詳説・鎌倉文士

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詳説・鎌倉文士

かの地、鎌倉には多士済済の文豪が集った歴史が存在します。その歴史を彩った方々を称して「鎌倉文士」という言葉がございます。そこでご紹介します「詳説・鎌倉文士」情報です。

≪インデックス≫

1「鎌倉文士概略」

2「鎌倉ペンクラブ」

3「鎌倉文士村」

4「鎌倉文士の面々」


1「鎌倉文士概略」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%96%87%E5%A3%AB

参考サイト:http://www.kamakurabungaku.com/

参考サイト:https://www.jalan.net/kankou/spt_14204cc3300033421/?screenId=OUW3701

出典元:https://cdn.jalan.jp/jalan/img/8/kuchikomi/1448/KXL/37f41_0001448070_1.jpg

インフォメーション:鎌倉文士は、神奈川県鎌倉市に住む、もしくは住んでいた文学者の総称です。鎌倉は1889横須賀線の開通により、東京の通勤圏内となりました。同時に、東京の出版社からも行き来が便利になったため、鎌倉にはこのころから転居した文学者が住み始めました。特に昭和初期以降、関東大震災で壊滅状態となった東京から、文学者の一部が東京に比べて好環境な鎌倉に移住した経緯があります。ただし関東大震災では、鎌倉もまた大きな被害を受けました。大震災後、埼玉県浦和市は鎌倉と並んで文化人が多く居住することで有名だったことから、このころから鎌倉文士に浦和画家という言葉が生まれました。また第二次世界大戦後には、川端康成久米正雄高見順中山義秀たちが貸本屋「鎌倉文庫」を興しました。しかし、現在では文士という語が死語になると共に、鎌倉文士という語も死語になってしまいました。21世紀に入ってから、複数の有名作家が鎌倉に移住して40年ぶりに鎌倉ペンクラブが復活し、新鎌倉文士と呼ばれる人種が誕生したものの、現在では鎌倉在住の高名な文学者は少なくなっています

鎌倉文学館所在地:248-0016 神奈川県鎌倉市長谷1丁目53

電話番号:0467233911


2「鎌倉ペンクラブ」

公式サイト:http://kamakurapen.club/

参考サイト:http://www.kamakura-info.jp/recommend/column_02

出典元:http://www.kamakura-info.jp/images/recommend/column_02_1.jpg

インフォメーション:「鎌倉文士」という言葉が使われだしたのは昭和に入ってからです。もちろん、それ以前にも萌芽は確実に育まれていました。明治から大正にかけての泉鏡花や島崎藤村、夏目漱石、芥川龍之介らの鎌倉滞在は、それぞれに、その執筆活動において重要な意味をもっています。 さらに里見弴と久米正雄大正1314年に相次いで鎌倉に暮らし始めこの二人が、いわゆる鎌倉文士のリーダー格となっていきます。里見と久米は互いに求心力を発揮し、後に移ってきた文士たちのまとめ役となりました。それを象徴するのが昭和8年に発足した「鎌倉ペンクラブ」です。久米らが中心となって結成されたクラブには、里見はじめ永井龍男、大佛次郎、川端康成、横山隆一、小林秀雄、島木健作ら42人の作家、文化人が名を連ねました。 町の活性化、文化振興面での貢献も忘れられません。昭和9年に始まり、およそ30年間続いた「鎌倉カーニバル」は久米と大佛の発案でした。仮装パレードやダンスなどが町中で繰り広げられるこの祭りは、夏の風物詩として多くの人びとに愛されました。 もうひとつ欠かせないのが「鎌倉文庫」です。これは第2次大戦中、切迫する暮らしを打開しようと、文士たちが蔵書を持ち寄って始めた貸本屋です。経営は店番から帳簿管理まで文士が持ち回りで担当しました。読書の機会を失った町の人びとに喜んでもらおう―。「鎌倉文庫」が発足した背景にはそんな願いもあったのです。自ら店番に立った川端康成は後に、当時を振り返り綴っています。「鎌倉文庫は悲惨な敗戦時に唯一つ開かれてゐた美しい心の窓であつたかと思ふ」云々。

鎌倉ペンクラブ所在地:248-0006 神奈川県鎌倉市小町1丁目216

問合せ:0467244002


3「鎌倉文士村発祥の経緯」

参考サイト:http://www.kcn-net.org/

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/92/Shirakaba_Gruppe_c.jpg/260px-Shirakaba_Gruppe_c.jpg

インフォメーション:鎌倉はドイツ人医学者ベルツ(18491913)や、我が国の医事、衛生行政に関する諸制度の基礎を創った長与専斎(18381902)らの影響により、明治時代の中頃から観光地や保養地として、また、別荘地としても栄えた近代史上特異な発展をした町です。そして近代の歴史上忘れてはならないのは、多くの文学者がいたことです。今までの研究成果によれば、現在までに280名以上の文学者や知識人が入れ替り立ち替り住んだことがわかっています。しかし、どのような経緯で居住し、いつごろからこれだけの人々が住んだのかは詳細は不明でした。島本千也氏の論文「『白樺』派と鎌倉」(雑誌『鎌倉』)によれば、大正8年(1919)前後から123年頃にかけての時期に有島武郎、有島生馬、里見弴の三兄弟、園池公致、長与善郎、木下利玄、岸田劉生、正親町公和、千家元麿、梅原龍三郎、倉田百三らいわゆる『白樺』派同人並びに同誌に何らかの形で関わった人々によって文学者の集住が形成されました。彼らの多くは旧大名家や公家、政官界や財界などの重職にあった人々の子息であり、明治15年に文部卿、さらに16年から宮内卿(後の宮内大臣)の所轄となった華族の特殊教育機関、学習院の出身者によって構成されていました。そして、関東大震災後の文学界の活発な動きと円本ブームなどによって、文学者の生活の向上や新進作家の勃興がありました。さらに当時、鎌倉においても、文学者や知識人、芸術家等の居住環境が整備された経緯があり、結果的に昭和13年の鎌倉ペンクラブ「会員名簿」や「会報」に見るように50名近くの文士の居住が可能になったと考えられます。

白樺文学館所在地:270-1153 千葉県我孫子市緑2丁目118

問合せ:0471852192


4「鎌倉文士の面々」

≪芥川龍之介≫

参考サイト:http://www.shinchosha.co.jp/writer/619/

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生年月日情報:1892年東京生まれ・1927年没。

プロフィール:1892-1927)東京生れ。東京帝大英文科卒。在学中から創作を始め、短編「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。その後今昔物語などから材を取った王朝もの「羅生門」「芋粥」「藪の中」、中国の説話によった童話「杜子春」などを次々と発表、大正文壇の寵児となる。西欧の短編小説の手法・様式を完全に身に付け、東西の文献資料に材を仰ぎながら、自身の主題を見事に小説化した傑作を多数発表。1925(大正14)年頃より体調がすぐれず、「唯ぼんやりした不安」のなか、薬物自殺。「歯車」「或阿呆の一生」などの遺稿が遺された。

主な代表作:「羅生門」「鼻」「芋粥」「邪宗門」「河童」など


≪江藤淳≫

参考サイト:http://www.shinchosha.co.jp/writer/962/

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生年月日情報:1932年東京生まれ・1999721日鎌倉にて没。

プロフィール:昭和81225日、東京に生まれる。慶応義塾大学英文科に入学するが、病を得て療養。その間執筆したエッセイが、当時『三田文学』の編集者だった山川方夫に認められ、同誌に『夏目漱石』を発表(195556)。清新かつ個性的な批評家の出現と注目を浴びた。同大学卒業後、『奴隷の思想を排す』(1958)、『作家は行動する』(1959)などを次々と刊行。当時台頭した大江健三郎らの戦後世代の文学を補完する批評活動として評価された。また『小林秀雄』(196061)は、現代批評の高峰にあった評論家の肖像を描くことが、文学の確かさの認識と重なる意味を解明した画期的一編である。1962年(昭和37)から2年間アメリカで生活。『アメリカと私』(1965)はその結実であるが、またその体験を内的思惟として『成熟と喪失』(196667)を書く。漱石研究の集大成として『漱石とその時代』二部作(1970)があり、自己の系譜に挑んだ『一族再会』(1972)、続いて『海は甦える』(1973)を刊行。さらに、アメリカ占領軍の検閲と「戦後」の意味を問う『忘れたこと忘れさせられたこと』(1979)、『落葉の掃寄せ』(1982)がある。99年(平成11)『文芸春秋』5月号に、9811月に癌で没した妻との闘病生活を記した『妻と私』を発表し、話題をよんだ。東京工業大学教授、慶応義塾大学教授を経て97年からは大正大学教授。94年日本文芸家協会理事長に就任したが、99年健康上の理由から辞任。平成11721日没。病気を苦にしての自殺であった。

主な代表作:「漱石とその時代」「海は甦える」「成熟と喪失」「一族再会」「自由と禁忌」など。


≪円地文子≫

参考サイト:https://kyotanabedentou.wordpress.com/2016/03/page/2/

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生年月日情報:1905年東京生まれ・19861114日東京にて没。

プロフィール:明治38年、東京・浅草生まれ。本名富美。国語学者上田万年の次女。日本女子大附属高等女学校中退。初め『晩春騒夜』(1928)などの戯曲を書き、『東京日日新聞』記者円地与四松と結婚、一女出生。1935年(昭和10)戯曲集『惜春』刊行後小説に転じた。45年空襲で被災、家財道具蔵書類を焼失。翌年子宮癌の手術を受ける。小説家としてはしばらく低迷が続くが、53年(昭和28)に発表した『ひもじい月日』は、長年、女のひもじさに耐えてきた主人公の自我のありようを冷静に描いて、正宗白鳥に「一種の戦慄を覚え」させた短編。この作で、翌年女流文学賞を受けた。以後、盛んな創作活動を始め、つねに第一線作家として活躍している。長編に『女坂』(194957。野間文芸賞受賞)、自伝的三部作の『朱を奪うもの』(195556)、『傷ある翼』(1960)、『虹と修羅』(196567。谷崎潤一郎賞受賞)、『なまみこ物語』(19596165。女流文学賞受賞)、三部作の『狐火』(1969)、『遊魂』(1970。日本文学大賞受賞)、『蛇の声』(1970)があり、短編に『妖』(1956)、『二世の縁拾遺』(1957)ほか多数がある。平安・江戸文学の造詣深く、作品は女の情念と自我の相対化に優れていずれも観念性が強い。ことに抑圧された女の自我を、夢幻美、官能美の世界に表現することにおいて卓抜している。網膜剥離の手術を受けながら『円地文子訳源氏物語』10巻も刊行した(197273)。日本芸術院会員。文化功労者。文化勲章受章。昭和611114日没。

主な代表作:「朱を奪ふもの」「傷ある翼」「虹と修羅」「遊魂」「蛇の声」など。


≪大岡昇平≫

参考サイト:http://www.shinchosha.co.jp/writer/987/

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生年月日情報:1909年東京生まれ・19881225日東京にて没。

プロフィール:明治4236日、東京市生まれ。青山学院中等部から成城中学へ転じ、成城高校文科へ進む。家庭教師となった小林秀雄を通して河上徹太郎や中原中也、中村光夫らと知り合い、昭和文学の担い手のなかでもっとも優れた人たちと文学的素養を蓄積する幸運に恵まれた。1934年(昭和9)京都帝国大学仏文科を卒業、国民新聞社や帝国酸素などに勤めるかたわら、スタンダール研究で知られるようになった。44年召集され、フィリピンのミンダナオ島の戦線に送られた。アメリカ軍の捕虜となり、45年(昭和2012月に帰国。そのときの体験を描いた『俘虜記』(1948。のち『合本 俘虜記』に収めるとき『捉まるまで』と改題)で、作家として出発した。その後、捕虜生活中の体験を「檻禁された人間」の視点から描いた『合本 俘虜記』(1952)や、極限状況の人間の実存を追求した『野火』(194849)などを完成し、戦後文学の旗手となった。さらに戦闘と敗走の体験を核として歴史小説にも着手し、『将門記』(1965)や『天誅組』(1974)などを著し、転じて井上靖や森鴎外の歴史小説を批判して文壇や学界に重要な問題を投げかけ、またレイテ島における戦闘経過を膨大な資料を駆使して克明に再現しながらわが国近代の問題に迫った大作『レイテ戦記』(196769)を完成した。他方、明晰な分析的文体によって恋愛心理をとらえた『武蔵野夫人』(1950)や『花影』(195859)などの名作を完成し、あるいはまた『朝の歌』(1956)や『在りし日の歌(1966)などによる中原中也研究や、『富永太郎』(1974)の評伝的な研究、『常識的文学論』(1961)、『昭和文学への証言』(1969)、『文学における虚と実』(1976)などの評論、推理小説的な設定によって現代の裁判の問題をえぐった『事件』(1977)、B級戦犯として死刑を宣せられた元軍人の法廷闘争を再現したドキュメント『ながい旅』(1982)などを著し、現代でもっとも総合性のある、多彩な活動を行った。昭和631225日没。

主な代表作:「俘虜記」「武蔵野夫人」「野火」「花影」「レイテ戦記」など


≪大佛次郎≫

参考サイト:http://osaragi.yafjp.org/osaragijiro/

出典元:http://osaragi.yafjp.org/wp-content/themes/osaragijiro/images/img_osaragi_02.png

生年月日情報:1897年横浜生まれ・1973430日東京にて没。

プロフィール:明治30109日横浜生まれ。本名野尻清彦。長兄に野尻抱影がいる。東京府立第一中学校から旧制第一高等学校を経て東京帝国大学政治学科に学ぶ。大正デモクラシーの洗礼を受け、それ以後リベラルな立場をとる。一高在学中に『一高ロマンス』(1917)を出版。大学卒業後、外務省条約局に勤めたが、関東大震災を機に文筆に専念。鎌倉、長谷大仏裏に住んでいたため大仏の筆名を用いる。1924年(大正13)『鬼面の老女』を皮切りに『鞍馬天狗』の連作を執筆、26年に初めての新聞小説である『照る日くもる日』を『大阪朝日新聞』に連載、2728年(昭和23)『東京日日新聞』に執筆した『赤穂浪士』で大衆文壇の花形となった。時代物に『由比正雪』(1930)、『乞食大将』(194446)などがある。31年に東京・大阪の両『朝日新聞』に連載した『白い姉』以後、風俗小説の分野でも活躍。『霧笛』(1933)など開化物を経て第二次世界大戦後の『帰郷』(1948。芸術院賞)に大成された。またフランス第三共和政下の政治的諸事件を扱った『ドレフュス事件』(1930)、『ブゥランジェ将軍の悲劇』(1935)、『パナマ事件』(1960)や、パリ・コミューンを描いた『パリ燃ゆ』(196163)があり、幕末から明治へかけての変革を実証的にとらえた『天皇の世紀』(196773。未完)も優れた業績である。児童文学、戯曲、随想なども多く、市民的良識を感じさせる。60年(昭和35)芸術院会員。64年文化勲章受章。昭和48430日没。

主な代表作:「赤穂浪士」「帰郷」「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」など。


≪川端康成≫

参考サイト:http://www.shinchosha.co.jp/writer/1257/

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生年月日情報:1899年大阪生まれ・1972416日逗子にて没。

プロフィール:明治32614日、大阪に生まれる。医師の父栄吉、母ゲンの長男。1901年(明治34)父、翌年母が亡くなり、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄で祖父母に育てられた。小学校入学の年祖母、4年のとき姉、中学3年の5月に祖父が亡くなり、まったくの孤児になった。母の実家に引き取られ、親戚の世話になりながら茨木中学を終え、旧制第一高等学校、東京帝国大学と進んだ。帝大1年の21年(大正10)石浜金作、鈴木彦次郎らと第六次『新思潮』を創刊。2号に載せた『招魂祭一景』によって菊池寛らに認められた。この年、16歳の少女伊藤初代と婚約し、1か月後彼女の心変わりで破約になるという事件があった。身辺の多くの死、孤児の体験、失恋の痛手などは川端文学の根本的性格を形づくるうえで作用した。24年、国文科を卒業。この年10月、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、今東光らと『文芸時代』を創刊、斬新な文学の出現として世の注目を浴びた。評論家千葉亀雄がこの派を新感覚派とよび、それは、当時やはりはっきりした姿を現してきたプロレタリア文学とともに、昭和初期の二大文学潮流を形づくることになった。川端は『十六歳の日記』(中学時代の日記。1925発表)、『伊豆の踊子』(1926)など写実味の勝った作品も発表したが、それよりも、現実を主観のなかで組み立て直し新しく結晶させた詩的な作品を多く書いた。そういう作品を通して、ままならぬ現実に呻吟して動きのとれぬような前代の文学のあり方を振り払い、瞬間に命をかけて生き抜く、清新な生き方を提出しようとした。『白い花』(1923)、『二十年』(1925)、『叩く子』(1928)などの掌の小説、モダニズムの作品『浅草紅団』(19291930)などがその例である。しかし新心理主義の小説『水晶幻想』(1931)のころから虚無的側面が目だつようになっていく。プロレタリア文学もモダニズム文学もともに圧殺され、国家主義的傾向が強くなる世の成り行きも関係している。虚無の傾向は『禽獣』(1933)、『虹』(1934)のころにもっとも深く、そこには人間的生のむなしさが吐き出すように語られている。しかし『雪国』(19351947)あたりから、徒労なら徒労のままの人生を懸命に生き抜く命を、悲しみのうちに見守るような作風に移り、小康を得た。1937年(昭和12)の日中戦争以後、戦争を運命のようにみながら、しかし戦争によってもてあそばれる各国個々人の立場に思いをはせ、世界各民族が混血融合する平和な未来を願い祈る『高原』(19371939)のような作品も書いた。戦争末期には、まさに滅びようとする日本の古典に思いを寄せたが、敗戦直後、次々の友人・知己の死のなかで、「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない」(1945「島木健作追悼」)と述べた。しかし、しだいに回復し、『千羽鶴』(19491951)、『山の音』(19491954)、『名人』(19511952)など戦後の名作が生まれる。それらは古典の伝統も生かしつつ、『千羽鶴』には老い近い川端の夢が、『名人』には覚悟が、『山の音』には両者の平衡に心を砕く現実人の姿が書かれている。しかし、『みづうみ』(1954)では美しい女の後をやみくもにつけずにはいられない魔性の男銀平を、『眠れる美女』(19601961)では老人の陰微な性を描き、晩年の川端の作品は一種狂気につき入ろうとしたところがある。魔界につき入る狂気と、そこをくぐり抜けて出る仏界と、両者の緊張関係の内に、川端の目ざすところはあったようである。1948年(昭和23)日本ペンクラブ第4代会長に就任。1957年に国際ペンクラブ東京大会を主催。1961年文化勲章受章、1968年ノーベル文学賞受賞。しかし昭和47416日、自らの名声に反逆するような形でガス自殺を遂げた。川端はまた批評家としても優れ、その批評眼に認められて世に出た作家には、堀辰雄、北条民雄、岡本かの子、三島由紀夫などがいる。

主な代表作:「伊豆の踊子」「白い花」「古都」「虹」「雪国」「山の音」など。


≪久米正雄≫

参考サイト:http://bukeyashiki.net/ayumi.html

出典元:http://bukeyashiki.net/f-ayumi/c2_img06.jpg

生年月日情報:1891年上田市生まれ・195231日没。

プロフィール:明治241123日、長野県小県郡上田町(現上田市)に生まれる。幼時に父を失い、母方の里、福島県安積郡桑野村(現郡山市)に移住。東京帝国大学英文科卒業。在学中から創作に関心を示し、第三、四次『新思潮』の主要な書き手として、戯曲『牛乳屋の兄弟』『阿武隈心中』、小説『手品師』『競漕』などを発表、注目された。1915年(大正4)秋、芥川龍之介と漱石山房をくぐり、その門下生となる。が、漱石没後遺児筆子に一方的恋情を懐き、それが破局に至ったことは、彼の作風に一転機をもたらすこととなる。すなわち、『蛍草』(1918)、『破船』前後編(192223)など、自らの失恋体験を素材とした作品を次々と発表し、文名を高めていく。甘美な哀愁に包まれたその小説は、世の同情をよぶにふさわしかった。人気作家となった久米は、以後自ら文壇の社交家をもって認じ、通俗小説の面にも新たな活路をみいだしていった。通俗小説の代表作に『沈丁花』(1933)その他がある。俳号を三汀といい、俳人としても知られる。昭和2731日没。

主な代表作:「阿武隈心中」「蛍草」「破船」「沈丁花」など。


≪国木田独歩≫

参考サイト:https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%9C%A8%E7%94%B0%E7%8B%AC%E6%AD%A9-16478

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生年月日情報:1871年千葉生まれ・1908623日没。

プロフィール:明治4715日、千葉県銚子生まれ。幼名亀吉、本名哲夫。播州龍野藩士専八の子。母まんの連れ子説もある。1876年(明治9)、父の山口裁判所勤務のため山口に移住。1887年、山口中学校を退学し上京。1888年、東京専門学校(現早稲田大学)英語普通科に入学したが、1891年退学。同年1月、一番町教会において植村正久により受洗。5月、山口に帰り、吉田松陰の松下村塾に倣い、田布施に波野英学塾を開いた。1892年ふたたび上京し、青年文学会で活躍。そのころ、独歩文学に大きな影響のあった『ワーズワース詩集』を入手している。その後、大分県佐伯の鶴谷学館の教師として約1年過ごし、自然と人間生存との思索を深めた。1894年、上京し国民新聞社入社。日清戦争起こり、従軍記者として活躍。弟収二にあてた形式の通信文は親しみのこもった筆致で生彩を放ち、のち『愛弟通信』(1908)にまとめられた。1895年、佐々城信子(有島武郎の小説『或る女』のモデル)と知り合い、周囲の反対を押し切り、北海道開拓の希望も捨てて結婚するが、5か月で信子は失踪し、18964月離婚した。その年の9月から渋谷に住み、このころツルゲーネフに親しみ、『武蔵野』を構想する。18974月、田山花袋、太田玉茗、松岡国男(柳田国男)、宮崎湖処子らとの共著詩集『抒情詩』に、「山林に自由存す」を含む『独歩吟』を発表。なお、1893年から1897年にかけての生活と思索は、日記『欺かざるの記』(190809)に詳しい。処女小説『源叔父』(1897)を発表。1898年『今の武蔵野』『忘れえぬ人々』『鹿狩』など浪漫的な作品を発表。1901年(明治34)これらを収めた『武蔵野』を出版する。この間、報知新聞や民声新報に入社するが、ほどなく退社。『牛肉と馬鈴薯』(1901)、『酒中日記』『空知川の岸辺』(1902)、『運命論者』(1903)、『春の鳥』(1904)など、主として現実性を追究しようとする作品を発表。これらは『独歩集』(1905)、『運命』(1906)として刊行。のちに、自然主義の作品として高く評価された。とくに『運命』は独歩の文壇的声価を高めた。1902年末、敬業社(のち近事画報社)に入社。この後を受けて独歩社をおこすが、経営悪化で1907年に破産。過労のため健康も優れぬなかで、『窮死』(1907)、『竹の木戸』(1908)などの現実を凝視した佳作を発表。明治41623日、茅ヶ崎の南湖院で死去。

主な代表作:「武蔵野」「忘れえぬ人々」「運命」「竹の木戸」など。


≪小林秀雄≫

参考サイト:http://www.shinchosha.co.jp/writer/1511/

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生年月日情報:1902411日東京生まれ・198331日東京にて没。

プロフィール:明治35411日、東京神田に生まれる。旧制東京府立一中、旧制一高を経て1928年(昭和3)東京帝国大学仏文科を卒業した。一中のころ富永太郎、河上徹太郎と、大学時代に中原中也、大岡昇平と知り合う。初め同人誌に小説『蛸の自殺』(1922)、『一ツの脳髄』(1924)、『ポンキンの笑ひ』(1925)を発表したが、26年『人生斫断家アルチュル・ランボオ』により、フランス象徴派を基盤とした文学批評を開始する。29年『改造』の懸賞評論『様々なる意匠』で文壇に登場、翌年から『文芸春秋』に文芸時評を連載、歯切れのよい文体と逆説で左翼文学の観念性と新興芸術派の空疎さを鋭くつきながら、旧来の印象批評、実感批評を乗り越えて、自意識と存在の対決を軸とする近代批評を確立した。33年『文学界』創刊に参加、35年からはその編集責任者になり、文壇の代表的批評家として活躍、『私小説論』(1935)では「社会化した私」というキーワードで私小説を批判した。一方、35年からライフワークの一部となる『ドストエフスキイの生活』(193537)を連載し、社会評論にも筆を染め始めたが、しだいに内面的思索に沈潜してゆく。その成果が戦争末期から戦争直後にかけての『無常といふ事』(194243)、『モオツアルト』(1946)で、前者は近代の諸観念に毒されない歴史や伝統の姿をみいだし、後者は天才の無垢(むく)を「ト短調」というキーのなかに聴き分けて、小林秀雄の精神の高さを示した。これ以後文壇文学とはいよいよ遠ざかり、芸術家・思想家の精神のドラマを追求、『ゴッホの手紙』(195152)、『近代絵画』(195458)、未完のベルクソン論『感想』(195863)、『考へるヒント』(195963)を発表した。こうして文芸評論家というより、思想家としての風貌を濃くしていったが、その思想は西欧文化の受容を通じて自己を確立しなければならなかった日本知識人の苦悩を認めつつもそれを批判し、その超克の道を歴史と自然にみいだす方向をとっていった。「他人をダシにして己れを語る」「美は人を沈黙させる」などの名言が有名だが、晩年は学問論に向かい、196576年(昭和4051)にわたった大著『本居宣長』、その補遺『本居宣長補記』(1982)は、もっとも日本的な知識人としての宣長の学問体系を跡づけ、宣長が古代人の「直知」を探り当ててゆくことをとらえたもので、小林秀雄その人の思索の行き着いたところを表現し、思索の思索として、あるいは思索と文学の一致を示すものとして、記念碑的作品となった。59年芸術院会員。67年文化勲章受章。昭和5831日、腎不全のため没。

主な代表作:「様々なる意匠」「無常といふ事」「考えるヒント」「モオツァルト」「本居宣長」など。


≪今日出海≫

参考サイト:http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/b_jimbutsu/kon_hide.htm

出典元:http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/g_jimbutsu/g_kon_hide.jpg

生年月日情報:1903116日函館生まれ・1984730日横浜にて没。

プロフィール:明治36116日、日本郵船の船長であった父・武平の三男として弥生町に生まれる。長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光。幼児期は小樽、横浜で育つ。明治44年、父の転勤により神戸市の小学校へ入学。神戸一中から東京の暁星中学を経て旧制浦和高校に入学する。大正14年、東京帝国大学仏蘭西文学科へ進み、辰野隆、鈴木信太郎らに学ぶ。同期に小林秀雄、三好達治、中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰、武田麟太郎らがいた。築地小劇場を観て演劇に熱中し、翌年村山知義、河原崎長十郎、市川団次郎、池谷信三郎らが結成した劇団「心座」の演出に加わる。また、中学の頃からチェロを始め、高校以来の親友諸井三郎が昭和2年に始めた前衛的な音楽団体「スルヤ」に関係する。昭和3年、東大仏文科を卒業する。就職できず法科へ入り直すが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学する。矢代幸雄の「黒田清輝美術研究所」(現・東京国立文化財研究所)の嘱託として西洋美術史を1年あまり研究する。同年、「文芸都市」、5年には「作品」の同人となり、のちに「文学界」の同人に加わり、評論・随筆・翻訳を載せる。左翼に同じない正統芸術派的立場であった。昭和4年、心座から中村正常、舟橋聖一、池谷信三郎ら右派が独立した「蝙蝠座」に加わる。昭和1611月、陸軍の報道班員に徴用され、三木清、尾崎士郎、石坂洋次郎、火野葦平らと太平洋戦争初期のマニラに約1年滞在。この体験が「比島従軍」として発表された。1912月に再度徴用されたときは、マニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸し、ルソン島北部への約5ヶ月の逃避行ののち、台湾へ脱出。さらに台北から福岡雁ノ巣飛行場へ帰る。このレイテ島総攻撃報道のため、敗走する日本軍と5ヶ月間山中を放浪。その時の記録「山中放浪」は、戦争文学の傑作といわれている。昭和26年、小説「天皇の帽子」で第23回直木賞を受賞。41年、網膜剥離で片目の視力を失う。昭和436月、佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官となり、約4年間勤める。4710月から国際交流基金の初代理事長を8年間勤め、モナリザの日本初公開、およびパリの唐招提寺展を実現させる。昭和49年、勲一等瑞宝章を受け、53年文化功労者に選ばれる。55年、国立劇場の会長となる。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が80近くに及んだ。

主な代表作:「山中放浪」「天皇の帽子」「怒れ三平」など。


≪里見弴≫

参考サイト:http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/moriokagaido/rekishi/1009526/1009527/1009559.html

出典元:http://www.city.morioka.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/559/32.jpg

生年月日情報:1888714日横浜生まれ・1983121日鎌倉にて没。

プロフィール:明治21714日横浜に生まれる。本名山内英夫。父は有島武。生まれてすぐ母方の山内家を継ぐ。ただし有島家で育ち、兄に小説家の有島武郎、画家の有島生馬がいる。学習院を経て東京帝国大学英文科中退。先輩の志賀直哉の影響を受け、さらに泉鏡花に傾倒。武者小路実篤、志賀らと1910年(明治434月『白樺』を創刊した。その後『白樺』の仲間との「友達耽溺」を一時中断、大阪に住み、山中家の芸妓まさと同棲、のち父母の許しを強要し結婚。第一短編集『善心悪心』(1916)により志賀の影響を脱皮し自己を確立した。短編小説の名手として芥川龍之介らと新技巧派の有力な存在となり、大正期文壇の中堅作家として活躍。19年(大正8)に久米正雄、吉井勇らと『人間』を創刊、主義や主張より生身の人間の魅力を十全に生かすべく努めた。短編の代表作に『銀二郎の片腕』『父親』『椿』などがあり、人の心の機微を適確に描く芸の力を発揮。長編では、多情でありつつ仏心という「素なる生き方」を大胆に肯定した『多情仏心』前後篇(192223)や、有島家の一族に材をとった『安城家の兄弟』(1931)などがあり、戦時下においてもリベラルな立場を堅持。『十年』(1947)によって戦時の上層階層の風俗を活写、独特の語り口は随筆や回想集においても発揮される。60年(昭和35)に文化勲章を受けたが、さらに晩年の円熟を示す傑作『極楽(ごくらく)とんぼ』(1961)を刊行、主人公の自由闊達な生涯を滑らかな語りの口調で一気に描き称賛された。また『五代の民』(1970)で読売文学賞受賞。老いても筆力は衰えず、1年の半分を栃木県の那須高原で過ごす。悠々天寿を全うし『白樺』最後の作家として、昭和58121日鎌倉で死去。94歳。

主な代表作:「椿」「多情仏心」「彼岸花」「五代の民」など。

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