人物写実画の名手・前田寛治

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人物写実画の名手・前田寛治

夭折の画家としてその存在を知られる前田寛治は、人物写実画の名手でもあります。独特の画法「前寛ばり」を駆使しながらの写実理論は後世の画家に多大な影響を与えました。そこでご紹介します「人物写実画の名手・前田寛治」です。

≪インデックス≫

1「出生情報」

2「絵画との出会いと生涯の創作活動」

3「エピソード」

4「主な代表作品」


1「出生情報」

「前田寛治(左)・福本和夫(右)」出典元:http://www.e-hokuei.net/secure/3571/maetakanjitohukumotokazuo.jpg

1896101日鳥取生まれ・1930416日東京にて没、享年33歳。

プロフィール概要:以下参照

前田寛治は大正末期から昭和にかけて活躍した洋画家で、独特の画法「前寛ばり」で広く知られています。前田の芸術界に与えた影響は極めて大きく、33歳の若さで早逝したことから夭折の天才と呼ばれています。前田寛治は人物写実画を手がけることが多く、独自の写実理論を展開した写実の天才でした。古典的な構図でありながらも原色を用いた激しい色彩と強烈な筆致が特徴の前田の画風は「前寛ばり」と呼ばれ、当時の洋画家はもとより広く芸術家に強い印象を与えます。しかし、前田の洋画家としてのキャリアは実は10年余りと非常に短く、残されている作品の数も限られています。前田は1896年に鳥取県に生まれます。農家の次男坊でした。勤勉な性格で幼少時から学業に勤しみ、中学校卒業後、現在の京都大学である第三高等学校を受験します。しかし、惜しくも受験に失敗してしまいますが、失意をバネに画家を志し、1916年に現在の東京芸術大学である東京美術学校に入学。画家としての第一歩を歩み出します。卒業後はフランスに3年間滞在し、パリの美術学校でクールベの写実主義の研究に勤しみました。前田独自の写実主義に対する理論はこの頃に形になり始め、1926年にはパリで活躍する日本人画家である佐伯祐三、小島善太郎などを集め芸術クラブを結成。さらに、帰国後は名誉ある国内の美術コンクールである帝展での受賞を経て、1929年には帝展審査員に選抜されます。まさに破竹の勢いで美術界のスターダムを駆け上がった前田でしたが、1929年に病に倒れ、その翌年33歳の若さで夭折します。


2「絵画との出会いと生涯の創作活動」

「中井金三」出典元:http://www2.odn.ne.jp/aae38470/kinzou/image1.jpg

1896101日、鳥取県東伯郡北条町(現・北栄町)国坂の豪農の次男に生まれます。1914に倉吉中学(現倉吉東高等学校)を卒業。第三高等学校(現京都大学)の受験に失敗して画家を志し、東京美術学校を卒業して倉吉中学に赴任したばかりの美術教師の中井金三1年間絵を学びます。中井の勧めもあり大正4年に上京、同郷の森岡柳蔵に連れられ黒田清輝を訪ね、白馬会葵橋洋画研究所を経て、大正5年に東京美術学校西洋画科に入学しました。学校では長原孝太郎藤島武二に師事し、同級生には伊原宇三郎、鈴木千久馬、田口省吾、田中繁吉らがいました。東京美術学校在学中から休暇ごとに帰郷し、大正9年に中井金三を中心に結成された「砂丘社」に創立当初から参加、鳥取の子供たちや田園ののどかな風景を好んで描き、叙情あふれる作品を多く残しており、積極的に同人展にも出品しています。

「アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエール」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/28/Acad%C3%A9mie_de_la_Grande_Chaumi%C3%A8re%2C_Paris_6.jpg/220px-Acad%C3%A9mie_de_la_Grande_Chaumi%C3%A8re%2C_Paris_6.jpg

大正10年東京美術学校を卒業し同年の帝展に初入選、さらに翌年の平和記念東京博覧会で褒状を受賞します。画家として順調なスタートを切った前田は倉敷で見た大原コレクションに惹かれ、ヨーロッパへの思いを強め、パリ留学を決意します。前田がフランス留学を決意した際には、中井は我がことのように感じ、その資金集めに奔走したというエピソードが残っています。1921、東京美術学校を卒業して研究所に進級し研究生となり、翌1922から1925年までフランスに滞在し、パリの美術学校アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに籍を置いています。結局、大正11年末から2年半パリに留学した前田でしたが、その留学生活はけっして恵まれたものではありませんでした。しかし制作には意欲的に取り組み、セザンヌ、ゴッホ、ブラマンク、キュビスムなど多様な描法を研究するとともに、クールベの写実主義にも着目、一時期、労働者や工場の風景も描いています。また中学の同級生で社会主義思想家の福本和夫とも交流し、唯物史観的な思想に影響を受けています。パリ留学最後の年には「西洋婦人像」や「ブルターニュの女」など、留学中の集大成ともいえる作品を描いています

「独立美術協会発会式」出典元:http://www.fkchannel.jp/up_img/exhibition/6/ZNfXYodymv7S/09.jpg

帰国後、1926にパリ時代の友人である佐伯祐三里見勝蔵小島善太郎たちと「1930協会」を結成します。19286月に東京杉並区天沼にアトリエ兼自邸を建てて前田写実研究所を開設し、当地で後進達の指導をしつつ自身が目指す写実画の更なる探求をはじめます。また後進の指導にあたるとともに、留学中の研究成果である著書『クルベエ』を出版するなど、多くの画論や随筆を発表、写実理論を作品と執筆の両面から確立しようと試みます帝展での特選を重ねて1929に帝展審査員に選ばれ務めますが病に倒れ、都内の病院に入院し、その病室で絶筆となる大作「海」を完成させます。1930416日、鼻孔内腫瘍により逝去。享年33歳でした。前田の生きた時代の洋画壇は、帝国美術院と二科会に代表される新しい洋画団体との対立の時代であったとも言えます。すなわち前者のアカデミックな画法と後者の新しい画法との対立の時代でした。そうした時代の中で前田寛治は、西洋の美術を知的に分析して独自の絵画観を会得し、自らの芸術における目標を「写実」におき、その実現にむけて描き続けました。前田寛治の生誕の地である鳥取県倉吉市では絵画の公募展「前田寛治大賞展」が開催され2018年で10回の開催を重ねています。前田は活躍した当時の芸術家に多大な影響を与えただけでなく、写実主義に対する徹底した真摯な姿勢は現代でも決して色褪せず、見る者の心を現在も動かし続け、数多くのファンを惹きつけて止まない画家の一人と言えます。


3「エピソード①・1930年協会」

「第一回1930協会第一回洋画展覧会」出典元:https://www.fkchannel.jp/kgmuse/exhibition/showanoyoga/img/1.png

インフォメーション:以下参照

第一次世界大戦後、芸術の都パリはエコール・ド・パリと呼ばれる文化が花咲き、世界中から芸術家や若者が集まります。日本からも多くの留学生が海を渡りました。小島善太郎、前田寛治も志を抱いて同時期にパリで学び、彼らが仲間たちと帰国後の1926年に結成したグループが「1930年協会」です。創立メンバーは木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治の5人でした。既存の美術団体の枠にはまらない、この新しいグループの活動は展覧会にとどまらず、講演会や執筆、研究所での後進の指導を積極的に行い、多くの若者に影響を与えました。19265月第1回展を開催、第2回展より公募展形式としました。名称は、彼らの尊敬するコロー、ミレーら1830年派の友情にちなんだものでした。したがって特定の主義主張を掲げない個性豊かな集団でたが、会の作風はフォービズム的傾向が基調となっていました。彼らの目的は、明治以来の穏健な外光様式の打破と、プロレタリア美術に対抗した純粋絵画の芸術性の追求を目ざすもので、その意欲的活動は当時の青年作家に新鮮な刺激を与えました。第2回展以後の会員に、林武、野口弥太郎、中山巍、木下義謙、川口軌外、福沢一郎など次代の新鋭が並びますしかし1928年に佐伯祐三が2度目の渡仏中に客死、その翌年には里見勝蔵が脱会、1930年には前田寛治も33歳の若さで亡くなると、創立メンバーの内3人を失った協会は求心力を失い、同年に立ち上がった「独立美術協会」へと発展解消することになっていきます。結成からわずか5年、奇しくもグループの名称とした1930年が活動の最後となりました。


3「エピソード②・前田寛治大賞」

「倉吉博物館」出典元:http://www1.city.kurayoshi.lg.jp/hakubutsu/osirase/gifbutton/viewermini1.jpg

インフォメーション:以下参照

前田寛治大賞展は倉吉市倉吉博物館が主催する絵画の全国規模の指名公募展です大正時代末から昭和初頭にかけて活躍した倉吉市ゆかりの洋画家前田寛治の画業顕彰と彼が日本の洋画壇にもたらし生涯追究し続けた新しい写実主義の可能性をテーマとする、推薦委員による指名応募制の公募展で。第1回は1988年、第2回は1992年で、以降3年毎(トリエンナーレ形式)に開催されています

前田寛治大賞は審査員の指定した推薦委員による指名応募制です。指名作家は45才(1968年生まれ)までとし、前回佳作賞受賞者で年齢制限の範囲にはいる方をシードしています。

各年度の大賞受賞作は以下をご参照ください。

1回(1988松原政祐『生きるものたち「誕生」』1987年制作 

2回(1992山本明比古『ガンジスの音船』1992制作 

3回(1995吉岡正人『幸せな一日』1995制作  

4回(1998高橋雅史『跡』1998制作 

5回(2001西房浩二『遠い記憶』2001制作 

6回(2004芳川誠『収穫』 

7回(2007島村信之『潮騒』

「2010年-七月のある朝」出典元:http://www1.city.kurayoshi.lg.jp/hakubutsu/maekan/maekan9/yamamotoyuzou1.jpg

8回(2010山本雄三2010七月のある朝』2010制作 

「StillLife」出典元:http://www1.city.kurayoshi.lg.jp/hakubutsu/osirase/gifbutton/yoshiut2.jpg

9回(2014吉中裕也Still Life(黄色い水差しのある静物)』 2014制作 

「David」出典元:https://www.ync.ne.jp/kinshicho/0fa8681bc0d1d8a58560eaf461144d55.jpg

10回(2018年)森吉健『David2018年制作


4「主な代表作品」

「ポーランド人の姉妹」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momak/O00011.jpg

「ポーランド人の姉妹」1923年制作・京都国立近代美術館所蔵

「二人の労働者」出典元:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/img/C/img_c3/works_c3b_11.gif

「二人の労働者」1923年制作・大原美術館所蔵

《二人の労働者》は渡仏直後の前田の置かれた状況をよく語る作品である。その構築的な人体の表現はピカソなどのスタイルに倣ったものだが、何より労働者という主題が彼の思想の立ち位置をよく示している。 この画面の上部には「Lodokaikyu wa jikaku su Seizon o fugoli nalu shakai ni shiilaletsutsu alukoto o(労働階級は自覚す、生存を不合理なる社会に強いられつつあることを)」 とローマ字で書かれている。前田にとってこれほど直截な思想表明がなされた作品は他にない。この文字は帰国後の発表に際して、当時の日本の社会状況を背景に一文字ずつ塗り潰されて画面上から消されていたが、大原美術館への収蔵後に元のとおりに修復された。

「静物」1923年制作・鳥取県立博物館所蔵

「風景」16924年制作・三重県立美術館所蔵

「男の像(高須)」1924年制作・鳥取県立博物館所蔵

「立っている労働者」1924年制作・個人所蔵

「作品」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0026018.jpg

「作品」1924年制作・東京国立近代美術館所蔵

「赤い帽子」1925年制作・ひろしま美術館所蔵

前田はパリ遊学の総仕上げとして取り組んだ女性像の多くに、本作と同様、黒を多用した。ここでは、深みのある黒が、帽子と衿の赤を鮮やかに引立てていることはもちろん、ビロードであろう重量感のある生地に包まれた少女の肌に透きとおるようなみずみずしさを与えている。

「裸婦」1925年制作・福島県立美術館所蔵

「ブルターニュの女」1925年制作・個人所蔵

「仰臥裸婦」1925年制作・鳥取県立博物館所蔵

「西洋婦人像」1925年制作・鳥取県立博物館所蔵

「労働者」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0026019.jpg

「労働者」1925年制作・東京国立近代美術館所蔵

「黒衣婦人像」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0041040.jpg

「黒衣婦人像」1925年制作・東京国立近代美術館所蔵

「裸婦」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0004037.jpg

「裸婦」1925年制作・東京国立近代美術館所蔵

J.C嬢の像」1925年制作・倉吉博物館所蔵

「後向きの裸婦」出典元:http://www.polamuseum.or.jp/wp/wp-content/files_mf_collection/cache/th_d8399901d709490dbf8a92fe7c7970ba_0004300001.jpg

「後向きの裸婦」1927年制作・ポーラ美術館所蔵

本作品は前田が1930年協会の活動に没頭していた頃のものであり、この頃数多く発表した裸婦の大作のひとつである。彼は写実技法で追求すべき要訣を「質感を得ること」「量感を得ること」「実在感を得ること」の3つにまとめているが、この裸婦像にもそれら三要素が巧みに表現されている。褐色を基調に深緑や濃紺が混ざった翳りのある室内を背景として、寝椅子には裸婦が横たわっている。こちらに背中を向ける女性の横臥像はアングルの《グランド・オダリスク》(1814年、ルーヴル美術館)を思い起こさせる。寝椅子と裸婦の背中の曲線は同じカーヴを描いており、画面に一定方向の運動性をもたらしている。そして、この裸婦像では見る者はなによりも裸婦のどっしりとした量感に圧倒される。体のねじれや立体感、とくに暗闇に浮かび上がるかのような肌の明るさは、質感と存在感を呼びおこす。クールベを独学で理解した前田の写実への執着がうかがえる作品である。

「横臥裸婦」1927年制作・鳥取県立博物館所蔵

「赤い帽子の少女」1928年制作・三重県立美術館所蔵

「裸婦」1928年制作・三重県立美術館所蔵

「裸婦」1928年制作・神奈川県立美術館所蔵

「裸体」出典元:http://search.artmuseums.go.jp/jpeg/momat/S0048040.jpg

「裸体」1928年制作・東京国立近代美術館所蔵

「ベッドの裸婦」1928年制作・兵庫県立美術館所蔵

「棟梁の家族」1928年制作・鳥取県立博物館所蔵

「海」1929年制作・鳥取県立博物館所蔵

「海」1930年制作・倉吉博物館所蔵

「引田芳蔵氏像」出典元:http://www.e-hokuei.net/secure/3571/hikitahouzousizou.jpg

「引田芳蔵氏像」制作年度不明・北栄町北条小学校所蔵

「静物(花)」制作年度不明・北栄町北条小学校所蔵

「谷中の林」制作年度不明・北栄町北条小学校所蔵

「竜巻」出典元:http://www.e-hokuei.net/secure/3571/tatsumaki.jpg

「竜巻」制作年度不明・北栄町北条小学校所蔵

「男の肖像」制作年度不明・北栄歴史民俗資料館所蔵

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%AF%9B%E6%B2%BB

参考サイト:https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/3d31b51a206a45427789e114c78898ee

参考サイト:http://www.polamuseum.or.jp/collection/006-0214/

参考サイト:http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3b11.html

参考サイト:http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=4388#;

参考サイト:https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-10-29

参考サイト:http://www.ebinashoten.jp/product/1559

参考サイト:http://www.e-hokuei.net/3072.htm

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%AF%9B%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E8%B3%9E%E5%B1%95

参考サイト:https://www.ync.ne.jp/kinshicho/2018/07/post_186.php

参考サイト:http://www1.city.kurayoshi.lg.jp/hakubutsu/maekan/maekan9.htm

参考サイト:http://www1.city.kurayoshi.lg.jp/hakubutsu/

参考サイト:http://www2.odn.ne.jp/aae38470/kinzou/kinnzou1.html

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%9F%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%8A%B8%E8%A1%93%E5%AD%A6%E6%A0%A1

参考サイト:http://www.fkchannel.jp/kgmuse/exhibition/info.php?no=56

参考サイト:https://www.fkchannel.jp/kgmuse/exhibition/showanoyoga/