近代日本の歴史遺産・旧財閥の邸宅


「古河財閥・旧古河虎之助本邸」

出典元:http://www.otanimuseum.or.jp/kyufurukawatei/images/about_construction_img01.jpg

出典元:http://www.otanimuseum.or.jp/kyufurukawatei/images/gallery/g_photo_05.jpg

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出典元:http://www.otanimuseum.or.jp/kyufurukawatei/images/gallery/g_photo_21.jpg

出典元:http://www.otanimuseum.or.jp/kyufurukawatei/images/gallery/g_photo_11.jpg

参考サイト:http://www.otanimuseum.or.jp/kyufurukawatei/about_summary.html

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%8F%A4%E6%B2%B3%E5%BA%AD%E5%9C%92

参考サイト:https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/106258.jpg

参考サイト:http://ruin-explorer.com/ashiseiren/ashisei.html

①財閥に関するインフォメーション:以下参照

「古河市兵衛」出典元:https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/106258.jpg

鉱山王古河市兵衛が創設した財閥。足尾銅山の産銅とその加工を中心に発展した。市兵衛時代、古河の産銅量は日本の首位になったが、反面、経営の多角化は立ち後れた。さらに足尾銅山鉱毒事件の発生や市兵衛の死などによって、その事業経営は消極的になります。しかし第一次世界大戦中の好況期には、旭電化工業、横浜護謨製造(現横浜ゴム)、古河銀行、古河商事、古河鉱業(現古河機械金属)などの新しい株式会社を創立し、帝国生命(朝日生命の前身)を傘下に収め、多角化を積極的に進めました。その後、古河商事、古河銀行は解散するに至ったが、直系の有力会社、古河電気工業が富士電機製造や日本軽金属などを設立し、これによって重工業部門が強化されました。多角的事業経営の進行に伴い、1917年(大正6)には持株会社の古河合名が新設され、諸事業の総合的な統轄機関となりました。しかし古河合名は33年(昭和8)古河鉱業(現古河機械金属)の金属部門を譲り受けて古河鉱業合名と改称。37年には新たに古河合名を設立し、古河鉱業合名を合併、さらに41年には古河石炭礦業を合併して古河鉱業株式会社となります。このように本社機構がめまぐるしく変化したこと、事業会社が本社であったことは古河財閥の特色で、古河鉱業の本社的性格は相対的に弱く、直系会社の自主性が強かったと言えます。終戦時には古河鉱業(現古河機械金属)のもとに直系会社10社、傍系会社13社、準傍系会社60社をもっていました。財閥解体後の古河グループでは古河電気工業系の富士電機グループ、富士通などの活躍が目覚ましい。

②総帥に関するプロフィール:

「古河虎之助」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Toranosuke_Furukawa.jpg/150px-Toranosuke_Furukawa.jpg

生没年月日:188711日東京生まれ1940330日没享年54

出身校:慶応義塾・コロンビア大学

古河市兵衛の晩年の子で母は柳橋芸妓・小清幼少より慶應義塾に学び、小幡篤次郎の薫陶を受ける。明治36年(1903)に慶應義塾普通部を卒業し、ニューヨークコロンビア大学に留学。明治38年(19051月に義兄である潤吉養子となるが、同年12月に潤吉が36歳の若さで病没したため、若くして古河財閥の3代目当主となった。間もなく副社長として病床の潤吉を支えてきた原敬内務大臣就任のため古河鉱業を辞任。市兵衛の片腕だった木村長七が虎之助の後見人となって実際の経営を取り仕切った。明治40年(1907)親戚で古河鉱業社員の中島久万吉と共に欧米を遊学の後に帰国。この中島久万吉が後の古河家を支えていきます。大正4年(1915121日、経済発展に尽力した実父市兵衛の勲功により男爵に叙爵されました。

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虎之助が財閥を相続した当時、経営基盤は足尾銅山が産出するた。鉱毒問題に対しては、古河鉱業も鉱毒予防令に従い対策工事を実施していたものの、同社への非難の声はなお根強いものがありました。1906古河鉱業社長に就任して間もない虎之助は社会的な非難を緩和すべく、原敬の助言に従い資金難で設置が危ぶまれていた東北帝国大学九州帝国大学の校舎建設費用の寄付を申し入れます。寄付金の総額は1907度から5年間で106万円に達します。この資金で建てられた校舎のうち1棟が、現在も北海道大学構内に古河記念講堂として残されています。また第10期より母校の慶應義塾評議員に当選し、以来長きに渡り支援に務めました。1914第一次世界大戦が勃発すると、銅の特需に後押しされた古河財閥は経営の多角化を推し進めます1918までには、持株会社の古河合名会社が直轄する鉱業(古河鉱業)・金融(古河銀行)・商社(古河商事)を中心として、横浜ゴム旭電化富士電機東亜ペイント大日電線帝国生命富士通信機日本アルミ古河鋅造古河電池日本軽金属日本特殊軽合金などを傘下に抱く20社以上の企業を束ねる一大コンツェルンに拡張させます。しかし1920の戦後恐慌による価格の暴落や投機取引の失敗により経営が失速。金融恐慌の影響を古河銀行が大きく受けたため、同行頭取・虎之助は銀行経営に専念するため、古河鉱業社長と古河合名代表社員の職を吉村万治郎に讓りました。1921に古河商事が破綻、1931には古河銀行を第一銀行に譲渡するに至り、総合財閥として欠かせない商社金融の機能を喪失しました。

一方、社長在任中には満州事変など戦争体制の進展するなかで重化学工業部門に重点を置いて規模拡大を図り、古河電気工業1920合併)や富士電機製造1923設立)、富士通信機製造1935設立)、など、後に親会社の古河鉱業を上回る大企業となった会社が複数誕生しています。軍需の拡大した1930年代は鉱業部門に代わってこれらの工業部門が業績を伸ばし、古河財閥は再び急成長していきました。満州事変以後、日本救世軍、太平洋問題調査会、南満州鉄道創立委員、東亜経済懇談会等に参加。修養団が発足すると、頭山満徳富猪一郎らと共に顧問となります。更に国本社系の興国同志会が発足すると、上杉慎吉と共に財界代表としてバックアップに務めました。日中戦争となり、第二次世界大戦に突入すると、虎之助は昭和15年に死去し、養子の古河従純が家督をついで総帥となりましたが、敗戦後の占領開始後、従純は公職追放され古河財閥は財閥解体を命ぜられました。虎之助が大正6年(1917)から大正15年(1926)まで暮らした邸宅は、現在は都立旧古河庭園として公開されています余談ですが虎之助は歌舞伎役者が隣りに並びたがらない程の絶世の美男だったことでも有名です

 

③建物に関するインフォメーション:以下参照

「庭師小川治兵衛」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b3/Ogawa-zihe1860.JPG/150px-Ogawa-zihe1860.JPG

大正3年頃、古河家3代目当主、古河虎之助(18871940)が本邸建設のために隣接する土地を買収して約1万坪の敷地としました。本館建物と西洋庭園はジョサイア・コンドルが設計、大正65月に竣工。洋風庭園に続く池泉回遊式の日本庭園は植治の名で知られる京都の庭師、小川治兵衛が作庭、大正8年完成。建物も庭園も竣工当時の姿を保存している極めて貴重な事例として国の名勝に指定されている文化財で(昭和57年東京都の名勝指定 平成18年に国の名勝指定)戦後は庭園建物ともに古河家の手を離れ国有となり大蔵省の所管となりました。直後は進駐軍に接収されイギリス大使館付き駐在武官の独身寮に6年ほど使用されましたが、接収解除された昭和27年から無人の状態が約30年ほど続き荒廃が進み、蔦に覆われて近所でお化け屋敷と称されていた時代もあります。シャンデリアは落ち、ガラスは割られ、土足で人が入り室内で焚き火をした形跡まであったと言います。庭園に関しては、接収解除から間もなく東京都が国から無償で借り受け、地元の要望などを取り入れて整備が始まり、昭和31年より一般公開が始まりました(建物だけが整備されないまま放置されていた。)しかし昭和57年に文化財指定されたことをきっかけに本館建物も修復工事が始まり、6年の歳月を経て平成元年より財団法人大谷美術館によって一般公開が開始されました。過去に建物内が非常に荒れ果てた状況となった教訓をふまえ葉書での申込みを原則とするガイドツアー方式で見学会を行っています

設計者:「ジョサイア・コンドル」

建築年度:1917年(大正6年)竣工

所在地:114-0024 東京都北区西ヶ原1-27-39

現在の用途:「大谷美術館」

一般人の訪問について:葉書申し込みにより利用可

開放時間・曜日:休館日は年末年始と月曜日(7月~9月・12月~2月)

関連料金:入館料一般800

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