江戸の美「浮世絵師の系譜」後編 UKIYOE Vol.2


「浮世絵師の系譜」後編UKIYOE Vol.2

 

 

葛飾応為KATUSIKA OUI

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『葛飾応為」出展元:http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/160423/images/p002.jpg

参考サイト:http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/160423/

参考サイト:http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2006_01_boston.html

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%BF%9C%E7%82%BA

参考サイト:http://www2.ctv.co.jp/ukiyoe/2014/04/10/%E5%8C%97%E6%96%8E%E3%81%AE%E5%A8%98%E5%BF%9C%E7%82%BA%E3%81%AB%E6%B3%A8%E7%9B%AE%EF%BC%81/

生年・没年:生没年不詳。

解説:江戸後期の画家。浮世絵師葛飾北斎の娘。名は栄。3代堤等琳の門人南沢等明の妻となりますが、のち離縁して北斎のもとで作画を続け,北斎の制作助手も務めます。北斎没後8年目に当たる安政4(1857)年に家を出たきり行方不明になったと伝えられ,不幸な晩年が想像されます。一説に家出した年は応為67歳であったといい,これによると生まれた年は寛政3(1791)年で北斎32歳ということになります。北斎の妻某は1男2女をもうけて死去又は離別し,後妻は1男1女(一説に1男2女)をもうけたと言われています。この中で応為が何番目の娘になるのか定かではありません。飯島虚心著『葛飾北斎伝』には一応3女と記されていますが、長女美与、次女鉄、四女猶のほか、北斎娘・辰女筆という署名のある美人図が伝えられており、この辰女の位置づけ次第では、応為の順番も変わる可能性が大です。

画号として応為・栄・阿栄・栄女を使用しています。このうち応為は北斎が娘を「オーイ、オーイ」と呼んでいたのでその音をそのまま画号としたと伝えられています。代表作に「三曲合奏図」(米・ボストン美術館蔵),「吉原夜景図」(太田記念美術館蔵),「夜桜図」(メナード美術館蔵)などがあります。このうち「吉原夜景図」「夜桜図」をみると光に対する繊細な関心が見て取れます。特に「夜桜図」では星の光も、胡粉や朱、藍を複雑に組み合わせて種々の等級の差を表現するなど明治期の小林清親による「光線画」に先行する作例として重要です。従来北斎の亜流画家又は助手としての評価しか受けていなかった応為ですが、光の画家として改めて美術史上の位置づけを見直す必要がありそうです。

作品・所蔵:

「三曲合奏図」(米・ボストン美術館蔵)

「吉原夜景図」(太田記念美術館蔵)

「夜桜図」(メナード美術館蔵)

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「三曲合奏図」出展元:http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2006/01-05.jpg

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「吉原夜景図」(太田記念美術館蔵)出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7e/Yoshiwara_K%C5%8Dshisakinozu.jpg/220px-Yoshiwara_K%C5%8Dshisakinozu.jpg

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「夜桜図」(メナード美術館蔵)出典元:http://www2.ctv.co.jp/ukiyoe/files/2014/04/fa5c05f247066ae01bcc0e1035fdca25.jpg

歌川国芳UTAGAWA KUNIYOSHI

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「歌川国芳」自画像・出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/04/Self-portrait_of_the_shunga_album.jpg/220px-Self-portrait_of_the_shunga_album.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E8%8A%B3

参考サイト:http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/16_kuniyoshi/

参考サイト:http://studyenglish.at.webry.info/201507/article_28.html

参考サイト:http://waretadataruwosiru.txt-nifty.com/blog/cat23259372/

参考サイト:http://www.hpam.jp/special/index.php?mode=detail&id=143

生年・没年:1798年1月1日生。1861年4月14日没。

解説:江戸末期の浮世絵師。江戸日本橋生まれ。はじめの姓は不明ですが,のちに井草氏を継いでいます。幼名芳三郎,のちに孫三郎。一勇斎,朝桜楼などと号しました。文化8(1811)年ごろに初代歌川豊国に入門しましたが、不遇の時期が長く続きました。文政(1818~30)末ごろ文芸界の『水滸伝』ブームに乗じて発表した「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」の錦絵シリーズが当たりを取り,「武者絵の国芳」としてようやく人気絵師の仲間入りを果たします。

以後、錦絵・読本・合巻・滑稽本の挿絵と幅広く活躍し、国貞、広重と共に歌川派の三巨匠のひとりに数えられました。武者絵の代表作は3枚続きの画面に対象を巨大に描いたものに多く,「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」「相馬の古内裏」などがあげられます。武者絵以外では,天保(1830~44)前期に「東都名所」「東都○○之図」などの風景版画シリーズで近代的な感覚を見せ,同後期の「金魚づくし」、弘化(1844~48)末ごろの「荷宝蔵壁のむだ書」などの遊び心に満ちた戯画も注目されます。門人の育成にも尽力し,門下から芳虎・芳幾・芳年らの俊才が輩出しました。画業においては銅版画の作風を学ぶなど旺盛な吸収力を見せ,観る者を驚かせ喜ばせるサービス精神にも富んでいます。人間的には侠気のある親分肌で,ときに幕政を風刺する反骨精神もありましたが,一方では猫をこよなく愛するなど,人間的な魅力に富んだ人物であったと言われています。

作品・所蔵:

「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」

「相馬の古内裏」

「東都名所」

「金魚づくし」

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「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」弘化2(1845)出典元:http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/16_kuniyoshi/images/pic2.jpg

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「金魚づくし」の内・出典元:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/089/64/N000/000/014/143812132129865728179.jpg

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「猫のすずみ(部分)」出典元:http://waretadataruwosiru.txt-nifty.com/photos/uncategorized/2013/05/12/_new.jpg

坂田怪童丸[1]

《坂田怪童丸》 天保7(1836)年頃・出典元:http://www.hpam.jp/upload/editor/images/%E5%9D%82%E7%94%B0%E6%80%AA%E7%AB%A5%E4%B8%B8.JPG

鈴木春信SUZUKI HARUNOBU

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谷中の大円寺「錦絵開祖鈴木春信」と記された記念碑・出典元:http://www.oteramap.com/shitaya/images/his_004.jpg

参考サイト:http://www.oteramap.com/shitaya/historic.html

参考サイト:http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/search?q=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%98%A5%E4%BF%A1&page=5

参考サイト:http://www.ukiyoe.or.jp/ukisho/uks-07-pics/07-b/sh-t-b.html

参考サイト:http://takumihanga.com/series/%E6%98%A5%E4%BF%A1%E5%BA%A7%E6%95%B7%E5%85%AB%E6%99%AF/

生年・没年:1725年生1770年7月7日没。

解説:江戸中期の浮世絵師。本姓は穂積、あるいは鈴木氏,通称・次郎兵衛,または次兵衛。別号に思古人,長栄軒があります。絵は西村重長、あるいは西川祐信に師事したと言われ、,遅くとも宝暦10(1760)年には浮世絵画壇にデビューしています。それ以前の伝歴はほとんど判っていません。画壇に出た宝暦(1751~64)後期から続く明和1(1764)年にかけては、細判役者絵や故事説話画、美人風俗画などの紅摺絵版画を発表しましたが、この間の作品はいずれも宝暦年間に人気を得た他の浮世絵師たちの作風に追随しており、文字どおり雌伏期といった感があります。 こうした閉塞状況を一変させ、絵師春信を一躍浮世絵界のスターダムにのしあげたのが、明和2年に好事家たちのサークルで活況を呈した絵暦交換会でした。太陰暦の使われた江戸時代では、おのおのの年毎に月々の大小を知る暦が使われましたが、この年、文化人たちが競ってつくった絵暦は、それまでの未熟な木版画の技術を高度な多版多色摺へと劇的に進歩させたものでした。これら絵暦の作画を担当した浮世絵師のなかで、春信は版画の彫摺技術の向上に伴う色彩表現の可能性を探るなど、積極的に主導的役割を果たしました。

以降は明和期(1764~72)を代表する当世美人絵師として、きらびやかな錦絵の創製にも尽力、吾妻錦絵として次々と世に送り出していきます。 春信の美人画様式は,この明和2年に量産された絵暦への作画と,このときの制作熱の副産物ともいえる誕生したばかりの錦絵への作画とによって確立されます。もっぱら中判錦絵を自らの作品発表の場としましたが,春信独特の抒情性豊かな美人画に登場する男女は,いずれも少年少女のように無垢であどけない表情をみせ、あくまでも中性的・夢幻的な空間に生きる存在として自己完結していきます。一種幻想的な世界が構築されたこれら錦絵において描かれる男女その他の図様は、実は西川祐信ら先輩絵師の版本類から借用されたものでしたが、春信はいわばそれらを独自の画風によって別次元の絵画に転化再生し、一世を風靡したと言えます。

なお,笠森おせんなど往時人気の江戸の評判娘をとらえる一方で,「座敷八景」「風俗四季歌仙」などの傑作を生んだ春信錦絵には,古典を時世風俗に置き換えて描く見立絵が多く含まれる点が特筆されます。没年までの5年間に、駆け足で1000点あまりの作例を遺しますが、まさに錦絵時代の開幕を高らかに宣言した浮世絵界の寵児と言えます。

作品・所蔵:

「座敷八景」

「風俗四季歌仙」

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「ささやき」出典元:http://image.tnm.jp/image/1024/C0000195.jpg

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「座敷八景 扇の晴嵐」出典元:https://data.ukiyo-e.org/ritsumei/scaled/Z0165-031.jpg

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座敷八景「時計の晩鐘」出典元:http://www.ukiyoe.or.jp/ukisho/uks-07-pics/07-b/sh-t-b.jpg

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「座敷八景・鏡台の秋月」出典元:http://takumihanga.com/takumi-admin/wp-content/uploads/2014/09/Harunobu-2.jpeg

 

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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