詳説・帝国ホテルストーリー

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詳説・帝国ホテルストーリー

皇居に面する内幸町にたたずむ帝国ホテルは、日本のホテル歴史の礎を築いた名門ホテルです。そこで数多くのエピソードを有する帝国ホテルの歩みを紐解きます。ご紹介します「詳説・帝国ホテルストーリー」です。

≪インデックス≫

1「帝国ホテルの営業の歴史」

2「建物建造の歴史と経緯」

3「歴史を彩った歴代の支配人・社長」

4「様々な帝国ホテルエピソード」

5「帝国ホテルにちなむ作品」

6「現在の帝国ホテル概容」

≪参考サイト一覧≫

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB

参考サイト:https://www.imperialhotel.co.jp/j/company/history.html

参考サイト:https://www.vogue.co.jp/tag/hotel-shop/imperial-hotel

参考サイト:https://jaa2100.org/entry/detail/037215.html

参考サイト:https://www.sanko-e.co.jp/read/memory/teikoku-hotel/02

参考サイト:https://www.shimz.co.jp/works/jp_com_198301_teikoku.html


1「帝国ホテルの営業の歴史」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/Imperial_Hotel_Tokyo.JPG/230px-Imperial_Hotel_Tokyo.JPG

インフォメーション:以下参照

帝国ホテル(英称Imperial Hotel)は千代田区内幸町にあるホテルで,運営者は株式会社帝国ホテルです。東京の他に大阪、上高地に営業拠点ホテルがあります。日本を代表する高級ホテルのひとつであり、ホテルオークラニューオータニとともに「ホテル御三家」と呼ばれることもあります1890年「日本の迎賓館」として国賓やVIP客をもてなすために、政府の肝いりで造られたのが帝国ホテルです。明治政府が海外賓客の社交場として作った鹿鳴館(1940年解体)の隣、日比谷公園に面した緑多い地に建設されました。開業当初の本館は木骨煉瓦作りの3階建てで、客席もわずか60室ほどです。その後、1923年に新たな本館が開業。設計を担当したアメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトにちなんで「ライト館」と名付けられました。ライト館のデザインは、平等院鳳凰堂をモチーフにしたと言われ、訪れたVIPたちからは「東洋の宝石」と高く称されました。特に3階まで吹き抜け構造をもつメインロビーは、耐火性にも優れる大谷石と煉瓦を幾重にも重ねた重厚な作りで、各国の賓客からの賞賛を集めました。しかし老朽化のため1967年に惜しまれつつ閉鎖されました。建築的価値が高かった玄関・ロビー部分は愛知県犬山市の博物館明治村へ数年かけて移築再建されています。現在の新本館2階にある「オールドインペリアルバー」には、ライト館に飾られていた壁画や素焼き煉瓦が移築され、今でも当時の面影を偲ぶことができます。また2008年には新本館1416階のインペリアルフロア内に「フランク・ロイド・ライト・スイート」が新設され11組限定で、彼の意匠を再現した部屋に宿泊することもできます。また同年、本館地下1階にホテル直結のショッピング街「帝国ホテルアーケード」がオープンし、話題になりました。このアイデアは当時の支配人・犬丸徹三氏によるもので、海外からの利用客がホテルから一歩も出なくても、ショッピングや日本の伝統文化を楽しめるようにと作られたもので、アーケードと名付けられた施設としては日本初のものです。現在も、宝石店や洋品店、ヘアサロンなど約50の店が、アーケード内で営業しており、テナントが空かないことでも有名です。

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/Imperial_Hotel_Wright_House.jpg/220px-Imperial_Hotel_Wright_House.jpg

帝国ホテルには、開業当時より国賓や海外要人はもとより、セレブリティが来日時に滞在することも多く、ヘレン・ケラーやチャーリー・チャップリン、フランク・シナトラも同ホテルを愛した宿泊客の1人です。1954年には、ハネムーンで日本に訪れたマリリン・モンローも宿泊しました。「眠るときに着るのはシャネルのナンバー5」というマリリン・モンローの有名なエピソードは、帝国ホテルに宿泊した際の記者会見時に披露されたものです。仔羊のロースト、カリカリになるまで焼き上げたメルバトースト、ホットミルクなど、彼女が宿泊時に食べた朝食メニューは、本館1階にある「パークサイドダイナー」で食することができます(レディーズプラン利用者限定)。現在の施設は、ライト館跡地に1970年に開業した新本館(地上17階・地下3階)と1983年に開業した帝国ホテルタワー(地上31階・地下4階)からなり、総客室数は931室。大小26の宴会場と17のレストラン・バー、会議室、ベビールーム、宿泊客・会員専用のプール・フィットネスのほか、村野藤吾氏設計の茶室「東光庵」やスタインウェイ社製のグランドピアノを置くミュージックルームなどを備えています。宿泊客のほか、ビジネスや会食目的で1日に約1万人が訪れています。

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Joe_DiMaggio%2C_Marilyn_Monroe_and_Tstsuzo_Inumaru.jpg/220px-Joe_DiMaggio%2C_Marilyn_Monroe_and_Tstsuzo_Inumaru.jpg

開業以来、帝国ホテルではおもてなしの心をモットーに、きめ細やかなサービスで海外VIPを含め数多くのリピーターを生んできました。従業員は帝国ホテル東京だけで約1800人。1室につき平均2人のスタッフを配し、行き届いたサービスに目を光らせています。特に清掃には、「鼻から入る(=鼻が慣れる前に、部屋の匂いをいち早く除去する)」、「膝で掃除する(=床に膝をつけて細かな塵も取り除く)」、「手の平にも目がある(=バスタブや洗面台は最後に触ってざらつきがないかを確認する)」といった独自の言い回しがあるほどの徹底ぶりです。さらに清掃後にはチェック専門の係が靴を脱いで入室し、160ものチェック項目に目を光らせています。また開業当初より顧客目線に立ち、革新的に新しいサービスを取り入れてきたことでも有名です。例えば今では当たり前となったホテルウェディングやランドリーサービスを、日本で初めて取り入れたのも帝国ホテルです。ランドリーサービスは、まだ海外旅行が船旅主流だった明治時代、長い旅路の間にたまった旅行客の洗濯物をクリーニングするために始められたものです。「ホテル内でついた汚れは確実に落とす」方針で、そのきめ細やかさに定評があります。例えば破損しやすい素材のボタンは一度外して、洗濯後に付け直しています。もともと取れていたボタンを新しく付けたり、衣類にほつれがあれば都度補修することもあります。こういったサービスに対応するため、クリーニング部には世界各国の糸やボタン素材のストックが用意されています。

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Imperial_Hotel_Kamikochi01n3200.jpg/220px-Imperial_Hotel_Kamikochi01n3200.jpg

また、帝国ホテルは1957年、ブッフェスタイルの食事を提供するレストランを日本で初めて開業したことでも知られています。当時の支配人・犬丸徹三氏が北欧の伝統料理「スモーガスボード」にインスパイアされ、好きな料理を選んで好きなだけ食べられるスタイルを導入しました。当時上映していた映画になぞらえて「バイキング」と名付けました。バイキングにはオープンキッチンを設け、オムレツ等の料理を、シェフが客の好みを聞いてから目の前で仕上げるサービスも人気を博しました。もうひとつ、叩いて薄くした牛肉を玉ねぎでマリネしたシャリアピンステーキも、帝国ホテルで生まれたメニューのひとつです。1936年来日したオペラ歌手・フョードル・シャリアピンから、歯が痛むので柔らかい肉が食べたいとのリクエストがあり、ホテル内のレストラン「ニューグリル」の料理長が考案したといわれています。この他、名物メニューとしては厚さ3センチの鉄板で焼き上げたパンケーキがあります。これは60年以上も続くロングセラーで、もともとはライト館にあった「ガーデンバー」で朝食メニューとして給されていたものです。現在は本館1階の「パークサイドダイナー」で1日中食べることができ、人気を集めています。現在、直営するホテルとしては、帝国ホテル東京、帝国ホテル大阪、長野の上高地帝国ホテルの3つがあり、ハワイにあるハレクラニ、ワイキキパークホテルとも提携関係にあります。帝国ホテルタワーには、4フロアからなる帝国ホテルプラザが併設されており、シャネルやエスカーダをはじめとする高級ブティックのほか、エステサロンやギャラリー、多数のアンティークショップなども入居しており宿泊客はタワー直通エレベーターを使って、客室から直接行き来することができます。


2「建物建造の歴史と経緯」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8d/Imperial_Hotel_Watanabe_House.jpg/220px-Imperial_Hotel_Watanabe_House.jpg

≪初代帝国ホテル≫

インフォメーション:以下参照

  • 渡辺譲設計
  • 木骨煉瓦造、3階建、客室数約60
  • 1890(明治23年)竣工。1919大正8年)失火から全焼。

ドイツで建築を学び帰国したばかりの若手建築家の渡辺は、海外で学んだ知識を活かした様式の建物を建てるが、当時の海外市街地型ホテルの主流であった接道型ホテルではなく、日本の邸宅風の建物配置を選び、建物内部には日本趣味の装飾を施すなど、日本流のアレンジを加えた。

 

 

出典元:https://www.imperialhotel.co.jp/j/tokyo/hotelshop/special/img/201704_wright150th_01.jpg

≪ライト館≫

インフォメーション:以下参照

・フランク・ロイド・ライト設計。

鉄筋コンクリートおよび煉瓦コンクリート造、地上3階(中央棟5階)、地下1階、客室数270

1923(大正12年)竣工。1968(昭和43年)新本館建設のため解体。

1914(大正3年)頃から、当時の総支配人だった林愛作は旧知のアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトと新館設計の相談を重ね、1916年(大正5年)に契約を結びます。翌1917年(大正6年)にライトは来日し、1919年(大正8年)9月、着工しました。ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨みました。鷲が翼を広げたような巨大なホテルは、10のブロックをエキスパンションジョイントで繋ぎ合わせた構造になっており、これで建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みになっていました。また大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用するなど、耐震防火に配慮した設計でした。しかしこうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こします。ライトはそれでも林との個人的な友情でかろうじて施工の総指揮を続けていましたが、1922(大正11年)4月、隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくなりました。さらに当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って、林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂注いだこのホテルの完成を見ることなく離日しました(同年7月)。結果的に一部完成済みの部分を利用してホテルは営業を再開しました。

出典元:https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_5675808bdb7614-thumb-autox404-38795.jpg

ホテルの建設はライトの日本における一番弟子だった遠藤新の指揮のもと、その後も続けられました。1年後の1923(大正12年)7月、着工以来4年の歳月を経てライトの本館は完成します91に落成記念披露宴が開かれることになりましたが、関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙しの時でした。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ人々の目を引くこととなりました。ライトは二週間後このことを遠藤からの手紙で知り狂喜したと言われています1945(昭和20年)31011東京大空襲では、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多くの焼夷弾が落ち、焼失は総床面積の四割強に及ぶ大きな被害を受けました。終戦ともに帝国ホテルはGHQに接収され、そこで大規模な修復工事が行われ、復旧しました。 占領が終わって日本を訪れる外国人が再び増え始めたことにともない、1954(昭和29年)にはライトの本館の裏手(現在インペリアル・タワーが建っている敷地)に客室数170の第一新館が完成、1958(昭和33年)にはその横に地上10階、地下5階、客室数450の第二新館が完成しました。これをうけて、1964(昭和39年)にはライトの本館を取り壊し、その跡地に新たに鉄筋コンクリート造、地上17階、地下3階、客室数772の新本館を建設することが発表されました。震災にも空襲にも耐えたこのホテルの存続を訴える大規模な反対運動が起こりましたが、本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがするといった老朽化の問題もさることながら、都心の一等地を占有する巨大な建造物の客室数がたったの270では話にならなかったのです

出典元:https://www.imperialhotel.co.jp/j/tokyo/special/wright_150th_anniversary/img/img_01_sp.jpg

ライトの新館は1967(昭和42年)に閉鎖され、翌年春頃までに取り壊されました。跡地に建設された近代的外観の新本館は、1970(昭和45年)の日本万国博覧会開会に合せて、同年に竣工しました。「ライト設計の帝国ホテル本館」は、「ライト館」として、人々の想い出の中に生き続けることになり、ライト館の玄関部分は博物館明治村愛知県犬山)に十数年の歳月をかけて移築再建され、今日でも在りし日の面影を偲ぶことができ、人気を博しています

 

 

≪第一新館(別館)≫

インフォメーション:以下参照

・高橋貞太郎設計。

鉄筋コンクリート造、地上7階、地下2階、客室数170

1954(昭和29年)竣工、1980(昭和55年)インペリアルタワー建設のため解体。

 

 

出典元:http://www.tanken.com/teikoku7.jpg

≪第二新館(東館)≫

インフォメーション:以下参照

・高橋貞太郎 設計。

鉄筋コンクリート造、地上10階、地下5階、客室数450

1958(昭和33年)竣工、1980(昭和55年)インペリアルタワー建設のため解体。

 

 

出典元:https://www.sanko-e.co.jp/files/8314/0652/1537/memory_teikoku-hotel_01_linetouka.jpg

≪新本館≫

インフォメーション:以下参照

・高橋貞太郎 設計。

鉄筋鉄骨コンクリート造、地上17階、地下3階、客室数772

1970(昭和45年)310日開業。

 

 

出典元:https://www.shimz.co.jp/works/images/1983/jp_com_198301_teikoku_main_01.jpg

≪インペリアルタワー≫

インフォメーション:以下参照

・山下設計にて設計

鉄筋鉄骨コンクリート造、地上31階(うちホテルフロアは2031)、地下4階、客室数361

第一・第二新館に代えて建設。1983(昭和58年)竣工。


3「歴史を彩った歴代の支配人・社長」

「渋沢栄一」

参考サイト:http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/shokai.html

出典元:http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/56/image1.jpeg

インフォメーション:1890年代、国を挙げて近代国家を目指す中で、外国からの賓客をもてなす西洋式グランドホテルが殆どありませんでした。そこで当時の外務大臣である井上馨の呼びかけに応じた渋沢栄一と大倉喜八郎らが中心となり、「日本の迎賓館」の役割を担い、1890113日に開業したのが帝国ホテルでした。初代会長に就任した渋沢栄一は、開業式典で東京知事の祝辞に対して以下のように述べています。「用命があれば世界のどんなものでも調達して便宜を図る。それこそが果たすべき役割と心得、絶対に譲らないところだ。知事閣下が“ホテルはその国の民意や文明度を示すもの”とおっしゃられたことについては、現在は力不足でも、近い将来必ず恥ずかしくないレベルを約束する」

渋沢は、1909年に会長職を退きますが、その後も帝国ホテルを訪れては、当時の従業員に向けて数多くの話をしています。「いろいろの風俗習慣の、いろいろの国のお客を送迎することは、大変に御苦労なことである。しかし、君たちが丁寧に尽くしてくれれば、世界中から集まり、世界の隅々に帰っていく人たちに、日本を忘れずに帰らせ、一生日本を懐かしく思い出させることのできる、国家のためにも非常に大切な仕事である。精進してやってくださいよ」こうしてその歴史を時代に刻みこんだのです。

 

 

「大倉喜八郎」

参考サイト:http://www.tku.ac.jp/tku/founder/okura/

出典元:https://www.tku.ac.jp/tku/imgs/p01.jpg

インフォメーション:大倉喜八郎は明治大正期の実業家であり大倉財閥の創設者です。越後国北蒲原郡新発田(新潟県新発田市)生まれ。安政1(1854)年江戸に出て,幕末維新の動乱期に銃砲の販売で名を馳せました。そののち新政府の御用商人として軍需品の調達・輸送,鉄道・建物関係の土木建設工事などに従事し蓄財していきます。早くから貿易事業に着目し明治6(1873)年大倉組商会を設立。7年ロンドンに支店を設置してヨーロッパとの直貿易に乗り出し次いで朝鮮との貿易にも進出しました。明治期の実業家らしく東京電灯,帝国ホテルその他数多くの企業の設立に参画するとともに役員に就任しました。明治末以降中国大陸への投資に乗り出し大正期にこれを積極化しましたが、このうち清国政府との合弁事業である本渓湖煤鉄有限公司による炭鉱・鉄鉱山の経営とそれに立脚する製鉄事業はその中心をなしました。大正6(1917)年には合名会社大倉組を持株会社とし,大倉商事,大倉土木(大成建設),大倉鉱業を直系3社とするコンツェルン機構を形成したことでも有名ですし後にホテルオークラを創立したことでも知られています。

「金井寛人」

インフォメーション:以下参照

戦前、帝国ホテルの経営に携わっていたのは大倉財閥でした。大倉喜八郎の息子・喜七郎が会長を務めましたが、敗戦で大激震に見舞われます。進駐軍が高官宿舎に帝国ホテルを接収し、大倉喜七郎は会長を退任、支配人の犬丸徹三が社長に就任しました。だが帝国ホテルの“中興の祖”である犬丸徹三と大倉財閥の二代目大倉喜七郎は“犬猿の仲”でしたそれは大倉喜七郎が公職追放になったとき、復権の約束が犬丸との間にあったのに、それが果たされなかったためと言われています財閥解体で帝国ホテル株を手放さなければならなかった喜七郎は、犬丸に渡すよりはと放出した株を金井寛人に売却しました。また後年、帝国ホテルを追われた大倉が、帝国ホテルに対抗して1962年にホテルオークラを設立したのは犬丸に対する怨念の産物でもあったと言われています。金井寛人は満州の“馬賊”として稼いだ金を元手にのし上がり「煙草王」といわれるまでになった経済界の怪物的存在でした。宮内省や大倉財閥などが放出した株を買い占めた金井は53年に帝国ホテルの会長に迎えられましたが、犬丸と金井の間で激烈な抗争が繰り広げられました。金井は東急の五島慶太と組み、帝国ホテル株を買い増しました。またここには白木屋乗っ取りで名を馳せた横井英樹も参画し買い占めをはかったのです最終的には金井側が買い占めた株は犬丸側が引き取ることで一件落着しましたが、帝国ホテルの株は仕手株として市場でもてあそばれ、様々な投資家のターゲットとなっていきます。そして次に乗っ取りを画策したのが田中角栄元首相の“刎頚の友”であ「昭和の政商」と言われた小佐野賢治でした

 

 

「犬丸徹三」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E4%B8%B8%E5%BE%B9%E4%B8%89

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/Portrait_of_Mr._Tetsuzo_Inumaru%28Copyright_protected_by_Imperial_Hotel%2C_Ltd_in_Japan%29.jpg/220px-Portrait_of_Mr._Tetsuzo_Inumaru%28Copyright_protected_by_Imperial_Hotel%2C_Ltd_in_Japan%29.jpg

インフォメーション:1887年(明治20年)生まれ。東京高商(現一橋大学)卒業後、1910年(明治43年)に長春(満州)のヤマト・ホテルにボーイとして就職し、同ホテルに3年間勤務した後、上海のホテルでコック修行します。上海在住の東京高商の同窓生たちからは「コックなど東京高商の名を汚すもの」と言われながらも修行に打ち込みました1914年(大正3年)にロンドンに渡りホテルの雑用係の仕事にありつき、さらに窓拭き係りを経て待望のコック見習いとなります。その後フランスやアメリカでもコック修行を続け、1919年(大正8年)に帰国、帝国ホテル副支配人となり、1923年(大正12年)に総支配人に就任します1931年取締役、34年常務取締役、42年代表取締役、45年代表取締役社長に就き、戦後1952年に接収を解除された帝国ホテルの社長として手腕をふるうことになります会長の大倉喜八郎男爵を補佐してライト氏設計の新館建設などの大事業を完成させるとともに、関東大震災時には被災した新聞社や各国大使館、企業などに対して客室を提供しホテルの社会的責任を果たしていきました。1946年には給与制度を改革し心付分配に頼らない新たな月給制度を作り、これが後年のホテルの給与制度のモデルとなっていきました。戦後も東京オリンピック景気に沸くホテル業界で大活躍します。洋食の普及に寄与したバイキング方式の食事スタイルは犬丸氏が初めて採用したものです。また現在ではホテルの宴会需要の柱の一つとなっているホテルでの結婚式&披露宴のありかたは、すでに大正期に犬丸氏がその原型を作ったと言われており、日本のホテルの近代事業化への貢献度は計り知れないものがあります。帝国ホテルの社長としては1958年に第二新館を完成させ、客室数900室の“世界5大ホテル”の仲間入りを果たし、さらに、1970年に開業した新本館の建設も社長として陣頭指揮しました。

 

 

「小佐野賢治」

参考サイト:http://net.keizaikai.co.jp/archives/15192

出典元:http://net.keizaikai.co.jp/wp-content/uploads/2015/01/20151218_Onkochishin_01-212×300.jpg

インフォメーション:小佐野と田中角栄は事業で手を組んだことでも知られています。田中角栄は代議士になりたての頃、地元の長岡鉄道の社長に就任すると、バス部門の拡充に際して小佐野が経営する国際興業から二十数台の車両の提供を受け、その後、長岡鉄道は「越後交通」となり、これが角栄を資金面で支えていく越山会の母体となります。そして昭和477月、自民党の実力者となっていた角栄は、満を持して総裁選に名乗りを上げます。大一番に臨む彼のため小佐野が使った軍資金は60億円とも言われています。これを力の源泉とし角栄は福田赳夫を破り、ついに総理の座を手に入れます。そんな小佐野の私生活は、昭和25年旧伯爵家の堀田英子と結婚しています。堀田家は千葉・佐倉11万石の城主として栄えた名家で、英子は「女子学習院、戦後最高の美女」と謳われるほど美しく、華族の令嬢を望んだ小佐野は一目惚れします。戦後、没落する華族の中で窮地に陥った堀田家を救ったと言われる一方、成り上がり者が家柄をカネで買ったとも囁かれました。世田谷・野毛の自邸は「迎賓館」と呼ばれ、5000坪の敷地にバラ園があり、パーティもよく開かれました。側近が食事に招かれると、家政婦にもてなされるが、英子が顔を見せることはなかったと言われています。子どもを授からなかった小佐野は、弟たちを可愛がります。長弟の栄氏を国際興業の社長、次弟の定彦氏を専務にしましたが、56年に定彦氏が急逝し、翌年には栄氏を肝臓がんで亡く小佐野は憔悴します一方、帝国ホテルの株を買い占めていた小佐野は、60年ついに帝国ホテル会長に就任します。長年の夢だっただけに連日のようにホテルへ出社し、精力的に仕事に取り組んでいきますが、その年の夏、小佐野は膵臓がんの告知を受けます。手術後は仕事に復帰しますが、10月に病状が悪化し、入院先の虎の門病院で逝去。69年の波乱の生涯を閉じます小佐野亡き後、国際興業は経営不振が深刻化し、投資ファンド・サーベラスの傘下に入ります。騒動の中で小佐野一族の持ち株は、4代目社長の隆正氏のものとなり、サーベラスが共同出資の形で再建をスタートさせますが隆正氏と未亡人の英子さん以外の一族は経営から追い出されることになっていきます

 

 

「村上信夫」

参考サイト:https://showa-g.org/men/view/216

出典元:https://showa-g.org/img/00226_m.jpg

インフォメーション:村上 信夫は、1921生まれ。兵庫県淡路島の網元の息子で、東京で“萬歳亭”という食堂を営んでいた父・延太郎と、埼玉県春日部の農家の娘だった母・いよの長男として東京市神田区松枝町(現・千代田区神田岩本町)に生まれました1933年浅草ブラジルコーヒー入店、その後、銀座つばめグリル、新橋第一ホテル、糖業会館レストラン・リッツなどで働き、1939 帝国ホテルに見習いとして採用され、1940帝国ホテルに正式入社。戦時中は軍隊入隊・抑留生活の経験を経て、1947年復職。1957、帝国ホテルの伝統に従い、フランス料理の頂点でイギリス王室の料理人さえイモの皮むきからやらされる名門中の名門、パリのホテル・リッツで修行。研修中、帝国ホテル支配人の犬丸徹三から北欧の「スモーガスボード」という食べ放題料理スタイルを研究するよう指示され、そこから「バイキング」を考案。1964年の東京オリンピックでは「女子選手村」の総料理長として300人以上のコックのリーダーを務め、各国の選手のために腕をふるったことでも有名です。日本でフランス料理を広めた功労者として知られ、帝国ホテルの料理長を26年間務め、『きょうの料理』の名物講師として家庭へプロの味を広めた功績があります後年、帝国ホテル顧問を務めました。愛称は「ムッシュ村上」。

≪次ページパート2≫もご覧ください

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