究極の黒子/歴代外国人代表監督通訳たち

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究極の黒子/歴代外国人代表監督通訳たち

今や日本はサッカーW杯の出場常連国ですが、ここまでのプロセスはヒヤヒヤ・ドキドキの歴史でもあり、そこに大きく関わったのが外国人監督です。そしてその傍らで大きな存在価値を見せたのが「通訳」という面々です。そこでご紹介します「究極の黒子/歴代外国人代表監督通訳たち」です。

≪ノミネートリスト≫

1「鈴木徳昭」

2「アデマール・ペレイラ・マリーニョ」

3「フローラン・ダバディ」

4「鈴木国弘」

5「千田善」

6「矢野大輔」

7「羽生直行」

8「樋渡群」


1「鈴木徳昭」

参考サイト:https://www.joc.or.jp/photo/photo_detail.html?vol_id=3925&photo_no=photo2_1
参考サイト:https://www.jubilo-iwata.co.jp/

出典元:https://www.joc.or.jp/news/images/3925/pimg_3925_2_1.jpg

代表監督:「ハンス・オフト」

出典元:https://www.jubilo-iwata.co.jp/lib/images/photo/archive/1213_25.jpg

通訳在籍期間:19925月~199310

代表チーム実績:通算対戦成績27試合1746分(53得点16失点)

AFCアジアカップ1992、アフロアジア選手権1993でタイトルを獲得するも、1994W杯予選で敗退を喫し(ドーハの悲劇)解任となった。また、当時中心選手であったラモス瑠偉との確執も有名。

プロフィールと現況:以下参照

1961123日生まれ。父親は実業団サッカーの選手という家庭に育ち、慶応中学・高校の在学中はサッカー部の中心選手として活躍し、1984年慶応義塾大学卒業。大学在学中もサッカーに没頭し、「日本にもプロサッカーリーグができる」が口癖だったといいます。卒業同年に日産自動車入社。199310月まで実業団の強豪・日産サッカー部の運営強化に携わります。その後、サッカーに対する慧眼を買われ日本サッカー協会に在籍し、1993年オフトジャパンの通訳として採用され、あの「ドーハの悲劇」を体験します。2008年までサッカー協会に所属していましたが、その後、FIFAへ出向し、2002年日韓共催Wカップ開催に尽力。2012年からは2020年東京五輪招致委員会の戦略広報部長に就任し、2020年東京開催を実現しました。このようなトピックニュースはテレビ朝日番組「あいつ今何してる」の石原良純氏の回で放映されています。鈴木氏は現在、日本サッカー協会に戻り、事務局次長職に就かれています。DAZNJリーグの契約、イニエスタやビジャといった大物プレイヤー招致契約、W杯の再誘致活動など、日本サッカーを取り巻く環境はあわただしいものがありますが、その中で現在も鈴木氏は活躍されていそうです。


2「アデマール・ペレイラ・マリーニョ」

参考サイト:http://clairpro.com/works/promotion/marinho/
参考サイト:http://www.chunichi.co.jp/hold/feature/wcup2014/sp/article/CK2014061302000237.html

出典元:http://clairpro.com/common/img/marinho.jpg

代表監督:「パウロ・ロベルト・ファルカン」

出典元:http://www.chunichi.co.jp/hold/feature/wcup2014/sp/article/images/PK2014061302100122_size0.jpg

通訳在籍期間:19945月~199410

代表チーム実績:通算対戦成績9試合324分(16得点13失点)

前任のオフト(欧州路線)とは違う南米路線の監督を、ということで選ばれ、小倉隆史や前園真聖ら多くの若手選手を代表に抜擢した。しかしアジア大会でのノルマ(ベスト4以上もしくは韓国より上の成績)をクリアできず、短期間で解任されました。

プロフィールと現況:以下参照

1954323日ブラジル、ミナスジェライス州生まれ。ミナスジェライス州立大学を経て、1975年に札幌大学に留学生として来日し、 1976年、フジタ工業に入社してサッカー部(現:湘南ベルマーレ)に入部。ゲームメーカーとして、日本サッカーリーグJSL)(19771979)、天皇杯19771979)制覇に貢献しました。 1982年、監督の加茂周に請われて日産自動車サッカー部(横浜F・マリノスの前身)に入部。入部1年目は「さわやかサッカー教室」での指導がプロ活動とみなされ公式戦の出場はできなかったものの、翌1983年からは金田喜稔木村和司水沼貴史柱谷幸一らと共に日産の黄金時代の基礎を築き、2度の天皇杯優勝(1983年、1985年)に貢献。1987年に現役引退するまで通算成績は137試合出場、50得点を記録しました。1994年に日本代表監督に就任したパウロ・ロベルト・ファルカンの通訳として再来日し、その後、サッカー解説者を務める傍ら、フットサルの普及にも力を注ぎ、1999年と2000年にはフットサル日本代表監督を務めました。芸能人女子フットサルチームFANTASISTAの元監督で勤めました。20065月発売の『スフィアリーグ公式フットサル基礎トレーニングDVD』(hachama)ではインストラクター・解説を担当しています


3「フローラン・ダバディ」

参考サイト:http://dabadie.tv/
参考サイト:https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2012/03/21/post_154/

出典元:http://dabadie.tv/img/common/photo.jpg

代表監督:「フィリップ・トルシエ」

出典元:https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jfootball/2012/assets_c/2012/03/0321torusie1-thumb-450×301-24252.jpg

通訳在籍期間:199810月~20026

代表チーム実績:通算対戦成績50試合231215分(83得点47失点)

アーセン・ベンゲルからの推薦で、ファルカン監督以来5年ぶり、3人目の外国人監督として就任。1999 FIFAワールド・ユース選手権ナイジェリアで準優勝。2000年のシドニー・オリンピック5位、2000年のアジア・カップ優勝。2001FIFAコンフェデレーションカップ準優勝、2002FIFAワールドカップ日韓大会ベス、ト16と過去にはなかった成績を収める。

プロフィールと現況:以下参照

1974111日パリ生まれ。父は作家・作詞家のジャン=ルー・ダバディミッシェル・ポルナレフの数々のヒット曲の作詞でフランスでは広く知られています)。 高校卒業後、UCLAに短期留学しその後、 パリのINALCO(国立東洋言語文化学院)日本語学科に入学し日本語の学位取得。1997年にINALCOを卒業後、 1998年に来日し映画雑誌『プレミア』の編集者となりますが、99年から02年までサッカー元日本代表トルシエ監督の通訳・アシスタントを務めました当時のエピソードとして、階級社会の名残が残るフランスにおいて上流層の生まれであるダバディ氏は、「フランスではサッカーは労働者のスポーツであり話題にすべきではないという見方が今も根強く残っており、スポーツの話をするならば自転車やラグビーなどが無難です。このため家族にはしばらくサッカー監督の通訳をしているということをなかなか切り出せず、日本人女性に自分の仕事を話した時に、彼の職業に嫌悪感を見せないだけでなく、サッカーについて、おぼろげながら知識を持っていることに驚いた」そうです。 現在はテニス番組のナビゲーター(WOWOW)や、フランス大使館のスポーツ/文化イベントの制作に関わるなどで活躍。駆使する言語はフランス語、英語、日本語イタリア語、スペイン語等々


4「鈴木国弘」

参考サイト:https://jmty.jp/hiroshima/eve-work/article-66hk5
参考サイト:https://cyta.jp/portuguese/s/brasileiro/
参考サイト:https://jmty.jp/chiba/eve-con/article-35×24

出典元:https://d374atqd17nfye.cloudfront.net/p/front/school/brasileiro/210.jpg

出典元:https://d1d7kfcb5oumx0.cloudfront.net/articles/images/590c95aa74078f138bb7c685/slide_______.jpg

代表監督:「ジーコ(アルトゥール・アントゥネス・コインブラ)」

出典元:https://d1d7kfcb5oumx0.cloudfront.net/articles/images/58af0ea0e2e82f2e27852cc2/slide________.jpg

通訳在籍期間:20027月~20066

代表チーム実績:通算対戦成績72試合381915分(115得点68失点)

監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験と、日本サッカー協会会長の川淵三郎の強い意向で就任。06W杯予選を世界で最も早く突破するも、本大会では21分のグループリーグ最下位で敗退。

プロフィールと現況:以下参照

19551225日千葉県生まれ。19歳でブラジルに渡ってポルトガル語を身につけ1991年から10年近く鹿島に在籍し、メモを取ることなく、まるでジーコが乗り移ったかのように雄弁な語り口で知られ名通訳と評されました。氏の存在感を実証するエピソードとして有名なのが、ワールドカップドイツ大会アジア予選でのこと。200410月の敵地オマーン戦で、監督ではなく通訳が、審判への抗議で一発退場という珍事が起きました。その時の日本代表監督はサッカーの“神様”ジーコ。そして熱弁をふるった通訳こそ、鈴木國弘氏でした。 本大会2006年W杯では日本代表監督ジーコ氏の通訳としてベンチ入りしました。のちに201312月急性骨髄性白血病を発症されましたが、驚異的な回復で現在は社会復帰されています。


5「千田善」

参考サイト:https://number.bunshun.jp/articles/-/51428
参考サイト:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A0%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%80-%E5%8D%83%E7%94%B0-%E5%96%84/dp/4622075040
参考サイト:https://azrena.com/post/7898/

出典元:https://cdn.azrena.com/wp-content/uploads/2017/06/23145108/th_DSC_0161-e1523493510397.jpg

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/A1ubk9Jj1QL.jpg

代表監督:「イビチャ・オシム」

出典元:https://number.ismcdn.jp/mwimgs/1/6/350/img_16c031c587bb7f636eef94eb79c546fb283320.jpg

通訳在籍期間:20068月~200711

代表チーム実績:通算対戦成績20試合1235分(36得点14失点)

ユーゴスラビア代表監督として、またジェフ千葉の監督としてチームに初のタイトルをもたらすなどの手腕を買われ、Jリーグの監督をシーズン中に引き抜く形での異例の就任でした。「考えて走るサッカー」を標榜し、その複雑な練習方法に就任当初は選手ばかりかコーチ陣も混乱して練習がスムーズに進まないことも。しかし代表チームに新しい方向性を示す姿勢はのちの日本サッカーのターニングポイントになったと評価されました。20071116日、自宅で脳梗塞で倒れ緊急入院。一時、危篤状態に陥ったが奇跡的に一命を取り留め、意識も回復。しかし、監督を続けられる状況ではなくなったため退任せざるを得ない結果となりました。

プロフィールと現況:以下参照

19581010日岩手県生まれ。東京大学教育学部卒業後、ベオグラード大学政治学部大学院に留学し、修士課程国際政治専攻中退。専門は国際政治民族紛争異文化コミュニケーション、サッカーなど。その後、しんぶん赤旗特派員として、ベオグラードセルビア)、リュブリャナスロベニア)を合わせてユーゴスラビアでの生活を10年近く送ります。日本と現地を往復しながら、旧ユーゴスラビア地域やパレスティナなどの民族紛争、サッカーと国際政治の関係、ギリシャ・トルコ紛争などを取材。週刊誌や新聞への寄稿、子ども向け図書執筆などとともに、NHKテレビ朝日など、活字メディア以外にも活動の場を広げていました そして2006年より日本サッカー協会にて代表監督イビチャ・オシムの通訳(セルビア・クロアチア語)を務めます旧ユーゴスラビアをフィールドとする研究者として、’80年代から’90年代にかけ、留学時代も含めて10年近い在ユーゴ経験を持っていた千田は、突然舞い込んだオシムの通訳という仕事をなかば歓喜しながら引き受けたといいます。中学、高校とサッカーに打ち込み、現在もシニアリーグでプレーする元サッカー小僧の千田にとって、オシムは魅力的なサッカーを見せてくれる稀有な指揮官として、在ユーゴ時代の憧れの存在だったそうです オシムの病でW杯出場の夢は断たれましたが、自身も元サッカー選手であり、サッカーに関する造詣も深かった千田はその後もオシムサッカーに関する書籍を出版しています


6「矢野大輔」

参考サイト:http://daisukeyano.com/
参考サイト:https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20130904/132694.html

出典元:http://daisukeyano.com/assets/img/profile/daisukeyano_290x397.jpg

出典元:http://daisukeyano.com/assets/img/gallery/20141127_tsuyaku_nikki.jpg

代表監督:「アルベルト・ザッケローニ」

出典元:https://www.soccer-king.jp/wp-content/uploads/2013/09/170879219-1024×682.jpg

通訳在籍期間:201010月~20146

代表チーム実績:通算対戦成績55試合311311分(101得点62失点)

ACミラン、インテル、ユヴェントスなどセリエAでの強豪チームでの監督経験があるが、代表チームの監督としては日本が初となる。イタリアサッカー伝統の超守備陣形のカテナチオではなく、攻撃重視の3-4-3フォーメーションを好む監督としても知られていました。2年契約で2年間の延長オプション付きで最初の契約がスタートしました。

プロフィールと現況:以下参照

1980719日東京都生まれ。セリエAでプレーするという夢を抱き、15歳で単身イタリアに渡り、言葉や文化の壁にぶち当たりながらもサッカー漬けの青春時代を過ごします。その後、プロサッカー選手になるという夢は断念するも、イタリアに残り、トリノのスポーツマネージメント会社「COMPACT」に就職。アレッサンドロ・デル・ピエロを筆頭とするトップアスリートの近くでマネージメントを学びつつ、日本とイタリアの企業の橋渡し役として、商談通訳やコーディネートに従事しながら日伊両文化への造詣を深めます。2006年にトリノに移籍した大黒将志選手の専属通訳となり、そして2010年、アルベルト・ザッケローニの日本代表監督就任に伴い、チームの通訳に就任。ブラジル・ワールドカップまでの4年間、監督と選手の間を取り持つ役割を担い、刺激的かつ緊張感溢れる日々を経験します。20147月ブラジル・ワールドカップ終了に伴いザッケローニ監督の退任と同時に代表チームを離れました。ザッケローニ監督が全身全霊をかけて作ったチームとその4年間の積み重ねを多くの人に伝えること、あきらめなければ夢はいつか必ず、形を変えてでも叶うというメッセージを子供たちに伝えるために、以後、執筆、講演、メディア出演などを精力的に行っています。


7「羽生直行」

参考サイト:https://uragi.com/?p=1808
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%AC

出典元:https://uragi.com/wp-content/uploads/2018/04/2018-04-22_1101.png

代表監督:「ハビエル・アギーレ」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d7/Javier_Aguirre_in_Moscow.jpg/250px-Javier_Aguirre_in_Moscow.jpg

通訳在籍期間:20148月~20152

代表チーム実績:通算対戦成績10試合613敗(19得点10失点

201410月にスペイン現地紙が2011年のスペインリーグ最終節、レバンテ対サラゴサ戦に八百長疑惑があると報道。問題となった試合前、サラゴサのイグレシアス会長から指揮を執っていたアギーレ氏や所属選手の銀行口座へ入金があったとされ、その行方が八百長に使われたのではないかという疑惑が浮上した。 201523日、日本サッカー協会(JFA)が記者会見を開き、大仁邦彌会長が法務委員長の三好豊弁護士同席の下で、ハビエル・アギーレ監督との契約解除を発表しました。

プロフィールと現況:以下参照

197510月7日生まれ。 羽生直行氏はアルゼンチン生まれで、日本語、スペイン語、英語、ポルトガル語が話せます。さらに短期間でフランス語も習得したそうです。1996年~2002年清水エスパルス・アルディレス監督、2003年~2005年東京ヴェルディ1969アルディレス監督、2006年~2007年ベガルタ仙台・サンタナ監督、2008年ジュビロ磐田・オフト監督の通訳も務めた経験があり、通訳者になる前はウルグアイ大使館に勤めていましたアギーレ監督の通訳を受けた経緯は羽生直行さんはもともとスペイン語が堪能だったことが一番大きな要素だったようです。アギーレ体制は八百長事件で短命に終わりますが、羽生氏はのちに発足するハリルホジッチ監督ジャパンでも通訳にも就任しており、日本代表監督の通訳の歴史上、外せない存在と言えます。


8「樋渡群」

参考サイト:http://news.livedoor.com/article/detail/14611118/
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%92%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%9B%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%81

出典元:http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/9/9/99c6d_1419_48b9d46fccfbdc7d99c8d4659caf77f1.jpg

代表監督:「ヴァヒド・ハリルホジッチ」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6f/Alg%C3%A9rie_-_Arm%C3%A9nie_-_20140531_-_Vahid_Halilodzic_2.jpg/250px-Alg%C3%A9rie_-_Arm%C3%A9nie_-_20140531_-_Vahid_Halilodzic_2.jpg

通訳在籍期間:20153月~20184

代表チーム実績:通算対戦成績38試合219分け8敗(PK戦は引き分け扱い)

ワールドカップアジア最終予選を無事突破したものの、欧州遠征での成績不振などを理由に、ワールドカップ2ヶ月前というタイミングで志半ばにしての解任劇となってしまった。

プロフィールと現況:以下参照

1978年、広島市に生まれ。

1997年、広島市の崇徳高等学校を卒業。

2002年、東京都立大学経済学部を卒業。卒業後、渡仏。サッカー指導とフランス語を学ぶ。フランスではパリ・サンジェルマンFC U-12監督などを歴任。この時期にハリルホジッチがパリサンジェルマンFC監督を務めている。

2006年に帰国し、JFAアカデミー福島JFAアカデミー熊本宇城クロード・デュソーの通訳兼コーチを歴任。

2009年からはJFAアカデミー福島男子U-14、男子U-15コーチ等を歴任。

2012年から2014年にかけてJFAアカデミー福島女子U-18監督を務める。

2015年、サッカー日本代表監督に就任したハリルホジッチの専属通訳に就任。

日本代表監督を解任されたバヒド・ハリルホジッチ氏が2018421日午後、羽田空港着の航空機で再来日し、大勢の報道関係者が待ち受ける中、短時間ながらメディアに対応。ハリルホジッチ氏の通訳を務め、“二人三脚”で闘ってきた樋渡群氏が通訳の途中で言葉に詰まった。涙をこらえ、嗚咽を漏らす。「今回の状況はちょっと特別なもの。45年間、フットボールに関わっているが、本当にこのフットボール人生は難しいものになっている。何が起きているのか、まだ理解できていない。真実を探しに来た」と、樋渡通訳は必死にハリルホジッチ前監督の言葉を訳した状況は話題になりました