ゴッホの名作「ひまわり」伝

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ゴッホの名作「ひまわり」伝

炎の画家ゴッホの有名な作品に「ひまわり」があります。しかし、この作品が数多く描かれた背景や経緯はあまり知られていません。そこでご紹介します「ゴッホの名作ひまわり伝」です。

≪インデックス≫

1「ゴッホのプローフィール」

2「ひまわり作品の全容」

3「現存ひまわり作品案内」

①~⑥

4「ゴッホひまわり関連著書」

―参考サイト一覧―

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%BE%E3%82%8F%E3%82%8A_(%E7%B5%B5%E7%94%BB)
参考サイト:https://www.sjnk-museum.org/collection/gogh
参考サイト:https://sukinare13.com/valensole-lavande-2018/#jp-carousel-6134

1「ゴッホのプローフィール」

「自画像」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/VanGogh_1887_Selbstbildnis.jpg/250px-VanGogh_1887_Selbstbildnis.jpg

正式姓名表記:「フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ/Vincent Willem van Gogh

生年没年情報:1853330日生まれ・1890729オーベール・シュル・オワーズ にて没

プロフィール情報:以下参照

「生家の牧師の家(写真正面)」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/Maison_natale_de_Vincent_Van_Gogh.jpg/1024px-Maison_natale_de_Vincent_Van_Gogh.jpg

ゴッホは1853330日オランダのフロート・ツンデルトに牧師を父として生まれます。幼児時代以来、素描に興味を示しましたが、1880年画家になることを決意するまで、いくつかの職を転々としました。1869年、ゴッホは伯父の関係していた画商グーピルのハーグの店に勤め始め、1873年にはロンドンの店に転勤。さらに2年後にはパリ支店に移り、ついでロンドンでの語学教師になっています。さらに1877年ドルドレヒトの書店、78年ブリュッセルの伝道師養成所、同年ボリナージュの炭鉱での仮資格の伝道師としての勤務などが確認されています。

「グービル書店勤務時代のゴッホ」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/74/VincentVanGoghFoto.jpg

1880年画家を決意し、ブリュッセルで本格的に絵画を学び始めます。81年エッテン、同年末から83年ハーグ、8385年ヌエネン、85年アントワープ(アンベルス)と各地で勉強を続けましたが、本格的な画作の始まりはこのヌエネン時代で『じゃがいもを食べる人たち』(1885・アムステルダム国立美術館およびクレラー・ミュラー美術館)などがその代表作となっています。18862月から882月までパリ時代と言われ、コルモンの画室に通い、ロートレックと知り合い、さらにピサロ、ゴーギャン、ベルナールたちとも知り合います。パリ時代は、すでにアントワープで知っていた浮世絵と新印象主義の影響下に、そしてまたパリの生活の雰囲気のなかで、色彩は一変して明るくなり、筆触は新印象主義風の点描となっていきます。この時期、約200点の油彩が制作されています。

「セーヌ河畔のベルナールとゴッホ(後ろ姿)」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/10/BERNARD_Emile_et_Vincent_VAN_GOGH_%28de_dos%29_assis_au_bord_de_la_Seine_%C3%A0_Asni%C3%A8res%2C_1886.jpg

しかしパリでの生活は心身ともにゴッホを疲労させます。その療養と、他方では印象派、新印象派を超える芸術活動の拠点であったその地を目ざし、18882月アルルに移っていきます。翌年5月までがアルル時代と言われています。少なくともこの88年は、ゴッホの制作が飛躍的な展開を遂げ、彼の画作の頂点となる作品が生み出される時期となっています。『アルルの跳ね橋』『ひまわり』、あるいは『郵便夫ムーランとその家族の肖像』など、ゴッホの独創的世界の確立期でした。

「当時のアルルの跳ね橋」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Van_gogh_bruecke_1902.jpg

新しい芸術村の建設を夢みる彼の呼びかけに応じ、同年秋からゴーギャンとの共同生活が始まります。その相互刺激は双方に影響を与え、ゴッホも総合主義風の装飾体系を部分的に取り入れました。しかし強烈な個性は互いに相いれず、1223日ついにゴッホの最初の発作が起こり、かみそりでゴーギャンに切りつけますが果たさず、自らの耳を切り落とす「耳切り事件」へとなります。精神的に不安定になったゴッホは入院し翌年3月にも再入院します。

18895月、サン・レミの病院に移り、翌年5月までがいわゆるサン・レミ時代です。ここでも3回にわたり発作と脱力状態に見舞われますが、それ以外の時は比較的自由な環境のもとで描き、病院外へも写生に出かける生活ぶりでした。この時期は、ゴッホの内面が、形態や筆触のリズム、テーマの選択などにより鋭く表現される時代でした。サン・レミ時代には、ゴッホの心の動揺そのものが、大地や糸杉や幻想的な夜空などにそのまま託されています。『黄色い麦畑と糸杉』(1889・ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、『星月夜』(1889・ニューヨーク近代美術館)などその代表作です。他方、白を混ぜた中間色、すみれ色など沈んだ内面を表徴する作品群も見られます。

「当時のサン・レミの療養室」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Gogh_Saint-Paul-de_Mausole.jpg

18905月、印象派に造詣のある医師ガシェの滞在するオーベル・シュル・オワーズに移り、ガシェの監督下に療養と画作を行います。この最後の時期には、サン・レミ時代同様、ゴッホの内面の高揚と沈静がより頻繁な周期で作品に具体化していきます。たとえば『カラスのいる麦畑』(ゴッホ美術館)、『荒れ模様の空と畑』(ゴッホ美術館)はいずれも907月の作品で、ともに強い筆触、すばやい仕上げで描かれていますが、色彩の体系はまったく異なり、興奮と鎮静を交錯させています。こうした彼の精神の動揺に拍車をかけたのが、終生彼を援助した弟テオの画商としての経営困難でした。同年727日ゴッホはピストル自殺を試み、29日亡くなります。その短い生涯、さらに短い約10年ほどの画歴のなかで、あらゆるものに対する熱情と献身的な姿勢を示し続け、絵画に対しても同様に自身を燃焼し尽くすまで描き続け、主観的、表現的な傾向は、20世紀の表現主義、フォービスムのもっとも影響力の多い原点となりました。

「オーベルにあるゴッホとテオの墓地」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/Auvers-sur-Oise_Cimeti%C3%A8re_977.JPG/200px-Auvers-sur-Oise_Cimeti%C3%A8re_977.JPG

「ひまわり作品の全容」

「南仏のひまわり畑」出典元:https://i1.wp.com/sukinare13.com/wp-content/uploads/2017/06/asukinare13-2018-valensole23.jpg

基本情報:作品「ひまわりとは、18888月から18901月にかけてフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた、花瓶に活けられた向日葵をモチーフとする複数の連作絵画の名称でまたこの一連のひまわり作品は、友人の画家ポール・ゴーギャンへの贈り物として、連作を描き始めたと言われています。 そしてまた画家ファン・ゴッホにとっての向日葵は明るい南フランスの太陽、ひいては自身が追い求めたユートピアの象徴であったと言われています。 南仏のアルル滞在時に盛んに描いた向日葵を、精神が破綻して精神病院での療養が始まってからは一切描いていないことを知ると、ゴッホ壮年期の思いを結集した渾身の作品群と言えるかもしれません。ファン・ゴッホの制作した「花瓶に挿された向日葵をモチーフとした油彩の絵画」という定義に沿うと、「ひまわり」は7点が制作されたことが広く認められており、このうち6点が現存しています。この他に、パリにおいて制作されたものを含めて合計で11点(または12点)とする定義も存在しますが、これは花瓶に挿されていない構図も含めているため、「ひまわり」作品としては認定されない考え方が主流となっています


3「現存ひまわり作品案内」

(*掲示している作品番号について:以下参照)

ファン・ゴッホの全作品のカタログを1928に最初に作ったのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユで、1970年にファン・ゴッホ美術館により改訂されています。このカタログでは作品にF番号が付けられています。また1980年代ヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996に改訂されて、こちらにはJH番号が順次、付記されています。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べてあります。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指します。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されています。以下、ひまわり作品を作品番号で例示記載してご案内します。

A「作品番号F453

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5d/Van_Gogh_Vase_with_Three_Sunflowers.jpg/160px-Van_Gogh_Vase_with_Three_Sunflowers.jpg

制作年:18881月制作

基本情報:最初に制作されたと考えられています1948年に一度、アメリカの展覧会に出品展示された後は非公開となっています。

描かれたひまわり本数:3

所蔵先:アメリカ・個人所蔵

B「作品番号F459

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/Van_Gogh_Vase_with_Six_Sunflowers.jpg

制作年:18883月制作

基本情報:2番目の作品とされており、作品にはひまわり5本描かれていますが、黄色や橙色を組み合わせ、これらの補正色である深い藍色を背景に使用し、1作目とは雰囲気が全く異なる異質な作品となっています。 1920大正9年)に実業家山本顧彌太が、白樺派美術館の設立を考えていた武者小路実篤の依頼により、スイスにて7フラン(当時の為替レートで約2万円、現在の価格に換算すると約2億円)で購入しました。1921(大正10年)、東京京橋星製薬ビルで展覧会が行われ展示公開されました1924(大正13年)、大阪で通算3回目の展覧会が開かれましたが、収蔵も兼ねていた美術館設立の構想が頓挫したため、以降、兵庫県芦屋市の山本の自宅に飾られていたが、太平洋戦争末期の1945昭和20年)86アメリカ軍空襲(阪神大空襲)を受けて焼失しました。なお現在、大塚国際美術館が原寸大の陶板で本作を複製再現し、2014年(平成26年)101日から展示公開してしています

描かれたひまわり本数:5

所蔵先:日本・山本彌太郎個人旧蔵

C「作品番号F456

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Vincent_Willem_van_Gogh_128.jpg/800px-Vincent_Willem_van_Gogh_128.jpg

制作年:18888月制作

基本情報:順番的には3番目の作品とされており、この作品は2作目とは異なり、明るくて優しい雰囲気が感じられます。ゴッホ自身が最も気に入っていた作品だと言われています。彼はテオ氏に宛てた手紙の中で「3枚目のものは明るい色が明るい色に重なっており、これを1番良いものにしたい。もっと描きこんでゆくつもりだ。」と自身で記しています。

描かれたひまわり本数:12

所蔵先:ドイツ・ミュンヘン ノイエピナテーク所蔵

D「作品番号F454

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/46/Vincent_Willem_van_Gogh_127.jpg/160px-Vincent_Willem_van_Gogh_127.jpg

制作年:18888月制作

基本情報:ファン・ゴッホ自身が気に入った3作目12本のひまわり」(ミュンヘン作品)をもとに制作した4番目の作品とされていますのひまわりは、日本の浮世絵から強いインスピレーションを受けて制作されたため、ひまわりの力強い生命力と逞しさを表現するために絵具を厚く塗り重ねて描かれています。

描かれたひまわり本数:15

所蔵先:イギリス・ロンドン ナショナルギャラリー所蔵

E「作品番号F457

出典元:https://www.sjnk-museum.org/wp/wp-content/uploads/2014/07/himawari.png

制作年:188812月~18891月制作

基本情報:188812月の「耳切り事件」直前に描かれたとする説もある作品です19873月に安田火災海上(現・損害保険ジャパン日本興亜)が、ロンドンのクリスティーズ2250万ポンド(当時の為替レートで約53)で落札しました(最終的な購入金額は手数料込みで約58億円)。当時の代表取締役であった後藤康男がバブル期とはいえ無理をして購入を推進した理由は、先々代の社長時代から世界的な名画が不在であった東郷青児美術館(現・東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)の入館者が少なすぎる事が、社内で問題視されていたからであると言われています作品はロンドンのひまわりと同じ構図で描かれていますが、全体的な色合いやタッチなど、細かい部分はロンドンのものと異なり、ゴッホが複製ではなく色彩やタッチの研究のひとつとしてこの作品に取り組んでいたことがうかがえます。また、この作品のキャンヴァスにはゴーギャンがアルルで購入した目の粗いジュート地、つまりゴーギャンのアリスカンの並木路、アルルと同じ生地が使われています。

描かれたひまわり本数:15

所蔵先:東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

F「作品番号F458

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b0/Van_Gogh_Vase_with_Fifteen_Sunflowers_Amsterdam.jpg

制作年:18891月制作

基本情報:ファン・ゴッホが病院から「黄色い家」に戻って、東京作品を模写したものと考えられています。振動や気温・湿度の変化による損傷を避けるため、現在、館外への貸し出し禁ずる措置がとられています

描かれたひまわり本数:15

所蔵先:オランダ・アムステルダム ファンゴッホ美術館所蔵

G「作品番号F455

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c6/Van_Gogh_Twelve_Sunflowers.jpg

制作年:18891月制作

基本情報:アムステルダム作品と同時期に、ミュンヘン作品を模写したものとされています

描かれたひまわり本数:12

所蔵先:アメリ・フィアデルフィア美術館所蔵


「ゴッホひまわり関連著書」

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/81lIlXt%2B-nL.jpg

著書名「ゴッホ原寸美術館/100VanGogh!

著者:「國府寺司」著

内容概要:《ジャガイモを食べる人々》《アルルの跳ね橋》《夜のカフェ・テラス》《ひまわり》《星月夜》《糸杉》など、初期から晩年まで、ゴッホの代表作を厳選。力強い筆触やマティエール(絵肌)などゴッホ作品の魅力を原寸図版ならではの迫力で再現。また、制作時期による「自画像」や「肖像画」の変貌や、「ジャポニスム(日本趣味)」との関わり、風景画や静物画における様々な挑戦、さらに素描や水彩画など、その画業を通じて試みた技法と様式の多様性・変遷を概観。一般のイメージとは異なる意外な技巧派としての一面も明らかにする充実した内容の画集です。ゴッホ研究の世界的権威である圀府寺司・大阪大学教授による監修。書き下ろし原稿を収載。

刊行年度・出版元:2017年・小学館刊行

ページ:全200ページ

書価:3240円(アマゾン価格)

オンラインショッピング:

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E5%8E%9F%E5%AF%B8%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8-100-Van-Gogh-MUSEUM/dp/4096822450/ref=pd_cp_0_1/352-7967316-8467731?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4096822450&pd_rd_r=b0ee9bd8-4bb2-11e9-ac4e-51f312faa31b&pd_rd_w=JdDZZ&pd_rd_wg=mt6wD&pf_rd_p=960f7b64-96bc-43a7-8a7a-4c4bb301da91&pf_rd_r=WVWY8TBHF76QD7PW7ZZJ&psc=1&refRID=WVWY8TBHF76QD7PW7ZZJ

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91DOpJbDrfL.jpg

著書名「もっと知りたいゴッホ―生涯と作品」

著者:「國府寺司」著

内容概要:(著者プロフィール)1957年、大阪府生まれ。大阪大学文学部(西洋美術史専攻)卒業。1981~88年、アムステルダム大学美術史研究所に留学し、文学博士を収得。オランダ・エラスムス財団よりエラスムス研究賞を受賞。広島大学総合科学部助教授を経て、大阪大学文学研究科(美術史)教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

刊行年度・出版元:2007年東京美術刊行

ページ数:全80ページ

書価:1728円(アマゾン価格)

オンラインショッピング:

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E2%80%95%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%81%A8%E4%BD%9C%E5%93%81-%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E5%9C%80%E5%BA%9C%E5%AF%BA-%E5%8F%B8/dp/4808708167/ref=pd_cp_0_2/352-7967316-8467731?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4808708167&pd_rd_r=b0ee9bd8-4bb2-11e9-ac4e-51f312faa31b&pd_rd_w=JdDZZ&pd_rd_wg=mt6wD&pf_rd_p=960f7b64-96bc-43a7-8a7a-4c4bb301da91&pf_rd_r=WVWY8TBHF76QD7PW7ZZJ&psc=1&refRID=WVWY8TBHF76QD7PW7ZZJ