巨匠・横山大観伝

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巨匠・横山大観伝

日本画の現代史を語るとき、唯一無二の存在が横山大観ではないでしょうか。2018年は生誕150周年、没後60年の年にあたり数々の周年催事が予定されているようです。そこでご案内いたします「巨匠・横山大観伝」です。

≪インデックス≫

1「プロフィール概要」

2「生い立ち~幼年期」

3「創作活動の軌跡」

*補完①「日本美術院/岡倉天心」

*補完②「朦朧体」

*補完③「富士山絵」

*補完④「酒」

*補完⑤「五浦観光ホテル別館大観荘」

4「主な代表作一覧」

5「関連著作物」

6「関連美術館」


1「プロフィール概要」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E8%A6%B3

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/Taikan_Yokoyama_01.jpg/220px-Taikan_Yokoyama_01.jpg

概略インフォメーション:横山大観は日本の美術家、日本画家。常陸国水戸出身。近代日本画壇の巨匠であり今日「朦朧体」と呼ばれる線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名横山秀麿。

【 略歴 】
 1868 (M01) : 11/ 2 茨城生まれ
 1889 (M22) : 東京美術学校入学。橋本雅邦らに学ぶ
 1896 (M29) : 東京美術学校助教授に就く
 1898 (M31) : 美術学校騒動により岡倉天心に殉じて辞職。天心らと共に日本美術院設立
 1903 (M36) : 菱田春草と共に、インド、アメリカ、ヨーロッパ訪問 (~1905
 1906 (M39) : 日本美術院移転に伴い茨城県五浦の地に移住
 1914 (T03) : 前年の岡倉天心の死後、日本美術院を再興
 1930 (S05) : ローマ日本美術展の美術使節として渡伊
 1937 (S12) : 第1回文化勲章受章
 1958 (S33) : 2/26 東京にて逝去


2「生い立ち~幼年期」

「酒井捨彦製図・新撰帝国道中記」出典元:https://www.kosho.or.jp/upload/save_image/19000170/20171226152248206611_8b253e4fc6f96a49a3002cd7be8d4b3c.jpg

生年/没年情報:1868年明治元年918日生まれ・1958年昭和33226日没享年89歳。

インフォメーション:以下参照

1868年(明治元年)水戸藩士・酒井捨彦(実父酒井捨彦は「常陸国全図」や「茨城県管轄輿地図」をはじめ,数多くの様々な地図を出版し,明治期における民間の地図製作者として活躍した人物)の長男として生まれ、のち母方の横山家を継いでいます。1878年(明治11)一家と上京。府立一中および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学びます。1888(明治21年)の年に母方の縁戚である横山家の養子となっています。元々興味を持っていた東京美術学校を受験することに決めると急遽、準備のため結城正明、狩野芳崖などに教えを受けています(その期間は23か月程度でした)。しかし受験の際は受験者数300人中200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼等の多くが有名な師に何年も教わってきたと聞くや試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験変更を申請しています。

「村童観猿翁」出典元:http://www.franchise-ken.co.jp/wp/beauty/wp-content/uploads/sites/4/2018/05/img20180509_11335999-300×183.jpg

結果、見事に東京美術学校へと合格し1889(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心橋本雅邦らに学ぶこととなります。同期生には菱田春草下村観山西郷孤月などがいます。1893年に同校を卒業。『村童観猿翁(そんどうえんおうをみる)』はその卒業制作です。


3「創作活動の軌跡」

「日本美術院創立メンバー」出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/images/01_tenshin_tenshin04.jpg

インフォメーション:以下参照

1893年東京美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員に就職します。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになっています1896(明治29年)同職を辞すと母校・東京美術学校の助教授に就任します。しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚してしいます。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し同年の日本美術院創設に参加し、美術院のメンバーとともに茨城県五浦へ移住しますが、以降この移住の期間、美術院のメンバーは当時の画壇から異端視される苦渋の時を迎えます。(*当時の模様について当サイトの別項目でも詳細記事を作成していますので以下からご参照下さい。「日本の美術を支えた人々・岡倉天心」:http://bonvoyagejapan.com/okakura%e3%80%80tensin/ )

日本美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表します。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びます。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉でした。

「日・月蓬莱山図より・月の出」出典元:http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/amaryllis/no_91/imgs/p10.jpg

1903年(明治36)になると、春草とともにインドに赴き、また翌年には天心に従って春草らと渡米、1905年ヨーロッパを回って帰国するという時を過ごします。この旅行中、インドのカルカッタや、アメリカのニューヨークボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得ます。その後、ロンドンベルリンパリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受け、この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めます。1906年になると美術院日本画部の茨城県五浦移転に伴い同地に移りますが、1907(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任して『二百十日』ほかを出品します。また時を同じくして『流燈』『山路』『瀟湘八景』などを初期の文展に出品しています。1908年五浦の家が火災にあって結局、上野池之端に移転。中央に戻ったことを契機に、五浦での火災・天心の死以降、休止状態となっていた美術院を1914年(大正3)同志とともに自らが中心となって再興します。以後美術院の中心として活躍し、再興第1回展に『游刃有余地』、第3回展に『作右衛門の家』、第6回展に『山窓無月』、第8回展に『老子』、第10回展に『生々流転』などを次々と出品、東洋の伝統に基づく近代日本画の創成を目ざして画壇に重きをなしていきました。

「文化勲章受章式」出典元:http://art-culture.world/img/2018/04/1-1024×1142.jpg

以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935(昭和10年)には帝国美術院会員となります1937(昭和12年)にはこの年制定された第1回文化勲章の受章者となっています。同年、帝国芸術院会員となり、戦後の1951(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となります1958(昭和33年)226、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠。永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られました。なお、大観のは現在もアルコール漬けにされた状態で、東京大学医学部に保管されています


*補完①「日本美術院/岡倉天心」

出典元:http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/images/01_tenshin_tenshin01.jpg

インフォメーション:以下参照

本名岡倉覚三は江戸幕末の文久2年(1863)、元越前福井藩士で生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門の次男として横浜に生まれました。文明開化という時代、海外に開かれた開港地横浜で、天心はジェイムズ・バラの塾等で英語を学ぶなど、後年の国際的な活躍の素地が磨かれていきました。天心の大きな業績は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残したことにあります。その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。また天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。また天心は晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦(現在の北茨城市五浦)に居を構える一方、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。以後、天心は亡くなるまでこの五浦を本拠地として生活しています。

*補完②「朦朧体」

「日・月蓬莱山図・日の出(下村観山)」出典元:http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/amaryllis/no_91/imgs/p11.jpg

インフォメーション:以下参照

岡倉天心の指導の下、横山大観菱田春草等によって試みられた没線描法です。洋画の外光派に影響され、東洋画の伝統的な線描技法を用いず、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した技法です。絵の具をつけず水で濡らしただけの水刷毛を用いて画絹を湿らせ、そこに絵の具を置き、空刷毛で広げる技法、すべての絵の具に胡粉を混ぜて使う技法、東洋画の伝統である余白を残さず、画絹を色彩で埋め尽くす手法など様々な絵画技法が用いられた新しい表現でした。この新しい試みを用いた技法に対し反対意見も多く存在しました。洋風画的な要素が見られるこの技法に対し洋画の方からは、日本画には遠近法がなく、人体描写に解剖学的基礎が見られないなどの非難が集中しました。しかし、この朦朧体の試みは「四季の雨」から1900年の「菜の葉」へと続いて行きます。「菜の葉」は、第八回日本絵画協会共進会出品作で、この作品には賛否両論あったようです。今ではこの大観の朦朧体は、新しい試みとして日本画の歴史的な業績と称えられています。

*補完③「富士山絵」

「夏之不二」出典元:https://intojapanwaraku.com/wp-content/uploads/2017/07/56cdeca5fa1261c2485287b13d41ebf2-620×421.jpg

インフォメーション:以下参照

その数およそ1500点以上、「大観と言えば富士」と言われるほどに生涯に亘って数多くの富士図を描いたのが近代日本画の巨匠・横山大観です。大観の初期から晩年に至るまでの作品を、120点余りも所蔵する足立美術館は別名「大観美術館」とも呼ばれるほどにそのコレクションが充実しており、その中には13点の富士山絵が含まれています。国内で大観の富士山絵をこれほどの規模で所蔵するのは当美術館しかありません。常設展示ではないので一挙に見ることはできませんが、大観作品を数多く見たいときは当美術館は要チェックです。

13作品≫

・「夏之不二・1920年」

・「神州第一峰・1932年」

・「千代田城・1934年」

・「霊峰四趣・夏・1940年」

・「乾坤輝く・1940年」

・「雨はれる・1940年」

・「龍躍る・1940年」

・「不二霊峰・1941年」

・「神国日本・1942年」

・「霊峰不二・1944年」

・「蓬莱山・1948年」

・「乾坤輝く・1953年」

・「霊峰夏不二・1955年」

*補完④「酒」

「大観寄贈画」出典元:http://www.suishinsake.co.jp/suishinsakewp/wp-content/uploads/2017/05/phtk002.png

インフォメーション:以下参照

大観は大変な酒好きとして知られ、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたというエピソードがあります。飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたそうです。しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたと言います。代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、醉心酒造に大観の記念館ができることとなります。もっとも、最初から酒好きだったわけではなく、若い頃は猪口2 3杯で真っ赤になってしまう下戸でした。しかし大観の師の岡倉天心は日に2升ともいわれる酒豪であり「酒の一升くらい飲めずにどうする」と大観を叱咤したため、飲んでは吐きながら訓練した結果だったそうです。なお1955年(昭和30年)頃までは毎日約1升もの酒を飲んでいたものの、晩年は酒量も減り、1957年(昭和32年)頃になると1日に4合飲むのがやっとでした。最晩年の1958年(昭和33年)になると1日に5勺(1合の半分)しか飲めなくなっていました。鯨飲はしていたもののアルコール中毒にはならず、大病もせずに90年近い寿命を全うした大観です。

*補完⑤「五浦観光ホテル別館大観荘」

出典元:https://trvimg.r10s.jp/share/image_up/29989/origin/58c8fe3430a415c89d252fac12d73ba8ce1d68dd.47.1.26.2.jpg?fit=inside%7C600:540

出典元:https://trvimg.r10s.jp/share/image_up/29989/origin/2337fffd2880baf40423cacdaafba10869cb9059.47.1.26.2.jpg?fit=inside%7C600:540

インフォメーション:以下参照

五浦観光ホテル別館大観荘のある場所には、移住してきた日本美術院の画家たちが居住する邸宅が集まっていました。それを記念する意味で、旅館の入口には菱田春草の名の刻まれた石碑が建立されています。当館に隣接する旧横山大観邸が現在も特別室として利用されています。潮騒のささやきと松風香るお部屋にて、ゆったりと心を遊ばせ、壮大な自然を存分に満喫できる離れです。随所に木材を使用した素朴で味のある室内には、縁の品の展示室を設け、大観画伯が愛用した当時の道具箱も展示されています。建物はは絶壁の上に立っていて、外はすぐ海。草木に隠れてはいますがどの窓からも海が見え、部屋には大観たちが五浦時代ともに絵を描いていた様子を写した写真が飾られていま

広 さ

居間12+8+8畳、画室10+8畳、客室風呂、貸切露天風呂

定員数

715名様

設備・貸し出し品

テレビ・電話・湯沸かしポット・冷蔵庫・ドライヤー・洗浄機付トイレ・電気スタンド(一部)・アイロン(貸出)

アメニティ

お茶セット・石鹸(固形)・コンディショナー・ハミガキセット・カミソリ・シャワーキャップ・くし
おふろセット・タオル・バスタオル・浴衣・スリッパ

≪次ページパート2≫もご覧ください

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