学校のはじまり・藩校という存在

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学校のはじまり・藩校という存在

幕府崩壊後の政治経済は、多くの若き下級士族たちによって推進されていった経緯がありますがその礎となったのが「藩校」かもしれません。その存在は歴史時間の流れの中で忘れ去られようとしています。そこでご紹介します「学校のはじまり・藩校という存在」です。(なお一部、歴史的には私塾扱いのものも含みます)

*当記事は「マイルストーンジャパン」サイトの許諾を得て記事公開しています。

「松下村塾」

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「松下村塾」出典元:http://shoin-jinja.jp/files/libs/80/sw/201607051540423558.jpg?1467700844

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「控えの間」出典元:http://shoin-jinja.jp/files/libs/81/sw/201607051541265790.jpg?1467700888

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「松陰が刑死7日前に家族に宛てた遺書の拓本」出典元:http://shoin-jinja.jp//files/libs/118/201607061255513562.jpg

公式サイト:http://shoin-jinja.jp/

創立者:玉木文之進

創立年:1842年(天保13年)

インフォメーション:

萩城下の松本村(現在の萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立したのが松下村塾のはじまりです。吉田松陰は1855年(安政2年)に実家である杉家に蟄居する事になり、杉家の母屋を増築して、引き継ぐ形で松下村塾を主宰、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れました。松陰が塾生達の指導に当たったのは僅か2年余りでしたが、松陰の指導・薫陶を受けた松下村塾門下生達は尊王攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たします。久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿など倒幕運動の中で重要な役割を果たしながらもそれ故に明治維新を前にして道半ばで斃れた者も多いが、生き残った者は伊藤博文、山県有朋の内閣総理大臣を筆頭に、多数の国務大臣、大学の創業者など近代日本に繋がる大きな役割を果たしました。塾生名簿は現存しませんが、著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがおり、総計で約90名余りが松陰の教えを受けたと言われています。
「吉田松陰」と「松下村塾」の名は門下生達の活躍により、全国に轟き、現在まで語り継がれる歴史上稀に見る奇跡の私塾となったといっても過言ではありません。しかし、一方で松陰研究者の泰斗・海原徹氏はその著作のなかで松下村塾の門下生達についてこう書いています。『世に出た成功者、市井に隠れた非成功者、いずれも村塾で学んだ代理不可能、掛け替えのない人間そのものであるという事実が確認されてよく、それゆえに成功者の数の大きさを言い募ることにもともと何の真実もなく、またそのことを前提にしながら理想の学校や理想の教師、はたまた理想の教育を云々することが極めて無意味な作業であることに気付くだろう。位階勲等に象徴される世俗的な成功の有無、もしくはその大小が、人間としての価値、彼がいかに意味のある人生を生きたのかを果たしてどこまで正確に言い表すことができるのかはなはだ疑問であるが、おそらくこの事実をもっとも明快に承知していたのが、松陰その人であったように思われる。』(海原徹著「松下村塾の明治維新」あとがきより)
所在地:758-0011 山口県萩市椿東1537

問合せ:0838-25-3139

公開時間:自由散策

閉鎖日:無休

関連料金:外観周遊は無料


「洗心洞」

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出典元:http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/senshindo.jpg

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「与力役宅門」出典元:http://yururi.aikotoba.jp/samurai/explore/yorikiyakumon.jpg

大坂東町奉行所配下の与力・中嶋家の役宅門洗心洞の石碑の近くにあります造幣局の説明看板によると、当時この付近一帯は天満与力の役宅が軒を並べていたのですが、今でも存在しているのはこの建物のみ。大正末期に現在の場所へ移築され昭和23年に茶室として大幅に増改。しかし老朽化が激しいため改築されたそうです。大塩平八郎の屋敷もこのような感じの門構えだったと言われています。

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出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Oshio_Heihachiro.jpg/250px-Oshio_Heihachiro.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%A9%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

参考サイト:http://yururi.aikotoba.jp/samurai/explore/senshindo.html

創立者:大塩平八郎

創立年:1825

インフォメーション:

もと大阪町奉行与力であり陽明学者であった大塩平八郎の書斎兼私塾の名。跡地は大阪市北区新川崎の造幣局官舎内にあり碑が立ちます。洗心洞の洗心とは『易』繋辞(けいじ)上伝の「聖人此を以て心を洗ひ、密に退蔵す」に由来するものです。その学則である「入学盟誓書」や教学の綱領である「学堂西掲」「学堂東掲」などが作成されたのが1825年(文政8)であることより、このころ私塾としての体裁を整えたものと思われます。塾生1718名、門弟4050名というが、その出身は大坂町奉行の役人と周辺農村の豪農層が多かったことが特色といわれていますなお、現在この洗心洞一帯は造幣局の職員宿舎となっており、洗心洞は石碑が建っているのみです。

*≪大塩平八郎≫

大塩平八郎を有名にしたのは1827(文政10)豊田貢(みつぎ)らのキリシタン類似の宗教を弾圧し,29年には四ヵ所非人と結んで不正を働いた西町奉行所筆頭与力弓削新右衛門を処断し,30年には破戒僧数十名を遠島の刑に処したことです。この年実徳が奉行を引退したため,みずからも与力職を養子格之助に譲って致仕し,与力時代から天満川崎四軒屋敷に開いていた家塾洗心洞で教学につとめ始めました。中国の呂新吾の著作を読んで陽明学に志し,北宋の張横渠の影響をうけて政治刷新をふくむ独自の学風を築きあげたことでも知られています。

所在地:大阪府大阪市北区天満

問合せ:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

公開時間:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

閉鎖日:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

関連料金:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「弘道館」

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出典元:http://www.mitokoumon.com/wp-cntpnl/wp-content/uploads/2014/05/87531d263b05a888515a0adafec19786.jpg

公式サイト:http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html

FACEBOOKhttps://www.facebook.com/kodokanpark/

参考サイト:http://www.mitokoumon.com/kankou/%E5%BC%98%E9%81%93%E9%A4%A8-2.html

創立者:徳川斉

創立年:1841年仮開校/1857年本開校

インフォメーション:

江戸後期の水戸藩校。藩主徳川斉昭(なりあき)が藩政改革の一環として計画し、1841年(天保128月仮開館しました。総裁青山拙斎(延于のぶゆき))、会沢安(やすし)。しかし斉昭が幕命で失脚、1849年(嘉永2)ようやく藩政関与を許されるなどの政変のため本開館式はやっと1857年(安政45月、水戸藩安政改革中に挙行されました。藩校は1871年(明治4)廃藩置県までおよそ30年間続きました。創立を1838年(天保9)とする説があるのは、斉昭の命で家臣の藤田東湖が建学の大意を記した『弘道館記』が同年に完成しているためですが、実際に水戸城三の丸の重臣らの屋敷をほかに移して建物がほぼ竣工したのは仮開館の年になります。水戸に先行する同名の藩校は佐賀・福山・彦根藩など5校もありますが、水戸の弘道館がとくに有名なのは敷地が57000坪にも及ぶ広大なこと、『弘道館記』が水戸学の集中的表現とみなされることに由来します。そして館記の「敬神崇儒」の方針により敷地内には学館のほか、孔子廟とともに鹿島神社が祀られている点などで全国的にも珍しいと言えます。また領民に対する種痘の本拠となった医学館が併設されたことも注目されます。

所在地:310-0011 茨城県水戸市三の丸1629

問合せ:029-231-4725

公開時間:9001700

閉鎖日:1229日~31

関連料金:大人200円・小中学生100


「時習館」

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出典元:http://kumanago.jp/benri/terakoya/images/jisyukan1.jpg

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出典元:https://farm8.staticflickr.com/7400/12188876344_f4841c851a.jpg

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出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Shigekata_Hosokawa.jpg/250px-Shigekata_Hosokawa.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%87%8D%E8%B3%A2

参考サイト:http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=083&pre_page=5

参考サイト:https://kojodan.jp/castle/17/memo/632.html

創立者:細川家第8代藩主・重賢(しげかた)

創立年:1755

インフォメーション:

江戸時代になると各地で次々に私塾が興り、さらに各藩に相次いで学問所が創設されました。肥後熊本も例外ではなく、細川重賢の時代(1755年)に藩校「時習館」が創立されます。藩内の子弟の人材を育成することを目的としていましたが、庶民の子弟でも学力抜群な人物には入学が許されました。時習館創立時、藩の財政は大変逼迫していました。細川重賢は上下一致して生活を切り詰めて藩を再建すべく倹約令を出します。さらに行政、刑法などの藩政の改革を行い、精神面においては倫理を正し、文武の道に励むよう諭します。時習館はまさに名君・重賢が行った「改革」の一つであり、藩が目指す人材の育成と肥後の文学の拠点であり、又、全国でも有数の藩学でした。時習館は文芸教授所の学舎、武芸演習所の東しゃ西しゃという建物とともに現在の熊本城二の丸公園の辺りにつくられます。その学識の高さで江戸でも名を知られた秋山玉山を初代教授に据え、その他多くの名のある訓導陣のもと、子弟たちは文武両道を学びました。学科は漢字、習字、修学、音楽、馬術、居合、長刀、遊泳など実に多彩で、三年を一期とし特に問題がない限り何度も続けることができました。教科書は四書五経で、特に論語は当時の大切なテキストでした。ちなみに時習館は「論語」の中の「学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや」から付けられています。学問、武術の習得はもちろんですが時習館の精神は「仁義礼智信」に貫かれ、礼儀・礼節が大変重んじられていました。残念ながら現存しません。

所在地:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問合せ:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

公開時間:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

閉鎖日:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

関連料金:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「昌平坂学問所」

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出典元:http://www.sakagakkai.org/edosaka/shohei001.jpg

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出典元:http://www.seido.or.jp/images/yushima_cut01.jpg

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出典元:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/gazou.html/syouheizak.jpg

公式サイト:http://www.seido.or.jp/yushima.html

参考サイト:http://www.sakagakkai.org/edosaka/shoheizaka.html

参考サイト:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/syouheizaka.html

創立者:林羅山

創立年:1797

インフォメーション:

湯島聖堂の起源は1632年林羅山が上野の私邸内に建てた孔子廟「先聖殿」と私塾「弘文館」にさかのぼります。林羅山は家康、秀忠、家光、家綱と江戸初期の将軍に重用された儒学者で幕府の体制作りにも大きな役割を果たした学者です。これを1690年「生類哀れみの令」で知られる五代将軍徳川綱吉が湯島の地に移し、自らも論語の講義を行うなど学問を奨励、官学の府として規模を拡大していきました。その後1790年、老中松平定信による寛政の改革で「寛政異学の禁」が布かれ、1797年朱子学を正学とする幕府直轄の昌平坂学問所が誕生します。全国から旗本や藩士の子弟が集うところとなり武士だけでなく一般庶民が聴講できる日もあったといいます。明治維新後、昌平学校→大学校として存続し東京大学の母体となりましたが、国学者、漢学者、洋学者の間に学問論争が起こり、洋学を重視した政府によりついに閉鎖されます。そして明治4年(1871年)、ここに文部省がおかれ、大成殿は博物館としての役割を担うことになります(現在、上野にある東京国立博物館の起源)。翌年、殖産興業に力を入れる政府の施策により、国内各地の産業・産物を展示する日本で初めての博覧会が開催され、約一ヶ月の会期中15万人が訪れるほどの盛況ぶりだったといいます。明治5年には東京師範学校、7年には東京女子師範学校が設置され、それぞれ東京教育大学(現・筑波大学)、お茶の水女子大学の前身となりました。ここが「近代教育発祥の地」とされる所以です。現在でも湯島聖堂では昌平坂学問所の伝統を継承し、漢文を中心とした文化講座が年間を通じて開かれています。

所在地:113-0034 東京都文京区湯島1-4-25 

問合せ:03-3251-4606 

公開時間:9001700

閉鎖日:夏季休業81317日の5日間年末休業122931日の3日間

関連料金:無料

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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