現代に行く・広重の東海道五十三次行

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11「沼津宿(黄昏図)」

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元々、沼津とは沼地にできた港()の意味です。周辺一帯は蓼原と呼ばれ、その東北部に中世に車返と呼ばれた集落がありました。武田支配の時に三枚橋と名前が変わっています。文明11(1479)北条早雲により三枚橋城が築かれまし20年余りで廃城になり、東海道が制定されて三枚橋宿が置かれました。廃城跡地には沼津城が築かれ、沼津城の城下町兼宿場町として栄えてきました。沼津の名は元禄時代頃から使用されています絵図の川は黄瀬川なのか、その本流の狩野川なのか不明ですが、本流へと流れ込む支流に橋が画かれており、その橋は牢人橋と思われます。さらにその先の民家の屋根をしのぐ大屋根は日枝神社かも知れません。そう考えると夕暮れ時に西から満月が昇っているという矛盾も生まれます。行者の男は大きな天狗の面を背負い、はるか四国讃岐の金刀比羅宮を目指す金比羅参り笠を被った母娘連れは伊勢神宮への参拝か。いずれにしても共に今日の宿は沼津宿のと思われます


12「吉原宿(左富士)」

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古くは元吉原の地にありましたが、富士川の洪水で北西8(872.8m)の場所へ移転しますが、さらに津波の被害を受けて新吉原へ再び移転しています。結局洪水や津波を避けて北西へ北西へと移転したようです。宿場から、富士登山大宮口へ出る道が分かれています。東海道を西に向かって旅する場合、富士はいつも右側に見えますが、吉原の手前だけは左側に見えます。道が曲がって北へ向かっているためですが、西行法師がここを通りその眺望を誉めて左富士と名付けたそうです。旅人にとっては珍しい景色として名所になっています。松並木の東海道は右へ左へと折れ曲がり、シルエットのように浮かんだ富士山が街道の左側に配置されたところへと視線を誘導させられます。馬には三宝荒神と呼ばれた乗り方で、三人の子供が乗っており、中央の子供が富士山の方向を見ているのも、富士山へと視線を誘導する広重の狙いかも知れません


13「由比宿(薩埵嶺)」

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江戸時代は由比を由井と表記する事が多かったようですが、薩埵嶺とは薩埵山のことで山地が急傾斜で海へと落ちている地形で、もともと東海道は山裾の海岸を通っていましたが、荒天時には通行できなくなることから、江戸時代前期に山腹に新しい道が切り開かれました。絵図の左には垂直に切り立った断崖絶壁の上から、旅人が手をかざして富士を眺めています。現在は海を埋め立てて、わずかな隙間をJR東海道本線と国道1号線、東名高速道路が走る日本の大動脈となっています。薩埵峠のルートができる以前は、この断崖絶壁の切り立った山からすぐ海というロケーションを、波のタイミングを計りながら岩場を歩いて通り抜けていたそうです。この海際を行く経路は「親知らず子知らずの道」と語り継がれています。絶壁に打ち寄せる高波の合間をぬって通り抜けるという危険な道で、親子でも相手を思いやる余裕がないほどということからこの名がついたと言います。


14「府中宿(安倍川)」

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駿河の国府が置かれたため府中と呼ばれました。戦国時代は今川氏の城下として、その後は、大御所と呼ばれた徳川家康が駿府城を築いて栄えました。城代が置かれている時期が長いので城主のいない城下町です。そのためか府中の人はのんびりしていて上品だと言われています。駿河・遠江では最大の宿場で「東海道膝栗毛」の作者十返舎一九は当地の出身です。そのため主人公の弥次さんは府中生まれとなっています。駿府城の城下町にある府中宿は安倍川餅と幕府公認の遊郭二丁目で知られています。広重の絵図は宿場の西はずれを流れる安倍川の風景です。女たちの一行が屈強な人足たちに輦台や肩車で担がれ渡されています。対岸からは馬の背に荷を乗せた男たちが渡ってきて、さらに向こうには状箱を濡らさないように頭上に高く捧げ持った飛脚や、客の荷物を頭に載せた人足と、その荷物の主が裸で人足に導かれて徒歩で渡っています。川向こうの山は賤機山だとすると方角が合わないと言われています。


15「岡部宿(宇津之山)」

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岡部宿は山あいの小さな宿場で大きい旅籠屋はなく、大規模な通行がある際には藤枝、丸子や近在の縁故者から夜具などを借りて間に合わせたと言います。名に高い宇津谷峠は、丸子と岡部宿間の山越えの難所です。この峠は戦国末期頃に開かれたといい、それ以前は在原業平の東下りで知られる「蔦の細道」が主街道でした。宇津谷峠の道は木の根や石が露出した険路で木々が生い繁り、見通しが悪くて昼でも薄暗く現在でも山賊出そうな雰囲気です。絵図には伊勢物語の挿絵に出てくる蔦の細道のイメージが広がります。柴や薪を背負った地元の人々と旅人が曲がりくねる谷川に沿った山道を行き、渓流の脇に生えたカエデが紅葉し秋の景色として画かれている。


16「日阪宿(佐夜ノ中山)」

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絵図には日坂宿から長く急な登り坂が続き、その途中の道の真ん中に大きな石があります。これが遠州七不思議のひとつ夜啼石です。その夜啼石を坂の下で旅人たちが恐る恐る取り囲んでいます。東海道の難所のひとつであった佐夜の中山は、転げ落ちそうな急坂として画かれており、彼方に見える青い山は無間山(今は栗ヶ岳)です。元来、日坂宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒と、東海道で三番目に小さな宿場です。人口も少なく住民のほとんどは宿場関連の仕事に従事していたと言います。街道沿いには今も江戸時代の町割りがほぼそのまま残っており、家々には江戸時代の屋号が掛けられていますが、これは持ち主と家の場所が江戸時代から変わっていないからだそうです


17「浜松宿(冬枯ノ図)」

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絵図に描かれている冬枯の田圃の向こうには浜松城。杉の大木の下で焚き火で暖をとるのは、百姓かそれとも海道かせぎの人足か。右に煙管を手にした旅人が一人。子を負うた女が見えるのは近くに出茶屋でもあるのでしょうか。元々浜松は引馬の宿といい、初めは天竜川の船渡場として誕生しました。その後、天竜川の流れも変わり、東海道の宿として発展します。本陣の数の多さは街道一浜松城の城下町でもあります。江戸から29宿目の宿場本陣6軒、脇本陣6軒、旅籠94軒、家数1622軒、宿人口5964人の大きい宿場でした。今川氏が築いた引間城を、岡崎から移った徳川家康が元亀元年(1570)に拡大増築しました。家康はここで20代後半から40代にかけて17年間を過ごしており、在城時代に長篠・小牧・長久手の合戦など多くの合戦を経験しましたが、武田信玄との三方ケ原の合戦では生涯最大の敗北を喫しました。家康が駿府に移ってからは譜代大名12家が入り、彼等の多く閥閣に連なったので、出世城とも呼ばれました。絵図には、画面右の奥に浜松城が描かれ三層の天守閣が見えますが、実際は17世紀には天守閣は姿を消しています。画の中心に大木を配し、この木の下で寒空の中、下半身フンドシ一丁で焚き火にあたっている男たちと、子供をおぶりホウキを手に焚き火のために枯れ葉を搔き集めている女が描かれ、城下から離れた街道のひなびた様子がうかがえます。画面右手の松の疎林には立て札があり野口村のざざんざの松を描いているが、実際には東海道の街道から見える場所にはありません


18「藤川宿(棒鼻ノ図)」

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八月一日に幕府から朝廷に献上する八朔の馬の一行を棒鼻で出迎える宿役人が描かれています。旅人も子犬までもがかしこまっています。鎌倉街道、旧東海道の頃からの古い宿場町「かほれどもむかしの宿のゆかりとぞむらさき匂う花の藤川」という古歌があり、歌枕になっています。幕府は五十三次の宿駅を整備するにあたり、小さな古駅周辺に集落を移動させて細長い宿場町を造りましたがそれが藤川宿です。絵図は街道をはさんで奥に榜示杭(ぼうじぐい)、手前に高札場の屋根、両側の土盛をした石垣が画かれ藤川宿の入り口だと分かります。入り口には宿場の役人らしき二人の男が土下座をし頭を垂れ、通りがかりの旅人も笠を取って膝を突いています。出迎えているのは幕府が朝廷に馬を献上する八朔の御馬進献(おうましんけん)の行列。かしこまって身を低くした宿場役人たちの緊張をよそにじゃれ合っている子犬たちがユーモラスです


19「鳴海宿(名物有松紋)」

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鳴海宿は、宿場近くまで鳴海潟の浜辺があり「遠くなり近くなるみの浜地鳥鳴く音に汐の満引をぞ知る」と詠じられており、歌枕としても知られています。戦国時代には尾張織田、駿河今川両勢力が拮抗する最前線でした。慶長6(1601)に東海道の宿場となり、間の宿の有松には、有松絞の伝統が息づいています。愛知県知多郡からこの地に移住していた竹田庄九郎が、慶長15(1610)名古屋城築城の際、九州備後から仕事で来ていた人夫のもつ絞り染め手拭いにヒントを得て、絞りの技術を習得しました。その後、改良を加えて多様な染め模様を生み東海道に名声を博することになりました。鳴海宿の絵図は鳴海宿の東半里ほどにある有松村が描かれています。当時、有松村は絞り染めの産地として有名で絞り染めの浴衣や手ぬぐいは国内需要の大半をまかなっていました。東海道に面した絞り染めを商う店が二軒建ち並んだ様を画いており布地や浴衣がつるし売られています。街道を行く駕籠の三人連れや軽尻に揺られる人はすべて女性です絵図にある店舗は絞り問屋 井桁屋と服部邸土蔵、その先は絞り工房ゆはたや寛政三年に建築されました。この界隈は絞り問屋が軒を並べ往時の面影を現在もとどめています


20「岡崎宿(矢矧之橋)」

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矢矧川に架かる矢矧橋は当時日本最長の大橋でシーボルトが精密なスケッチを残しています。絵図には欅と檜で造られた長さ208間の橋、前方に岡崎城が描かれています。城下町として豊臣秀吉の家臣・田中吉政によって整備されました。徳川家康生誕の地であり、いたるところに家康ゆかりの史跡があります。東海道は岡崎城の東・北・西り三方から取り囲むように複雑に曲がりくねっています。これが岡崎の「二十七曲」と呼ばれている所以です。「五万石でも岡崎さまは城の下まで船が着く」と唄われたように船便にも恵まれていました。矢作川と乙川の合流点でもあり、物資輸送の要に位置していたため、府中と並んで東海道の繁華な城下町として栄えました。広重の絵図は橋の西のたもとから川の東岸に向かって望み岡崎城の天守閣や櫓を林立させています。

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