近代日本の歴史遺産・旧財閥の邸宅


近代日本の歴史遺産・旧財閥の邸宅

二次大戦後、接収・解除と言う数奇な経過を辿った建物が旧財閥系の邸宅群です。現在、様々な形で利用されていますが、その歴史的背景も含め、代表的な建築をご紹介します。「近代日本の歴史遺産・旧財閥の邸宅」です。「三菱財閥・旧岩崎邸庭園」「三井財閥・綱町三井倶楽部」「古河財閥・旧古河虎之助本邸」。

「三菱財閥・旧岩崎邸庭園」

「洋館外観全景」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei1.jpg

「和宅全景」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei49.jpg

「庭園側」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei5.jpg

「テラス部分」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei13.jpg

「エントランスホール」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei35.jpg

「婦人客室エントランス」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei31.jpg

「客室の壁紙金唐紙」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei24.jpg

「和宅の船底天井」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei53.jpg

「狩野芳崖画の板戸」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei41.jpg

「庭園内のビリヤード専用棟」出典元:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei20.jpg

参考サイト:http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/iwasakitei.html

参考サイト:http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E

①財閥に関するインフォメーション:以下参照

「岩崎弥太郎」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Y_Iwasaki.png/220px-Y_Iwasaki.png

第二次世界大戦以前の日本経済において三井に次ぐ勢力を有した財閥。海運業で身をおこした岩崎弥太郎と弟の弥之助を創始とする岩崎二家の資本出資を基礎として、重工業、鉱業、金融業、商事等に事業を展開し、それぞれの産業部門で傘下企業の多くが寡占的位置を占めました。岩崎弥太郎の海運事業は、国内航路からの外国汽船会社の駆逐を企図した明治政府の保護を受けて郵便汽船三菱会社と改称し、アメリカのパシフィックメイルとイギリスのPO汽船会社を撤退させることに成功したが、明治十四年の政変による政府の方針転換で、新設された共同運輸との間で厳しい競争を強いられました。その渦中の1885年(明治18)に弥太郎は死亡しますが、後を継いで社長となった弟の弥之助が政府の勧奨に従って、海運事業を新たに設立された日本郵船に出資することで、この競争に決着をつけます。これによって主業であった海運業から撤退した岩崎家は、弥之助の指揮の下、すでに傘下に収めていた高島炭鉱、吉岡銅山等の鉱山事業と第百十九銀行、政府から借り受けていた長崎造船所、弥太郎が出資していた千川水道会社をもって事業の再編を行いました。弥之助はこの「海の三菱から陸の三菱へ」の戦略転換を行うために、翌1886年三菱社を設立。この三菱社はあくまで岩崎家の個人事務所にすぎず、岩崎家の家産や家計と事業とが一体化していたといわれるが、会社法が施行された1893年に弥之助は三菱合資会社を設立し、事業部門を同社に移して家産と事業を分離しました。このとき三菱社は廃止されましたが、有価証券の多くが岩崎家資産として運用されています1890年に三菱社は丸の内の土地約107000坪の払下げを受けて開発を始めており、三菱合資会社はこの事業を引き継いだほか、傘下にあった鉱山の殆ど1887年に払い下げられた長崎造船所を直営にしました。さらに1895年に銀行部を設けて第百十九銀行の業務を吸収し、1896年には佐渡・生野の鉱山と大阪製錬所の払下げを受けて鉱山事業を拡大させます。また、新潟県で農地を購入し地主的農業経営もしています。他方、岩崎家は久弥が小岩井農場等の経営や三菱製紙所等への出資をし、弥之助の次男俊弥(1881―1930)が旭硝子を設立するなど、三菱合資での事業経営のほかにも企業にかかわっていました。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、三菱の各事業は造船業と鉱業・銀行業を中心に急拡大。そうした活況のなか、1916年に久弥にかわって社長に就任した小弥太の経営の下で、三菱合資は各事業部門を独立の株式会社として分離していきます1927年(昭和2)には三菱信託を設立し、1931年にはアソシエーテッド石油会社の資本を導入して設立された三菱石油(現JX日鉱日石エネルギー)を傘下に加えました。三菱合資は直系の企業を分系会社と呼びましたが、その数は1930年には10社となり、その他同社が影響力をもっていた傍系会社は11社、孫会社は40社で、それらの払込資本金総額は約59200万円に達しました。これは同じ時期の三井系事業の約70%に相当します。敗戦後の194511月にGHQ(連合国最高司令部)は財閥解体指令を発し、小弥太は自発的解体を拒否したが、大勢には抗しがたく、岩崎一族は退陣し1946930日に三菱本社は解散。三菱商事は19477月に解散し、三菱電機、三菱化成工業(現三菱化学)、三菱重工業、三菱鉱業の各社も独立または分割され、ここに三菱財閥の解体は完了します。しかし講和条約の締結(1951)のころから三菱系の各企業は再成長するとともに、三菱商事も復活し、主要企業が金曜会という社長会を中心に三菱グループを形成して今日に至っています

 

②三代目総帥「岩崎久彌」に関するプロフィール:以下参照

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/54/Hisaya_Iwasaki.jpg/220px-Hisaya_Iwasaki.jpg

生没年月日:18651014生まれ・1955122日没享年90

出身校:慶應義塾/ペンシルバニア大卒

久弥は岩崎弥太郎喜勢夫妻の長男として土佐国、安芸郡井ノ口村に生まれました。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。明治8年に福澤諭吉慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語簿記法律経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、明治19年に米国留学し、1888(明治21年)にアメリカのペンシルバニア大学ウォートン・スクールに入学。1891(明治24年)に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894(明治27年)、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。以後1916(大正5年)にいとこの岩崎小弥太に社長を譲るまで、三菱財閥三代目として長崎造船所の近代化や東京・丸の内地区の開発など事業の拡充を図り、麒麟麦酒、農政事業、製紙業などの創業にも関わった。特に農政事業に関しては岩手の小岩井農場、千葉の末廣農場のほか、朝鮮半島、スマトラ島、ブラジルといった海外にまで経営の手を広げた。また現在でいう事業部制を三菱合資会社に導入し、グループの活性化をもたらしました。太平洋戦争後の1947財閥解体政策により、3人の息子と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任。千葉県富里にあった末廣農場の別邸にて引退生活を送りました。また久弥は1924アジア学研究のための図書館・東洋文庫を設立するなどさまざまな社会貢献を果たしました。東京都江東区清澄の清澄庭園、文京区本駒込の六義園は、それぞれ1924年と1938に久弥が東京市に寄付したもので

 

建物に関するインフォメーション:以下参照

旧岩崎邸庭園は、三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したものです。現在は洋館・和館・撞球室が残存しており、洋館部分は1896(明治29)年、三菱財閥の三代目である岩崎久彌(三菱創業者・岩崎彌太郎の長男)が建築家ジョサイア・コンドルに設計させたものです。ちなみにコンドルは、鹿鳴館(現存せず)やニコライ堂(御茶ノ水)、三井倶楽部(港区)などを設計した人物で、弟子に東京駅や日本銀行を設計した辰野金吾などがいます。完成当初は15,000坪の敷地に20棟以上の建物があり本格的なヨーロッパ式邸宅の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施され、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、当時の華やかな暮らしを偲ばせます。戦後は、GHQに接収された後、最高裁判所研修所等に使用。この時に和館の方は大広間をのぞき大部分が壊されてしまいました。その後、現存部分全てが国指定重要文化財に登録。2001(平成13)年に東京都に移管され2003(平成15)年4月から一般公開が開始されています。

設計者:洋館部分「ジョサイア・コンドル」・和宅部分「大河喜十郎」

建築年度:1896年(明治29年)

所在地:東京都台東区池之端一丁目345

問合せ:03-3823-8340

現在の用途:一般公開記念建国指定重要文化財

一般の訪問について:一般開放されています

開放時間・曜日:午前9時~午後51229日~翌年13日まで休館)

関連料金:一般40065歳以200円(小学生以下及び都内在住・在学中学生は無料)


「三井財閥・綱町三井倶楽部」

出典元:http://tsunamachimitsuiclub.co.jp/wp/wp-content/themes/mitsui_CMS/images/structure_01.jpg

出典元:http://tsunamachimitsuiclub.co.jp/wp/wp-content/themes/mitsui_CMS/images/structure_03.jpg

出典元:http://www.mitsuipr.com/history/taisho/img/img_club_02.jpg

公式サイト:http://tsunamachimitsuiclub.co.jp/

参考サイト:http://www.mitsuipr.com/history/taisho/club.html

参考サイト:http://r-ijin.com/mitui-takatosi/

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB

①財閥に関するインフォメーション:以下参照

「三井高利」出典元:http://r-ijin.com/wp-content/uploads/2017/01/cont01_img02.jpg

1673年(延宝1)伊勢松坂出身の三井高利が江戸日本橋本町一丁目において呉服店越後屋八郎右衛門ののれんを掲げたときに始まります。京都に仕入店を設け、両替店を兼営し、幕府御用の呉服師・両替商となりました。大坂にも進出し1710年(宝永7)「大元方」という本部を京都に設置し、この機関を本拠として三井同族が共同所有の資本を営業各店に貸し付け、かつ全店を指揮しました。その事業は隆盛を極めたが江戸中期以降停滞ぎみとなり、とくに呉服業は不振でした。たび重なる火災や奢侈禁止令がそれに拍車をかけ維新期には朝廷方に加担し、小野組・島田組とともに新政府の財用方に登用され、大いにその財政・経済政策に協力したので、新政府からいろいろの特典を与えられ、急速に資本を蓄積します。江戸期の豪商の多くは没落しましたが、若干の豪商は大変化に即応して財閥となります。三井、住友、鴻池などです。この転換を成功させたのは優れた経営者たちで三井の場合は、三野村利左衛門、中上川彦次郎、益田孝、団琢磨などでした。

「団琢磨」出典元:http://www.mitsuipr.com/history/img/img_hitobito_dan.jpg

彼らは事業活動を活発に行うかたわら、内部整備・体質改善に努力し、成果をあげます。明治初年、不振の呉服業を分離して三越呉服店とし、1876年(明治9)三井銀行と三井物産を設立し、1888年三池炭鉱の払下げを受け、銀行・物産・鉱山の三本柱を形成。物産会社は設立時には三井直営ではなかったが、商法施行(1893)の直前に、呉服店とともに直営に切り換えられました。明治末の19091911年(明治4244)には、銀行・物産・鉱山・倉庫を直営事業の株式会社とし、それらの全株式を所有する財閥本社三井合名会社(資本金5000万円)が設立され、三井コンツェルンの組織が整備されました。当初四つの企業を直系として出発した三井は、その後、直系・傍系の諸企業を多数擁して、日本最大の財閥に発展しましたが、商業・金融部門に重点を置き、三菱、住友に比べて重化学工業部門の比重は小さかった。工業化の進展に伴って、このことが三井財閥の弱点となります。昭和に入って、三井は社会主義的な運動や右翼的な運動から非難の対象とされ、1932年(昭和7)には団三井合名理事長が暗殺されます。かわって責任者となった池田成彬は、三井報恩会をつくって社会事業に力を入れ、首脳の人事を刷新し、三井一族を第一線から退陣させました。1940年三井合名はいったん三井物産に合併され、2年後、物産の株式の25%が縁故公開されます。1944年には三井本社はふたたび独立会社となり、こうして子会社が本社株を所有する形態が採用され、財閥本社の閉鎖性は後退し、戦後の財閥解体によって本社は消滅します。その後三井財閥をはじめとする多くの財閥は、傘下の諸企業との分離と合併を繰り返しながら企業グループを形成していきます。

②第十代当主三井八郎右衛門(三井高棟)に関するプロフィール:以下参照

出典元:http://www.mitsuipr.com/history/column/22/img/img_ind_01.png

生没年月日:1857414日生まれ~1948年(昭和2329日)没享年92

そもそも「八郎右衛門」という名称は財閥三井家の歴代当主通称の一つ。11家からなる三井家当主の通称は各家・各当主個人に固定したものではなく,11家内で〈譲替え〉が行われていました。三井高棟は明治・大正・昭和3代にわたる三井財閥の総帥。高福(たかよし)の八男として京都にて誕生1872年三井同族子弟のアメリカ留学に加わり,74年帰国,財閥形成期の三井経営陣に入った。85年総領家の家督を相続,十代総領家当主・15代八郎右衛門を襲名し,井上馨らの指導下で家政を近代化,事業を拡大した。93年最高統轄機関として三井家同族会を設立、1900制定の三井家憲の下でその議長に就任。1896年三菱の岩崎弥之助と並び三井家初の男爵に叙されました。

 

③建物に関するインフォメーション:以下参照

「ジョサイア・コンドル」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b5/Josiah-Conder-Portrait-1.jpg/170px-Josiah-Conder-Portrait-1.jpg

竣工は大正212月。同12年の関東大震災の際に受けた損傷を、昭和4年にその原型を崩すことなく改修工事を施しました。その後幸いにも第2次大戦の戦禍を免れ、戦後の昭和20年には米軍により「米軍将校クラブ」として使用されておりましたが、昭和28年の返還後は復旧整備を施し三井グループ企業による会員制倶楽部として再生し今日に至っております。現在はわが国の明治、大正建築史上貴重な建造物としてまた西洋建築の傑作として注目されております。当倶楽部本館は、西洋建築史に名を残す傑作としても知られています。手掛けたのは、鹿鳴館の設計者でもあるジョサイア・コンドル博士。ルネサンス様式を基調とした宮殿造りの館はベランダの張り出しはバロック、中央ドームの吹き抜けはピザンチンと様々な建築様式が見事に調和。また、コンドル博士が外観とのバランスを考えて設計した、本館前に広がる純英国風の西洋庭園も心潤す美しさです。正面入った処の1、2階吹き抜けホールとステンドグラスをはめたドーム天井、 階段の構成や各室の優雅な室内装飾等に見るべきものが多く、ジョサイア・コンドル博士の後期作品の中でも傑出したものです。館内には内外美術の粋を集め、とりわけロダンの彫塑、ターナー、サー・ト一マス・ローレンス、ドービニー、ニコラス・マースの油絵等の逸品があり、各室に配備の家具、什器、その他の調度品等もそれぞれ他に比類を見ない豪華なものです。

設計者:「ジョサイア・コンドル」

建築年度:1913年(大正2年)竣工

所在地:108-0073 東京都港区三田2-3-7

問合せ:03-3453-3011

現在の用途:三井グループ各社の社交クラブ施設

一般人の訪問について:会員制クラブ(会員の紹介で利用可能)

開放時間・曜日:24時間・土日休館

≪次ページパート2.≫もご覧ください

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