団塊世代の国産名車列伝

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団塊世代の国産名車列伝

団塊世代は日本のモータリゼーションの歴史とともに歩んできたと言っても過言ではありません。昨今の若者は「車離れ」らしいですが、都市の交通インフラは完璧だし、車って必需品としての価値を劣化させてるのかも知れません。でもご紹介します「団塊世代の国産名車列伝」です。「トヨタ2000GT」「HONDAフェアレディ」「日産フェアレディZ」「日野コンテッサ」「日産 スカイライン2000GT」「スバル アルシオーネ」「日産ブルーバードSSS」「マツダ サバンナ」「日産レパード」「マツダ コスモスポーツ」「いすゞピアッツア」「三菱GTO」。

*当記事は「マイルストーンジャパン」の許諾を得て記事公開しています。

「トヨタ2000GT

出典元:https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/140822_1/06.jpg

出典元:https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/140822_1/02.jpg

出典元:https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/140822_1/04.jpg

出典元:https://gazoo.com/pages/contents/article/car_history/140822_1/10.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB2000GT

参考サイト:https://gazoo.com/car/history/Pages/car_history_047.aspx

インフォメーション:(ウィキペディア/Gazooより抜粋)

2000GTトヨタ自動車ヤマハ発動機が共同開発し、ヤマハ発動機への生産委託で1967から1970までトヨタブランドで生産されたスポーツカータイプの乗用車である。型式は「MF10」と「MF12L」。極少数ながら廉価版としてOHCエンジンの2300ccモデルが製造された。1964111日、試作ナンバー280Aのプロジェクトがスタートする。エクステリアデザインは、アメリカのアートセンターで研修を積んだ野崎 喩に依頼した。エンジン設計は高木英匡、サスペンションは山崎進一が担当することになり、少数精鋭のスタッフで極秘のプロジェクトが動き出した。世界トップレベルの本格的スーパースポーツであること、GTレースに参戦しても通用するポテンシャルを持つことなど、高い目標が定められた。そして同時に日常的なハイパフォーマンスカーであることも求めている。レースが目的なのではなく、あくまでも普段使いのできるスポーツカーを目指したのだ。研究のために、ヨーロッパ製のスポーツカーが持ち込まれた。MGB、トライアンフTR2、アバルト・ビアルベーロ、ポルシェ911、ロータス・エラン、ジャガーEタイプなどである。日本のホンダS600も購入した。研究を重ね、基本コンセプトが固まっていった。純レーシングカーではないので、駆動方式はFRにし、前後の重量配分は5050に近づける。サスペンションは、前後ともダブルウイッシュボーン。ブレーキは四輪ディスクでトランスミッションは5段。空力性能を上げるために、床下はフラットにする。11月中に細部を詰め、12月初旬には5分の1全体図ができあがった。構想は固まったが大事なパーツが残っていた。エンジンである。開発のパートナーとして選んだのはヤマハ発動機だった。2000GTのエンジンについてはクラウンのM6気筒をベースにヘッドをDOHC化することが決まった。ヤマハが培ってきた技術の蓄積が日の目を見ることになる。19651月半ばからトヨタとヤマハとの共同作業が始まり、野崎、山崎、高木の3人は、毎週火曜日から金曜日までヤマハの設計室で作業をすることになった。ヤマハとの提携は意外なところでもメリットを生む。インパネのウッドパネルはヤマハの母体である日本楽器のピアノ材を使うことになったのだ。共同作業は4月末まで続き、設計図が完成した。 試作車を引き取りに行ったのは814日である。開発を始めてからわずか10カ月という驚異的な短さで1号車を仕上げたのだ。トヨタに戻ってすぐに試運転したというから、それなりの完成度だったのだろう。この年に行われた東京モーターショーに2000GTが出品され、低く構えた流麗なスタイルが人々を驚かせた。会場にはホンダS800、いすゞ・ベレット1600GT、スバル1000なども展示されていた。ショーが始まる19日前に外国車の輸入が解禁されており、各メーカーは対抗するために魅力的な新型車を競って発表したのだ。トヨタが初の本格的純国産乗用車クラウンを作ってから10年、日本の自動車産業は欧米の強力なメーカーと争う時代に突入していた。2000GTの次なる目標は19665月の第3回日本グランプリに設定された。レースを通じて弱点の洗い出しと性能の向上を図ることにしたのである。第2回までと違い、細かいクラス分けをやめて富士スピードウェイを60周するメインレースに一本化されていた。開発陣はレースのために軽量なアルミボディーのスペシャルマシンを用意した。しかし、プロトタイプレーシングカーの出場も認められていたので市販化前提のスポーツカーである2000GTにとっては勝ち目のない戦いである。それでも2台のプリンスR380に続いて3位でフィニッシュし、ポテンシャルの高さを見せた。グランツーリズモとして開発された2000GTはスプリントレースよりも耐久レースで真価を発揮した。2カ月後に行われた鈴鹿1000kmレースではワンツーフィニッシュを決め、翌年も鈴鹿500kmレースで優勝し富士24時間レースではスポーツ800とともにデイトナフィニッシュを飾った。19675月ついに2000GTは発売された。スタイルは1965年に発表されたプロトタイプと大きくは変わっていない。Xボーンフレームに前後ダブルウイッシュボーンサスペンションを備え、ロングノーズショートデッキのファストバックボディーをまとっていた。エンジンは3M1988cc直列6気筒DOHCで最高出力は150psだった。最高速度は220km/h0-400m加速は15.9秒と発表されたが、実際には少し違うらしい。細谷がテストすると最高速度が230km/h0-400m加速は15.1秒だったが、バラツキがある可能性を考慮して控えめな数字にしたのだという。価格は238万円で、高級車クラウンの約2倍である。簡単に手を出せる金額ではないが、盛り込まれた技術と手作りに近い製造工程を考えれば、バーゲンプライスといえる。1969年にフロントマスクの変更やATモデルの追加などのマイナーチェンジが行われ、19708月までに337台が製造された。ただ、2.3リッターSOHCエンジンを搭載したモデルが試作されたりしていて、実際に製造された台数はもう少し多いようだ。

発売年度:19675

発売当時価格:238万円

基本スペック情報:

デザイン

野崎喩

乗車定員

2

ボディタイプ

3ドアハッチバッククーペ

エンジン

MF10型 1988cc 3M型直列6気筒 DOHC , MF12L型 2253cc 2M-B型直列6気筒 OHC

駆動方式

FR

最高出力

MF10型 150ps/6600rpm , MF12L型 140PS/5800rpm

最大トルク

MF10型 18.0kgf·m/5,000rpm , MF12L型 20.5kg-m/3800rpm

変速機

2000GT専用5MT(他に3ATの設定あり)

サスペンション

4輪ダブルウィッシュボーン(コイルスプリング)

全長

4175mm

全幅

1600mm

全高

1160mm

ホイールベース

2330mm

車両重量

1120kg

HONDAS800

s8_y1

出典元:http://www.honda.co.jp/memory/mem-s8/mem-s8e/image/s8_y.jpeg

s8_gr1

出典元:http://www.honda.co.jp/memory/mem-s8/mem-s8e/image/s8_gr.jpeg

11095291

出典元:https://www.kurumaerabi.com/images/response/response.jp/imgs/feed/zoom/1109529.jpg

公式サイト:http://www.honda.co.jp/memory/mem-s8/mem-s8st/s8colum.html

参考サイト:https://www.kurumaerabi.com/car_news/info/132818/

インフォメーション:(HPより)

1962年の10月、第9回全日本自動車ショーにホンダスポーツ360/500がセンセー ショナルなデビューをとげた。排気量は僅か356cc/531ccながら、グランプリカーを思わせる精密そのものの4気筒DOHCエンジンを搭載していた。そして翌19637月のスポーツ500の新聞広告“価格当てクイズ”には全国から573万通余りの応募があり、当選発表時の広告に掲載された価格はおおかたの予想をはるかに下廻る459,000円。スポーツ500は画期的な低価格で日本中の話題をさらったのだ。1963年末の発表時には正式呼称がホンダスポーツ500から「ホンダS500」に改称されている。軽自動車規格のスポーツ360は市販に至らなかった。1964年3月早くもその発展型のホンダスポーツS600が発売された。この年の5月に鈴鹿サーキットで開催された<第2回日本グランプリ>のGT-1レースで優勝したS600は、その性能でさらに人気を集め、当時の若者のあこがれのクルマになって行く。同じ1964年の9月、S600はドイツの<ニュルブルクリンク500km>耐久レースに初出場し、 並みいるヨーロッパの強豪車を破って1000ccクラスで優勝、ホンダスポーツの評判は自動車先進国に広まった。2輪車ばかりか、4輪車でもホンダの名は世界に高まった。続いて、いよいよ「エスハチ」が登場する。1966年1月、Sシリーズはついに「ホンダS800」へと進化し絶頂期を迎える。路上だけでなく、モータースポーツの恰好の入門車としても圧倒的な支持を集め、数々の国内レースで大活躍を続けた。当時発展途上にあった日本のモータースポーツを底辺から支える役も果たしていた。そして1970年5月、最後のS800が生産ラインを離れるまで、すばらしいスポーツカーであり続け、現在なお世界中に熱烈なファンを持つ伝説のスポーツカーとなったのだ。

このような量産小型スポーツカーで、これほど凝りに凝ったエンジンを搭載するクルマは、当時どこにも無かった。モーターサイクルの世界グランプリを制覇していたホンダが、ホンダスポーツのエンジンに注いだ技術はケタ外れに高度なものだったのだ。ボンネットを開いた時のエンジンルームの眺めは今の眼にも魅力に溢れる。水冷4気筒DOHC。見るからに、精緻で美しく高性能を思わ せる。そして4連キャブレター。4本のエキゾーストマニフォールド。 組立式のクラ ンクシャフト。これを支持するニードルローラーベアリング。ホンダが得意としていた高回転高出力のための技術がぞんぶんに駆使されたこのエンジンは、排気量791cc70PS/8,000rpmというずばぬけたパワーを発揮した。フロトサスペンションは、ダブルウイッシュボーンにトーションバー・スプリング。リアサスペンションは、S500からS800の初期まではチェーンドライブ機構のケースにトレーリングアームを兼ねさせるユニークなもの。のちにこれはライブアクスルへと変更された。スタイリングもS800の魅力だった。しかも小柄ながら、そのコックピットは不思議なほどどんな体格のドライバーにもピッタリだった。3本スポークのスポーティなステアリングホイール、大きなタコメーターとスピードメーター、 セミバケットシート、全てにスポーツフィーリングいっぱいだった。 S500時代にはオープンボディのみだったが、S600時代にクーペが加わり S800もオープンとクーペが用意されていた。さらに、その走り。ホンダスポーツで初めてスポーツカーのハンドリングを知って目のさめる思いをした人が、当時どれほど多かったことか。間髪を入れずアクセルワークに反応し、際限ないかのようにいっきに吹き上がるエンジン。カチカチと小気味よく決まるギアシフト。キビキビ感そのものの操縦性。どれもがそれまでの日本車にない、新鮮なパフォーマンスだった。S8000400m16.9秒。最高速度は160km/h 。この頃の世界の小型スポーツカーに比べても排気量は最も小さかったが、その性能は 断然トップクラスにあった。ホンダスポーツは、日本のみならず世界の自動車史に残るヒストリックカーであう。

発売年度:1966

発売当時価格:653000

基本スペック情報:以下参照

 

ホンダS800諸元表

 

L×W×H(mm)

3,335×1,400×1,200

WHEELBASE(mm)

2,000

TREAD(mm)

1,150(F) 1,128(R)

CURB WEIGHT(kg)

720

ENGINE

water cooled inline 4

VALVECAM DRIVE

chain train DOHC

DISPLACEMENT(cc)

791

BORE×STROKE(mm)

60.0×70.0

MAX POWER(PSr.p.m)

708,000

MAX TORQUE(kg-mr.p.m)

6.76,000

CARBURETION SYSTEM

CVB36N30A1 4 carb

LUBRICATION SYSTEM

circulate & splash pumpted

TRANSMISSION

4 speed & reverse

FRAME TYPE

ladder

SUSPENSION(F)

double-wishbone torsion-bar

SUSPENSION(R)

live axle coil-spring

TIRE SIZE(F)

6.15-13

TIRE SIZE(R)

6.15-13

BRAKES(FR)

leading trailing drum

PRICE

\653,000

 


「日産フェアレディZ

06_px4501

「S30型北米仕様ダットサン240Z」出典元:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081211/1021800/06_px450.jpg

08_px2501

「2L直6DOHCのS20型エンジン搭載Z432」出典元:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081211/1021800/08_px250.jpg

07_px2501

「国内仕様フェアレディ240Z-G」出典元:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081211/1021800/07_px250.jpg

参考サイト:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081211/1021800/?P=3

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3Z

インフォメーション:以下参照

1969に先代モデルであるオープンボディダットサン・フェアレディに代わって発売された。ヨーロッパ製の高級GTに匹敵するスペックと魅力あるスタイルを兼ね備えながら格段に廉価であったことで、北米市場を中心に大ヒットした。日産のイメージリーダーカーとして足掛け10年もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立した。「ダッツン・ズィー」の愛称で親しまれ、日産自動車の輸出モデルの総称でもある「DATSUN」の名を世界に知らしめた日産の記念碑的車両である。このモデルの開発・販売を企画したのは1960年代当時、米国日産の社長であった片山豊である。彼はダットサンの北米市場拡販のために強力なイメージリーダーとなるモデルを求めており、イギリス製小型スポーツカーの模倣に留まる従来のダットサン・フェアレディでは、市場での競争力が不十分であり、年々厳しくなる北米の安全基準にも適合できなくなると考えていた。片山はアメリカ市場でのニーズに適合した新しいスポーツカーの開発を要望し、1960年代中期から腰の重い日産本社に対して熱心な働きかけを重ねた末に、当時の日産社長だった川又克二からようやく開発のゴーサインを得た。片山はヤマハ発動機ではなかったが、アメリカ市場のニーズを見据えて日産本社の開発陣に明確なコンセプトと適切なアドバイスを与え、初代「Z」のプロデュースを主導した。片山自身はインタビューで「ジャガー・Eタイプのような車を造ってくれ」と要望を出したと述べており、初代Zのスタイリングはその期待を十分に満たすものとなった。

Z」のスペックは高度なもので、軽量なモノコックボディに、前後輪ともストラット式サスペンションによる四輪独立懸架を備え、市場で先行するジャガー・Eタイプポルシェ・911などに肉薄した。搭載されたL型直列6気筒エンジンは、SOHC動弁機構を備えた2 Lクラスの最新式ではあったが、素性は鋳鉄シリンダーブロックにターンフロー燃焼室を組み合わせた手堅い実用型エンジンであった。北米向け仕様は2.4 Lへの排気量拡大でトルクを太らせたL24型エンジン採用でパワー対策としており、これもまた手堅い手法であった。だがL型は低速域からのトルクに富み、大排気量アメリカ車同様に実用域で扱いやすかった。ジャガーやポルシェの高性能だが複雑なパワーユニットに対して、シンプルな設計のおかげで手荒な取り扱いにも耐え、信頼性が高く整備も容易な、アメリカ市場でのユーザーニーズに合致したユニットであった。この面では、実用車向け量産エンジンをチューニングして搭載していたかつてのイギリス製スポーツカーの良き伝統を受け継いでおり、「Z」に実用型スポーツカーとしての優れた特性を与えた。荷物スペースはスペアタイヤ2個分というスポーツカーとしては非常に大きな容量を確保しているが、これはスーパーマーケットで購入する「一週間分の食料」の積載を考慮したもので、アメリカ人のライフスタイルを反映したものである。デザインは日産自動車第1造形課第4デザインスタジオに託され開発が始まった。この部署はスポーツカー担当部署であったものの、少量生産を前提とした小さな部署であった。メディアでは第4デザインスタジオチーフだった理由から「S30のチーフデザイナーは松尾」と紹介されることが多いものの、実際は吉田案のファストバックをベースに松尾案のフロントマスクを合わせたデザインが基本となっている。その後、1967年に田村久米雄・西川暉一・桑原二三雄の3名がスタジオ入りし、最終的な造形修正は田村が担当している。ボディタイプは各種検討されており、松尾がS30Z発売以前にデザインしたロングホイールベースの2+21973年秋に実車となってシリーズに追加された。オープンエアを求める層に対しては、独立したトランクルームを持つタルガトップモデルが設計され、プロトタイプまで製作された。また、将来的なモアパワーの要求には、プレジデント用V8気筒Y40型エンジン)で対処する松尾の私案もあったが、どちらも市販化には至っていない。スケッチで終わったモデルには吉田のデザインしたレース仕様のものやクーペベースのワゴンや松尾のデザインした4人乗りスポーツワゴンなどもあった。このS30Zスポーツワゴンにおいては松尾が1966年に描いたスケッチをもとに、米在住で自動車レストア専門家の安宅二弥によって1台だけ再現され、20148月サンディエゴの日産主催のZコンベンションにてお披露目された。この様子は米国二スモのサイトでも紹介された。1996年に北米での300ZXZ32型系)の販売が中止になった後、ファンからの要望で北米日産が新品・中古パーツを集めてレストアして240Zを限定販売する企画が立ち上がり、ビンテージZと名付けられて販売された。しかしレストアには予想以上の費用と時間がかかり採算が合わない上、応募者が殺到したため、当初200台の予定が39台にとどまりその後中止となった。またビンテージZには受注ベースの車両もあったことと、全て地元の板金工場やショップが仕上げた為、個々の車体の仕上がりや仕様には様々なものがある。しかしメーカーが総力をあげて車をレストア販売するという異例の企画は当時画期的であった。日本国内における当時の新車販売価格が廉価版の「Z」が84万円、「Z-L」が105万円とスポーツカーとしては比較的安価であったことで爆発的にヒットした。「432」は182万円、後に追加された「240ZG」は150万円と、それなりに高価であった。

発売年度:1969

発売当時価格:840000円~

基本スペック情報:

販売期間

19691978(生産終了)

乗車定員

2/4

ボディタイプ

3ドアファストバック(2)
3
ドアファストバック(4)

エンジン

2.0L 6 L20
2.0L 
6 S20
2.4L 
6 L24
2.6L 
6 L26
2.8L 
6 L28

駆動方式

FR

変速機

4MT/5MT/3AT

サスペンション

前:マクファーソンストラット
後:ストラット

全長

4,115 – 4,425mm

全幅

1,630 – 1,690mm

全高

1,280 – 1,290mm

ホイールベース

2,305/2,605mm

車両重量

975 – 1,145kg

ブレーキ

F:ディスク
R
:ドラム(リーディングトレーリング式)

最高速度

180 – 210km/h

先代

ダットサン・フェアレディ

「日野コンテッサ1300

con-011

出典元:http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-12/c-1300/con-01.jpg

con-021

出典元:http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-12/c-1300/con-02.jpg

con-031

出典元:http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-12/c-1300/con-03.jpg

con-051

出典元:http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-12/c-1300/con-05.jpg

参考サイト:http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-12/c-1300/c-1300.html

インフォメーション:以下参照

昭和36年に発売されたコンテッサ900の後継車としてコンテッサ1300が発売されました。しかし昭和41年トヨタ自動車との業務提携に伴い乗用車等の生産から撤退が決定コンテッサ 1300も昭和44年に生産を終了しました。当時の価格はコンテッサ1300デラックスが.653,000円、1300クーペが850,000円となっています。ちなみに昭和39年(1964)度のコンテッサの生産台数は21,915台となっています。(以下、商品カタロクから抜粋紹介します)
格調高いスタイルは、イタリアの世界的カー・デザイナーG・ミケロッティが日野に協力して造り上げた会心の傑作・・・高速道路の連続走行に重点をおいて設計した本格的なツーリング・スポーツです。メータ類は、見やすくまとまっています。変速はスムーズなオール・シンクロ前進3段、操作は、軽い電磁セレクト式ハンドル・チェンジです。最小回転半径4.6メートル、ラック・ピニオン式のハンドルは、軽く・切れがよく・戻りが良く・・・理想的・・・正確で安全に走れて疲れません。広大なフロントの曲面ガラス、明るくて前後左右の視界が広いルームです。リヤエンジンのため、床が低くて平坦、前のシートは 120mmスライドし、乗る人に合わせて調節できます。カバーその他が落着いた感じに調整され、クッションも柔らかく背当角度も理想的に設計され長時間のドライブにも、全く疲れませんルームの広さは、このクラス最大です。堅牢性と高速性の優れた日野コンテッサ1300のボデーは、リヤ・エンジンに最適のユニットコンストラクション—–曲げネジレに強い剛性ある構造・・・ボデー全体でショックを吸収しますから、どんな悪路を走っても、ユガミがなく安全です。コンテッサ1300のラゲージ・ルームには、5人分の旅行に必要なスーツ・ケースや手回り品が十分に積めます。もちろんゴルフバックも釣竿もラクに入ります。またリヤ・シート後方にも、視野をさまたげず遣いやすいバゲージ・スペースがあります。

発売年度:1961年・昭和36

発売当時価格:(1300クーペ)850000

基本スペック情報:

 

全   長

,090 mm

エンジン形式

頭上弁・水冷直列4シリンダ

全   高

,390 mm

総排気量

,251  cc

全   巾

,530 mm

圧 縮 比

,5 : 1

車両重量

890 kg

最高出力

55PS/5000 rpm

最高速度

130 km/h

最大トルク

,kgm/3200 rpm

 

≪次ページ・パート2.もご覧ください≫

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