日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画・その1/2018年9月更新

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日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画・その1

日本には西洋印象派の絵を愛好する方が沢山いらっしゃいます。また国内の美術館も熱心にそれらの絵画を収集所蔵してきた歴史がございます。そこでご紹介します「日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画」情報です。多数に上りますので主だったものをリスト化して御案内します。なお記事全体を「その1・その2・その3」に分けて案内しています。(その2・その3は以下から閲覧できます)

その2:https://bonvoyagejapan.com/insyouha-sono-2/

その3:https://bonvoyagejapan.com/insyouha-sono-3/

≪インデックス≫

【その1

西洋印象派の概要

1.「古典派」

2.「ロマン派」

3.「バルビゾン派」

4.「写実派」

【その2

5.「印象派」

【その3

6.「新印象派」

7.「後期印象派」

8.所蔵美術館情報一覧


西洋印象派の概要

参考サイト:http://www.kamane.lt/eng/Kamane-s-texts/Fine-Arts/Influence-of-Paris-schools-on-Lithuanian-art-Part-II

出典元:http://www.kamane.lt/var/ezwebin_site/storage/images/media/images/14725399001_f6accb8b07_b2/1327835-1-lit-LT/14725399001_f6accb8b07_b_large.jpg

インフォメーション:以下参照

印象派とは、1870年代にフランスで起きた絵画の流れです。絵の具の進歩は戸外で絵を描くことを可能とし、そのため、光を捉えようとする印象派が生まれました。また印象派展は、それまでサロンが牛耳っていた画壇に対し、新しい芸術を求めた画家たちが反旗を翻した歴史的転換点でもありました。印象派という名前から、風景の心象を捉えた絵画のように思いがちですが、実際の印象派は写実主義にあたります。印象派の目標は自然の光を忠実のに画面に写し取ることにありました。余談になりますが当時のフランスの画家の優劣が何で決まるかと言うと、唯一の展覧会である「サロン」に入選できるか否かでした。この「サロン」という名称は1725年にルーブルのサロン・カレで展覧会が開かれたことに由来します。当時、芸術家の発表の場はサロンしかなく、出品数が増したことから1798年に審査制度が導入されました。
審査制度が導入されれば当然落選する画家がでてきます。落選した画家は地位や名誉も失い、作品も売れず、パトロンからは見放され、窮地に見舞われることになります。当時の画家が生き残るためにはサロンに入選することが絶対条件でした。印象派のほとんどの画家は落選続きですが、最も好成績を残しているのはドガで彼はただ一人一度も落選したことがありませんでした。一方、ただひたすら負け続けたのがセザンヌです。セザンヌは落選者対象としたサロンでデビューを飾り、その後、落選に次ぐ落選で(9年連続の落選)印象派展までとうとう一度もサロンに出品ができなかったと言われています。全敗は印象派のなかでもセザンヌただ一人です(そんなセザンヌも1883年に初入選をはたします)

印象派の表現特徴は、色彩分割にあり、画面を一様に塗るのではなく、光を捉えるために筆のストロークを短くして色を塗り重ねる技法を採用していますが、その最終表現の部分では時間の流れの中で数々の表現分派が誕生します。以下、所蔵作品を制作年度の時系列に添って紹介する為に、以下のような分派の設定を行いました。1「古典派」、2「ロマン派」、3「バルビゾン派」、4「写実派」、5「印象派」、6「新印象派」、7「後期印象派」の7分派です。


1.「古典派」

11「ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル」17801867

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB
参考サイト:http://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1112

「自画像(1804)」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/94/Ingres%2C_Self-portrait.jpg/220px-Ingres%2C_Self-portrait.jpg

≪生涯≫:以下参照

アングルはフランス南西部のモントーバン近郊ムースティエに装飾美術家の子として生まれました。アングルの父親は美術家というよりは職人で、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手掛けていました。アングルも幼少期から絵画とともに音楽も学んでおり、ヴァイオリン奏者としての一面もありました。実際にニコロ・パガニーニ弦楽四重奏団を結成し、パガニーニのスケッチを残しています。アングルは12歳の時、トゥールーズのアカデミーに入学しました。1797パリに出て、新古典派の巨匠、ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します1801『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞します。ローマ賞受賞者には、政府給費生として国費でのイタリア留学が許可されましたが、アングルの場合は、当時のフランスの政治的・経済的状況のため留学が延期され、1806にようやくイタリアのローマを訪れています。その後アングルは1824までの長期間イタリアに滞在し、1820まではローマ、以後1824年まではフィレンツェで活動しています。この間、ラファエッロミケランジェロなどの古典を研究し、生活のために肖像画を描きつつ、母国フランスのサロンへも出品していました。有名な『浴女』(1808)、『グランド・オダリスク』(1814)などはこの時期の作品で。長いイタリア滞在の後、1824年、アングルは44歳でダヴィッドの後継者として熱狂的にフランスに迎えられます。翌年レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推されます。10年ほどの母国での活動を経て、18341835年とも)再びイタリアのローマを訪れ、そこでフランス・アカデミーの院長を務めました。1841には再びパリへ戻り、この頃のアングルは祖国フランスでも押しも押されもせぬ巨匠と目され、1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催されます。アングルの代表作の1つでもある『トルコ風呂』は、最晩年の1862の制作で。円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描きこんだこの作品は、当時82歳の画家がなお旺盛な制作欲をもっていたことを示している名作ですなおこの作品はルーブル美術館の所蔵です。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「ユピテルとテティス(1807年制作)」東京富士美術館所蔵

出典元:http://www.fujibi.or.jp/assets/images/collection/thumb_c/thumb_c_01112.jpg

*その他の記載できる国内所蔵作品情報は確認できません。


2.「ロマン派」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE

ロマン主義の画家たちは遠い遥かな過去の歴史ではなく、鋭い感受性をもって同時代の出来事に情熱的に感情移入した人々です。テオドール・ジェリコーの『メデューズ号の筏』(1819年)は、この難破事件から受けた大きな衝撃をばねにして描かれたロマン派を代表する作品ですウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』は、1830年の7月革命をその直後に描き、絵の中では作者自身ともされるシルクハットの男性が銃を携えています。どちらの作品も、静かで伝統的な理想美を追求する新古典派にはない制作態度と評されています。絵画技法としては、色彩の多様性やスピード感、正面性にとらわれない自由な視角が特徴と言えます。

21「ウジェーヌ・ドラクロワ」17981863

参考サイト:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/delacroix.html
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%AF

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/62/F%C3%A9lix_Nadar_1820-1910_portraits_Eug%C3%A8ne_Delacroix.jpg/220px-F%C3%A9lix_Nadar_1820-1910_portraits_Eug%C3%A8ne_Delacroix.jpg

≪生涯≫:以下参照

ロマン主義を代表する画家。ルーベンスに影響を受けたとされる豊麗な色彩表現は、印象派の色彩を予告するもので、その先駆的な役割を果たす。外交官シャルル・ドラクロワの息子としてパリに生まれる。本当の父親は政治家タレイランとも考えられている。それもあってか、無名の新人ながら重要な公共建築の装飾を次々に委嘱され、作品も政府買上になるなど生涯生活に苦労することはなかった。一方で、美術界では厳しい批判にさらされ続けた。ただし、人生そのものはいたって静かで、生涯独身を通し、ほとんど弟子もとっていない。ほとばしる情念はカンヴァスの世界に限定されていた。1820年代、《ダンテの小舟》《キオス島の虐殺》(ともにルーヴル美術館)をサロンに出品して、文学趣味に悲劇性を加味した主題を大胆で自由に表現する独自の様式を確立。同時にダヴィッドの後継者と目されていたアングルとの対決が、サロンを舞台にはじまる。さらに、1831年サロンに発表した《民衆を導く自由の女神》(ルーヴル美術館)で、新しい前衛芸術ロマン主義の中心的担い手としての立場を鮮明にする。1832年、政府使節団の随行員としてモロッコを旅行、多くのスケッチを残した。後に多くの優れた作品がこのスケッチから生まれる。色彩はさらに明るく大胆になった。ルネサンス以来の人文主義的伝統を受け継ぐ最後の巨匠と称されるように、その文学的素養から、聖書や神話を含むあらゆる文学作品に着想した作品を多く描く。同時に、同時代の事件に取材したもの、さらに静物画、風景画、動物画と、そのテーマはきわめて広い。常に画壇から非難を受けながらもサロンを中心に活躍するが、自らの情念のすべてを絵画に捧げるその姿勢からも、近代最初の偉大な画家であった。パリで没。56歳。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「剣を持つ兵士」ひろしま美術館所蔵

出典元:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/images/delacroix_kennwomotsuheishi-web.jpg

「墓地のアラブ人」1838年制作ひろしま美術館所蔵

出典元:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/images/delacroix_hakabanoarabujin-web.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「聖母の教育」1852年制作・国立西洋美術館所蔵

「墓に運ばれるキリスト」制作年不詳・国立西洋美術館所蔵

「シェイクスピア・ハムレットによる連作・テラスの亡霊」制作年不詳・国立西洋美術館所蔵

「ファウストの前に現れたマルガレーテの亡霊」制作年不詳・国立西洋美術館所蔵

「書斎のドン・キホーテ」制作年不詳・東京富士美術館所蔵

「手綱を持つチェルケス人」制作年不詳・東京富士美術館所蔵

「オランのアラブ人」制作年不詳・東京富士美術館所蔵

「鎧を身につけ剣を持つ貴族」制作年不詳・東京富士美術館所蔵

「ドイツ兵士」制作年不詳・東京富士美術館所蔵

「アルジェのユダヤ人」制作年不詳・東京富士美術館所蔵

「オランのアラブ人」制作年不詳・東京富士美術館所蔵

「背中を見せた女」制作年不詳・東京富士美術館所蔵


22「ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー」17751851

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC
参考サイト:http://www.fujibi.or.jp/

「自画像(1799年)」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Turner_selfportrait.jpg/220px-Turner_selfportrait.jpg

≪生涯≫:以下参照

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775423日生~18511219日没)18世紀から19世紀にかけて活躍したイギリスのロマン主義の画家。1775ロンドンコヴェント・ガーデンに理髪師の子として生まれます。母親は精神疾患をもち、息子の世話を十分にすることができなかったと言われており、ターナーは学校教育もほとんど受けず、特異な環境で少年時代を過ごしました13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし絵画の基礎を学びます。当時の「風景画家」の仕事は、特定の場所の風景を念入りに再現した「名所絵」のような作品を制作することでた。マートンの元で1年ほど修業したターナーはロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1797にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し1799には24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となり、180227歳の時には同・正会員となっていきます 初期のターナーはアカデミー受けのする、写実的な風景を描いていました。アカデミー準会員となって以降、約20年間は有力なパトロンに恵まれ画家として順調な歩みを続けます。『カレーの桟橋』(1803)、『アルプスを越えるハンニバルとその軍勢』(1812)などはこの時期の作品でロマン主義的な大気、光、雲の劇的な表現が特色です。ターナーにとって転機となるのは181944歳の時のイタリア旅行でした。ルネサンス期以来、長らく西洋美術の中心地であったイタリアへ行くことはイギリスのような北方の国の画家たちにとってのあこがれであり、ターナーもその例外ではありませんでした。イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられたターナーは特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、その後も何度もこの街を訪れ多くのスケッチを残しています。ターナーは手元にあった主要作品をすべて国家に遺贈したため、彼の作品の多くはロンドンナショナルギャラリーテート・ギャラリーで見られます。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」東京富士美術館所蔵

出典元:http://www.fujibi.or.jp/assets/images/collection/thumb_c/thumb_c_00428.jpg

「嵐の近づく海景」東京富士美術館所蔵

出典元:http://www.fujibi.or.jp/assets/images/collection/thumb_c/thumb_c_01341.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「パッランツァ、マッジョーレ湖」1846年制作・静岡県立美術館所蔵

「インヴェラレイ城の見えるファイン湾」1802年制作・山梨県立美術館所蔵

*この他にも国立西洋美術館にも数点の作品が所蔵されています。


3.「バルビゾン派」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE

バルビゾン派の画家たちは都会にはない自然の美しさに魅せられ、1820年頃からフォンテーヌブローの森での風景画制作に専念します。バルビゾン派という呼称は、彼らの多くが制作のために滞在した村の名前に由来します。代表的な画家にカミーユ・コローテオドール・ルソーなどが挙げられ、ミレーも晩年には彼らに合流します。彼等は戸外でスケッチをしてアトリエで完成させましたが、後の印象派の画家たちは戸外ですべてを仕上げました。また1860年代にはバルビゾン派の流れを汲むコロー、シャルル=フランソワ・ドービニーウジェーヌ・ブーダンヨハン・ヨンキントなどが風景のよいセーヌ河口オンフルールサン・シメオン農場に集まるようになり、印象派に直結する海辺や港の風景画を描いていきます。

31「ジャン・バティスト・カミーユ・コロー」17961875

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BC

「ジャン・バティスト・カミーユ・コロー」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/79/Camille_Corot-Nadar.jpg/220px-Camille_Corot-Nadar.jpg

≪生涯≫:以下参照

19世紀の4分の3を生き、次世代の印象派との橋渡しをした画家です。詩情あふれる森や湖の風景画で知られますが、『真珠の女』のような人物画にも傑作があります。1825年から計3イタリアへ旅行し、イタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けています。理想化された風景でなく、イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちにも影響を与えました。 1796年、パリの裕福な織物商人の子として生まれます。学生時代はルーアンノルマンディー地方)及びポワシー(パリ近郊)の寄宿学校で学びます。コローは画家になることを反対していた父親にしたがい、いったんは商人としての修業をしますが、1822年、26歳の時、ようやく父の許しを得て画家を志し、当時のアカデミックな風景画家アシール=エトナ・ミシャロン1796– 1822年)やジャン=ヴィクトール・ベルタン1767– 1842年)に師事しますが、当時としては画家を志すには遅いスタートでた。最初の師ミシャロンはコローと同年生まれの若手風景画家でたが、コローが師事してから数か月後、26歳で死去しました。師を失ったコローは、ミシャロンの師であったベルタンに師事することになります。ベルタンは大きな画塾を構え、当時のフランス風景画の第一人者でた。 コローは、晩年に至るまでフランス各地を精力的に旅行し、各地の風景をキャンバスにとどめています。特にパリの西の郊外にあるヴィル=ダヴレーには父の購入した別荘があったことから頻繁に滞在しています。またフォンテーヌブローの森においても1920年代から制作を行っていますサロン(官展)には、イタリア滞在中の1827年に『ナルニの橋』(カナダ国立美術館所蔵)などを出品して以来、晩年まで精力的に出品し、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命されていましす1855年にはパリ万国博覧会6点の作品を出品し、グランプリを得ています。晩年は大家として認められるようになり、死の直前までフランス各地への旅行と制作を続けました。1875222日、病のため没。生涯未婚でた。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「ラ・フェルテ・ミロンの風景」1855年制作・大原美術館所蔵

出典元:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/img/C/img_c3/works_c3a_09.gif

・日本国内所蔵作品については以下参照

・「ヴィル・ダヴレー」1835年制作・ブリヂストン美術館所蔵

・「ヴィル・ダヴレーのカバスュ邸」1835年制作・村内美術館所蔵

・「黄色い帽子の女」1840年制作・村内美術館所蔵

・「オルレアン風景」1845年制作・ブリヂストン美術館所蔵

・「オンフルールのトゥータン農場」1845年制作・ブリヂストン美術館所蔵

・「ヴィル・ダヴレーの池」1847年制作・栃木県立美術館所蔵

・「少年と山羊」1847年制作・村内美術館所蔵

・「小さな水門のある風景」1855年制作・村内美術館所蔵

・「大農園」1860年制作・山梨県立美術館所蔵

・「湖」1860年制作・姫路市立美術館所蔵

・「メリ・街道、ラ・フェルテ・ス・ジュアール付近」1862年制作・静岡県立美術館所蔵

・「森の中の少女」1865年制作・ポーラ美術館所蔵

・「もの思い」1865年制作・東京富士美術館所蔵

・「ナポリの浜の思い出」1870年制作・国立西洋美術館所蔵

・「アルバノ湖畔のフルート奏者」1871年制作・村内美術館所蔵

・「サン・カテリナ・レ・ザラスの洗濯場」1871年制作・上原近代美術館所蔵

・「ユディト」1872年制作・東京富士美術館所蔵

・「ボロメ島の浴女たち」1872年制作・ひろしま美術館所蔵

・「ビブリ」1874年制作・新潟県立美術館所蔵

・「夜明け」制作年不詳・村内美術館所蔵

・「花の輪を持つ野の女」制作年不詳・ひろしま美術館所蔵

≪次ページパート2≫もご覧ください

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