日本で人気の海外脚本家たち

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日本で人気の海外脚本家たち

昨今、監督業も兼ねる脚本作家が輩出していますが、作品の善し悪しは結局、脚本です。興行収入を誇る映画が幅を利かす時代ですが、そんな中で日本国内で高評価の海外脚本家をご紹介します「日本で人気の海外脚本家たち」情報です。(*映画中心で、舞台やテレビ作品は除いています)

アイキャッチ画像参考サイト:http://hajimekadoi.com/movie-create-technique-lipsynch

≪ノミネートリスト≫

1「アレクサンダー・ペイン」

2「ウディ・アレン」

3「クエンティン・タランティーノ」

4「サイモン・ペグ」

5「ジョン・ローガン」

6「チャーリー・カウフマン」

7「デヴィッド・マメット」

8「ナンシー・マイヤーズ」

9「ニール・サイモン」

10「フランク・ダラボン」

11「ポール・トーマス・アンダーソン」

12「リチャード・リンクレイター」


1「アレクサンダー・ペイン」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3

参考サイト:https://eiga.com/person/13410/

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Alexander_payne.jpg

生年月日情報:1961210日ネブラスカ州オマハ生まれ

プロフィール:1961年にオマハギリシャ系の両親のもと3人兄弟の末っ子として生まれる。ダンディー・ハッピー・ホロー歴史地区で育ち、近所にはウォーレン・バフェットがいた。幼い頃から映画撮影に興味を示し、14歳の時には8mmカメラの扱いに慣れていた。クレイトン・プレップ・スクールでは学内新聞のコラムを書き、卒業アルバムの編集員を務めた。スタンフォード大学ではスペイン語と歴史を二重専攻し、学位のためスペインとコロンビアに滞在。1990年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校フィルムスクールで芸術修士を修めた。ロサンゼルスでルームメイトになったジム・テイラーとタッグを組み脚本を執筆。テイラーとは時に2つのキーボードを1つのモニターに接続して共同執筆していた。2004年の『サイドウェイ』でアカデミー脚色賞をテイラーと共同受賞。同映画に出ていた女優サンドラ・オー2003年に結婚したが、2005年に別居状態であることが明らかになり、翌年離婚した。2011年の『ファミリー・ツリー』で再びアカデミー脚色賞を受賞した。2012年にはカンヌ国際映画祭の審査員に選ばれ、翌年には『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』がパルム・ドールにノミネートされた。アメリカ社会の家族・夫婦関係をテーマにし、風刺やブラック・ユーモアを混ぜる作風が特徴。1970年代の映画や、サイレントコメディーに影響を受け、リアルな描写を重視し、脇役には本職の教師や警官など非俳優を使うこともある。美術館やラシュモア山など有名な観光名所を毎作取り入れ、電話モノローグを象徴的に使うことでも知られる。

主な脚本作品:以下参照

2018年「ダウンサイズ」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/87375/photo/d49094d94daa451d/640.jpg?1512460814

2012年「ファミリーツリー」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/57144/poster.jpg?1335538800

2009年「サイドウェイズ」

2003年「アバウト・シュミット」

2001年「ジュラシックパークⅢ」


2「ウディ・アレン」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3

参考サイト:https://eiga.com/person/18985/

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/77339/gallery/main_large.jpg?1396889434

生年月日情報:1935121日ニューヨーク州ブルックリン生まれ

プロフィール:以下参照

アカデミー賞に史上最多の24回ノミネートされ、監督賞1度、脚本賞3度受賞している。身長160cm。本名はアラン・スチュアート・コニグズバーグ(Allan Stewart Konigsbergウディ・アレンは、ニューヨークブロンクス区で、ロシア系=オーストリア系ユダヤ人の家庭に生まれた。父親のマーティン・コニグズバーグ(Martin Konigsberg,19001225日~2001113)と母親のネティー(Netty Cherrie Konigsberg,1908年~20021月)はアレンが生まれてから妹のレッティLetty1943年~ )が生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされた。 コニグズバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間もの間ヘブライ語学校に通うことになった。これは宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。パブリック・スクール卒業後、1949にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに傾倒し16歳の時に、マジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつけた。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いヤツ」という評判が立ち、アレンは徐々にコメディに傾倒し、その道を志望するようになっていった。1952、ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄や『ニューヨーク・デイリー・ミラー』、『ニューヨーク・ポスト』などにいわゆる「ハガキ職人」としてギャグを送り始めた。この頃から、筆名として「ウディ・アレン」を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった

1953、アレンはニューヨーク大学教養学部に入学。映画製作を専攻し、英文学スペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートは例の調子でコメディ風といった調子で、中退してしまった。ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、アレンのさぼり癖はおさまらず、またもや中退。母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考えるようになり、親戚のエイブ・バロウズという最強のコネを使って後押した。

1955、同級生の兄ハーヴィ・メルツァーとマネージメント契約を結び、この有能なマネージャーの強烈な推薦で、NBCの放送作家養成プログラムに参加し、アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになった。シド・シーザーのグループで、ダニー・サイモンメル・ブルックスラリー・ゲルバードらとともに働いた。1958、アレンとゲルバードは、シド・シーザーの特別番組でシルヴァニア賞を受賞し、同作品はエミー賞にもノミネートされた。『パット・ブーン・ショー』で再びエミー賞にノミネートされ、放送作家としての地位を確固たる物にした。しかし、アレンは放送作家という仕事に興味を持てなくなる一方で、続々舞い込む仕事に心を病み、1959から精神科への通院を始める。 『パット・ブーン・ショー』が打ち切られた1960から、アレンはスタンダップ・コメディアンとして活動を始める。『ブルー・エンジェル』での初舞台は散々な評価に終わったが、舞台を重ねるうちに腕をメキメキと上げて、人気を集めていった。19628月には、『ニューズウィーク』誌がアレンを「シェリー・バーマンモート・サールレニー・ブルースに次いで現れたコメディアンの中で最も革新的」と評価し、19632月には『ニューヨーク・タイムズ』誌が同様の舞台評を書くまでになった。評判を聞き、映画界からのオファーが飛び込み、アレンはその世界へと身を投じた。初めて映画の脚本を手がけた「何かいいことないか子猫チャン」で俳優としてもデビューし、「泥棒野郎」が単独での初監督作となる。当時の恋人ダイアン・キートンをヒロインに迎えた「アニー・ホール」で、アカデミー監督賞と脚本賞を受賞するが授賞式は欠席。その時間にニューヨークのパブで趣味のクラリネットを演奏していたというエピソードが知られている。その後、私生活でもパートナーになったミア・ファローをミューズに「ブロードウェイのダニー・ローズ」、「ハンナとその姉妹」などを撮る。後者でアカデミー脚本賞を再び受賞。ほとんどの作品でニューヨークを舞台にしていたが、近年は「マッチ・ポイント」、「タロットカード殺人事件」、「ウディ・アレンの夢と犯罪」の“ロンドン3部作”のようにヨーロッパの都市を舞台にした作品が増えてきた。スペイン・バルセロナが舞台の「それでも恋するバルセロナ」で女優ペネロペ・クルスにオスカーをもたらし、仏パリで撮影した「ミッドナイト・イン・パリ」は自身最大のヒット作となり、3度目のアカデミー脚本賞も受賞した。

主な脚本作品:以下参照

2018年「女と男の観覧車」

2017年「カフェ・ソサエティ」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/86001/photo/d1534a7c3cc7e852.jpg?1487301031

2016年「教授のおかしな妄想殺人」

2015年「マジック・イン・ムーンライト」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/81543/poster2/200.jpg?1423810798

2014年「ブルージャスミン」

2012年「ミッドナイト・イン・パリ」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/56604/poster.jpg?1334502000

1999年「セレブリティ」

1992年「ウディ・アレンの影と霧」

1989年「ラジオ・デイズ」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/50489/photo/b34ec34d1789026f/320.jpg?1469166653

1987年「ハンアとその姉妹」

1980年「マンハッタン」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/49781/photo/13b386f8971d5e61/320.jpg?1469166824

1979年「インテリア」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/42522/photo/4d3e0f17a5605e30/320.jpg?1469168630

1978年「アニー・ホール」

1973年「ボギー!俺も男だ」


3「クエンティン・タランティーノ」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8E

参考サイト:https://eiga.com/person/27355/

出典元:https://eiga.k-img.com/images/person/27355/300x.jpg?1361956424

生年月日情報:1963327日テネシー州ノックスビル生まれ

プロフィール:以下参照

タランティーノはテネシー州ノックスビルで生まれた。母親は看護師のコニー・ザストゥーピル(旧姓マクヒュー/McHugh)、父親はニューヨーク・クイーンズ生まれ俳優であり音楽家でもあるトニー・タランティーノ。タランティーノの父はイタリア系アメリカ人、母親はアイルランド系アメリカ人チェロキー族の血も引いていた。母親は僅か16歳で未婚のままタランティーノを生み、彼が生まれてから間もなく音楽家のカーティス・ザストゥーピル(Curtis Zastoupil)と結婚。以来、タランティーノは実父には一度も会った事がないという。母親も大の映画マニアで、一緒に映画を見て育つ。1971、タランティーノ一家はロサンゼルスのサウスベイ地区エルセグンドに引っ越し、タランティーノはそこでホーソン・クリスチャン・スクール(Hawthorne Christian School)に通った。14歳の時、最初の脚本『ジ・アメージング・アドベンチャー・オブ・ミスター・リー』(The Amazing Adventures of Mr. Lee)を書く。16歳の時にハーバー・シティーのナーボン高校(Narbornne High School)を中退し、ジェームス・ベスト劇団に加わり演技を学んだ。このの経験は後の監督脚本家俳優人生において大きな意味を持つことになった。22歳の時にマンハッタン・ビーチのビデオショップ「マンハッタン・ビーチ・ビデオ・アーカイブ」の店員となり、ロジャー・エイヴァリーや客と様々な映画について語る日々を過ごす。このころハリウッドのパーティでローレンス・ベンダーに出会い、脚本を書くように勧められ、タランティーノは1987年に『My Best Friend’s Birthday』という作品を監督し、共同で脚本も書いている。この作品はラボでの編集中に火災で危うく失われるところであったが、この作品が後の『トゥルー・ロマンス』(トニー・スコット監督)の元ともなった。タランティーノは『レザボア・ドッグス』で脚本家・映画監督としてデビューした。脚本が米映画俳優のハーヴェイ・カイテルに認められ、彼の出演とプロデュースを受けて[11]カンヌ国際映画祭にも出品され、カルト的ヒットとなった。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でも南俊子賞(批評家賞)を受賞、映画祭期間中に次回作『パルプ・フィクション』を執筆。世界的にも配給されタランティーノはデビュー作にして注目されることとなる。監督二作目『パルプ・フィクション』では早くもカンヌ国際映画祭・パルム・ドール(最優秀作品賞)を始め数々の賞に輝き、米アカデミー賞脚本賞も受賞、新しい米映画の旗手として認知されるに至った。エルモア・レナード原作の『ジャッキー・ブラウン』では、深みのある演出が評価されています1998には舞台『暗くなるまで待って』に俳優として出演。一時期沈黙したが、『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol.2』で復活した。 2004年度カンヌ国際映画祭の審査委員長を務めた。

三隅研次鈴木清順塚本晋也のファンで、特に三隅が監督し勝新太郎が主演した『座頭市』シリーズや若山富三郎主演『子連れ狼』シリーズのファンであり、とりわけキル・ビルチャンバラシーンは勝が制作し三隅が監督した若山主演の『子連れ狼 三途の川の乳母車』のオマージュである。『パルプ・フィクション』日本公開の際に来日し、同作の公開イベントで尊敬する勝と対面し、勝と話したり、勝の行きつけの店で食事をした。 『キル・ビル Vol.1』は深作欣二へ捧げられており初めて会った深作にサインを求めたのが『ガンマー第3号 宇宙大作戦』のLDであり、深作がアメリカのタラの自宅に訪れた際は、タラが所有している深作作品柳生一族の陰謀35mmフィルムをタラの自宅のシアタールームで鑑賞したという。同作『キル・ビル Vol.1』では自身がファンである『影の軍団シリーズ』に出演していた大葉健二を起用。ファンである日本人映画監督が石井輝男石井聰亙石井隆石井克人ということから、敵のヤクザの名前を「イシイ」としたりなど、タランティーノの感性を垣間見ることができる。

主な脚本作品:以下参照

2016年「ヘイトフル・エイト」

2014年「トゥルー・ロマンス」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/47171/poster2/200.jpg?1416567004

2009年「イングロリアス・バスターズ」

2004年「キル・ビルVol.2

2003年「キル・ビル」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/1099/photo/6705fe2454d9a0ed/320.jpg?1469170713

1995年「フォー・ルームス」

1994年「パルプ・フィクション」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/48180/photo/4c1187979636d46f/320.jpg?1469167249

1993年「レザボア・ドッグス」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/50821/photo/ab805113542198ce/320.jpg?1469166556

4「サイモン・ペグ」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%82%B0

参考サイト:https://eiga.com/person/31948/

参考サイト:https://theriver.jp/pegg-depression-alcoholic/

出典元:https://theriver.jp/wp-content/uploads/2018/03/9418456640_81d83e5580_k.jpg

生年月日情報:1970214日イギリス・グロスターシャー州生まれ

プロフィール:以下参照

イギリスグロスターシャー州ブロックワース村でセールスマンと公務員の両親のもとに生まれる。7歳で両親が離婚し、母親の再婚相手の姓に変わる。16歳でストラトフォード=アポン=エイヴォンに転居し、地元のカレッジで文学と演劇を学んだのち、ブリストル大学で演劇・映像を専攻し、1991年卒業、コメディ劇団の一員となる。1993年、ロンドンでスタンダップ・コメディアンとしてキャリアをスタートさせ、TVやラジオでも活躍する。テレビシリーズ『スペースド』で、『スター・ウォーズ』おたくの主人公を演じて注目され、この番組では脚本も書いている。『スペースド』の監督エドガー・ライトと、共演したニック・フロスト3人のコンビで製作したホラー・コメディ『ショーン・オブ・ザ・デッド』がヒットし、この映画が縁で、ジョージ・A・ロメロの『ランド・オブ・ザ・デッド』にゾンビの役でカメオ出演している。コメディアンのスティーヴ・クーガンと親しく、スティーヴの主演した『The Parole Officer』と『24アワー・パーティ・ピープル』にゲスト出演している。同じくコメディアンのニック・フロストとコンビで共演することが多い。2001年のテレビシリーズ『バンド・オブ・ブラザース』にも出演した。2005年に自身がファンであった『ドクター・フー』に出演しており、11代目ドクターのオファーもあったが、オファーを断った。2009年には映画版『スター・トレック』にモンゴメリー・スコット役で出演した。『ミッション・インポッシブルシリーズ』、『スター・トレックシリーズ』、『スター・ウォーズシリーズ』に共通して出演している、数少ない俳優である。

主な脚本作品:以下参照

2016年「スタートレックBEYOND

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2013年「ワールズエンド」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/78979/poster2/200.jpg?1396887519

2011年「宇宙人ポール」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/56163/poster.jpg?1396892045

2007年「ラン・ファットボーイ・ラン」

2007年「ホットファズ」

2004年「ショーン・オブ・ザ・デッド」


5「ジョン・ローガン」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%B3

参考サイト:https://eiga.com/person/41799/

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/John_Logan_headshot_color_2009.jpg/190px-John_Logan_headshot_color_2009.jpg

生年月日情報:1961924日カリフォルニア州サンディエゴ生まれ

プロフィール:1983年にノースウェスタン大学を卒業。シカゴで劇作家として活躍し、レオポルドとローブを題材にした“Never the Sinner”などを執筆。その後脚本家としてハリウッドでも活躍。『グラディエーター』、『アビエイター』、『ヒューゴの不思議な発明』の脚本で3度アカデミー賞®にノミネートされる。その他の主な作品は『エニイ・ギブン・サンデー』、『ラスト サムライ』、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』、『ランゴ』、製作も務めた『英雄の証明』、『007 スカイフォール』、原案も手掛けた『007 スペクター』など

主な脚本作品:以下参照

2017年「エイリアン コヴェナント」

2016年「ベストセラー」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/83689/photo/73e736bc3c79ba4f/320.jpg?1470969033

2015年「007スペクター」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/78967/poster2/200.jpg?1443669777

2012年「007スカイフォール」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/56381/poster.jpg?1352646000

2012年「ヒューゴの不思議な発明」

2011年「ランゴ」

2005年「アビエイター」

2003年「ラストサムライ」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/1491/photo/c473edd57a225011/320.jpg?1495095999

2000年「グラディエーター」


6「チャーリー・カウフマン」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3

参考サイト:https://eiga.com/person/47548/

参考サイト:https://www.cinemacafe.net/article/2009/11/13/7068.html

出典元:https://www.cinemacafe.net/imgs/p/ATDRThl-6oWF9fpps9341csCOg8ODQwLCgkI/22329.jpg

生年月日情報:19581119日アメリカ・ニューヨーク州生まれ

プロフィール:以下参照

ニューヨーク州ニューヨークにて、ユダヤ系ドイツ人の血を引く両親のもとに生まれる。コネチカット州の高校卒業後、ボストン大学に進学したが、ニューヨーク大学に編入し映画制作を学んだ。大学卒業後、ミネアポリスの新聞社に勤めていた。1990年代になってからテレビのコメディ・シリーズのための脚本を書くようになった。2000公開のスパイク・ジョーンズ監督作品『マルコヴィッチの穴』で長編映画の脚本を務める。この作品で英国アカデミー賞脚本賞などを受賞、アカデミー脚本賞にもノミネートされ、一躍知られるようになった。2004年公開の『エターナル・サンシャイン』でミシェル・ゴンドリーピエール・ビスマスと共にアカデミー脚本賞を受賞した。2008年には『脳内ニューヨーク』で映画監督デビューを果たした。

主な脚本作品:以下参照

2009年「脳内ニューヨーク」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/53557/photo/c461895e30f65bc5/320.jpg?1495097574

2005年「エターナル・サンシャイ」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/1057/photo/13e2e58c0c69f9b8/320.jpg?1495096507

2003年「アダプテーション」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/1240/photo/2324a06c4c294c3a/320.jpg?1495097331

2002年「コンフェッション」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/1038/photo/645c17cb6e44d895/320.jpg?1495095131

2002年「ヒュ-マンネイチュア」

2000年「マルコヴィッチの穴」

出典元:https://eiga.k-img.com/images/movie/1518/photo/eac15b470aa31992/320.jpg?1469170571

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