一人のラガーマンに捧ぐ/平尾誠二その生き方・生きざま・2019年10月21日更新

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一人のラガーマンに捧ぐ/平尾誠二その生き方・生きざま

はじめに―

かつて東京駅丸の内サイドに東京ビルという建物がありました。そのビルには日本航空本社など日本を代表する企業が数多く入居していましたが、広告代理店博報堂も当時、この建物に入っており、私は原稿打ち合わせのため、そのビルに頻繁に出入りしていました。歴史を誇る東京ビルの建物の内部は驚くほどクラシカルな調度がほどこされており、夜遅い時間、疲れた足取りで一人、石造りの廊下を歩くと、数十メートル先まで靴音が響く、独特の雰囲気を漂わせる空間がそこにはありました。

出典元:http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/tokyo_data/marunouchi/ote1.JPG

その夜も、新発売ビールの打ち合わせは紛糾し、重苦しい気分のまま、原稿を抱えて会議室を後にしました。地下の駐車場に降りるため、広い踊り場のあるエレベーターホールまでの長い廊下を歩いていると、薄暗くのびる長い廊下の向かい側から、背の高いがっしりした体躯の男性が一人、同じ歩調の靴音を響かせてこちらに向かって歩いてきます。狭小な空間で同じ歩調で接近していく状況は、何となく緊張感が高まるものです。靴音が近づき、互いの目線を意識してうかがうと、「にこりと微笑む」笑顔が目に入りました。靴音の主は平尾誠二でした。軽く目礼し、こんな時間にお疲れ様!と互いにエールを交わした気がしました。私が平尾誠二本人を実際に見たのはこの一度きりです。

2019年の秋、日本各地のラブビー競技場には、ワールドカップ開催で多くの観客が押し寄せています。日本代表監督はエディー・ジョーンズを引き継いだジェイミー・ジョセフが務め、928日にはアイルランドにも勝利しました。でも湧きに沸く中継では必ず「ここに平尾誠二がいたら」というコメントが飛び交います。私もそう思います。今、あなたは神戸港を見下ろす地に眠っていると聞きます。2019年の秋だからこそ、君のことをメモランダムページとしてボンボヤージュの記事にします。

*追記1.)2019年10月13日、W杯予選A組第4戦の対スコットランド戦で日本代表チームが28対21で勝利し、念願の予選リーグを4戦全勝で突破しました。この結果、決勝トーナメント第一戦はB組2位の南アフリカ共和国と対戦します。4年前の敗戦にリベンジすべく、南アフリカは全力でこの試合に臨んでくるものと思われます。これも何かの因縁かもしれません。そしてもう一つ、日本チームにとっても大切な因縁があります。試合が行われる10月20日は平尾誠二が亡くなった命日です。予選リーグで二位通過の可能性もありましたが、その場合は、対戦相手がニュージーランドで試合日は10月19日でした。その日程ではなく命日の日に、決勝トーナメント初戦を迎える日程になったことに強い何かを感じえません。日本のフィフティーンは心に喪章を付けて全力で勝ち抜いてほしい。健闘を祈ります。行け!ONE TEAM!

追記2.)2019年10月20日、平尾誠二命日の日に行われた、2019ラグビーワールドカップ決勝リーグ・準々決勝「対南アフリカ戦」は26対3で、善戦むなしく敗れました。後半、完全に南アにゲームををコントロールされた試合でした。平尾さん、残念でしたがあなたが考えていた「おもろいラグビー」の具現化が一歩前に進んだメモリアルな日になったと思います。

*アイキャッチ画像参考サイト:https://higashiosaka.keizai.biz/headline/798/
*出典元:https://images.keizai.biz/higashiosaka_keizai/headline/1533529729_photo.jpg

1「基本プロフィール概要」

出典元:https://www.yanagiya-cosme.co.jp/company/news/2014/img/201405-1.jpg

生年月日:1963121日京都市生まれ

没年月日:20161020日京都市没(享年53

日本代表キャップ数:「35


2「高校時代/伏見工業」

「京都市立凌風中学(旧・陶化中)」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Ryofu_Gakuen.jpg/270px-Ryofu_Gakuen.jpg

もともと野球にいそしんでいた平尾がラグビーを始めたのは、京都市立陶化中学校入学と同時でした。

始めた動機はそれほど熱い理由でもなく、「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた。そこでラグビー部を見たら、123人程度しかいなくて、顧問の先生も、とてもいい先生で楽しそうに練習をしていたから」と述懐しています。また中学時代、父親にラグビースパイクが欲しいと伝えた時、無理だろうと思っていたのに買ってくれたことが「ラグビー人生で一番嬉しかったこと」と『徹子の部屋』にゲスト出演した際に語っています。 中学ラグビーを楽しみ、ラグビーに覚醒した平尾は高校進学で相当に悩みます。それでも平尾の心中は身近に存在した地元のラグビー名門校「花園高校」への進学が本命でした。そんな時、平尾のラグビー人生を運命的に変革させる一人の教育者が現れます。京都市立伏見工業高等学校ラグビー部総監督・山口良治です。(*現在は2007年から環太平洋大学ラグビー部の総監督ですが、数年前の脳梗塞のためリハビリ療養中です)

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平尾が中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦を見た山口がそのプレーにほれ込み平尾の自宅を直接訪ねたのです。その時、平尾は特待生(授業料免除)で名門花園高への入学が決まりかけていたと言います。山口は断られることは覚悟の上で自宅を調べ足を運びます冬の到来を感じさせるても寒い日でしたもし平尾が花園高に行ってしまえば、向こう3年間は勝てないやろうと思った。チームはようやく力を付けてきていたが、まだ学校はワルの集まり。親御さんは『校内をバイクが疾走する、あんな学校には行かせられない』と考えていたやろう。親を説得するのは難しかった。少しでも望みがあるのならと、必死で本人を口説いた。俺と一緒に花園を倒そう、日本一になろう。必ず、日本代表に育ててやる一杯夢を訴えかけたと述懐されています。できる限りのことはしたつもりだった。帰り際、両親に深々と頭を下げたが、そこまでしても山口は「無理やろうな…」と心の中で寂しい思いを抱いていたと言います。年が明け、京都にも公立高校の入試の時期が迫っていました。職員室に次々と出願書類が届きますが、あのバンビの目をした陶化中のSOは、花園高に行くものだと信じて疑わなかった。だが、その中の通に「平尾誠二」の願書がありました。山口良治は今でも、目から涙がこぼれたことを忘れないと言います。それと同時に「これで、本気で全国を狙える」と熱いものがこみ上げてきたと。

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平尾が入学するや伏見工業は、10年連続で全国大会に出場していた花園高、古豪の同志社高とともに京都の3強と呼ばれるようになっていきました。平尾、高崎らが高校1年の夏、関東で強豪の国学院久我山を倒し、全国大会出場への機運は一気に高まりました。しかし78年秋、西京極総合運動公園であった京都大会決勝。2年生に大八木、1年生ながらレギュラーをつかんだ平尾を擁する伏見工は612で花園高に敗れます。初の全国大会出場は、そう簡単ではありませんでした。表彰式で準優勝の記念トロフィーが全員に贈られ悔しくてむせび泣く選手たち帰り道、会場から阪急西京極駅へと続く道を無言のまま歩いていました。電車が走り去る音が、やけに大きく響いていた、その時、一人離れて歩いていた平尾は、天神川に架かる橋に差し掛かると、手に持っていたトロフィーを川に投げ捨てました。

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平尾の熱い気持ちと信条を知るエピソードとして伏見工業では有名な話です。努力は実を結びます。準優勝のトロフィーを天神川に投げ捨てた日から一年後。同じ花園高との京都大会決勝を550で制し、伏見工業は悲願の全国大会初出場をつかみます。全国では準々決勝で国学院久我山に敗れはしますが、初出場で8強に進出。そして平尾が最終学年となって迎えた80年度。年連続2度目の全国大会出場を決めた伏見工は、ついに日本一のチャンスを手にします。60回全国高等学校ラグビーフットボール大会。伏見工は危なげなく勝ち進みます。初戦の長崎南戦は620、年が明けた81年元日の西陵商戦は510大会連続で8強に進みますが、しかし13日の準々決勝、秋田工戦(結果1610)で想像もしていなかったアクシデントが起きますタックルに入った際、主将平尾が左太ももの筋を断裂します。普通なら試合どころか、立つことすらままならない重傷でした。それでも山口は、平尾を出場メンバーからしませんでした。負傷当日、奈良市内にある宿舎旅館に戻ると、山口は自分の部屋に平尾をびました。湯船にぬるま湯を張り、血行を良くするために足を浸らせ周りの筋肉が固まらないよう、いつまでもさすり続けました。日後の準決勝に出場させ2810で黒沢尻工を下し、ついに日本一へ王手をかけます

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怪我から4日後の8117日、東大阪市にある花園ラグビー場。伏見工-大阪工大高(現・常翔学園)の決勝は終盤までもつれました。33のまま時計が進み、両校優勝かと思われた時でした。後半ロスタイム、SH高崎のパスは、SO平尾を飛ばしました。左へ流れたボールは直前のプレーで左肩を脱臼していたウイングの栗林へ収まり、左隅に飛び込んだ土壇場のトライで73と勝ち越します。長いロスタイムは続き、最後は平尾が真横にボールを蹴り出して、初の日本一を告げるノーサイドの笛がグランドに鳴り響きました。数十年も経つその場面を、高崎は今でもフラッシュバックのように思い出すと言います。「もう平尾は走れない状態だった。最後の飛ばしパスも、平尾は足が痛くて遅れていたから、飛ばすしかなかった。最後に真横に蹴り出して終わったのも、痛くて蹴れなかったから」と。校舎の片隅でシンナーを吸う生徒、マージャン荘まで迎えに行かなければ練習に顔を出すことのない部員。荒れ果てた伏見工の監督に山口が就任してから、わずか6年目でつかんだ日本一でした。


3「大学時代/同志社大学」

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高校時代からヨーロッパのラグビー事情や、デザインの仕事に興味を持ち、海外志向の強かった平尾は、外国留学してプレーすることを一時考えていましたが、高校卒業後の1981年、関西大学ラグビーの名門・同志社大学へと鳴り物入りで進学します。そして、ここで大学三連覇という偉業を達成するとともに、自己のラグビー人生に多大な影響を与えた一人の指導者と出会います。その指導者こそが同志社大学ラグビー部の象徴とも言われた名部長・岡仁詩(ひとし)です。

「岡仁詩」出典元:http://www.shikoku-np.co.jp/img_news.aspx?id=20070511000382&no=1&kyodo=1

当時の大学ラグビーの勢力図は東高西低の状態でしたが、同志社大はその年の1月に明治大学を破って大学選手権初制覇を成し遂げ、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いにありました。平尾が入学した年度も、関東の大学を押しのけて優勝候補大本命でした。そんな同大の中でも、平尾のプレーは際立っていました。当時、平尾のポジションは司令塔と呼ばれるスタンドオフSO)。司令塔としての平尾の判断は的確で、とても一年生とは思えませんでした。ところが、そんな平尾のプレーを見た部長の岡仁詩は、こう言い放ちましたお前のラグビーは、オモロないと。プレーを良い・悪いではなくオモロい・オモロないで判断する岡に平尾は戸惑います。「お前は、俺がパスすると思ったら必ずパスする。キックすると思ったらキック。自分で抜きに来ると思ったら絶対に抜きに来よる。つまり、セオリーに頼ってるだけや」岡はさらに続けます。「ラグビーなんて、所詮は人間がやるスポーツや。人間やから必ずミスもする。だからラグビーはオモロいんや。それをお前は、ロボットみたいにミスせんようなプレーしかやらん。こんなオモロないラグビーがあるか?」平尾にとって、目からウロコが落ちた瞬間でした。のちに「軽妙」「華麗」と評された平尾のプレースタイルの原点がここにあったと言っても過言ではありません。

「ステップを切る平尾」出典元:https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181109000711_comm.jpg

当時の日本の大学ラグビー界には極端に言うと「ヨコの早稲田、タテの明治」という、二つの理論しか存在していませんでした。つまり「小柄な体格なのでバックス(BK)によるヨコへのオープン攻撃を仕掛ける華麗な戦法の早稲田大学」と「大柄な体格を活かしてフォワード(FW)のタテ突進を愚直に繰り返す重戦車戦法の明治大学」という二大戦法でした。そこへ、型にはまらない自由奔放な同志社大学の「オモロいラグビー」という、いかにも関西的な戦法として割って入ったのが、岡の「フリースタイル・ラグビー」でした。そしてこの岡スタイルのラグビーセンスに磨きをかけたのが平尾ラグビーでした。同大二年生となった19825月に日本代表のニュージーランド遠征メンバーに選ばれ、530日にはニュージーランド学生代表との試合にインサイド・センター(CTB)として先発出場、194ヵ月という当時としては日本史上最年少キャップを得ました。

「正式代表キャップ」出典元:https://www.iza.ne.jp/kiji/sports/images/190920/spo19092010290029-m1.jpg

ところが、順風満帆なラグビー人生と思えた平尾に、最初の試練が訪れます。同年923日、東京・秩父宮ラグビー場で日本代表のセンターとして先発出場した平尾は、日本Bとの対戦で右膝蓋骨骨折という大怪我を負います。皿の骨が粉々に砕けるという重傷でした。実は日本代表Bとの試合前日、宿舎のエレベーターで日比野(弘)監督と一緒になったとき、平尾はこう気合を入れられていました。「トイメン(マークする相手)は吉野(俊郎、当時早大4年)だ。抜かれるなよ」。2歳上の吉野は上り調子の注目選手。簡単にやられると、自分の印象が悪くなってしまうかもしれない。レギュラーの座を守るためにもアピールしておきたかった。そんな気負いもあり相手選手と激突するプレーをしてしまったのです。すぐに救急車で病院へ急行し試合当日の夜には京都第一赤十字病院に移って手術を行います怪我の記憶はただ一言。主将のFL石塚(武生、当時リコー=故人)が駆け寄ってきて、「平尾、見るな。見たらいかん!」と叫んでいたことが、妙に頭に残っていたと言います。

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その怪我は思いのほか重篤で選手生命まで危ぶまれました。しかしそんな平尾を救ったのは、他ならぬ京都第一赤十字病院入院患者たちでした。誰もが、生きるために懸命なリハビリを続けている。ある老人は、僅かしかないであろう残りの人生を、ただ生き抜くために必死で不自由になった体を伸ばしていました。またある幼い少女は、これから先は輝かしい人生が待っていただろうに、交通事故で手を失い、絶望してしまうような状況にもかかわらず、決して希望を捨てずに笑顔でリハビリに励んでいる。彼ら、彼女らに比べれば、俺はなんて幸せなんだろう、と平尾は思ったと述懐しています

「大学三連覇試合の雄姿」出典元:https://www.sanspo.com/rugby/images/20161020/ruo16102015170003-p1.jpg

同大のレギュラーとしても復帰した平尾は、三年時、四年時と大学選手権優勝を果たし、当時としては史上初の大学三連覇を成し遂げます。しかし、大学では無敵だった同大も、どうしても越えられない壁がありました。それは絶対王者の社会人チャンピオン新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)の存在でした

 

*「代表キャップ」:日本代表としてテストマッチ(ナショナルチーム同士の国際試合)に出場した選手ひとりひとりに与えられる「キャップ」のこと。紅白のフエルト生地に綿の裏生地で作られた本物の帽子で、前面には赤の生地にゴールドで「JRFU(*注「日本ラグビーフットボール協会」の略称)」の刺繍が入り、後面には歴代何番目のキャップホルダーであるかを示す通し番号が刻まれています。被るのではなく飾ることが目的であるため小さめに縫製され、オンリーワンの重みを出すべく、過去から現在にいたるまでデザインと色、素材を統一していますキャップが授与されるのは1度のみで、以降は5試合出場するごとに金色の星のワッペンが贈られ選手はそのワッペンを自ら帽子に縫い付けることになります


4「実業団時代/神戸製鋼」

出典元:https://img-s-msn-com.akamaized.net/tenant/amp/entityid/AAHA37N.img?h=346&w=615&m=6&q=60&o=f&l=f

かつて国内ラグビーの世界では、社社会人王者と大学王者が115日の成人の日に行われる日本選手権で、日本一が争われていました。平尾が同志社4の段階で、同大は大学三連覇、新日鉄釜石は社会人六連覇を成し遂げて居ました。しかも、新日鉄釜石はただの六連覇ではなく、日本選手権も六連覇しており新日鉄釜石は日本選手権でも大学代表を蹴散らして、黄金時代を謳歌していました。当時は現在と違い、社会人と大学との力量格差は拮抗していて、毎年ラグビーファンは「今年こそ学生が・・」に期待していました。四年生の平尾を中心とした同大は、四度目の正直として打倒釜石の最後のチャンスを迎えます新日鉄釜石の中心選手は長い間、日本代表の司令塔を務めてきたSO松尾雄治。一方の同大は、CTBとはいえ「ポスト松尾」と呼ばれる学生No.1平尾でした

「引退試合の松尾」出典元:https://hochi.news/images/2019/08/30/20190830-OHT1I50051-L.jpg

試合展開は前半、同大の若さが爆発して12131点のリードを奪います。多くの観客の心に「同大が初めて釜石の牙城を打ち砕くかと思われたのも束の間、後半に入ると新日鉄釜石な試合運びで同大を翻弄、1731のスコアで同大は完敗します。この日、松尾は足を痛めていましたが強行出場、しかも引退を表明していたので最後の試合心に期して臨んでいました。松尾は現役時代を振り返り、日本選手権では敵として戦い、日本代表では一緒にプレーした平尾についてこう語っています。「初めて平尾と一緒に練習した時、ものが違う、と思った」と。当時、松尾は28歳という脂の乗った最盛期で、平尾は弱冠19歳。伝説のウェールズ戦では、松尾がSO、平尾がインサイドCTBという、歴代日本最強とも思えるフロント・スリーのBKコンビを組んでいました。その天才・松尾をもってしても、平尾は自分を遥かに超えるプレーヤーになることを直感したと言います。しかし結局、平尾は松尾の眼前で彼を超えることはできませんでした。超える前に、松尾は突然引退してしまったのでそのような実体験を目の当たりにしたせいか、大学を卒業後、平尾もまた松尾と同じように、ラグビーを辞めようと考え、憧れの地イギリスへ旅立ったので

「リッチモンド・アスレチッククラブ」出典元:https://storage.googleapis.com/wzukusers/user-13916512/images/55c9dd7c0f49etAxKmNu/RAA-HOME_800.jpg

平尾は、ロンドンから南へ車で約2時間のブライトン(*2015W杯で南アとの試合で勝利した地)でホームステイをします。 所属したのはイギリスの名門、リッチモンドアスレチッククラブリッチモンドは、ロンドンでは二番目に歴史の古いチームで、百年を超える伝統を誇るクラブです。当時のラグビー・ユニオンでは、日本はもちろん海外でもプロが認められておらず、当然リッチモンドもアマチュアのクラブ・チームでした。地域のクラブ・チームのため、選手それぞれの職業はみんなバラバラ。会社員もいれば医者や弁護士、自営業や学生までいます。当然、仕事が終わる時間もバラバラなので、毎日の練習などはできません。 日本では、毎日のように怒鳴られながら練習をし、大雨で練習が中止にでもなれば万々歳なんですが、イギリスでは練習日が少ない分、アマとはいえクラブメンバーのラグビーに対する欲求には強いものがあり、の「ラグビー愛」の姿勢は、日本のような体育会系とは無縁の世界でした。平尾はリッチモンドではBチームからスタートし、たちまち頭角を現してAチームに昇格します。そこで手渡された背番号は「11番」でした。いわゆる左ウィング(WTB)、トライ・ゲッターでした

「留学中の平尾」出典元:https://www.yomiuri.co.jp/rugbyworldcup/assets/images/da095e6fc5f7b49f4ebf578b3ae9608a-600×394.jpg

司令塔と呼ばれるSO、そして突破力を活かしてチャンスを拡大するCTBと、WTBというポジションは求められる役割が全く異なるポジションです。「僕はWTBをやった経験はありません」平尾はコーチにそう言います。しかし、コーチの答えは「だから「お前をWTBに推したのは、それがチームにとってベストの布陣だと判断したからだ。経験が有る無しは関係ない」そして、それを契機にコーチとのWTBのマンツーマン特訓が始まりました。それは平尾にとって初めて体験するプレーの連続でしたSOCTBといったフロント・スリーのポジションを担ってきた平尾にとって、内側に切れ込むカット・インこそが誰もが認める最も得意プレーでした。 グラウンドの内側で勝負してきた平尾にとって、バックス(BK)としての幅を持たせくれたリッチモンドクラブでのWTB起用は、のちに平尾の存在感を格段に広げる貴重な経験となりました。

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全てが新鮮だったイギリスでのラグビー生活は、僅か半年で別れを告げる時が突然やってきます。英国留学中の平尾に大きなペナルティーが課せられたのです。留学前の1985年、身長180cmで端正な顔立ちを買われてファッション誌にモデルで登場したことが、当時のアマチュア規定に抵触したとの理由により、日本代表候補選手から除外されます。平尾の下宿に協会から連絡が入り、ファッション誌の取材記事がアマチュア規定に違反し、アマチュア資格停止のことを知らされました。違反を犯していた認識がなかったため寝耳に水でしたが、当時、日本ではもうラグビーをしないと考えていたため深刻に考えなかったと後に語っています。しかしアマチュア資格の停止は国際的なもの(日本以外でも試合に出られない)と知らされ、弁明のため急遽一時帰国します。そこで協会から言い渡された一言に、平尾は愕然とします。「汚名を返上したければ日本の一流チームで成績を出せ」。そう言われ、急遽日本での所属チーム探しに追われることになっていきました。しかし規定違反の事件後は、それまでが嘘のように企業からの連絡はなくなっていました。ラグビーとの決別をも考え始めていた失意の平尾に、声をかけたのが当時、神戸製鋼の専務であった亀高素吉でした。食事に誘われた際、所属企業を探していることを相談すると「ならウチはどうだ」と言われ神戸製鋼行きを決めたのでした。この時の心境を平尾は軽く「小さい頃から神戸へは遠足で行っており、それ以来、好きな街でしたしね」と軽妙に語っています。

出典元:https://www.asahi.com/obituaries/intro/images/OSK201210100082.jpg

ちなみに、その後1987年社長に就任した亀高素吉は神戸製鋼所を複合経営化に導いた「中興の祖」と称される財界人で、秘書室長だった頃から、ラグビー部(現在の神戸製鋼コベルコスティーラーズ)の強化に尽力し、クラブハウスやグラウンドなどの整備を進め、さらに自ら林敏之大八木淳史平尾誠二らの獲得に乗り出して入社させたエピソードを持つラグビーの世界でも一目置かれた存在でした。

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1986、平尾は神戸製鋼に入社します。その後の平尾のラグビー業績は、日本のラグビー歴史にも記されるような燦然と輝く結果を残していきます。日本選手権7連覇を達成(*初優勝時から3連覇時までは主将、7連覇時は主将代行を務めた)。また、国内チーム相手でゲームキャプテンを務めた試合では負けた事が一度だけ(*同志社大学時代の日本選手権対新日鐵釜石戦のみ)と言う抜群のキャプテンシーを発揮。平尾は主将として「ボールをつないでトライを取るラグビー」を掲げ、強いフォワード選手に対しタイミングよくボールを出すことを求め、ラグビーの球技的側面を強調することで得点力を高めていきました。平尾は「ノックオンは犯罪的行為」とまで言い切り「ボールが一番大事」という意識を徹底的にチームに植え付けました。ラグビーワールドカップには、第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)にそれぞれ出場。特に第2回大会では、日本のワールドカップ初勝利(対ジンバブエ戦)の原動力として活躍します。その後一度は代表を退きますが、第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、代表選手として再び本戦に出場しました。19981月、現役を引退、神戸製鋼における12年間の活動に幕を下ろしました。その後、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任します

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