日本で人気の20世紀イラストレーター/2018年9月更新

Pocket

ads by google

あなたへおすすめの記事
⇒ 東京六本木の洋菓子店【LOUANGE TOKYO】
⇒ 山梨紀行・お洒落なホテル&旅館
⇒ 軽井沢リゾートの極致
⇒  野菜を楽しむ健康サイト6選
⇒ 世界最大の旅行口コミサイト【トリップアドバイザー】
ads by google


日本で人気の20世紀イラストレーター

雑誌文化が衰退著しい昨今ですが、カウンターカルチャーの根幹をなす「マガジン文化」の崩壊が、その原因でしょうね。かつてマガジン文化が幅を利かせている時代に、時を同じくして関心を集めていたのが「イラストレーター」でした。そこでご紹介します「日本で人気の20世紀イラストレーター」です。正真正銘のイラストレーターもあればアーチストまで懐かしい面々をレヴューします。アントニオ・ロペス、ジャン・ミッシェル・バスキア、ルネ・マグリット、キース・ヘリング、アンディー・ウォーホール、ピーター・マックス、ノーマン・ロックウェル、ジョルジュ・バルビエ、バーニー・フュークス、フランク・パターソン、エドワード・ホッパー。(各人の著作権の関係で代表作の掲示ができません。また画像は出版物・ホームページから引用しています。)

アントニオ・ロペス

出典元:https://fukroo.s3.amazonaws.com/uploads/articles/1507572666.png

51Z9KFi51AL[1]

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51Z9KFi51AL.jpg

生年/没年月日:1943年生・1987年没

国籍:プエルトリコ生まれ・最終的な国籍は未確認

インフォメーション:80年代の華やかなファッション&アートシーンにおける重要人物、アントニオ・ロペス。ファッションイラストレーター、そしてフォトグラファーとして数多くの作品を残し44歳の若さで他界。プエルトリコ出身のロペスは幼少時にニューヨークに移り当地をその後の活動の拠点としました。彼の独特のイラストのスタイルはファッションの世界を中心に爆発的な人気を獲得し、『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』、『エル』など名だたるトップ・モード誌で作品を発表、かのイヴ・サンローランカールラガーフェルドアンナ・ピアッジアンディー・ウォーホールなどとも交流し、名実共にトップクリエイターとしてその名を轟かせることとなります。

1969年にはパートナーのJuan Ramosとパリに移り住み、カール・ラガーフェルドと仕事をするようになった彼は、ジェシカ・ラングやグレース・ジョーンズ、ティナ・チャウ、そして駆け出しの頃共に住んでいたジェリー・ホールなど数々のモデルを見いだし、世に送り出します1987年にロペスはエイズにより44歳の若さで死去。しかし彼の生み出した輝かしいアイコニックイメージは、その後の世代に受け継がれています1985年に出版された『Antonio’s Tales From the Thousand and One Nights』は、2007年に発表されたマーク・ジェイコブスの「アラビアンナイト」コレクションのインスピレーションとなり、その後2010年にはインド人デザイナーSuneetVarmaのコレクションにも影響を与えていますちなみにかつて一世を風靡したモデル「山口小夜子」を見出したのはロペスと言われています。

関連サイト:https://www.amazon.co.jp/Antonio-Lopez-Fashion-Art-Disco/dp/0847837920/ref=pd_sim_14_1?ie=UTF8&dpID=51Z9KFi51AL&dpSrc=sims&preST=_AC_UL160_SR127%2C160_&psc=1&refRID=N79QX17EPDSP466VQ7F5

関連サイト:https://www.amazon.co.jp/Antonios-People-Paul-Caranicas/dp/0500285020/ref=pd_sim_14_1?ie=UTF8&dpID=616J0YyqgwL&dpSrc=sims&preST=_AC_UL160_SR132%2C160_&psc=1&refRID=77QDACTP6D955PGED9VV

参考サイト:http://loeildelaphotographie.com/en/2017/12/28/article/159966154/antonio-lopez-1970-sex-fashion-disco/

関連サイト:http://enjp.blouinartinfo.com/

616J0YyqgwL[1]

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/616J0YyqgwL.jpg

antonio_illustration_2[1]

出典元:http://jp.blouinartinfo.com/sites/default/files/antonio_illustration_2.jpg

ジャン・ミシェル・バスキア

出典元:http://basquiat.com/images/homepage-image.jpg

出典元:http://www.basquiat.com/images/chronology/Untitled_(Tobacco_Versus_Red_Chief),_1981.__Acrylic_and_oil_paintstick_on_canvas,_79_x_70_inches_(200.7_x_177.8_cm)._Paine_Webber_Group_Inc.,_New_York.jpg

出典元:http://www.basquiat.com/images/chronology/Beat_Bop,_produced_and_directed_by_Basquiat,_1983.jpg

出典元:http://www.basquiat.com/images/chronology/Gravestone,_1987.jpg

生年/没年月日:19601222日生まれ・1988812

国籍:アメリカ

インフォメーション:「落書きからアート界のアイドルへ―」1250点を超えるドローイングと900点を超える絵を残し、27歳の若さでこの世を去ったジャン=ミシェル・バスキア。今でも人々に多大な影響を与え続ける、20世紀で最も重要なアーティストの一人です。 ニューヨークブルックリン生まれアメリカ画家で、グラフィティ・アートをモチーフにした作品で知られ地元のニューヨークではそのまま英語発音でバスキアットと呼ばれることがありますハイチ系移民をルーツにもつアメリカ人ですプエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親から奨励されていました。17歳の頃から地下鉄、スラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始め活動を続けるうちに高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立てます。徐々に彼の描いたスプレーペインティングは評価され、キース・ヘリングバーバラ・クルーガーの助力でニューヨークで個展を開くようになっていきました。また、絵の中に描かれる王冠は彼のトレードマークとなっています。1983にはアンディ・ウォーホルと知り合い、作品を共同制作するようにもなります。1987のウォーホルの死まで2人の互いに刺激しあう関係きますが、バスキアは徐々にヘロインなどの薬物依存症に陥り、妄想癖が見られるようになっていきます。そしてウォーホルの死によりさらに孤独を深めると共に、ますますヘロインに溺れていき、1988、ヘロインのオーバードーズ薬物の過剰摂取により27歳で死去しています。

参考サイト:http://basquiat.com/

FACEBOOKhttps://es-la.facebook.com/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%A2-118266874951321/


ルネ・マグリット

zoom_7[1]

出典元:http://www.musee-magritte-museum.be/Typo3/fileadmin/templates/images/biographie/zoom_7.jpg

41kCAezZeFL._SY450_[1]

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41kCAezZeFL._SY450_.jpg

219308[1]

出典元:http://www.natsume-books.com/img_item/219308.jpg

生年/没年月日:18981121生まれ/1967815日没

国籍:ベルギー(レッシーヌ生まれ)

インフォメーション:ブリュッセルの美術学校で学び、当初、キュビズム、未来派の影響を受けた作品を制作しますが、キリコの作品と出会いシュルレアリズムに転向1927年パリに出てブルトン、エリュアール等と親交を結び、1930帰国、その後は生涯ブリュッセルで制作活動を行います。非日常的で特異な世界を作り出した作風で、視覚を超えた「観念」のトロンプ・ルイユは後のポップアートの作家に影響を与えています。「迷える騎手」(1924)、「窓」(1925)等の代表作品があります

関連サイト:http://www.belgium-travel.jp/special/magritte.html

関連サイト:https://www.amazon.co.jp/dp/B002SPFI5C/ref=pd_lpo_sbs_dp_ss_2?pf_rd_p=187205609&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=B00313Y31K&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=EKWHN6YBSD5EPY072MHD

関連サイト:http://www.natsume-books.com/list_photo.php?id=226237

公式サイト:http://www.magrittemuseum.be/

関連サイト:http://www.musee-magritte-museum.be/Typo3/index.php?id=accueil&L=0

代表作:「ピレネーの城」「迷える騎手」「窓」

magritte_p03[1]

出典元:http://www.belgium-travel.jp/images/magritte_p03.jpg

キース・ヘリング

main[1]

出典元:http://www.nakamura-haring.com/images/keith/main.jpg

retrospect_s[1]

出典元:http://www.nakamura-haring.com/images/exhibition/retrospect_s.jpg

生年/没年月日:195854生まれ/1990216日没

国籍:アメリカ

インフォメーション:キース・ヘリングはアンディー・ウォーホルやバスキアなどと同様に、1980年代のアメリカ美術を代表するアーティストです。80年代初頭にニューヨークの地下鉄で、黒い紙が貼られた使用されていない広告板を使った通称サブウェイドローイングというグラフィティー・アートを始めました。そのコミカルで誰もが楽しめる落書きは、地下鉄の通勤客の間で評判となり、一躍キースの名を広めることになりました。1980年から86年の間には、次々と展覧会が開催され、国際的にも高く評価されました。ニューヨークのタイムズ・スクエアのビルボードのアニメーションから、舞台デザイン、キースのグッズを販売するポップ・ショップをオープンするなど、制作活動は多岐に及びます。また世界中で壁画を制作したり、ワークショップなども開催し、社会的なプロジェクトも数多く手がけました。日本でも展覧会やワークショップの開催や、ポップショップも展開されました。1988年にはHIV感染と診断され、その翌年に財団を設立しました。199031歳で亡くなるまで、アート活動を通してHIV/AIDS予防啓発運動にも最後まで積極的に関わりました。

関連サイト:http://www.nakamura-haring.com/index.html

16ExFl表

出典元:http://www.nakamura-haring.com/news/assets_c/2016/06/thumb-500×356.jpg

photo01[1]

出典元:http://www.nakamura-haring.com/images/exhibition/03/photo01.jpg

アンディー・ウォーホル

41FAFZD4kBL[1]

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41FAFZD4kBL.jpg

fo20792-002[1]

出典元:http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/artshop-forms/cabinet/product/gaikoku/andy/fo20792-002.jpg

生年/没年月日1928861987222日没

国籍:アメリカ

インフォメーション:ウォーホルは1928年ペンシルバニア州ピッツバークでスロヴァキアの移民の家に生まれます。大恐慌の影響で家庭は非常に貧しかったそうです。体が弱かったウォーホルは家でラジオを聞いたり、本やマンガを読むことが多かったそうです。スーパーマン、ポパイ、バットマンに憧れる絵がうまい少年だったそうです。

1949年カーネギー工科大学を卒業後ニューヨークで商業アーティストとしての道を歩み始めます。彼の才能と技量がずば抜けていたことから雑誌“ヴォーグ”“ハーパース・バザー”の広告イラストやティファニーのウインドウ装飾などを手がけ、1950年代末までに商業分野である程度の成功を収めます。しかし貧しい家庭に育った彼は富と名声を求めてアーティストを目指すようになります。50年代前半からドローイングによるアート作品の制作を開始しています。

1962年、ウォーホルが34歳の時に写真をベースにするシルクスクリーンという手法を使いはじめます。反復と量産を意識してあのコカ・コーラ、キャンベル・スープ、プレスリー、マリリンを 制作するようになります。資本主義が生み出した工業製品や有名人のポートレートをモチーフにした作品は彼のスタジオ“ファクトリー”で工場の流れ作業を意識してアートとして量産されるようになります。従来の難解な現代アートと違いウォーホルの作品はわかりやすいアートでした。大衆は彼の作品に一体感を感じ支持しました。1965年フィラデルフィアで行われた個展には入場者が多すぎて収拾がつかなくなり、作品を壁からはずさなければなりませんでした。ウォーホルの名声はこの時期に一挙に確立されました。

彼の仕事はアート作品制作だけにとどまらずチェルシー・ガールズなど数多くの映画製作やナイトクラブのショー、ロックバンドのベルベット・アンダーグラウンドのプロデュースまで行なっています。1969年にはインタビューで誌面すべてを構成する雑誌“インタビュー”も創刊しています。ウォーホルは彼のアート作品とともに意識的に自分自身がメディアとなっていきます。数多くのスキャンダラスな話題を提供するウォーホルはマスコミ、ファッション界、ニューヨークの社交界でも注目を浴びる存在となります。

70年代には社交界からの注文で多くのポートレートを制作しています。トルーマン・カポーティー、ミック・ジャガー、マイケル・ジャクソン、キャロライン王女など幅広い分野の有名人の依頼をこなしています。80年代にはアート・ビジネスとの関わりが増え、個展開催が増大します。19871月にはロバートミラーギャラリーで初めてのウォーホル写真展が開催されました。1987222日突然心臓発作で急死するまで、ウォーホルは日本の家電メーカーのテレビCMに登場したりファッションショーに出演したりして常にマスコミや社交界の注目を浴び続けました。

関連サイト:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB-%E7%94%9F%E3%81%A8%E6%AD%BB-DVD/dp/B000M7FRIG

img60530190[1]

出典元:http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/g-vivant/cabinet/hosono/01995561/img60530190.jpg

fo20629-002[1]

出典元:http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/artshop-forms/cabinet/product/gaikoku/andy/fo20629-002.jpg

w1335sqd[1]

出典元:http://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/artofposter/cabinet/ikou_20100202_003/w1335sqd.jpg

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫