日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画・その3/2018年7月更新

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日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画その3

日本には西洋印象派の絵を愛好する方が沢山いらっしゃいます。また国内の美術館も熱心にそれらの絵画を収集所蔵してきた歴史がございます。そこでご紹介します「日本の美術館所蔵の西洋印象派の名画」情報です。多数に上りますので主だったものをリスト化して御案内します。なお記事全体を「その1・その2・その3」に分けて案内しています。(その1・その2は以下から閲覧注意できます)

その1:https://bonvoyagejapan.com/insyouha-sono%E2%80%901/

その2:https://bonvoyagejapan.com/insyouha-sono-2/

≪インデックス≫

【その1

西洋印象派の概要

1.「古典派」

2.「ロマン派」

3.「バルビゾン派」

4.「写実派」

【その2

5.「印象派」

【その3

6.「新印象派」

7.「後期印象派」

8.所蔵美術館情報一覧


6.「新印象派とは」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE

新印象派(neo-impressionism)とは、印象派の動きを受けて、19世紀末(1880年代前半頃)から20世紀初頭にかけて存在した絵画の一傾向で新印象主義とも呼ばれます。ジョルジュ・スーラにより創始されたもので、科学性を重視し、印象派による光の捉え方(いわゆる色彩分割)を、より理論化し、点描法によって、光をとらえることができる、と考える技法です。具体的には、ゲーテシュヴルールの色彩理論に大きく依拠していると言われその為、新印象派の作品の多くは、点描画表現

61「ジョルジュ・スーラ」18591891

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%A9
参考サイト:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/seurat.html

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Georges_Seurat_1888.jpg/220px-Georges_Seurat_1888.jpg

≪生涯≫:以下参照

1859パリの裕福な中産階級の家庭に生まれます。1878エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学しますが、兵役のため1年ほどで学業を中止します。1883サロンに素描が1点入選し、この年から最初の大作『アニエールの水浴』の制作に着手します。この作品には部分的に点描に近い画法が見られますが、人物の肌などは伝統的な技法で描かれています。スーラは大作を仕上げるまでに、多くの素描や油彩下絵を制作し、全体の構図、モチーフの選択と配置、人物のポーズなどを細かく研究している特徴があります。縦16センチ、横25センチほどの板に油彩で描いた下絵(スーラ自身はこれを「クロクトン」と呼ぶ)を数多く残し、『アニエールの水浴』のための「クロクトン」は13点が残されています。『アニエールの水浴』は1884年に完成しましたが、サロンには落選し、同年のアンデパンダン展(独立芸術家協会展)に出品されています。同じ1884年には生涯最大の大作で代表作でもある『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の制作に着手していますグランド・ジャット島に集う50人ほどの人物を点描で描き出したこの大作は、1886年の第8回印象派展(最後の印象派展)に出品され大変な話題となります。「新印象派」という名称は、この作品を見た批評家フェリックス・フェネオンが同年発表した雑誌記事の中で最初に使ったものです。スーラは、以上2作のほか『ポーズする女たち』(1886–88年)、『サーカスの客寄せ』(1887–88年)、『シャユ踊り』(1890年)、『サーカス』(1890–91年、未完)を含めた6点の比較的大きな作品を短い生涯の間に残しています。作品は、上記の6点のほかには油彩約60点とクロクトン(油彩下絵)約170点、素描約230点が残るのみと言われています。典型的な中産階級の家庭に生まれ、正規の美術教育を受けたスーラは、早世したという点を除いては特に波乱のない平穏な人生を送っており寡黙で内省的な性格で、私生活については他人に全く語ることがありませんでした。スーラは死の直前の1890年、内縁関係にあった女性との間に一子をもうけていますが、スーラの母親さえそのことをしばらく知らなかったというほど、秘密主義を貫いていた一生でした。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「村はずれ」1883年制作・ひろしま美術館所蔵

出典元:http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/images/seurat_murahe-web.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「働く農夫」1882年制作・メナード美術館所蔵

「村はずれ」1883年制作・ひろしま美術館所蔵

「グランカンの干潮」1885年制作・ポーラ美術館所蔵

「アンサンブル(サーカスの客寄せ)」1887年制作・メナード美術館所蔵


7.「後期印象派」とは

1880年代になると印象派の画家たちの結びつきは薄くなり、1886年の印象派展が最後の開催になります。モネをはじめとした印象派の画家たちは、純粋な「目」になろうとしました、後期印象派のセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホは、それだけでは満足できず「絵とは何をすべきか」を改めて追求しま。この3人は技法も理念も異なっていますが、この3人によって20世紀の絵画の進む道が示されと言っても過言ではありません。。セザンヌはピサロの誘いで第1回と第3回の印象派展に参加しましたが、自然の見方が印象派と違っていました。セザンヌは「印象主義を、美術館の芸術のように堅固で持続性のあるものにしたい」と考え、形や空間のとらえ方に新しい視点を持ち込み、構築された絵画を追求しました。セザンヌにとって絵画とは現実を再現するものではなく、固有の論理をもって独立した世界でした。ゴーギャンは日曜画家として出発し、ピサロとの親交を得て画家になります。はじめは印象派風の絵を描いていましたが、その後想像力を重視した構成画を描くようになります。はっきりした輪郭線や平坦な色面が特徴のこの手法は「総合主義」と呼ばれ、ブルターニュのポン・タヴェン村にゴーギャンの刺激を受けた画家が集まり、ポン・タヴェン派と呼ばれこの様式はその後、ナビ派に受け継がれます。ゴッホにとって色彩は感情を表すための要素であり、ゴッホの激しい筆致と色彩はその後の表現主義やフォーヴィスムの画家たちに強烈な影響を与えます。

71「ポールセザンヌ」18391906

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8C
参考サイト:http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=191719

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a8/Paul_C%C3%A9zanne.jpg/220px-Paul_C%C3%A9zanne.jpg

≪生涯≫:以下参照

1839119日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれ同年222日、教区の教会で洗礼を受けました。父のルイ=オーギュスト・セザンヌは、最初は帽子の行商人でしたが商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者でした。祖先はイタリア出身と考えられ母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814-1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人でした。セザンヌの出生時には2人は内縁関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、1844になって入籍しています。更に1854年妹ローズが生まれています。 セザンヌは中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となります。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていましたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出ます。パリでは、後の印象派を形作るピサロモネルノワールらと親交を持ちますが、この時期の作品にはロマン主義的な暗い色調のものが目立ちます。当時はサロンに幾度となく応募しますが、落選を続けます。この頃1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めています。当時ピサロと戸外での制作をともにすることも多く、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展しますが、厳しい批評が多数に上ります。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移し、印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになっていきます。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはありませんでしたが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていきます。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『作品』を発表した頃から、彼とは疎遠になっていきます。1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも一挙に知られるようになります。制作は晩年までエクスで続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られることとなります。19061015日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去します。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われまし

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「大きな花束」1892年制作・東京国立近代美術館所蔵

出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/s0226024.jpg

「宴の準備」1890年制作・国立国際美術館所蔵

出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/mid/nmao/10297m.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「坂道」1867年制作・永青文庫所蔵

「林間の空地」1867年制作・諸橋近代美術館所蔵

「ウルビノ壺のある静物」1872年制作・上原近代美術館所蔵

「静物(鉢と牛乳入れ)」1873年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「オーヴェールの曲がり道」1873年制作・東京富士美術館所蔵

「アントニー・ヴァラブレーグの肖像」1874年制作・ポーラ美術館所蔵

「聖アントニウスの誘惑」1874年制作・笠間日動美術館所蔵

「水浴の女」1877年制作・和泉市久保惣記念美術館所蔵

4人の水浴の女たち」1877年制作・ポーラ美術館所蔵

「りんごとナプキン」1879年制作・損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

「プロヴァンスの風景」1879年制作・ポーラ美術館所蔵

「ポントワーズの橋と堰」1881年制作・国立西洋美術館所蔵

「縞模様の服を着たセザンヌ夫人」1882年制作・横浜美術館所蔵

「水浴」1883年制作・大原美術館所蔵

「ジャ・ド・ブッファンの眺め」1885年制作・国立西洋美術館所蔵

「風景」1885年制作・白樺美術館所蔵

「北フランスの風景」1885年制作・鹿児島市立美術館所蔵

「葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々」1885年制作・国立西洋美術館所蔵

「アルルカン」1888年制作・ポーラ美術館所蔵

「曲がった木」1888年制作・ひろしま美術館所蔵

「水差しとスープ容れ」1888年制作・国立西洋美術館所蔵

「静物」1888年制作・ポーラ美術館所蔵

「帽子をかぶった自画像」1890年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「坐る農夫」1890年制作・ひろしま美術館所蔵

「宴の準備」1890年制作・国立国際美術館所蔵

「永遠の女性」1890年制作・国立西洋美術館所蔵

「水の反映」1892年制作・愛媛県美術館所蔵

「ガルダンヌから見たサント・ヴィクトワール山」1892年制作・横浜美術館所蔵

「大きな花束」1892年制作・東京国立近代美術館所蔵

「砂糖壺、梨とテーブルクロス」1893年制作・ポーラ美術館所蔵

「舟にて」1900年制作・国立西洋美術館所蔵

「麦藁帽子を被る子供」1902年制作・清春白樺美術館所蔵

「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」1904年制作・ブリヂストン美術館所蔵


72「フィンセント・ファン・ゴッホ」18531890

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B
参考サイト:http://www.sjnk-museum.org/collection/gogh
参考サイト:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/highlight/picasso.html

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e7/Vincent_van_Gogh_photo.jpg/160px-Vincent_van_Gogh_photo.jpg

≪生涯≫:以下参照

ファン・ゴッホは1853年オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれました。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグロンドンパリで働きますが、1876年、商会を解雇されます。その後イギリスで教師として働いたり、オランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダム神学部の受験勉強を始めますが挫折します。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意します。以降、オランダのエッテン、ハーグ、ニューネンベルギーアントウェルペンと転々とし、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けます。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品と評されています。18862月、テオを頼ってパリに移り、印象派新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになります。この時期の作品としては『タンギー爺さん』などが知られていますが、日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っています18882月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出します。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まりますが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は破綻します。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返し18895月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所しますしかし発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けます。18905月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けますが、727日に銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡します。発作等の原因については、てんかん統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されています。 生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われていますが、晩年には彼を高く評価する評論が現れていました。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がり、市場での作品評価も急騰していきました。彼の生涯は多くの伝記や、映画『炎の人ゴッホ』に代表される映像作品で描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになっていきます。弟テオや友人らと交わした多くの手紙が残され、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができます。。約10年の活動期間の間に、油絵860点、水彩画150点、素描1030点、版画10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2,100枚以上の作品を残しています。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵で一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られています

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「ひまわり」1889年制作・損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

出典元:http://www.sjnk-museum.org/wp/wp-content/uploads/2014/07/himawari.png

「モンマルトルの風車」1886年制作・ブリヂスト美術館所蔵

出典元:http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_01/img/img_post02.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「座る農婦」1884年制作・諸橋近代美術館所蔵

「鋤仕事をする農婦のいる家」1885年制作・東京富士美術館所蔵

「窓辺の農婦」1885年制作・アサヒビール大山崎山荘美術館所蔵

「モンマルトルの風車」1886年制作・ブリヂスト美術館所蔵

「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」1888年制作・ポーラ美術館所蔵

「ばら」1889年制作・国立西洋美術館所蔵

「ひまわり」1889年制作・損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

「草むら」1889年制作・ポーラ美術館所蔵

「アルビーユの通り」1889年制作・大原美術館所蔵

「一日の終り(ミレーによる)」1889年制作・メナード美術館所蔵

「サン・レミの道」1890年制作・笠間日動美術館所蔵

「アザミの花」1890年制作・ポーラ美術館所蔵

「ドービニーの庭」1890年制作・ひろしま美術館所蔵


73「ポール・ゴーギャン」18481903

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3
参考サイト:http://artmatome.com/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%80%80%E3%80%90%E7%95%A5%E6%AD%B4%E3%81%A8%E4%BD%9C%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7%E3%80%91/
参考サイト:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a07.html

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d3/PaulGauguinblackwhite.jpg/220px-PaulGauguinblackwhite.jpg

≪生涯≫:以下参照

ゴーギャンは、1848年にパリで父クロヴィスと母アリーヌの元に生まれます。父は共和派のジャーナリストで母は社会主義思想の女性作家フローラ・トリスタンの娘です。ゴーギャンは生まれながらに、平等を重んじる思想と貧困に対する関心が強かったと考えられます。ゴーギャンは生まれた翌年には、弾圧を避けるために家族でペルーのリマへ赴きます。この旅の途中、父クロヴィスはペルーへの船内で急死し、残された家族は無事にペルーへ到着し現地で歓迎されます。ゴーギャンはこのペルーの地で6年間生活しています。ゴーギャンが7歳の時、父方の祖父の死去をきっかけに、再び一家はフランスに戻り、オルレアンで生活を始めます。中等神学校に進学しますが14歳の時に退学し、母が出稼ぎに行っていたパリへ移ります17歳の時には船員として働き、南米など世界各国を航海しています。この時の異国との出会いは、ゴーギャンの人生にとって大きな意味を持ち、後の作品でも南国をテーマにしたものが多数制作されています19歳のゴーギャンが世界を航海している頃、母アリーヌ41歳の若さで死去し、航海中であったため母の最期を看取れなかった経緯があります1868年、20歳の頃に船乗りの経験を生かし、海軍へ入隊し71年までの3年間エーゲ海や地中海、バルト海などを航海し、その後、除隊となりパリへ戻って生活を始めますパリに移り住んだゴーギャンは、パリ株式取引所で働き始め、この職場でエミール・シュフネッケルと出会います。アマチュア画家であったシュフネッケルの誘いに乗り、画塾に通い始めたゴーギャンは一気に絵画への関心を高めていきます。またこの頃、印象派の画家カミーユ・ピサロにも出会ったことで、印象派への関心も高まり、ゴーギャンが画家として歩むきっかけになっていきます。私生活では、1873年に2歳年下のデンマーク人女性メット=ソフィー・ガットと結婚し、74年から83年にかけて41女が生まれます。画家として出発を始めたゴーギャンは、ピサロとの出会いから2年後にはサロンへ出品し入選しそれから更に3年後の79年にピサロと親交を深めるうちにドガとも親しくなっていきます。この年には第四回印象派展に7点の作品を出品し、続いて80年の第五回印象派展、81年の第六回印象派展に続けて作品を出品しています。しかし、この頃まではあくまで主体は株式仲介人の仕事で、休日画家としての活動を続けていたにすぎません82年に、第七回印象派展に出品しますが、この年に金融恐慌が起こり本職の株式仲介人の仕事を辞める決意を翌年の1月には仲介人の仕事辞め、本格的に画家として生きていく道を歩み始めます。それから暫くは経済的に困難な生活が続き、84年には物価の高いパリからルーアンに移住します。しかし、生活苦はゴーギャンの家族をも苦しめ、一時的な別居や妻の両親との関係悪化を招き、ゴーギャンにとって辛い日々が続き、翌年85年にはパリに戻りポスター貼りなどの仕事で日銭を稼ぐ生活を送っています1886年に最後の印象派展となった第八回展では、当初の印象派メンバーは出品しておらず、ジョルジュ・スーラなどの若き画家の作品が多く出品されま、これより印象派の時代は幕を閉じ、新たな時代である「後期印象派」が始まったと言われています。ゴーギャンも印象派の表現から脱却し、独自の表現を求める活動を始めます。同年にブルターニュ地方のポン=タヴェンに赴き「ここに野生と、プリミティヴ(原始的)なものを見出す」と記しおり、ここからゴーギャンの画家としての方向性が大きく動き出したと言えます。また、同時期にフィンセント・ファン・ゴッホと出会い行動を共にしたことも彼の人生では大きな意味を持っていきます。1888年は、エミール・ベルナールとの出会いとゴッホとの南仏旅行からの共同生活などゴーギャンにとって激動の年となっていきます。ゴッホとの出会いは、「耳切り事件」で共同生活の破綻で幕を下ろしますが、ゴッホの情熱的で絵画への狂気に近い感情に触れてゴーギャンの心境に変化があったことは想像に難くありませんゴーギャンは、1891年からタヒチに渡り精力的な活動を始めます。独自の画風展開を進める中で、「野生」と「情熱」という表現したい対象が出来たことで南国への憧れが強烈に強くなっていきます。前年の秋から計画を立て、912月には旅行費の工面の為に自身の作品の多くをを競売にかけています。この頃のインタビューでタヒチに行く目的を聞かれ「文明の影響からの解放」や「汚れのない自然の中で自分を鍛え直し、野生人にしか会わず、生きる必要がある」と語っています。914月にマルセイユ港から旅立ったゴーギャンは、6月にはタヒチのパペーテに到着します。タヒチでは、現地女性のテハマナと同棲しながら作品制作を行い、その翌年6月にフランスに帰国し、パリで初めてタヒチで制作した作品が展示されます。この展示の期間時期に、ブルターニュで制作を行っていますが、ゴーギャンの関心はタヒチで見たイメージを反芻しながら描く事でた。1895年は再びタヒチに向かうべく、2月に47点の作品を競売にかけ旅行費を工面しようとしますが、実際に売れたのは9点のみ(うちドガが2点を買った)でした。この競売失敗の原因は明白で、前年のタヒチ作品の個展が不評であり、この時期のゴーギャン作品の評価は低かったのです。思うような資金を集められなかったゴーギャンは失意の中でタヒチに旅立ち、9月にパペーナに到着します。現地では制作の傍ら、現地の女性パウラと同棲を始め、9612月には二人の間に子供が産まれますがすぐに亡くなります。翌年4月には長女アリーヌの死の知らせを聞き、立て続けの不幸から体調が悪化。この精神的、肉体的な苦痛を作品にぶつけた『我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか』を12月に制作します。この頃、砒素を飲んで自殺を図っている(未遂)ことから『我々はどこから来たのか・・・』はゴーギャンの遺書的な作品であるとされています自殺未遂を図り、苦しみにもがいていたゴーギャンは、19019月にタヒチを離れマルケサス諸島のヒヴァ=オア島に移り住みます。ここで新たな家を建て、自身の芸術を最終段階まで完成させる為に活動を続けます。11月に書いたモンフレー宛てた手紙の中で「ここにひとりでいると鍛え直される。<中略>私の芸術をある段階まで完成させることができるだろう。」と記しています。その後、1903年に死去するまでの2年間は制作に励みますが、紙面への寄稿を取り下げられたり、名誉棄損で禁固刑と罰金を宣告されるなど苦悩の日々は続いていました。禁固刑が宣言された19033月に控訴の準備を始めていたが、この時にはもう体力的にも限界が来ており、その僅か2か月後の58日に突然倒れそのまま死去します享年54歳でた。

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「かぐわしき大地」1892年制作・大原美術館所蔵

出典元:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/img/C/img_c3/works_c3a_07.gif

・日本国内所蔵作品については以下参照

「水浴の女たち」1885年制作・国立西洋美術館所蔵

「若い女の顔」1886年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「白いテーブルクロス」1886年制作・ポーラ美術館所蔵

「ポン・タヴェンの木陰の母と子」1886年制作・ポーラ美術館所蔵

「愛の森の水車小屋の水浴」1886年制作・ひろしま美術館所蔵

「馬の頭部のある静物」1886年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「ブルターニュ風景」1888年制作・国立西洋美術館所蔵

「ポン・タヴェン付近の風景」1888年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「アリスカンの並木道、アルル」1888年制作・損保ジャパン日本興亜美術館所蔵

「海辺に立つブルターニュの少女たち」1889年制作・国立西洋美術館所蔵

「乾草」1889年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「ブルターニュの子供」1889年制作・福島県立美術館所蔵

「家畜番の少女」1889年制作・静岡県立美術館所蔵

「異国のエヴァ」1890年制作・ポーラ美術館所蔵

「画家スレヴィンスキーの肖像」1891年制作・国立西洋美術館所蔵

「小屋の前の犬、タヒチ」1892年制作・ポーラ美術館所蔵

「かぐわしき大地」1892年制作・大原美術館所蔵


74「アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック」18641901

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%9D%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF
参考サイト:http://hanga-museum.jp/collectionimage/list023
参考サイト:http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/mmoa-collect055.html

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Photolautrec.jpg/220px-Photolautrec.jpg

≪生涯≫:以下参照

南仏のアルビで生まれます。トゥールーズ=ロートレック家は伯爵家であり、祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる名家です。幼少期には「小さな宝石(Petit Bijou)」と呼ばれて家中から可愛がられて育ちます。しかし弟が夭折すると両親が不仲となり、8歳の時には母親と共にパリに住み、そこで絵を描き始めます。すぐに母親は彼の才能を見出し、父親の友人の画家からレッスンを受けるようになります。しかし13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折して以降、脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎませんでした。胴体の発育は正常でしたが、脚の大きさだけは子供のままの状態でした。現代の医学的見解では彼の症状は、両親の近親婚に起因する骨粗鬆症骨形成不全症などの遺伝子疾患であったと考えられています。病気により、アルビに戻ったロートレックは活動を制限され、父親からは疎まれるようになり、孤独な青春時代を送ります。 1882パリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学びますが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年まで同地で活動します。なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホエミール・ベルナールらと出会っています また絵画モデルであった、マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(後のシュザンヌ・ヴァラドン)のデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作ります。自身が身体障害者として差別を受けていたこともあ、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感し、パリのムーラン・ルージュをはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、旺盛な性欲をもとに娼婦たちと頻繁に関係を持つ退廃的な生活を送ります。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描きます。作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家であり、「小さき男(Petit Homme)」、「偉大なる芸術家Grand Artiste)」と形容されました。また、脚の不自由だった彼は、しばしば疾走する馬の絵を描いています。彼のポスターやリトグラフ日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインも用いています。差別を受けたストレスなどからアブサンなどの強い酒に溺れ、アルコール依存に陥っていた他、奔放な性生活もあって梅毒も患っており、心身共に衰弱していきます。家族によってサナトリウムに短期間強制入院させられた後、友人らと旅行に出た後の1901820、パリを引き払って母親のもとへ行き、同年99、ジロンド県のサンタンドレ=ドゥ=ボワ近郊にある母親の邸宅、マルロメ城で両親に看取られ脳出血で死去しました。最期の言葉は、障害を持つようになってから自身を蔑み、金品は与えたが描く絵を決して認めなかった父親に対して発した「馬鹿な年寄りめ!(Le vieux con!)」であったと言われています享年36歳。城の近くのヴェルドレに埋葬されまし

≪日本国内で所蔵されている作品≫

「ル・ディヴァン・ジャポネ」1893年制作・宮城県美術館所蔵

出典元:http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/image/200913.jpg

「ミス・ロイ フラー」(リトグラフ)1893年制作・町田市立国際版画美術館所蔵

出典元:http://hanga-museum.jp/static/files/023_L.jpg

・日本国内所蔵作品については以下参照

「ディヴァン・ジャポネ」制作年未確認・三菱一号館美術館所蔵

「マルセル・ランデール嬢、胸像」制作年未確認・三菱一号館美術館所蔵

「彼女たち/座る女道化師」制作年未確認・三菱一号館美術館所蔵

「ムーランルージュのイギリス人」年制作・三菱一号館美術館所蔵

「イ・ベルフォール」制作年未確認 ・三菱一号館美術館所蔵

「メイ・ミルトン」制作年未確認・三菱一号館美術館所蔵

「レスタンプ・オリジナル表紙」制作年未確認・三菱一号館美術館所蔵

「アリスティド・ブリュアン」1893年制作・ひろしま美術館所蔵

「ルイ13世風の椅子のリフレイン」1886年制作・ひろしま美術館所蔵

「アルビ」1864年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「マルメロ」1901年制作・ブリヂストン美術館所蔵

「彼女たち」制作年未確認・富山県立近代美術館所蔵

「マンジの肖像」制作年未確認・富山県立近代美術館所蔵

「ディヴァン・ジャポネ」1893年制作・下関市立美術館所蔵

「ル・ディヴァン・ジャポネ」1893年制作・宮城県美術館所蔵

「ミス・ロイ フラー」(リトグラフ)1893年制作・町田市立国際版画美術館所蔵

「ダンス」1888年制作・メナード美術館所蔵

「マルセル・ランデの胸像」(版画)制作年未確認・国立西洋美術館所蔵

「アンナ・ヘルト」(版画)制作年未確認・国立西洋美術館所蔵

「写真家エスコー」(版画)制作年未確認・国立西洋美術館所蔵

「破産を演じるアントワーヌとジェミニ」(版画)制作年未確認・国立西洋美術館所蔵

「ツィンマーマン」(版画)制作年未確認・国立西洋美術館所蔵

「ムーランルージュのイギリス人」(リトグラフ)1892年制作・三重県立美術館所蔵

「マルトX夫人」制作年未確認・大原美術館所蔵

「一度は習慣ではない」制作年未確認・熊本県美術館所蔵

≪次ページパート2≫もご覧ください

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