輝く青春の一ページ「輝く美男の一瞬」/2018年7月更新

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輝く青春の一ページ「輝く美男の一瞬」

俗に「絵になる~」という言葉がありますが人にも景色があります。いまどきの「美男子」を検索すると、本当かよ?という感じの人たちが登場します。多分、時代の感覚軸が変化しているせいだと思います。面白そうなので、一昔ならぬ二昔ほど前の感覚で「男前の一瞬」を並べてみます。さて、いかに感じられますか?

 

「東郷平八郎」

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「1894年当時の東郷平八郎」出展元:http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_L/430-121i/s0141l.jpg

プロフィール:生年は弘化4.12.22(1848.1.27)。没年は昭和9.5.30(1934)。明治大正昭和期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士東郷吉左衛門,妻益子の4男,妻は子爵海江田信義の娘テツ。日露戦争における日本海海戦の凱旋将軍として圧倒的名声を誇る。そのため多数の伝記があるが,日露戦争後から死去する昭和9(1934)年までの29年間は知られず,誤解されてきた側面が多い。明治4(1871)年から11年までイギリスに長期留学したが,その前までは非常なおしゃべりで大久保利通に注意されたことさえある。しかし留学中寡黙の人に変身,終生変わるところがなかった。明治17年清仏戦争の際には「天城」艦長として仏・クールベ艦隊に従い,26年にハワイ政変が起こると浪速艦長として居留民保護に急行,日清戦争(1894~95)では開戦の口火となったイギリス商船「高陞号」を撃沈し,33年義和団事件が中国に起きると常備艦隊を天津に集結させ,歴史的事件が起きるごとにきまってそこに東郷がいた。36年連合艦隊司令長官となり,日露戦争終結まで艦隊を指揮,38年5月27日から28日にかけて,日本海でロシアのバルチック艦隊を壊滅させ,日本の勝利を決定的なものとした。38年軍令部長,42年軍事参議官となって第一線から退いた。

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「晩年の東郷平八郎」出展元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/T%C5%8Dg%C5%8D_Heihachir%C5%8D.jpg

「早川雪洲」

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「チート」撮影時期の雪洲・出展元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Sessue_Hayakawa.jpg/220px-Sessue_Hayakawa.jpg

プロフィール:1886年6月10日生~1973年11月23日没。千葉県出身、1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に草創期のハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった。有名・出世作である、1915年製作の「チート」という映画の撮影当時、雪洲はチャップリンと双璧の世界的大スター(全盛期の年収、現在に換算して40億円)であったといわれています。

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サイレント映画時代の雪洲・出展元:https://scontent.cdninstagram.com/t51.2885-15/s320x320/e35/13385787_194519184278142_376247098_n.jpg?ig_cache_key=MTI3Mzc2ODMzNTU2MDIxNDE0OQ%3D%3D.2

「来栖良」

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「来栖良」出展元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ad/Kurusu.jpg/200px-Kurusu.jpg

プロフィール:外交官である父・三郎と、アメリカ人である母・アリスの三兄弟の長男としてアメリカのシカゴに生まれ育つ。アメリカ滞在時は、「ベア」の愛称で呼ばれていた。1927年(昭和2年)に日本に帰国し、暁星中学校を経て、1937年(昭和12年)に横浜高等工業学校に入学。高工時代はラグビー部のキャプテンを務めていた。1940年(昭和15年)3月に同校機械科を繰上げ卒業し、翌4月に川西航空機に入社した。その白人の血が色濃く出た混血(ハーフ)の容貌ゆえに、普段から強い偏見やいじめに遭っていたが、高工時代や陸軍将校時代はその人柄の良さも相まり、周りから容貌について揶揄されることは無く、本人も弱音を漏らす事は少なかった。また、その日本人離れした端正で色白な容貌と175cmの長身から、待合茶屋の芸妓達からは大変な人気があり、満州出張時には現地のロシア人ホステスから同じロシア人と間違われたり、フランスを旅行している最中には、現地人から俳優になるよう誘われたこともあったという。学校卒業者のため徴兵され、1941年(昭和16年)1月に帝国陸軍の第8航空教育隊に入営。高工時代に航空工学を専攻していたこともあり、航技見習士官採用試験を受験しこれに合格。陸軍航空技術学校を経て、3月に見習士官たる陸軍航技曹長となり第1陸軍航空技術研究所附、同年6月、陸軍航技少尉に任官した。1945年(昭和20年)2月17日迎撃時、乗機「疾風」の駐機場所まで誘導路上を歩いていたところ、「疾風」の手前の準備線に位置する、同じく迎撃の為に急発進した梅川亮三郎陸軍中尉操縦の一式戦「隼」のプロペラに接触、頭を刎ねられ即死した。死後、陸軍技術少佐に特進。また、部隊葬が来栖の家族と航空審査部の将官以下軍人・軍属一同が列席した上で同部の格納庫にて行われた。

墓碑には父・三郎によって“In peace, sons bury their fathers. In war, fathers bury their sons.”(平和な時は、息子が父を葬り、戦争の時は、父が息子を葬る)というヘロドトスの言葉が刻まれた。戦後のエピソードとしては、進駐軍が長野県軽井沢町にある来栖家の別荘を訪問し、ある将校が軍服姿の来栖の写真を見て、母・アリスに対し「戦死したのは気の毒だが、これも日本軍の犠牲だね」と語りかけたところ、アリスは「息子が祖国の為に戦い戦死したことを誇りに思います」と答えた。その将校は黙って写真を再度見て「いい男だ」とだけ述べて立ち去ったという。

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「来栖機・疾風」出展元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/The_Nakajima_Ki-84_Hayate_additional_prototype_of_the_Army_Air_Force.jpg/250px-The_Nakajima_Ki-84_Hayate_additional_prototype_of_the_Army_Air_Force.jpg

「白洲次郎」

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「若き日の白洲次郎」出展元:http://buaiso.com/css/images/about_buaiso/jiro/j-t01-007.jpg

プロフィール:現代日本人が憧れるのが白洲である。彼の履歴は書き尽くされているので省略しますが唯一、松岡正剛の著作に「いい文面」があるのでこれを引用します。

『白洲次郎は昭和の変転とともにずっと謎の中にいる。いや、面影のまにまにいると言ったほうがいい。その面影は日本人にとってとても懐しく、とても大切な面影である。しかし白洲次郎という人物の実像はずいぶん長いあいだ、はっきりしなかった。今日出海は「育ちのいい野蛮人」とか「野人」とか呼び、青柳恵介は「風の男」と名付けた。相馬和胤は、いや「風の男」どころか「台風男」だったとのちに語っている。それでもみんなが白洲に憧れた。白洲行きつけの祇園「松八重」の辻村年江女将は「誰もが一目惚れどしたなあ」と述懐した。ディオールにいた山本千代子は「せっかちで口は悪いけれど、気が優しくて照れ屋だった」と言う。背がやたらに高く、いつでもとんでもなく洒落た恰好をしていた白洲である。洋服はロンドンのサヴィル・ロウの「ヘンリープール」の仕立て、ツィードはしばらく軒に吊るして世間並の使い皺が生じてからじゃなきゃ腕を通さない。ワイシャツはターンブル&アッサーのオーダーメイドだけ、傘はブリッグの絹の傘だった。サンフランシスコ講和条約の調印に吉田茂と赴いたときは、機内ではジーンズを穿いていた。一説には「最初にジーンズを穿いた日本人」とも言われる。明治35年生まれだから、ひょっとするとそうなのかもしれない。』

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「カフェで寛ぐ晩年の白洲」出展元:http://heritager.com/wp-content/uploads/2014/05/jiro-shirasu2.jpg

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「ジーンズTシャツ姿の白洲」出展元:http://buaiso.com/css/images/about_buaiso/jiro/j-t01-001-1.jpg

「藤原義江」

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出展元:http://www.city.kitsuki.lg.jp/uploaded/image/3714.jpg

プロフィール:1898.12.5.下関生。1976.3.22. 東京没。テノール歌手。明治31年12月5日山口県下関(しものせき)市生まれ。父は駐日ノルウェー総領事でイギリス人のリード。11歳で上京、1917年(大正6)新国劇に大部屋俳優として参加、一時、沢田の命名による戸山英二郎を名のったが、18年、田谷力三(たやりきぞう)の美声に魅せられ、オペラ歌手に転向、浅草オペラの創始者伊庭孝(いばたかし)のもとで活躍した。20年イタリアに留学、ミラノでガラッシ、ピネッティに師事、21年ロンドンのデビュー・リサイタルで認められ、以後、天性の魅力、楽天主義、体当たり主義で各界の有力者と知己になり、欧米の大都市の独唱会では「東洋のバレンチノ」と騒がれた。『朝日新聞』はこれを「我等(われら)のテナー」の見出しで報じ、22年の帰国第1回リサイタルは空前の人気を集めた。28年(昭和3)医学博士夫人・宮下あき(旧姓中上川(なかみがわ)、後の藤原あき)と結婚、「世紀の恋」の話題をまくが、53年(昭和28)離婚。34年藤原歌劇団を結成、本格的なオペラを日本の土にしようと、第二次世界大戦の始まるまでオペラとリサイタルの両面で内外で活躍。また『波浮(はぶ)の港』『出船』『鉾(ほこ)をおさめて』などの日本歌曲をレコードを通じて広く普及させた。戦後は52年に団員を率いて『蝶々(ちょうちょう)夫人』のニューヨーク公演を成功させた。47年度の芸術院賞を受賞。67年歌手業を引退。自伝『流転七十五年』がある。昭和51年3月22日死去。

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「晩年の藤原義江」出展元:http://www.ysn21.jp/furusato/know/07culture/image/04art/fujiwara.jpg

「佐田啓二」

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出展元:http://soundtrack-of-ozu.info/wp-content/uploads/2016/08/%E4%BD%90%E7%94%B0.jpg

プロフィール:1926.12.9. 京都生。1964.8.17. 東京没。昭和時代後期の映画俳優。早大専門部卒業後,昭和22年松竹に入社。木下恵介監督《不死鳥》(1947年)で田中絹代の相手役としてデビュー。同監督の《カルメン故郷に帰る》(1951年),菊田一夫原作,大庭秀雄監督の《君の名は》(1953年)で人気を不動のものとする。その後も「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」「彼岸花」などに二枚目スターとして出演。俳優中井貴一,中井貴恵の父。昭和39年8月17日自動車事故で死去。享年37歳。本名は中井寛一。

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「蓼科からの帰途の事故死」出展元:http://www.sankei.com/photo/images/news/150813/dly1508130023-f1.jpg

「三船敏郎」

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「若き日の三船敏郎」出展元:http://yononakanews.com/wp-content/uploads/2015/03/8f1a28eb4aff292e816c89c186bd456a.jpg

プロフィール:1920.4.1. 山東,青島生。1997.12.24. 東京,三鷹没。俳優。中国の青島(チンタオ)に生まれる。大連(だいれん)中学を卒業。1946年(昭和21)東宝第一期ニュー・フェイス募集で採用されて入社、翌年『銀嶺(ぎんれい)の果て』でデビューした。1948年黒澤明に認められ『酔いどれ天使』の主役に起用され、豪快な演技力をみせて一躍スターの座を獲得。以後『静かなる決闘』『野良犬』『羅生門(らしょうもん)』『七人の侍』『用心棒』などの黒澤作品に個性豊かな演技を発揮した。1962年には三船プロを設立。また『価値ある男』『レッド・サン』『1941』などの海外作品にも出演、国際的な活躍をみせた。そのほかに『蜘蛛巣城(くものすじょう)』『無法松の一生』『椿(つばき)三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『日本のいちばん長い日』『千利休(せんのりきゅう) 本覺坊遺文(ほんがくぼういぶん)』など。

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「国際的に活躍した当時の三船」出展元:http://2014.kiff.kyoto.jp/film/img/mifune.jpg

「三島由紀夫」

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「三島由紀夫」出展元:http://yamanakako.info/images_sisetsu/161_mishima_t2.jpg

プロフィール:925.1.14. 東京生。1970.11.25. 東京没。小説家。本名平岡公威(きみたけ)。父梓(あずさ)と母倭文重(しずえ)の長男として大正14年1月14日東京四谷(現新宿区)に生まれる。1931年(昭和6)学習院初等科に入り、高等科まで学習院で学ぶ。10代前半から小説を発表し、44年、小説集『花ざかりの森』を刊行した。44年、東京帝国大学法学部に入学、翌年勤労動員先の工場で日本の敗戦を知る。46年(昭和21)川端康成(やすなり)の推薦で短編『煙草(たばこ)』を発表、早熟の新人として認められ、長編『仮面の告白』(1949)で作家としての地位を確立した。60年安保の翌年、短編『憂国』で二・二六事件の青年将校を描く(この作品はのち65年に自ら製作・脚色・監督・主演して、能形式により映画化した)。その後、昭和への関心が強まり、評論『林房雄論』(1963)を通って『英霊の声』(1966)に至る。1960年代の後半に至って「文武両道」を唱えるようになると、「文」に対立する「武」の領域に実践が現れた。すなわち自衛隊に体験入隊し、「楯(たて)の会」を結成する。この時期に最後の長編『豊饒(ほうじょう)の海』(全4巻、1970完結)を書き続けたが、1970年(昭和45)11月25日午前、「楯の会」の学生森田必勝ほか3名とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地に至り、決起を呼びかけたが果たさず、総監室で割腹自殺した。享年45歳。


「岡田真澄」

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出展元:https://pbs.twimg.com/media/Caz3PQpUEAAFdFJ.jpg

プロフィール:昭和10年 9月22日フランス・ニース生。父は画家の岡田毅、母はデンマーク人のインゲボルグで、フランスのニースで生まれる。4歳までフランスで育ち、昭和14年日本統治下の台湾に移住。戦後、ボードビリアンの泉和助に師事し、27年日劇ミュージックホールで初舞台を踏む。間もなく東宝演技研究所に入り、東宝ニューフェイス第6期生となる。29年日活に入社して、30年吉村廉監督「初恋カナリヤ娘」でデビュー。以後、「狂った果実」「嵐を呼ぶ男」などに出演、ハーフらしい彫りの深い端整な顔立ちで、エキゾチックな二枚目スターとして活躍するが、32年川島雄三監督「幕末太陽伝」で青い目の番頭役を演じるなど、二枚目半の雰囲気も持ち合わせた。34年日活退社後は、東宝ミュージカルや劇団欅など、主に舞台へ活躍の場を移した。またテレビ番組やショーの司会者としても定評があり、53年第1回日本アカデミー賞の総司会者を担当、43年から務めたミス・インターナショナル世界大会の司会はライフワークとなった。フランスの二枚目俳優ジェラール・フィリップが映画「花咲ける騎士道」で演じた当たり役にちなみデビュー当初から“ファンファン”の愛称で呼ばれた。平成18年 5月29日 (2006年)没。

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出展元:https://pbs.twimg.com/media/CQ93kdLVAAAq6VJ.jpg

「福沢幸雄」

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「福沢幸雄」出展元:http://www.2000gt.net/Toyota7/Fukuzawa.jpg

プロフィール:昭和18年6月18日生。昭和44年2月12日没。昭和時代後期のカーレーサー。福沢諭吉の曾孫。昭和18年6月18日父が留学中にパリで生まれる。母はギリシャのオペラ歌手。慶大卒業の年,昭和41年トヨタ自動車の専属ドライバーとなり,ファッションモデルとしても活躍。昭和44年2月12日静岡県袋井市のヤマハ・テストコースで実験車トヨタ7のテスト走行中,事故死。享年25歳。

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「パドックで談笑する福沢」出展元:https://i.ytimg.com/vi/bwxJp8bEPaw/hqdefault.jpg