夭折の画家たち・Vol.1


夭折の画家たち・Vol.1

才能を秘めた多くの画家が、時を早くしてこの世を去っています。そこでご紹介します「夭折の画家たち・Vol.1」です。「村山槐多」「青木繁」「関根正二」「佐伯祐三」「岸田劉生」「松本竣介」「松下春雄」「三岸好太郎」「野田英夫」「今村紫江」「中村つね」「板倉鼎・須美子」。

「村山槐多」

「湖水と女」出典元:http://www.polamuseum.or.jp/wp/wp-content/files_mf_collection/cache/th_d8399901d709490dbf8a92fe7c7970ba_0004310001.jpg

「自画像」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/67/Murayama_Kaita_self-portrait.jpg/220px-Murayama_Kaita_self-portrait.jpg

出典元:https://pbs.twimg.com/profile_images/2145028908/image_400x400.jpg

出身・生没年月日(享年):1896.9.15. 横浜生まれ1919.2.20. 東京にて没す。享年23

参考サイト:http://www.polamuseum.or.jp/collection/006-0262/

参考サイト:https://twitter.com/kaitamurayama

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E6%A7%90%E5%A4%9A

プロフィール:以下参照

幼時を京都で過し,京都府立第一中学校卒業。従兄の山本鼎の感化を受けて画家を志し,1913年上京,小杉放庵宅に寄寓して日本美術院研究所に学んだ。中学時代からボードレールらに親しみ,また前衛的な水彩画などを描いたという。 14二科展15日本美術院展に初入選した。 17年には代表作の一つ『湖水と女』で美術院院友に推され,19年に『松と榎』などで美術院賞を受けるなど将来を期待されたが,画業なかばで夭折した。死後,詩や散文を集めた遺稿集『槐多の歌へる』 (1920) ,『槐多の歌へる其後』 (21) が出版され,豊穣なイメージを展開する自在なうたいくちが高村光太郎らに激賞された。その生涯は退廃,放浪の生活であったが,作品は青春の哀愁をフォービズムを基調とした陰影の濃い画面に表現した。主要作品はほかに『バラと少女』 ,『村山槐多詩集』 (51) ある。

作品インフォメーション:「湖水と女」

1914年(大正3)、中学を卒業すると画家をめざして上京し、山本から紹介された画家、小杉未醒のもとに下宿しながら日本美術院洋画部の研究所に通いはじめた。1916年(大正5)根津の下宿に転居すると、この頃からモデルの「お玉さん」そして下宿先の「おばさん」への恋慕に悩むようになる。「湖水と女」のモデルについては、当初この「おばさん」だといわれていたが、近年になってこの絵のモデルが槐多の後援者、笹秀松の妻の操であるという説が有力となってきた。槐多の遠縁にあたる笹操はすらりとした長身の美女で、この「湖水と女」が描かれたとき31歳頃であったという。夫の秀松は大柄で磊落な性質で知られており「のらくら者」(1916年)のモデルといわれている。山々に囲まれた湖を背景に一人の女性が座っている。流行の束髪に色白の端正な顔立ちをしたこの女性は鶯色の着物に紺色の羽織を合わせている。涼しげな目もと、固くむすんだ口もとが意志の強さをうかがわせ、近寄りがたい崇高さを感じさせる。背景の湖と民家、山々の風景は、郷愁をさそいつつも寂寥感をただよわせ、描法と構図はダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を彷彿とさせる。丁寧に描きこまれたこの作品は、第3回日本美術院試作展に出品され、奨励賞を受けている。しかしその後、槐多はしだいに頽廃的な生活に耽るようになり、1919年(大正8)肺炎により急逝した。

ポーラ美術館住所:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285

問合せ:0460-84-2111


「青木繁」

「海の幸」出典元:http://navi.tateyamacity.com/wp-content/uploads/2012/05/uminosachi2.jpg

「自画像」出典元:http://navi.tateyamacity.com/wp-content/uploads/2012/05/zigazou2.jpg

出典元:http://navi.tateyamacity.com/wp-content/uploads/2012/05/Aoki_Shigeru.jpg

出身・生没年月日(享年):明治15.7.13(1882) 久留米生まれ・明治44.3.25(1911) 没・享年28

参考サイト:http://navi.tateyamacity.com/?p=7851

プロフィール:以下参照

明治後期の浪漫主義思潮を代表する夭折の天才的油彩画家。明治15713日、福岡県久留米に生まれる。父は旧有馬藩士で明治維新の際は勤皇党であった。高等小学校の同級に坂本繁二郎がいた。久留米中学明善校時代は、級友と文芸雑誌を出すほか、坂本とともに森三美について洋画を始めた。やがて画家を志して中学を退校し、上京して小山正太郎の不同舎に入門するが、翌1900年(明治33)東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に外光派の画法を学ぶほか、広く哲学、宗教、神話、文学に熱中し。その成果は『黄泉比良坂(よもつひらさか)』『闍威弥尼(じゃいみに)』などの水彩画となり、1903年白馬会第8回展に出品して第1回白馬会賞を受けた。これらは日本やインドの古代神話、伝説から画想を得ており、文学的浪漫性が豊かに、幻想的に絵画化されている。1904年美校を卒業、同級生に熊谷守一、山下新太郎らがいた。この年の夏、房州で印象派的な『海景』連作ならびに代表作『海の幸』(重要文化財)を制作し、後者は白馬会に出品されて一躍名声をあげ、詩人蒲原有明を感激させ、親交の機縁となった。翌年福田たねとの間に一子幸彦(福田蘭童)が生まれた。青木はラファエル前派、ギュスタブ・モロー、シャバンヌなども独自に吸収し、明治30年代後半、時代の上昇機運と芸術思潮を背景として、黒田系外光派を超えた香り高い浪漫的美術を開花させて注目される。1907年東京府勧業博覧会で『わだつみのいろこの宮』(重要文化財)により三等賞を受けたのち、家の事情で帰郷して数年間九州各地を放浪、制作し、明治44325日、窮乏のうちに28歳の生涯を閉じた。

作品インフォメーション:「海の幸(旧石橋財団石橋美術館蔵)」

青木繁の一大傑作『海の幸』は館山の布良海岸にて制作されています。滞在期間はわずか2カ月でしたが、短い人生の中で精神的にも芸術的感性においても最も優れた幸福な時期であったと伝えられているこの期間に、青木繁はどのようにして『海の幸』を描いたのでしょうか・・・

久留米市美術館(旧石橋美術館)住所:839-0862 福岡県久留米市野中町1015

問合せ:0942-39-1131


「関根正二」

「信仰の悲しみ」出典元:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/img/C/img_c3/works_c3b_09.gif

「自画像」出典元:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/common/content/000141304.jpg

「裸体」出典元:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/common/content/000141483.jpg

出典元:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/common/content/000143567.jpg

出身・生没年月日(享年):189943日福島県生まれ・1919616日没・享年20歳

参考サイト:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3b09.html

参考サイト:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/56067039136.htm

プロフィール:以下参照

福島県白河市で農業と屋根茸職を営む家庭に生まれた。一家の上京にともない深川の東川小学校に転校したが、その同級に伊東深水がいた。1914(大正3)年、関根は深水が勤める東京印刷株式会社図案部の給仕となる。芸術家肌の部員が多く、外国の画集や美術雑誌が置いてあるような職場であった。関根ははじめ日本画を描いていたが、やがて洋画に転じ本郷絵画研究所にも通う。もっともほぼ独学であり、オスカー・ワイルドなどの新しい芸術観に心酔し放逸なデカダン気風に染まる。やがて会社を辞し、山梨、長野へと無銭旅行に出る。その途上で河野通勢に会い、ルネッサンス大家の画集に感銘を受けて以後、素描の腕を磨いた。1915(大正4)年の第二回二科展に初入選をし、以後も同会に入選を続ける。また同展に特別陳列されていた安井曾太郎の滞欧作品を見て強い影響をうけ、以後しだいに彼の作品は色彩を豊かにしていく。1918(大正7)年5月に蓄膿症の手術をするが、その後の経過が悪いうえ、失恋も重なってノイローゼ気味となる。しかし制作活動においては高揚した状態で良作をものし信仰の悲しみ」「姉弟」「自画像を出品した第五回二科展で樗牛賞を受ける当時、極貧であった関根にしては高価な絵具を用い作品の大きさも彼にしては最大に近いものでありました。これら作品を描いた翌年、関根正二は、わずか20歳でこの世を去っています

作品インフォメーション:「信仰の悲しみ」

20歳で夭折した関根の19歳のときの作品です。本作に描かれているのは、まさに関根にしか見ることのできなかった幻の光景で。本作について関根は、東京の日比谷公園で休んでいる時、公衆トイレからこうした人々の列が金色に輝きながら出現したとし、こう述べています。「朝夕孤独の淋しさに何物かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです」当初、関根は本作を楽しき国土と題していましたが、伊藤深水が楽しいどころか悲痛な人間の悲しみを感じると述べたところから、改題して二科展に出品されました。東京のあるコレクターが持っていたもので、1964(昭和39)年、東京画廊の山本孝が譲ってもらい大原美術館に持ち込みました。その当時、若くして亡くなった関根はあまり評価されていませんでしたが大原總一郎は数日眺めたあと購入を決断しました。「大原さんはこの作品をことのほか気に入り、『関根の数少ない絵の中でも傑作だから、大切にするように』と言っていた」と当時を知る元館長の藤田慎一郎が述べています。

大原美術館住所:710-8575 岡山県倉敷市中央1115

問合せ:086-422-0005


「佐伯祐三」

「広告ヴェルダン」出典元:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/img/C/img_c3/works_c3b_08.gif

「自画像」出典元:http://www.geidai.net/postcard/147.jpg

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Photo-Saeki_Y%C5%ABz%C5%8D.png/200px-Photo-Saeki_Y%C5%ABz%C5%8D.png

出身・生没年月日(享年):以下参照

1898.4.28.大阪生まれ・1928.8.16. パリ郊外ヌイイシュルマルヌにて没。享年30

参考サイト:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3b08.html

参考サイト:http://www.geidai.net/postcard/147.php

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%A5%90%E4%B8%89

プロフィール:以下参照

明治31428日大阪で光徳寺の住職の次男として誕生北野中学校4年生のころから赤松麟作の画塾でデッサンを習う。1917年(大正6)中学卒業の秋、画家を志して上京し、川端画学校で藤島武二(たけじ)の指導を受け、翌年東京美術学校西洋画科に入学、在学中の21年に池田米子(後の洋画家佐伯米子)と結婚。23年美術学校を卒業して翌年1月パリに着き、グランド・ショミエールの自由科に通い始める。やがて里見勝蔵にブラマンクを紹介されこのフォーブ画家の啓示と強い影響を受けるほかユトリロにも感動している。25年サロン・ドートンヌに『靴屋』ほかが入選。翌年3月に帰国し、里見、前田寛治らと「一九三〇年協会」を結成して第1回展を開き、同年秋の二科展には滞欧作19点を特別陳列して二科賞を受けた。『下落合風景』『滞船』を連作するが日本の風土と自己の画風が一致せず、シベリア鉄道経由で27年(昭和29月パリにふたたび戻ってサロン・ドートンヌに『新聞屋』ほかを出品し、翌年にかけて盛んな制作活動を行った。第二次パリ時代の画風の特色はカリグラフィック(書法的)な表現主義的線描の駆使であり『ガス灯と広告』ほかに、鋭い神経と奔放ながらも洗練度の高い筆勢を生かしている。またモランへ写生旅行し、重厚な寺院や風景を描くが過度の制作による疲労から健康を害し、室内で『郵便配達夫』などを制作した。しかし結核に加えて神経衰弱が進み、パリ郊外のエブラール精神科病院に入院し、昭和3816日に30歳の生涯を閉じた。

作品インフォメーション:「広告ヴェルダン」

「広告ヴェルダン」はこの時期の代表作。ヴェルダンとは第一次世界大戦でドイツ軍の猛攻をフランス軍がくい止めた要塞都市の名で、同名の映画ポスターの文字が画面右手に大きく描かれている。二度目にパリに渡って以降の佐伯は、その猛烈な制作によって神経を衰弱させ、さらに結核を悪化させています。1928(昭和3)年6月に病院から抜け出し、クラマールの森で自殺未遂、そして8月に31歳の若さで帰らぬ人となります。さらにその半月ほど後には6歳になる一人娘も病没するという悲劇も重なっています。そのヒロイックで感傷的な作風にこうした実生活のあり様が絡まりあって、佐伯は日本近代絵画史上でも特異な存在感を維持し続けていると言っても過言ではありません。

大原美術館住所:710-8575 岡山県倉敷市中央1115

問合せ:086-422-0005

佐伯祐三アトリエ記念館住所:161-0032東京都新宿区中落合2丁目421

問合せ:03-5988-0091


「岸田劉生」

「麗子微笑」出典元:http://www.tnm.jp/uploads/r_collection/M_248.jpg

「自画像」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/f/ff/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E5%8A%89%E7%94%9F%E3%83%BB%E8%87%AA%E7%94%BB%E5%83%8F.jpg/200px-%E5%B2%B8%E7%94%B0%E5%8A%89%E7%94%9F%E3%83%BB%E8%87%AA%E7%94%BB%E5%83%8F.jpg

出典元:http://showa-g.org/img/00142_m.jpg

出身・生没年月日(享年):以下参照

1891623東京生まれ・19291220日徳山市にて没。享年38

参考サイト:http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10568&t=type_s&id=11

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E5%8A%89%E7%94%9F

参考サイト:http://showa-g.org/men/view/133

プロフィール:以下参照

明治24623日、東京・銀座の楽善堂精(せいきすい)本舗に生まれる。父は明治の先覚者岸田吟香。1907年(明治40)東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受け、翌年白馬会の葵橋洋画研究所に入って黒田清輝の指導を受ける。1910年白馬会展と文展に出品。雑誌『白樺』によりゴッホ、セザンヌほか後期印象派に感動し、柳宗悦、武者小路実篤ら白樺派の同人たちと交遊を始める。1912年(大正1)高村光太郎らと主観主義芸術グループのフュウザン会を結成し、翌年にかけて展覧会を開く。その後一転してデューラーなど北欧ルネサンスの写実絵画にひかれ、1915年木村荘八らと草土社を結成・主宰して、一種宗教的なまでの徹底した写実を追求した。1917年二科展に出品して二科賞を受賞。翌年の『麗子五歳之像』に始まり、没年までさまざまな姿の娘麗子像のシリーズを制作する。1921年を境に日本趣味に傾き、日本画も描き始め、翌年の春陽会創立に際して客員として参加する。19239月の関東大震災で鵠沼の家は半壊し、京都に移り住み、宋元画や初期肉筆浮世絵の収集、さらに浮世絵情緒にひかれて茶屋遊びを始める。これら日本や中国の伝統的美意識の影響は『童女舞姿』や静物画などに反映される。1926年京都を引き上げて鎌倉に移り、翌年の第1回大調和美術展に審査員として参加する。1929年(昭和49月末、満鉄の招待により神戸を出帆して満州(中国東北部)に赴き、大連、奉天、ハルビンに滞在し個展を開くが帰途山口県徳山町(現周南市)で1220日急死した。享年38歳。

作品インフォメーション:「麗子微笑」

おかっぱ頭のこけしのような着物姿の少女像。背景が暗く少し不気味であっても昔懐かしい手編みのざっくりした毛糸の肩掛けが温もりを感じさせます。日本人にとってはなじみ深く一度見たら忘れることのできない肖像画。顔を横に引き伸ばしたデフォルメと現物を再現したような写実のはざまで神秘的な表現の到達感を感じさせます。「麗子微笑」は重要文化財で東京国立博物館蔵となっています。

東京国立博物館住所:110-8712 東京都台東区上野公園139

問合せ:03-3822-1111


「松本竣介」

「建物・東京国立近代美術館蔵」出典元:http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2012/shunsuke/img/w10.jpg

「立てる像」出典元:http://www.moma.pref.kanagawa.jp/webmuseum/auth/get-representative;jsessionid=83AD2AA32DF63157168DB64CB5743291?data_no=1687

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/MatsumotoShunsuke_photo_ca1940.png/250px-MatsumotoShunsuke_photo_ca1940.png

出身・生没年月日(享年):1912419渋谷生まれ・194868没。享年36

参考サイト:http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2012/shunsuke/

参考サイト:http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201105110315.html

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E7%AB%A3%E4%BB%8B

プロフィール:以下参照

昭和前期の日本美術界に大きな足跡を残し36歳で夭折した画家松本竣介。1912(明治45)年に東京で生まれた松本竣介は、少年時代を岩手で過ごしました。そして中学入学を目前に病気で聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志します。上京後は太平洋画会研究所へ通い、麻生三郎、靉光ら同世代の画家たちと交流を持ちながら制作に取り組み、1935(昭和10)年、第22 回二科展に《建物》で初入選。以降、建物や人々が幾重にも重なり合う都会風景や、大地に立つ自らの姿を大画面に描いた《画家の像》などの代表作を発表しました。1936 年にはデッサンとエッセイによる雑誌『雑記帳』を 創刊するなど文芸活動にも取り組みます。しかし新たな世界を構築しようとしていた矢先の1948 6 月、病のためその短い生涯を閉じました。日中戦争から太平洋戦争へと戦争が拡大し、敗戦を迎えるという過酷な時代に画家として人間として、きわめて充実した生をまっとうした松本竣介は突然訪れた死による中断にも関わらず、その後の日本の美術にとってひとつの里程標であり続けています。

作品インフォメーション:「立てる像(神奈川県立美術館蔵)」

戦後まもなく36歳で没した松本竣介の代表作。都会の風景と人間とを静かに見つめた松本竣介のこの作品には、静まり返った街に両足を踏ん張って立つ青年像が描かれている。背景に描かれた風景は、高田馬場辺りの一隅といわれている。仁王立ちをしながらも、どこか不安げな表情をしたその青年は、暗い時代に抵抗しつつ画家としての生き方を見つめ直そうとしている等身大の自画像とも見ることができる。第29回二科展出品作。

神奈川県立美術館葉山館住所:240-0111神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1

問合せ:046-875-2800

 

≪次ページパート2.≫もご覧ください

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