日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画・その2/2018年7月更新

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日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画・その2

日本には西洋印象派の絵を愛好する方が沢山いらっしゃいます。また国内の美術館も熱心にそれらの絵画を収集所蔵してきた歴史がございます。そこでご紹介します「日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画」情報です。多数に上りますので主だったものをリスト化して御案内します。なお記事全体を「その1・その2・その3」に分けて案内しています。(その1・その3は以下から閲覧できます)

その1:https://bonvoyagejapan.com/insyouha-sono%E2%80%901/

その3:https://bonvoyagejapan.com/insyouha-sono-3/

≪インデックス≫

【その1

西洋印象派の概要

1.「古典派」

2.「ロマン派」

3.「バルビゾン派」

4.「写実派」

【その2

5.「印象派」

【その3

6.「新印象派」

7.「後期印象派」

8.所蔵美術館情報一覧


5.「印象派」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE

落選展の常連の合計30人の芸術家が、18744月に写真家ナダールのスタジオで開かれた最初の展覧会に出展し、この展覧会が後に第1回印象派展と呼ばれます。当時この展覧会は社会に全く受け入れられず、批判的な反応がいろいろありました。なかでもモネとセザンヌは、いちばん激しい攻撃を受けます。批判者でユーモア好きなルイ・ルロワは風刺新聞「ル・シャリヴァリ」に酷評を書きます。その中ではモネの絵の『印象・日の出』というタイトルにかこつけて、この画家たちを「印象派」と呼んたので、グループメンバーはこの名で知られるようになっていきます。ところが「印象派」という言葉は人々からは好感をもって迎えられ、アーティストたち自身もこの言葉を受け入れていった経緯があります。スタイルや気性は異なるアーティスト同士も、独立と反抗の精神でまず合流することを最優先したのでした。彼等のメンバーはときどき入れ替わりますが、1874年から1886年まで一緒に全8回の展覧会を開催しました。後年、自由で気ままな筆使いの印象派のスタイルは、モダンライフの同義語ともなっていきます。

51「クロード・モネ」18401926

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8D
参考サイト:https://www.musey.net/7681

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/33/Claude_Monet_1899_Nadar.jpg/220px-Claude_Monet_1899_Nadar.jpg

≪生涯≫:以下参照

1840年パリで生まれましたが、5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごします。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどでしたが、18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられます。1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロシスレーバジールルノワールといった仲間と知り合います。1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していきますが、1869年と1870年のサロンに続けて落選します。私生活では、カミーユとの交際を始め、長男も生まれますが、父親から援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まります1870普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡り、この時、画商デュラン=リュエルと知り合い、重要な支援者を得ることとなります。パリに戻ると、パリ近郊アルジャントゥイユにアトリエを構え、セーヌ川の風景などを熱心にきます1874、仲間たちと、サロンとは別の独立した展覧会を開催して『印象・日の出』などを出展し、これ後に第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となります。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものでた。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加1878、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まります。妻カミーユを1879年に亡くなりますが、その後アリスとの関係が深まっていきます。他方、印象派グループは、会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体へと向かいます。次いで1881ポワシーに移り住み、ノルマンディー地方への旅行に出てます1883、これもセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り、生涯ここで暮らすことになります1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけますが1886年にニューヨークでデュラン=リュエルが印象派の展覧会を開いた頃から、経済的にようやく安定するようになったと言います1890年代には、ジヴェルニーの自宅周辺の「積みわら」や「ポプラ並木」、また「ルーアン大聖堂」を描いた連作に取り組み、この頃には、大家としての名声が確立します。また、1892アリスを正式な2人目の妻とします1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を整え、1898年頃から、睡蓮の池を集中的に描くようになります1900年までの「睡蓮」第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図でたが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、1909の「睡蓮」第2連作の個展に結実します。その間、ロンドンを訪れて国会議事堂の連作を手がけたり、1908年に最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出たりしています。最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面しますが、友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる「睡蓮」大装飾画の制作に没頭し、86歳で最期を迎えます。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「ルエルの眺め」1858年制作・埼玉県立近代美術館所蔵所蔵

出典元:http://marunuma-artpark.co.jp/collection/images/world0803.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「サン・シメオン農道の道」1864年制作・泉屋博古館所蔵

「並木道(サン・シメオン農道の道)」1864年制作・国立西洋美術館所蔵

「サン・タドレスの断崖」1867年制作・松岡美術館所蔵

「ノルマンディの田舎道」1868年制作・松岡美術館所蔵

「オランダ風景」1871年制作・ひろしま美術館所蔵

「アルジャントゥイユの洪水」1872年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「貨物列車」1872年制作・ポーラ美術館所蔵

「ルーアンのセーヌ川」1872年制作・静岡県立美術館所蔵

「コロンブの平原、霜」1873年制作・新潟県立近代美術館所蔵

「アルジャントゥイユ」1874年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「アムステルダムの港」1874年制作・ヤマザキマザック美術館所蔵

「アルジャントゥイユの泊地の夕日」1874年制作・姫路市立美術館所蔵

「雪のアルジャントゥイユ」1875年制作・国立西洋美術館所蔵

「散歩」1875年制作・ポーラ美術館所蔵

「モンソー公園」1876年制作・泉屋博古館所蔵

「サン・ラザール駅の線路」1877年制作・ポーラ美術館所蔵

「アルジャントゥイユの花咲く堤」1877年制作・ポーラ美術館所蔵

「藁ぶき屋根の家」1879年制作・上原近代美術館所蔵

「ラ・ロシュ ギュイヨンの道」1880年制作・国立西洋美術館所蔵

「セーヌ川の日没、冬」1880年制作・ポーラ美術館所蔵

「海辺の船」1881年制作・東京富士美術館所蔵

「ヴィトゥイエ、水びたしの草原」1881年制作・笠間日動美術館所蔵

「プールヴィルの断崖」1882年制作・東京富士美術館所蔵

「エトルタの朝」1883年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵

「ジュフォス、夕方の印象」1884年制作・群馬県立近代美術館所蔵

「ジヴェルニーの積みわら」1884年制作・ポーラ美術館所蔵

「積みわら」1885年制作・大原美術館所蔵

「エトルタの波の印象」1885年制作・松岡美術館所蔵

「雨のベリール」1886年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「ポール・ドモアの洞窟」1886年制作・茨城県近代美術館所蔵

「舟遊び」1887年制作・国立西洋美術館所蔵

「しゃくやくの花園」1887年制作・国立西洋美術館所蔵

「ジヴェルニーの積みわら、夕日」1888年制作・埼玉県立近代美術館所蔵

「クルーズ川の岩場」1889年制作・サントリーコレクション所蔵

「バラ色のボート」1890年制作・ポーラ美術館所蔵

「ジヴェルニーの草原」1890年制作・福島県立美術館所蔵

「陽を浴びるポプラ並木」1891年制作・国立西洋美術館所蔵

「ルーアン大聖堂」1892年制作・ポーラ美術館所蔵

「ジヴェルニー付近のセーヌ川」1894年制作・上原近代美術館所蔵

「波立つプールヴィルの海」1897年制作・国立西洋美術館所蔵

「ディエップの崖にて」1897年制作・サントリーコレクション所蔵

「セーヌ河の朝」1897年制作・ひろしま美術館所蔵

「睡蓮」1897年制作・鹿児島市立美術館所蔵

「セーヌ河の朝」1898年制作・国立西洋美術館所蔵

「睡蓮の池」1899年制作・ポーラ美術館所蔵

「ウォータールー・ブリッジ」1901年制作・サントリーコレクション所蔵

「ウォータールー橋、ロンドン」1902年制作・国立西洋美術館所蔵

「ヴェトゥイユ」1902年制作・国立西洋美術館所蔵

「チャーリング・クロス橋、ロンドン」1902年制作・国立西洋美術館所蔵

「睡蓮」1903年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「睡蓮」1906年制作・大原美術館所蔵

「睡蓮の池」1907年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「睡蓮」1907年制作・ポーラ美術館所蔵

「睡蓮」1907年制作・DIC川村記念美術館所蔵

「睡蓮」1907年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵

「黄昏(ヴェネツィア)」1908年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「睡蓮」1908年制作・東京富士美術館所蔵

「睡蓮」1914年制作・群馬県立近代美術館所蔵

「睡蓮」1914年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵(4作品)

「アイリス」1914年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵

「黄色いアイリス」1914年制作・国立西洋美術館所蔵

「睡蓮」1916年制作・国立西洋美術館所蔵

「睡蓮、柳の反影」1916年制作・北九州市立美術館所蔵

「日本の橋」1918年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵


52「エドガー・ドガ」18341917

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%AC
参考サイト:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/degas.html

≪生涯≫:以下参照

ドガは1834年、パリ銀行家の息子として生まれました。「ドガ」(de Gas)という貴族風の苗字を名乗りますが、ドガ家はフランス革命後に勢力を伸ばした新興ブルジョワで、エドガー・ドガの生まれた頃はさほど裕福ではありませんでした。ドガは1855年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でアングル派の画家ルイ・ラモートに師事し18561858にはイタリアを訪れ、古典美術を研究しています。ドガは通常印象派の画家の一とみなされており1874年以来、印象派展にたびたび出品し(全8回の印象派展のうち、第7回展以外のすべてに参加)、1862年にマネと知り合ってからは「カフェ・ゲルボワ」の画家グループにも参加していました。しかし、光と影の変化をキャンバスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠や、熱烈に信奉したアングルの画風にありました。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けていました。ただし、ドガも他の印象派の画家たちと同様、浮世絵、特に葛飾北斎の影響を強く受けており、日本におけるジャポニスム研究の発端ともなっていますドガの作品には室内風景を描いたものが多数を占めます。初期の作品は海辺の情景などでしたが、1870年代後半のモノタイプによる一連の作品では客と娼婦たちの姿が多く描かれています。そして1880年代半ば以降のパステル作品では、そうした特定の逸話的な場面でなく、閉ざされた部屋で黙々と日々の身づくろいに精を出す女の姿が描かれていきます。野外の風景を描いたものは、競馬場など人々の多く集まる場所に限られ、ドガの関心の対象は徹底して都会生活とその中の人間でした。これにはドガが普仏戦争に州兵として従軍した際に寒さで目をやられたために、俗に『まぶしがり症』といわれる網膜の病気を患ったことと関係しており、外に出ることがままならなかったと言われています。また殊にバレエの踊り子と浴女を題材にした作品が多く、彼女らの一瞬見せた何気ない動作を永遠化する素描力は秀逸です。写真技術にも強い関心を示し、マラルメルノワールが並ぶ有名な肖像写真が残されています。また数多くのパステル画の制作に関しては、銀行家だった父が負債を隠したまま亡くなった上に兄が事業に失敗して負債を抱えたため、その負債を返済するために大量に絵を描く必要があったから、という理由があります。晩年は視力の衰えもあり、デッサン人形として使用した踊り子、馬などを題材とした塑像や彫刻作品も残しており、それらはドガの死後にアトリエから発見されています。191783歳でひっそりと息を引き取りました。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「馬上の散策」1867年制作・ひろしま美術館所蔵

出典元:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/images/degas_bajounosannsaku-web.jpg

「浴槽の女」1891年制作・ひろしま美術館所蔵

出典元:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/images/degas_yokusounoonna-web.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「ある理工科大学生の肖像」1865年制作・村内美術館所蔵

「馬上の散策」1867年制作・ひろしま美術館所蔵

「マネとマネ夫人像」1868年制作・北九州市立美術館所蔵

「レオポール・ルヴェールの肖像」1874年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「ばら色の踊り子」1878年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵

「浴槽の裸婦」1883年制作・姫路市立美術館所蔵

「踊りの稽古場にて」1884年制作・ポーラ美術館所蔵

「背中を拭く女」1888年制作・国立西洋美術館所蔵

「マント家の人々」1889年制作・ポーラ美術館所蔵

「浴槽の女」1891年制作・ひろしま美術館所蔵

「赤い衣装をつけた三人の踊り子」1896年制作・大原美術館所蔵

「赤い服の踊り子」1897年制作・ひろしま美術館所蔵

「浴後」1900年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「舞台の袖の踊り子」1900年制作・東京富士美術館所蔵

「休息する二人の踊り子」1900年制作・ポーラ美術館所蔵

「二人の踊り子」1900年制作・ポーラ美術館所蔵

「ルアール夫妻の肖像」1904年制作・ポーラ美術館所蔵

「水浴」制作年不詳・長島美術館所蔵


53「ピエール・オーギュスト・ルノアール」18411919

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB
参考サイト:http://dali.jp/collection/

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/PARenoir.jpg

≪生涯≫:以下参照

ルノワールは、1841フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、18443歳時、一家でパリに移り住みます。当時は聖歌隊に入り美声を評価されていました。185413歳の時、磁器の絵付職人の見習いとなりますが、185817歳のときには失業します。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていました。186120画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしています。186423歳の時、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選しますが経済的には苦しく、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もありました。1869ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出します。パリ・コミューン終息後のサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間の画家たちは落選が続きます。こうしたこともあって、モネやピサロとともに、共同出資会社を設立し187433歳の時、サロンから独立したグループ展を開催します。後に「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会です。写実性と丁寧な仕上げを重視するアカデミズム絵画が規範であった当時、新しい表現を志したグループ展は世間から厳しい酷評にさらされ、経済的にも成功しませんでした。187635歳には第2回展に参加、1877には第3回展に参加して大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を出しますが、これらも厳しい評価を受けます。その一方で、ヴィクトール・ショケジョルジュ・シャルパンティエといった愛好家も獲得していき、特にシャルパンティエ夫妻はルノワールの重要なパトロンとなります。1878、経済的見通しを重視してサロンに再応募し入選します。その後サロンへの応募・入選を繰り返し、一方で第4回から第6回までの印象派展からは離脱します。私生活では187938歳頃、未来の妻となるアリーヌと知り合い交際を始めます。この頃、形態が曖昧になりがちな印象派の技法に限界を感じていたところ、188140歳の時にアルジェリア、次いでイタリアに旅し、特にローマラファエロの作品に触れて大きな感銘を受けます。また画商ポール・デュラン=リュエルの奔走を受けて188241歳時に第7回印象派展に『舟遊びをする人々の昼食』などを出品しますが、画法的にこの頃から明確な輪郭線が現れ始め、古典主義への関心が強まっていることが顕著になっていきます。1883頃から1888頃にかけて、デッサン重視で冷たい「アングル風」の時代が訪れ、その集大成として『大水浴図』を制作します。1890年代以降は「アングル風」を脱し、温かい色調の女性裸体画を数多く制作して評価も定まり、『ピアノに寄る少女たち』が政府買上げになったり、政府から勲章を授与されます。私生活ではアリーヌと正式に結婚し、子にも恵まれました。晩年は 関節リウマチの療養のためもあって、南仏で過ごすことが多くなり、1900年代から晩年までは、カーニュ=シュル=メールで過ごし、リウマチと戦いながら最後まで制作を続けました。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「モーリス・ドゥニ夫人」1904年制作・諸橋近代美術館所蔵

出典元:http://dali.jp/img/collection/lightbox05.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」1872年制作・国立西洋美術館所蔵

「パリ郊外、セーヌ河の洗濯船」1872年制作・諸橋近代美術館所蔵

「アルジャントウィユの橋」1873年制作・上原近代美術館所蔵

「座るジョルジェット・シャルパンティエ嬢」1876年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「読書するふたり」1877年制作・群馬県立近代美術館所蔵

「リュシアン・ドーデの肖像」1879年制作・松岡美術館所蔵

「白いブラウスの少女」1880年制作・長島美術館所蔵

「麦わら帽子を被った女」1880年制作・北九州市立美術館所蔵

「木かげ」1880年制作・国立西洋美術館所蔵

「ロバに乗ったアラブ人たち」1881年制作・ポーラ美術館所蔵

「アネモネ」1883年制作・ポーラ美術館所蔵

「麦わら帽子の少女」1885年制作・呉市立美術館所蔵

「泉のそばの少女」1887年制作・笠間日動美術館所蔵

「水浴の女」1887年制作・ポーラ美術館所蔵

「髪かざり」1887年制作・ポーラ美術館所蔵

「水のなかの裸婦」1887年制作・ポーラ美術館所蔵

「ムール貝採り」1887年制作・ポーラ美術館所蔵

「林檎売り」1890年制作・長島美術館所蔵

「帽子の女」1891年制作・国立西洋美術館所蔵

「水浴する女」1891年制作・DIC川村記念美術館所蔵

「レースの帽子の少女」1891年制作・ポーラ美術館所蔵

「浴女」1892年制作・損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

「赤い服の女」1892年制作・東京富士美術館所蔵

「トリニテ広場」1892年制作・ひろしま美術館所蔵

「ジャン・ルノアールと一緒のガブリエルと少女」1895年制作・村内美術館所蔵

「浴後の女」1896年制作・東京富士美術館所蔵

「読書する少女」1897年制作・北野美術館所蔵

「若いギタリスト」1897年制作・村内美術館所蔵

「読書する女」1900年制作・東京富士美術館所蔵

「胸に花を飾る少女」1900年制作・熊本県立美術館所蔵

「エッソワの風景、早朝」1901年制作・ポーラ美術館所蔵

「クロード・ルノワールの肖像」1902年制作・DIC川村記念美術館所蔵

「果物の静物」1902年制作・上原近代美術館所蔵

「黒褐色の髪の女」1903年制作・DIC川村記念美術館所蔵

「モーリス・ドゥニ夫人」1904年制作・諸橋近代美術館所蔵

「カーニュのテラス」1905年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「カーニュの風景」1905年制作・ポーラ美術館所蔵

「女」1905年制作・大川美術館所蔵

「カーニュ風景」1905年制作・上原近代美術館所蔵

「ココの肖像」1905年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵

「葉と果実の飾りのある若い裸婦」1905年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵

「横たわる浴女」1906年制作・国立西洋美術館所蔵

「バラをつけたガブリエル」1906年制作・上原近代美術館所蔵

「浴女」1907年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「帽子の娘」1910年制作・損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

「ばらをつけた女」1910年制作・国立西洋美術館所蔵

「泉」1910年制作・岐阜県美術館所蔵

「クロワシー付近の支流」1911年制作・ひろしま美術館所蔵

「横になった婦人」1912年制作・上原近代美術館所蔵

「バラ色の服を着たコロナ・ロマノの肖像」1912年制作・鹿児島市立美術館所蔵

「半裸の少女」1913年制作・池田20世紀美術館所蔵

「座る浴女」1914年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「泉による女」1914年制作・大原美術館所蔵

「パリスの審判」1914年制作・ひろしま美術館所蔵

「カニューの庭のルノワールの娘たち」1914年制作・彫刻の森美術館所蔵

「ローヌの腕に飛び込むソーヌ」1915年制作・松岡美術館所蔵

「水浴の後」1915年制作・ポーラ美術館所蔵

「麦わら帽子の女」1915年制作・ひろしま美術館所蔵

「風景の中の三人」1916年制作・国立西洋美術館所蔵

「休息」1916年制作・ポーラ美術館所蔵

「花のついた帽子の女」1917年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「闘牛士姿のアンブウロワーズ・ヴォラール」1917年制作・日本テレビ放送網所蔵

「マドモアゼル・フランソワ」1917年制作・茨城県近代美術館所蔵

「三人の浴女」1917年制作・埼玉県立近代美術館所蔵

「座る裸婦」1918年制作・国立西洋美術館所蔵

「裸婦」制作年不詳・ポーラ美術館所蔵

「ばら」制作年不詳・国立西洋美術館所蔵

「風景」制作年不詳・ポーラ美術館所蔵(2作品)

「水差し」制作年不詳・ポーラ美術館所蔵

「裸婦像」制作年不詳・天一美術館所蔵

「風景」制作年不詳・天一美術館所蔵

「果物皿」制作年不詳・ヤマザキマザック美術館所蔵

「噴水と少女」制作年不詳・北野美術館所蔵

「女の肖像」制作年不詳・サンリツ服部美術館所蔵


54「カミーユ・ピサロ」18301903

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD
参考サイト:http://mmag.pref.gunma.jp/collection/kaigai/pissaro_02.htm

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/53/Pissarro-portrait-c1900.jpg/250px-Pissarro-portrait-c1900.jpg

≪生涯≫:以下参照

カミーユ・ピサロはカリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島の生まれです。家業の金物屋を手伝っていましたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年から1854年(22歳~24歳頃)まで、島を出てベネズエラに旅に出ます。185525歳時、画家を志してパリに出、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合います。185929歳時にサロン・ド・パリに初入選しますが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しい状況でした。当時の作品はコローにならった画風でした。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まりバティニョール派と呼ばれる状況が生まれていましたが、年長のピサロもこれに加わるようになります。1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作を行ううち、明るい色調の絵画を描くようになります。その後1870年の普仏戦争を避けてロンドンにわたり、画商デュラン=リュエルと知り合います。1872からはポントワーズに住み、田園風景を描き続けますがサロンへの応募はせず、デュラン=リュエルの支援を受け、モネらとともに独自のグループ展を計画し1874、第1回印象派展を開催します。しかし当時主流だったアカデミズム絵画の立場からは受け入れられず、新聞からは酷評されます。その後も、印象派展は全8回開かれたが、全てに参加したのはピサロだけでした。第4回印象派展の頃から、主に風景画を描くモネ、ルノワールらの仲間と、風俗画を描くドガとの間でサロンへの立場など様々な問題について意見の対立が顕在化し、ピサロもその調停を試みますがグループの分裂を防ぐことはできませんでした。第7回印象派展の開かれた1882頃には、人物ディエップ画を中心に描くようになり、1884からはエラニーに住みました。1885、若手のジョルジュ・スーラと知り合うと、その点描の技法に感化され、1880年代後半は、周囲の不評にもかかわらず、新印象主義を追求します。最後となる第8回印象派展にスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品させたのもピサロですが、この展覧会は、印象派の終焉を象徴するものとなりました。結局1890年代初めには、点描の限界を感じて新印象派を放棄します。晩年は眼の病気が悪化したこともあり、パリ、ルーアンル・アーヴル、という4都市で、ホテルの部屋などから都市の情景を描く「都市シリーズ」を数多く制作しています。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「エラニーの教会と農園」1884年制作・群馬県立近代美術館所蔵

出典元:http://mmag.pref.gunma.jp/collection/kaigai/pissaro01.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「プージヴァルのセーヌ河」1870年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「冬景色」1873年制作・国立西洋美術館所蔵

「丸太作りの植木鉢と花」1876年制作・松岡美術館所蔵

「菜園」1878年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「ポントワーズ、ライ麦畑とマチュランの丘」1877年制作・静岡県立美術館所蔵

「フルーエットの丘からの眺め、ポントワース」1878年制作・茨城県近代美術館所蔵

「麦藁を積んだ馬車、モンフーコー風景」1879年制作・DIC川村記念美術館所蔵

「ポントワーズのロンデスト家の中庭」1880年制作・大原美術館所蔵

「立ち話」1881年制作・国立西洋美術館所蔵

「収穫」1882年制作・国立西洋美術館所蔵

「ポントワーズの農園」1882年制作・鹿児島市立美術館所蔵

「クリスマスの農家」(エッチング)1883年制作・静岡県立美術館所蔵

「エラニーの教会と農園」1884年制作・群馬県立近代美術館所蔵

「エラニーの牛を追う娘」1884年制作・埼玉県立近代美術館所蔵

「エラニーの村の入口」1884年制作・ポーラ美術館所蔵

「エラニーの農園」1885年制作・サントリーコレクション所蔵

「エラニーの牧場」1885年制作・上原近代美術館所蔵

「エラニーの花咲く梨の木、朝」1886年制作・ポーラ美術館所蔵

「リンゴ採り」1886年制作・大原美術館所蔵

「羊飼いの女」1887年制作・松岡美術館所蔵

「花咲くプラムの木」1889年制作・姫路市立美術館所蔵

「ロンドン、ハイドパーク」1890年制作・東京富士美術館所蔵

「エラニーの秋」1895年制作・国立西洋美術館所蔵

「ルーアンの波止場・夕日」1896年制作・ヤマザキマザック美術館所蔵

「水浴する女たち」1896年制作・ひろしま美術館所蔵

「エラニーの菜園」1899年制作・福島県立美術館所蔵

「積み藁のあるエラニーの牧場」1899年制作・村内美術館所蔵

「チェイルリー公園の午後」1900年制作・サントリーコレクション所蔵

「春、朝、曇り、エラニー」1900年制作・東京富士美術館所蔵

「秋、朝、曇り、エラニー」1900年制作・東京富士美術館所蔵

「ポンヌフ」1902年制作・ひろしま美術館所蔵

「カルーゼル橋の午後」1903年制作・松岡美術館所蔵


55「アルフレッド・シスレー」18391899

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%BC
参考サイト:http://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1210

「肖像画(ルノワール作)」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/60/Pierre-Auguste_Renoir_110.jpg/220px-Pierre-Auguste_Renoir_110.jpg

≪生涯≫:以下参照

アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley18391030日~1899129日)は、フランス生まれのイギリス人の画家です。シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、パリ周辺の風景を題材にした穏やかな風景画で、人物、室内画、静物といった他のジャンルは全て合わせてもおそらく20点に及びません。他の印象派の画家の多くが後に印象派の技法を離れて行きますが、シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続け、もっとも典型的な印象派の画家と評されています。18391030日、裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれました。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商で4人兄弟の末っ子でした。185718歳のロンドンに移り叔父のもとでビジネスを学びますが、商業よりも美術に関心を持ち、当時のロンドンでターナーコンスタンブル等の作品に触れています4年後中断してパリに戻り、フレデリック・バジールのすすめでマルク=シャルル=ガブリエル・グレールのアトリエで学び、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会います彼等はスタジオで絵を描くことより戸外で風景画を制作するグループで、彼の作品は色彩豊かで大胆であったため、展示されたり売れることはなく、当時のサロンの審査員からは受け入れられませんでした。そんな1860年代、シスレーは父親の援助により他の画家たちよりは経済的に恵まれた立場ありました。当時はとくにルノワールと親しく、ルノワールはシスレーの父親やシスレーと恋人の肖像画等を描き、前者を1866年のサロンに出品したりしています同じく1866年にフォンテーヌブローの風景を描いたシスレーの2作品がパリのサロンに入選しますが、その翌年にはルノワール、ピサロ、セザンヌ、バジール等と共に落選しています。これに不満を持った画家たちは、美術界を騒がせたマネの「落選展」に倣って落選界を行い怒りをぶつけようとしが実現は叶いませんでした。また私生活面では1866年に花屋のマリー・ルイーズ・アデライード・ウジェニー・レクーゼクと出会い、翌年、息子ピエールが生まれ、2年後には娘ジャンヌが生まれています。しかし、この二人の関係を父親のウィリアムは認めず、シスレーへの仕送りをストップしてしまいますが、その後、1870普仏戦争によって全ての財産を失ってしまったシスレーは頼る者もおらず困窮生活が始まりますその一方、1870年に入るとシスレーは画家として全盛期を迎えます。シスレーの画家としての進歩は目ざまし、数か月で前印象主義的な表現に到達したというエピソードが有名です。彼の作風は同時代の仲間たちと競い合い、同調した末に獲得したものでが、その仲間たちの制作が一つの形になったのが「印象派展」で。印象派展は、1873年の後半に、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ベルト・モリゾ、 エドガー・ドガなどが「画家・彫刻家・版画家の共同出資会社(Société Anonyme Coopérative des Artistes Peintres, Sculpteurs, Graveurs) 」を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画し、18744月に写真家ナダールのスタジオで開かれました。シスレーは、8回の印象派展のうち4回参加していますが、この印象派展は新聞などで嘲笑の的となり、モネやルノワールは批判を浴びますがシスレーは批判の対象外でした。これは、受け入れられていたではなく、一方的に批判され賛否の余地すらなかったので。この事にシスレーはいつも落胆していましたが彼の制作の情熱を止めるまでには至らなかったのです1880年代にはパリ南東のロワン川沿いに制作の拠点を移します。元々大人しい性格シスレーにとって印象派の運動は仲間たちと過ごす貴重な時間だったのですが、精神的に疲れ、郊外での静かな制作活動に回帰しままた郊外に拠点を移したのは経済面での理由もあったと言われています父親からの支援を失って以降、晩年になってもシスレーの経済的な苦しさは解消されることはありませんでした。印象派のグループの画家達は同じように貧困の時期を経験していますが、時間と共に経済面は安定して行きますが、唯一、シスレーは死ぬまで金銭面で苦しんだ画家でた。188911月には住みやすさを考えてか、街中のモンマルトン通りの小さな家に移り住み、ここが終の住処なります。シスレーの最後の旅行は、1897年の南ウェールズ訪問でこの時、長く生活を共にしたウジェニーと婚姻届を提出しています189710月にパリに戻ったシスレーは、翌年98年に喉頭癌を患っていることが分かります。また妻ウジェニーが舌癌で没し、精神的な支柱も失ってしまシスレーの身体は急速に衰えていき、更に翌年の1899129日、モレ=シュル=ロワンにて自身も喉頭癌で死去します享年59歳でた。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「牧草地の牛、ルーヴシエンヌ」1874年制作・東京富士美術館所蔵

出典元:http://www.fujibi.or.jp/assets/images/collection/thumb_c/thumb_c_01210.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「森へ行く女たち」1866年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「ルーヴシエンヌの風景」1873年制作・国立西洋美術館所蔵

「マルリーの水飼い場」1873年制作・ポーラ美術館所蔵

「牧草地の牛、ルーヴシエンヌ」1874年制作・東京富士美術館所蔵

「塔」1875年制作・姫路市立美術館所蔵

「マルリーの通り」1879年制作・大原美術館所蔵

「秋風景」1880年制作・上原近代美術館所蔵

「サン・マメスの平原、2月」1881年制作・サントリーコレクション所蔵

「サン・マメスのロワン河畔の風景」1881年制作・鹿児島市立美術館所蔵

「サン・マメス6月の朝」1884年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「森のはずれ、6月」1884年制作・サントリーコレクション所蔵

「サン・マメスのロワン運河」1885年制作・ヤマザキマザック美術館所蔵

「サン・マメス」1885年制作・ひろしま美術館所蔵

「麦畑から見たモレ」1886年制作・松岡美術館所蔵

「葦の川辺、夕日」1890年制作・茨城県近代美術館所蔵

「ロワン河畔、朝」1891年制作・ポーラ美術館所蔵

「積み藁」1895年制作・諸橋近代美術館所蔵

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