思想を描いた異色画家・北川民次

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思想を描いた異色画家・北川民次

戦争、環境問題、教育制度、家族と言った対象をモチーフにした一人の画家がいました。その名は「北川民次」。アメリカ・メキシコでの画家活動を経て、戦前戦後の日本での活動はあまり知られていません。そこでご紹介します「思想を描いた異色画家・北川民次」です。

≪インデックス≫

*概要

1「出生情報~就学」

2「絵画との出会い」

3「生涯の創作活動」

4「主な代表作品」

5「略歴」

6「関連著作物」


*北川民次概略

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/Tamiji_Kitagawa_in_1940.jpg/220px-Tamiji_Kitagawa_in_1940.jpg

北川 民次は、静岡県榛原郡五和村牛尾(現:島田市牛尾)出身の洋画家で二科会会長(1978年)を務めました。アメリカ合衆国メキシコに計22年間滞在し、高まりを見せていたメキシコ壁画運動などのメキシコ絵画の影響を受けて力強い作風の作品を残しました。また児童美術の教育者としても活動したことでも知られる存在です。晩年、社会的な問題に目を向けた制作活動が注目され、異色な画家としての存在観を確たるものとしました。


1「出生情報~就学」

「左・民次」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/23/Tamiji_Kitagawa_in_1899.jpg/180px-Tamiji_Kitagawa_in_1899.jpg

1894117日静岡県島田市生まれ。1989426日没。

北川民次は1894年(明治27年)117日、静岡県榛原郡五和村牛尾(現・島田市牛尾・五和地区)に生まれました。父親は幸次郎、母親はきく。異母兄2人、異母姉1人、異腹姉1人、実兄2人、実姉1人がおり、民次は五男でした。地主でもある北川家は製茶業を営んでおり、アメリカ合衆国への日本茶の輸出も手掛けていました。小学校卒業後、静岡県立静岡商業学校に進学し、江戸時代の軟文学を読み漁ったり、女義太夫を観に芝居小屋に出向いたする幼少期を過ごしました。1910年(明治43年)に静岡商業学校を卒業し、早稲田大学商学部予科に進学して高田馬場に下宿しました。早稲田では後に詩人となる秋田雨雀の知遇を得たほか、予科で上級だった宮崎省吾(フュウザン会出品画家)に手ほどきを受け、1912年(大正元年)頃に絵を描き始めます。早稲田の英文学の教員には北川と同郷の本間久雄がおり、宮崎の同郷の椿貞雄ともこのころ知り合っています。


2「絵画との出会い(アメリカ~メキシコ時代)」

「ジョン・スローン」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/John_French_Sloan.jpg/180px-John_French_Sloan.jpg

1914年(大正3年)になると早稲田大学を中退して横浜港から渡米します。オレゴン州ポートランド在住の実兄・津久井育平の家に身を寄せ、レストランで働きながら語学学校に通って英語を習得します。1年後、アメリカ西海岸を去ると、イリノイ州シカゴでの滞在期間を挟み、1916年(大正5年)初頭にニューヨークに渡りました。ニューヨークでは舞台の書き割りを担当する職人として働いて生計を立て、この経験が後に構図のセンスの良さにつながっていきます。劇団が地方巡業に出る際には北川も同行し、劇場組合員として労働争議にも参加。北川は当時を「学生というより、労働者と言ったほうが適切であった」と振り返っています。1919年(大正8年)には美術研究所であるアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学。夜間のコースを開催していたジョン・スローンに師事しましたが、後にはスローンが社会主義者だったからスローンを選んだとも語っていますちなみにスローンに学んだ日本人として石垣栄太郎ヘンリー杉本などます。スローンには「民衆を描くこと」「目前の対象を忠実に描くこと」を学び、1921年(大正10年)にアート・スチューデンツ・リーグを卒業します以後アメリカ合衆国ではフリードリヒ・ニーチェの思想に傾倒し、ジークムント・フロイトの心理学も学んでいますしかし北川がニューヨーク時代にどのような作品を描いていたのかは定かではありません。

「サン・カルロス美術学校」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/Academia_de_San_Carlos_esquina_de_Calle_de_Moneda_y_Academia.JPG/220px-Academia_de_San_Carlos_esquina_de_Calle_de_Moneda_y_Academia.JPG

1922年(大正11年)10月になると北川はニューヨークを後にし、フロリダ州マイアミで日本人経営者の農園の労働監督者を務めます。その後キューバハバナではホテルで働きますが、アメリカで貯めた3,000ドルやニューヨーク時代のデッサンなどが入ったスーツケースを日本人に持ち逃げされたりします。1923年(大正12年)9月になるとメキシコのオリサバに移り、しばらくの間は聖画の行商を行っています。同年メキシコシティサン・カルロス美術学校(メキシコ国立美術学校)に入学すると、3か月で課程を修了して卒業します。ちなみにサン・カルロス美術学校はホセ・クレメンテ・オロスコディエゴ・リベラダビッド・アルファロ・シケイロスが学んだメキシコでも有数の美術学校です。 1924年(大正13年)になると北川はメキシコシティ郊外のチュルブスコ僧院に附属した野外美術学校のスタッフとなり、オロスコ、リベラ、シケイロスらによるメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)に共感していきます。1925年(大正14年)にはメキシコシティ郊外のトランバムの野外美術学校で教えはじめ、開催した野外美術学校の生徒の作品展はメキシコ大統領や文部大臣などが称賛、ヨーロッパにも巡回してパブロ・ピカソアンリ・マティス藤田嗣治等が称賛しました。そして1926年(大正15年)には野外美術学校の正規教員となります。

「藤田・マドレーヌ夫妻」出典元:http://art-culture.world/img/2018/07/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%80%81%E5%8D%97%E7%B1%B3%E3%81%AE%E6%97%85%EF%BC%9F.jpg

1931年(昭和6年)になると北川はタスコ・デ・アラルコンに移転した野外美術学校の校長となります。この間の1929年(昭和4年)1117日には二宮てつ乃と結婚し、1930年(昭和5年)には長女が生まれています。日本で看護師をしていたてつ乃は、駐日スペイン大使の娘を看護した縁でスペインを訪れ、同大使のメキシコ転勤の際にメキシコに同行していた女性です。1933年(昭和8年)には南北アメリカを旅行中の藤田嗣治とその妻マドレーヌが、一週間に渡って北川の家に滞在しています。またタスコ在住時には国吉康雄、イサム・ノグチ、シケイロス、リベラなどの訪問も受けています。結局計22年間滞在したアメリカとメキシコでは、自由と民主主義を基本的思想とし、メキシコでは銅版画の技術を習得しました。42歳だった1936年(昭和11年)夏、タスコの野外美術学校を閉鎖し、730日妻子とともに横浜港に帰国到着しました。グッゲンハイム奨励金を得ることや、長女を日本で教育させるための帰国でした。


3「生涯の創作活動(日本帰国後の活動)」

「瀬戸の町の屋並」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/de/Kamagaki3.JPG/220px-Kamagaki3.JPG

日本帰国後にはまず静岡県に滞留し、次いで妻の実家がある愛知県瀬戸市刎田町で1年近く過ごします。1936年から1937年(昭和12年)には水彩画の連作『瀬戸風景』を描いており、当時はほとんど注目されませんでしたが、後に学芸員の村田眞宏はこの連作について「日本の水彩画の歴史に新しい1ページを加えた」と評価しています。19378月に上京して東京市豊島区長崎仲町に転居。同年9月には第24二科展5点を出品し、藤田嗣治の推薦で二科会会員となっています。帰国後の数年間油彩画やテンペラ画以外でも精力的な制作活動を行っており、水彩画や版画でも重要な作品を残し当時の日本の洋画壇の中では異質の画風を持ち、その作品はメキシコ派と呼ばれました。同年11月にはやはり藤田の紹介により、銀座日動画廊で初個展を開催しています。日本帰国後から終戦までの期間は北川のもっとも生産的期間であり、美術評論家の久保貞次郎は、この期間に多い青灰色の色調からこの期間を「灰色の時代」と名付けています

出典元:https://840.gnpp.jp/_soff/2018/06/31664499_1633390723417886_5979151821053100032_n-thumb-autox500-3543.jpg

1938年(昭和13年)2月には横浜市教育会館で講演会を行う傍ら、メキシコから持ち帰った児童画の展覧会を開催します。この他、二科展に出品し続けますが、戦前には1939年(昭和14年)に聖戦美術展、1940年(昭和15年)に紀元二千六百年奉祝美術展、1943年(昭和18年)に新文展に出品しています。1942年、久保貞次郎の資金援助により、久保らと設立したコドモ文化会が北川原作の絵本『マハフノツボ』を出版しますが、その後、用紙の入手すら困難となって絵本出版を挫折します。194311月には疎開先として5年ぶりに瀬戸市を訪れ、以後は1968年まで瀬戸市に居住しました。1944年(昭和19年)から終戦までは愛知県立瀬戸高等女学校(現・愛知県立瀬戸高校)の図画教師を務めましたが、瀬戸市は陶土や珪砂の採掘もおこなう窯業の町であり、銀鉱山で栄えたタスコと共通点があったことも瀬戸居住の理由だったようです

太平洋戦争後には二科展のほかに、美術団体連合展、日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展、国際形象展、太陽展などに精力的に出品を行います。1949年(昭和24年)夏と1950年(昭和25年)夏には、名古屋市の東山動物園内に名古屋動物園美術学校を開校1か月に渡って開校されたこの学校は保護者からの評判も良かったのですが、移転計画が持ち上がり、結局、計画が頓挫して失望しますが、1951年(昭和26年)名古屋市東山に北川児童美術研究所を設立します。1952年(昭和27年)5月には創造美育協会の発起人となり、全国を回って「創造美育運動」のセミナーを開催します。同年には第5中日文化賞を受賞。このように昭和20年代は壁画制作の研究や美術教育の実践などに力を入れていたため、展覧会への出品数は他の期間に比べて減少します。1955年(昭和30年)から1956年(昭和31年)には約20年ぶりにメキシコを訪問し、その他にも中南米、フランス、スペイン、イタリアなどを旅行します一方神奈川県立近代美術館では須田国太郎との2人展が開催され、画集や版画集も刊行され評判となります1950年代には輪郭線や分割線のある線描で画面を構成することが多くなり、灰色や褐色ではない明るい色調の作品が増えていきます。『絵を描く子供たち』や『子どもの絵と教育』を刊行するなど、児童画教育の実践だけでなく理論面でも活躍した時期でした

「アギラ・アステカ勲章」出典元:https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0407/users/01b5f3c32bcbda37529c114b0c48750aa8ddabb7/i-img1200x1200-1531146182x3apqi14859.jpg

1950年代末から1960年代に入ると、安保闘争公害問題などの社会問題を主題とする政治的な作品を数多く製作し、北川様式とも呼べる絵画表現を確立させていきます。メキシコ・花・母子像の画家というイメージは1960年代に定着したとされ、題材に時事問題を取り入れるようになったのは1960年代以後です。1960年代後半から1970年代には、銅版画石版画木版画などの作品も制作していきます。1978年(昭和53年)4月に二科会会長の東郷青児が死去すると、北川が後任の二会長に就任しますが、同年9月に会長を辞任し、1979年(昭和54年)には二科会を脱退します。また二科会脱会と同時期には、絵筆を置く表明も行います。実際これ以後の作品は数少なく、最晩年の1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にアクリル絵具で色紙に描いた十点ほどの作品があるのみです。1986年(昭和61年)にはメキシコ政府から、外国人に対する最高位の勲章であるアギラ・アステカ勲章を授与されましたが、その一方で愛知県が北川に勲章を与えようとした際には固辞しました。1989年(平成元年)426日、瀬戸市の陶生病院で死去。死因は肺線維症97歳でした。


4「主な代表作品」

「水浴」1929年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

「タスコからの眺望」1933年制作・愛知県美術館所蔵*油彩

出典元:https://www.manabiaterrace.jp/files/4215/2092/9281/tamiji_entotsu_0308.jpg

「煙突のある風景」1937年制作・三重県立美術館所蔵*版画

「牛」1937年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「家族」1937年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「メキシコの女」1937年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「メキシコ三童女」1937年制作・愛知県美術館所蔵*油彩

「メキシコ三童女(素描)」1937年制作・刈谷市美術館所蔵*水彩画

出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/s0001029.jpg

「メキシコ静物」1938年制作・東京国立近代美術館所蔵*油彩

「ランチェロの唄」1938年制作・東京国立近代美術館所蔵*油彩

「南国の花」1940年制作・愛知県美術館所蔵*油彩

「メキシコの浴み」1941年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/s0079041.jpg

「猫と女」1941年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「タスコの裸婦」1941年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「海への道」1942年制作・三重県立美術館所蔵*油彩

「鉱士の図」1943年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

「山羊と母子」1946年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

出典元:https://www.manabiaterrace.jp/files/3015/2092/8914/tamiji_seto_0308.jpg

「瀬戸の工場」1948年制作・瀬戸市美術館所蔵*油彩

「裸婦」1950年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

「降霊術」1953年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

「母と娘」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/s0079048.jpg

「サボテン」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「悲しみ」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「浴み」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「犬」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「狂女」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「女の顔」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「バッタ」1957年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「静物」1958年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/s0079055.jpg

「白人と黒人の子ども」1958年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「十字架」1958年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「花嫁」1958年制作・東京国立近代美術館所蔵*版画

「砂の工場」1959年制作・愛知県美術館所蔵*油彩

「白と黒」1960年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

「平和な闘争」1964年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

「愛情」1964年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「抱く」1965年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「哺育」1965年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「陶工」1966年制作・愛知県美術館所蔵*版画

出典元:https://www.manabiaterrace.jp/files/3815/2092/9284/tamiji_ran_0308.jpg

「蘭の花」1967年制作・瀬戸市美術館所蔵*油彩

「はだかの子と母」1969年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「瀬戸の母子像」1970年制作・愛知県美術館所蔵*版画

「百鬼夜行」1973年制作・刈谷市美術館所蔵*油彩

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