠を載せて担ぐ人足たちや、供の者を輦台や肩車で渡す人足、対岸で順番を待つ一行や休憩している人足など細かく描写されています。一面に広がる葦原の向こうに見えるのは小田原城の石垣と櫓で、その左側には小田原宿の町並みが見えています。背後にそそり立つ山並みは箱根連山ですが、実際はこれほど至近な距離ではなく東海道随一の難所の箱根越えを比喩的に表現してのことだと思われます。また江戸から80キロあまりを歩いてきた旅人の目には絵にあるように険峻な山肌に見えたのではないでしょうか。


8「吉田宿(豊川橋)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j35yosida1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido53n.34yoshida.jpg

「豊川にかかる吉田橋」出典元:http://www.mc.ccnw.ne.jp/acacia/images/img346.jpg

インフォメーション:以下参照

おそらく九吉田城の櫓から東海道三大橋の一つ豊川橋が描かれています。吉田は城下町で豊川河口の湊町でもあり、そのうえ南に向かう別所街道の分起点で、宿場町として大いに繁栄しました。元々東海道からの宿で、渥美半島を経由して伊勢神宮との結び付きが強かった歴史があります。江戸時代は、ここから船で白子まで行き、伊勢へ参宮する人も多かったと言います。豊川はこの地方の物資流通の動脈で水量が多い上に蛇行しているので雨季にはしばしば氾濫し沿岸住民を悩ませましたが、その景色は絶景です


9「御油宿(旅人留女)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j36goyu1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido53n.35goyu.jpg

出典元:http://www.mc.ccnw.ne.jp/acacia/images/img350.jpg

インフォメーション:以下参照

御油の宿は、旅館の客引きが強引であったことで名高く、絵図でも客引きの二人の留女の景がユーモラスに描かれています。この絵図で興味深いことは、宿屋の壁に書かれた文字で、この中に五十三次の出版元・絵師・彫り師・摺り師・題名が示されていますが、ことに彫り師と摺り師の名が出ていることは珍しいことです。昔は宿はありませんでしたが、五十三次が整備されるに及んで宿場に加えられ本坂越え(姫街道)が分岐する追分宿としてかなり繁盛していた。しかし本当の繁盛の理由は遊女の存在で、旅人の多くは飯盛女目当てに宿泊していたと言われています距離的には赤坂宿から松並木を進むとほんのつかの間で御油の家並みに到着し、東海道の宿間の距離としては最短のわずか16町(1.7km)しかありません。目と鼻の先のところに似たような規模の宿場があり、客の争奪戦は大変熾烈なものだったと思われます今も格子窓の旧家が建ち並ぶ様は広重の画に相通じるものがあります


10「三島宿(朝霧)」

「広重原画」出典元:http://www.e-subaru.jp/j12misima1.jpg

「取材想定現在地」出典元:http://massamens.com/img/tokaido53n.11mishima.jpg

インフォメーション:以下参照

天保14年(1843年)の東海道宿村大概帳によると、三島宿は本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠屋74軒、宿内家数1,025軒が記録されています。古来、三嶋大社が鎮座し、江戸時代には東海道有数の大宿で江戸日本橋まで2827町の距離と記されています。古来この地には伊豆国府がありました。のちに南伊豆白浜から三島明神をこの地に移してから三島と改称しました。三島明神は源頼朝の信仰が篤く三島は門前町として発達し、東海道開通後は「のーえ節」で有名な三島女郎衆と呼ばれる飯盛女の存在で繁盛し、箱根の難所を越えた「山祝い」の宿としても賑わいました。また南には下田街道が分かれており富士の雪解け水が湧き出る水の豊富な町でもあります。

≪次ページパート2≫もご覧ください

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